あ行
伊籍 いせき 機伯 きはく
生死年:?
出身地:山陽郡
役職:左将軍従事中郎→昭文将軍
所属:劉表→蜀
もともと荊州の劉表に仕えていた。劉備も劉表のもとに身を寄せていたころから、伊籍はよく劉備のところへ通い、頼りにしていたという。劉備の馬が的ろと呼ばれる凶馬であると指摘したのは彼であった。劉表亡き後は、そのまま劉備に仕えた。また、赤壁の戦い終了後、馬良、馬ショクなどの優れた人材の推薦も行った。益州が平定された際、左将軍従事中郎に任命された。そののち呉に使者として遣わされた際には彼を言い負かそうとした孫権を反対にやり込め、感服させた。劉備入蜀の際昭文将軍に昇進し、諸葛亮、法正らと共に法律『蜀科』を編纂した。
尹黙 いんもく 思潜 しせん
生死年:?~?
出身地:梓潼郡
役職:観学従事→太中大夫
所属:蜀
于禁 うきん 文則 ぶんそく
生死年:?~221
出身地:泰山郡鉅平県
役職:軍司馬→安遠将軍
所属:鮑信→魏→蜀→呉→魏
元は鮑信の将であったが、曹操が現れると仲間と共に出頭し従軍するようになる。数々の軍功をあげるが張繍に曹操が負けたとき元黄巾の青洲兵が略奪をはじめ、それを于禁は処罰した。数人の青洲兵が逃げ出し曹操に虚偽の報告をし于禁を陥れようとしたが于禁は取り乱さずに陣形を整えてから冷静に曹操に謁見し実情を話しその後2人の信頼が深まった軍において極めて冷酷無比な人物で、人身や部下の心をつかむ事はできなかった様だ。最後のほうは蜀に降伏したり呉に降伏したりと国を転々としてしまう、最後に魏に戻るが自分を恥じて倒れたまま亡くなる。
袁胤 えんいん 公路 こうろ
生死年:?~199
出身地:不明
役職:丹楊太守
所属:後漢→孫策
袁術の従弟。一時は周尚(周瑜の叔父)の代わりに丹楊の太守に任ぜられていた。しかし、袁術から独立した孫策の配下である徐コン(王毘)に攻められ、太守の座を追われてしまった。やがて袁術が曹操と劉備に敗れて死ぬと、袁胤は一族と女婿である黄猗らと共に袁術の遺体を入れた棺を持って南に逃れ、皖城に勢力を築いていた劉勲を頼った。しかし、その皖城も孫策に攻め落とされ、袁胤と一族、工芸者、楽隊約3万人は捕虜となった。その後は処刑されたとも、下っ端として人生を送ったともいわれるが、何処にも袁胤の晩年の記述は無い。袁術の従弟にしては、一族を守ろうとする結構良い人物であったと予想出来る。
袁煕 えんき 顕奕 けんえき
生死年:?~207
出身地:汝南郡汝陽県
役職:幽州刺史
所属:袁紹
袁紹の次男で、袁尚のすぐ上の兄。父の袁紹には軟弱な人間だと誤解されていたが、本来は軟弱な人物ではなかったといわれている。証拠として、官渡の戦いで、袁紹が曹操に敗れた時、六万の軍勢を率いて応援に駆けつけたり、倉亭の一戦では、十面埋伏の計にかかり、全滅の危機に陥った父・袁紹を従兄弟の高幹とともに矢傷を負いながらも助け出したりしている。父の死後、袁譚・袁尚の相続争いを傍観していたが、曹操が冀州攻撃を開始した時、袁譚・袁尚を説得し、三兄弟で防戦に努めたが、敗れ、袁尚とともに幽州へ退却した。冀州城陥落の報を幽州で聞いたが、この時冀州に残してきた妻・甄姫を曹丕に奪われてしまう。その後、曹操に幽州を攻められ、袁尚と一緒に公孫康のもとへ逃れた。公孫康を殺害し、再起を図ろうと袁尚と画策したが見破られ、袁尚とともに首を討たれた。妻を敵に奪われるあたり不覚人といえる。
袁術 えんじゅつ 公路 こうろ
生死年:?~199
出身地:汝南郡汝陽県
役職:郎中→後将軍/皇帝(ただしあくまで自称、伝国の玉璽を孫策からもらったため)
所属:後漢→独立
愛されない自分主義者
南陽の太守として董卓討伐連合軍に参加し、食糧の監督を担当する。このとき、先陣として勝利を収めて勢いに乗る孫堅(彼が力を持つのを恐れて)わざと食糧を送らなかったり、身分の低い劉備たちが活躍しても蔑むなど、早くも性格の悪さは垣間見られた。
のちに、兵を貸す質として孫策から伝国の玉璽を手に入れた袁術は、帝位を僣称する。もともと贅沢で、税金を際限なく取り立てていた袁術が、皇帝となることでさらに贅沢を極めたので、彼が治める長江と淮水に挟まれた一帯からは何もなくなり、人が人を食い合うほど人民は貧困を極めた。名門袁家の出身であるため周囲からもてはやされた袁術は、自尊心が強く、周囲を見下すような
態度を取ったという。
董卓に対抗するために曹操ら諸将たちが反董卓連合軍を結成すると、南陽太守であった彼もそれ
に参加。洛陽を攻めた。だが、先陣の孫堅が武功を挙げるのを恐れ、兵糧を送らないなど利己的な
行動を取っている。
洛陽攻略後、連合軍が空中分解すると、孫堅、劉表攻めは、うまく孫堅を操り攻撃させていたが、あと一歩のところで彼が横死したため失敗。
その後は孫策を保護する。
2人は一時は良好な関係だったが、袁術が活躍に見合った報酬を渋ったため、孫策は袁術のもとを
去っていった。この頃から、周辺の豪族の反感を買うようになり、袁術は次第に孤立していく。袁紹の従弟。反董卓連合軍の際に、先鋒の孫堅に兵糧を渋りこれが原因で孫堅は敗走している。またその後、孫堅が死に、さらに孫堅の息子の孫策を飼い殺しにした。そして、孫策に伝国の玉璽と交換に3000の兵を貸し与えた。が、その後は袁退の道をたどる事となる。僅か3000の兵しか持っていなかった孫策が一気に大きくなり1つの勢力として独立。さらに、呂布を手懐けるために呂布の娘と袁術の息子と縁談を申し出ていたが、呂布が拒否。これによって袁術は呂布を討とうとするが返り討ちに遭い危うく討ち取られるところまで。そして、泣く泣く犬猿の仲だった袁術と組む事に・・・しかし袁紹の曹操討伐戦の時袁術との合同作戦のための北上中に大量の血を吐いて死亡した。
袁紹 えんしょう 本初 ほんしょ
生死年:?~202
出身地:汝南郡汝陽県
役職:侍御史→司隷校尉→冀州牧
所属:君主
三国志前半の主人公である曹操孟徳の最大のライバルと言えばこの人。四代に渡って有名な役職に就いていた名門袁家の御曹司。しかし彼はその名に恥じない威風堂々とした好人物だったと言う。
後漢の官僚時代、大将軍・何進に宦官撲滅を進言。だが逆に何進が宦官によって殺されると、逆
上し宦官を皆殺しにした。
宦官亡き後、朝廷内を牛耳った董卓が少帝を廃立しようとすると、袁紹はそれに反対して気骨を見せたが、董卓の報復を恐れ冀州に逃れた。群雄となってからも激戦区だった河北を持ち前の統率力と彼に従った優秀な文官武官と共に統一。一大勢力を築き上げた。いくら曹操や劉備よりスタートラインが良い位置にあったからと言ってここまでできたのは袁紹に長としての才があってのことであろう。しかし、末子の病気で好機を逃したり、郭嘉に「曹操よりも十劣る所がある」と言われたり、有能な部下の意見もろくに聞かず曹操と官渡で対峙して惨敗してしまったりと後半は散々であった。その官渡での敗北も部下の裏切りからと言うのだから目も当てられない。成功が失敗の元となってしまった悲運の群雄である。
頼りないリーダー
袁紹は大将軍・何進の腹心として登場する。政治を乱す宦官たちの誅滅を何度も勧めた袁紹だったが、何進はなかなか決断ができなかった。そしてようやく、袁紹の「諸方の豪傑を呼び集めてともに宦官を打ち滅ぼしましょう」という意見が採用される(思えばこれがのちの董卓の暴政を生む引き金になっている。このとき、同じく何進の腹心だった曹操は、わざわざ豪傑を呼び集めることには反対している)。
まもなく、何進が宦官の陰謀で殺されてしまったため、袁紹らはそれを機に宮中に突入して宦官を皆殺しにする。ここで新たに董卓という問題の火種が生まれたが、このとき飽信に「董卓は野心を持っているから早めに殺しておくべきだ」と言われても、袁紹は「やっと宦官の問題が片づいたのだから」と取り合わなかった。
間もなく董卓は政治の実権を握り、悪政を極めるようになる。
その後、曹操らの呼びかけによって、全国から17もの諸侯が董卓討伐を目的として集まり、袁紹は(家柄のよさを理由に)その連合軍の盟主に推される洛陽に攻め込んだ連合軍は董卓軍を撃破。董卓は急遽長安への遷都を決め、洛陽を焼
き払って逃げた。
だが洛陽を奪還したことで、群雄の集まりであった反董卓連合軍は空中分解。袁紹も自己の版図を広げることに専念。
河北で勢力を広げ、群雄の中でも最大規模の軍事大国を築いた。だが、しだいに袁紹の栄光にも陰
りが見えてくる。それは群雄の中で頭1つ抜きん出たことで、袁紹に驕りが生まれたためであった。
袁尚 えんしょう 顕甫 けんほ
生死年:?~207
出身地:汝南郡汝陽県
役職:不明
所属:袁紹→君主
袁紹の三男。整った容貌の持ち主でそこそこの才能も持っていたため、袁紹の寵愛を受ける。袁紹死後、2人の兄を抜いて後継者に抜擢される。しかし、所詮は凡庸な二代目で、曹操という強敵を迎えながら兄弟喧嘩や相続争いに振り回されて河北の地盤を失う。曹操との戦いで、キ州城を失った袁尚は次男・袁煕を頼って幽州に落ち延びたが、ここも曹操の侵略のところとなり、袁煕と共に公孫康のもとへ逃れた。袁尚としては、公孫康のもとで、兵を休ませ、折あらば公孫康を倒して遼東の軍勢を率いて再度、曹操と戦い、河北を奪い返すつもりであったが、袁尚の企みを見破った公孫康により、次男・袁煕と共に首を討たれた。
袁譚 えんたん 顕思 けんし
生死年:?~205
出身地:汝南郡汝陽県
役職:青州刺史
所属:袁紹→曹操
袁紹の長男で、青州の太守を務めた。強情で好戦的な性格で父・袁紹に嫌われて跡目を弟の袁尚に奪われてしまう。父の死を青州で知った袁譚は、袁紹の葬儀でも、参謀の辛評の進言で軍を城外に留め、袁尚の様子を探った。曹操が侵攻している間は、三兄弟で防戦したが、曹操が軍を引くと兄弟喧嘩を起こし、収拾がつかない泥沼にはまってしまう。結局、この骨肉の争いは袁譚は、袁尚・袁煕に敗れ、郭図の助言で曹操に降伏する。しかし、この降伏はあくまで袁尚を葬る為の便宜的なもので、袁尚敗走後、発起。曹操と対立する。袁譚の目論みを見破っていた曹操は、袁譚の軍勢を撃破した。曹操に降伏を願ったが、許されず、最後の決戦で曹操配下・曹洪に討たれた。河北に一大勢力を築いていた袁一族であったが、兄弟一致団結して国を守るべき時期に内紛を起こしては救いようがなかった。袁紹が長男を後継ぎにしなかった事により、袁一族滅亡の道を辿ることになってしまった。
えん圃 えんほ 生死年:?~? 出身地:巴西郡 役職:功曹 所属:張魯→魏 張魯の懐刀。張魯の軍師として五斗米国の独立に大きく貢献した。張魯が漢寧王を望んだとき、これに意見して「今も漢中で独立した勢力を維持し、財力豊か。人民も我々の支配のもと、無事に過ごしております。あえて今、王になる事もありますまい。まずは益州を奪い、その後、王の位に就かれてもよろしいでしょう」と、張魯に益州を奪うよう進言した。曹操が漢中へ侵攻してきたときも圧倒的な軍勢との対戦を避けて南山へ逃走するように勧めた。冷静な分析力の持ち主で、よく張魯を助けて無残な敗戦を免れさせた功績は大きい。張魯降伏後、共に曹操に帰順した。曹操もえん圃の力を認め、張魯と同じように列侯に取り立てている。
王允 おういん
「一日千里、王佐の才」(王を支えるすばらしい才能がある)と謳われた後漢の名士。黄巾賊が反
乱したときに鎮圧軍を率いている。王允は董卓の側近として政務を執り行なっており、立場上、董卓への不満が寄せられることが多かった。彼自身も董卓の横暴には不満を抱く日々を送っていた。そこで諸将に諮ってみたところ、曹操が董卓暗殺を引き受けた。曹操は王允の持っていた宝剣・七星の剣を借り、董卓の寝込みを襲うことを計画。だが、彼の参謀・李儒に気づかれ失敗に終わってしまう。
その後、董卓は反董卓連合軍との戦闘を避けて長安に遷都。王允は自分の屋敷にいた歌姫・貂蝉を利用し董卓と呂布を仲違いさせることを目論む。彼の策は見事成功し、呂布は董卓を斬り捨てることになる。都には平和が訪れたかと思われたが、董卓の部下が復讐のために攻め寄せた。呂布は逃げ出したが、彼はこれまでと観念。「王允はここに果てるのみ」と叫び、兵の前に躍り出て殺され
てしまうのだった。
王伉 おうこう
生死年:?~?
出身地:蜀郡
役職:府丞→永昌太守
所属:蜀
蜀・永昌郡の太守。蜀の建興三年(225年)蛮王・孟獲の反乱に益州南部の太守たちも次々と呼応して反乱を起こしたが、王坑だけが反乱に加わらなかったため、反乱軍の攻撃を受け続けていた。敵は南蛮軍を後ろに控えた三郡の連合軍。どこまで守り通せるのかと弱気になっていたが、配下の呂凱に「ここは益州の門です。何があっても守り通さねばなりません」と励まされ、最後まで守り通す覚悟を決める。反乱を平定するため、蜀の丞相・孔明が自ら指揮し、三郡を平定し、王坑の永昌郡を解放した。孔明は反乱に加わらなかった王坑を忠義の士と称え、功績は大きなものとした。王坑は南蛮に詳しい呂凱を孔明に従わせ、自分は太守として永昌郡に留まった。
王戎 おうじゅう しゅん仲 ほんしょ
生死年:234~305
七賢の中で最年少者。司徒まで昇進した。ケチだったらしい。
王濬 おうしゅん 士治 しじ
生死年:206~285
出身地:弘農郡湖県
役職:巴郡太守→輔国大将軍→歩兵校尉
所属:魏→晋
晋建国と同時に重用され巴郡太守となる。最後の呉討伐に参加し蜀・成都から呉の都・建業を目指した。進軍は調子良く連戦戦勝で他のコースから進軍していた軍隊より一番早く建業到着し呉帝の孫晧を降伏させた。
王平 おうへい 子均 しきん
生死年:?~248
出身地:益州巴西郡宕渠県
役職:校尉→裨将軍→鎮北大将軍
所属:魏→蜀
魏の将軍徐晃の下にいたが、劉備に降る。街亭では山上に布陣しようとする馬謖を諌めるが聞き入れられなかった。北伐の際は張翼とともに奮戦、木牛・流馬を使って見事に勝利を収める。王平は一説には漢中の少数民族の出身ともいわれ、陣中で育ったために文字が十文字ほどしか書けなかったから、命令書は口述で。だが、事態の本質を正確に把握する能力は十分だったという。諸葛亮死後は漢中を守っていたが、二四八年、病没。
王朗 おうろう 景興 けいこう
生死年:?~228
出身地:東海郡
役職:郎中→諫議大夫→司空→司徒
所属:後漢→陶謙→魏
孝廉出身で後漢に仕えた会稽の太守。厳白虎に味方し、孫策に対抗したが敗れた。その後は魏の朝廷に仕えた。博識の戦術家で有名で老いてからは大儒の風格があったといわれる。蜀の孔明が祁山に出陣し、長安を狙う勢いを見せた時、総大将・曹真の軍師として出陣。祁山で対峙した両軍は王朗の主張で開戦前に論戦で勝負に出る。王朗は孔明に論戦で勝つ自身があった。錦の直垂に黒塗りの鎧姿で白髯をなびかせ陣頭に立った。王朗は昔、季布が高祖を陣頭で論破し、戦にも勝った前例を再現するつもりであったのだ。挑戦を受けてたった孔明は蜀王朝の正当性を説くとともに、魏に仕える王朗の不忠を鋭く責めた。王朗は孔明が放つ痛烈な言葉に耐え切れずに憤死した。
王累 おおるい
生死年:?~211?
出身地:広漢郡
役職:従事
所属:劉璋
益州の牧、劉璋の従事。赤壁の敗戦の後、曹操は西への侵攻を開始し、馬超らを破って関中、涼州を手にした。そして次は漢中を狙い始めると、漢中で勢力圏を築いていた張魯は予てより仲違いしていた劉璋の益州を先に奪わんとした。劉璋は恐れおののき、部下達に対策を聞くと、法正や張松、孟達らは荊州の劉備に救援を求めるべきと説いた。実はこの時この3人は劉璋の君主としての器に見切りを付け、劉備を益州の牧にせんと謀っていたのである。そんな事とは知らず、劉備を迎えようとする劉璋を止めようとしたのが、王累を始め、張任、黄権らだった。必死に引き止める彼らだったが劉璋の決意は思いの他強く、尽く一蹴した。王累は覚悟を決め、劉備を迎えに行こうとする劉璋を成都城の城門に逆さにぶら下がって待ち構えた。王累は「殿が行くというなら足の縄を切って自害する」と言った。それでも劉璋は決意を曲げず、王累は無念を思って縄を切った。結果、彼らの心配通り、益州は劉備に取られてしまったのであった。
か行
かい良 かいりょう 子柔 しじゅう
生死年:?~?
出身地:襄陽郡中廬県
役職:不明
所属:劉表
荊州の豪族。カイ越の兄で、兄弟ともども秦から漢にかけての時代に活躍したカイ通の子孫と言われた。弟とともに何進の属官として仕え、劉表とも親しかった。頭脳明晰、公正無比の人物。後に弟と共に何進を見限り、故郷・荊州に帰っていたが、劉表荊州入りに際して、弟と共に劉表に仕えた。孫堅が荊州に侵攻してきたとき、孫堅の将星が尽きかけている事を知り、袁紹に援軍を求めての持久戦を示唆した。その後、武将の呂公に待ち伏せの計を授けてケン山で孫堅を射殺させるなど、良策を立てた。孫堅死後、江東を攻め取る絶好の機会だと進言したが、取り入れられないとみると、荊州を仁愛と恩徳で掌握すべしと進言した。劉表死後、曹操への降伏を反対したが、劉ソウが降伏を決めると、心労のあまり病死した。
賈ク かく 文和 ぶんわ
生死年:147~223
出身地:武威郡姑臧県
役職:郎→左馮翊→尚書→太尉
所属:牛輔→李かく→?→張繍→魏
孝廉に推挙され洛陽で役人として使えていたが、病気になって辞職。だが、故郷へ帰る途中に、運悪く賊に襲われ捕われてしまう。ここは乱世の切り抜け方を熟知していたのだろう。その地方の豪族・段氏の名を語り、『私は段家の親族だ。もし私を殺すのならば、他の者とは別に埋葬するがいい。家の者が十分な礼をするだろう。』と嘘八百並べ立てると、賊は彼の縄を解き、盟約を結んでまで送り返した。彼のいつでも臨機応変に対応できた能力は素晴らしいものだったのだろう。その後、再び討虜校尉に任じられ、董卓が暗殺されると、李カク・張済に長安攻略を立案。2人が呂布に敗れると、今度は張繍に仕え、その策略で何度も曹操を苦しめたが、官渡の戦いの際に張繍に曹操に降るよう勧め、それからは魏の陣営で戦略を献策した。しかし、降将の立場をわきまえ、重用されても奢ることなく、人付き合いは慎重でひっそりと暮らし、77歳で世を去った。
賣認に相談して知恵をつけてもらう。のちに曹操が出征し、息子たちが見送る際のこと、曹植は父を褒め称え、その言葉はそのまま文章になるほど立派なものだったが、 一方の曹盃はただ下を向いて涙を流すばかり。しかし涙によって、曹盃は側近たちの同情を集めるようになる。
後日、曹盃は呉質にも相談したいと思い、その姿を人に見られないよう気遣って、彼を大きな篭に隠して屋敷に入れた。しかしそれを知った曹植のブレーン・楊修が曹操に告げ口をする。「ならば明日捕えてみよう」と曹操。それを側近の者たちから伝え聞いた曹盃が焦っていると、「明日は籠の中に絹をたくさん入れたものを運び込めばよろしいでしょう」と呉質は言った。翌日、同じく籠が運び込まれたので、曹操が籠の中を調炒させると、中身は絹ばかり。不審に思った曹操は、「楊修が論言によって曹盃を陥れようとしているのではないか」と疑うようになったのである。さらに、優秀だと感心していた曹植も実は楊修が入れ知恵していたのだと知ると、ついには曹植自身にも好意を持たなくなってしまった。こうして曹蚕は、後継の座を自分のものにすることができたのである。
敵の裏を読む適確な状況判断で曹操を破る
張繍は惨謀を務めていたとき、賣認はのちの主君である曹操を何度も破っている。
曹操が南陽の城を攻める際、補強の弱い西北の側から攻め入ろうと、そちらに将兵らを集めていると、賣詔は軍の精鋭部隊を東南のほうに集めて家の中に隠れさせ、西北側には百姓を兵士に扮装させて置いた。曹操は城内の兵が西北に集まっていると聞き、「計略にかかったな」とほくそえみ、西北ではなく諌舗の側から攻め込んだが、伏せていた張繍軍の精鋭が突然現れたので、曹操軍は惨敗となり、兵を退いた。
その後、曹操軍も盛り返し、戦況が一進一退の膠着状態となっていたとき、曹操は袁紹が本城を狙っていると聞いて、仕方なく引き揚げることになった。張繍はこれを聞きつけてすぐに追撃に出ようとする。賣詔は、「これを追撃すれば必ず敗れます」と諌めたが聞き入れられず、張繍と劉表の2人は出撃して惨敗。すると戻ってきた2人に対して賣認は「いまからまた追撃なさいませ」と言う。張繍と劉表は、いま負けたばかりだぞ、と驚いたが、賣認が「もし負けたら私の首をお斬りください」とまで言うので、張繍だけはその言葉を信じ、手勢を率いて追撃に向かった。
するとその言葉の通り、張繍軍は大勝し、逃げ去った曹操軍が捨てていった軍馬や軍用品などを大量に手に入れることができたのである。
納得がいかない2人に賣認は、「曹操は知謀に長けた男ですから、急な退却であればこそ、追撃には必ず備えておくでしょう。しかし、急に引き揚げるからには、それなりの急ぐ理由もあるはず。我が軍の追撃を退けた後には、退却のほうを優先して備えは甘くなるだろうと思ったのです」と解説。張繍も劉表も、彼の読みの深さには感服したのであった。頁認は人の心理の裏を突いた計略が得意なのである。
郭嘉 かくか 奉孝 ほうこう
生死年:170?~207?
出身地:豫州潁川郡陽擢県
役職:司空軍祭酒
所属:魏
字は奉孝。荀イクの推挙で曹操に仕える。あらゆるエピソードから郭嘉こそが「三国志」における天才だという声も高い。特に彼の発言はあまりに遠大であり、それは予言の域に達している。病弱で早くに亡くなり、曹操の悲しみは深く、郭嘉を惜しみ、称える曹操の言葉が多く残されている。世に出るにあたって、まずは仕官のために袁招の元を訪れるも、その人柄に失望した郭嘉。彼は荀彧の紹介を経て、かねてから人材を物色していた曹操と出会うことになる。2人は歳が離れていたにも関わらず意気投合。曹操の幕下に加わって、その天下統一に貢献する。2人の間には厚い信頼関係が築かれていった。呂布討伐にあたっては常に的確な作戦を考案し、毎回のようにその策略が
採用された。そのため、結果的に曹操は三戦で三勝。ついには呂布を打ち倒すに至ったまた、曹操との相性もよく、荀イクへの手紙の中で「奉孝こそはわしの心を理解していた男なのだ。天下の人で理解してくれるものは少ない。この事でも残念至極なのだ」と述べている。もう一つ、荀イクへの違う手紙の中では、こうも言っている。「かの人物が下した時事・軍事に対する判断は、はるかに人を超えていた」次代を担う参謀として曹操に期待された天才軍師。若くしてその才能を発揮し、『曹操側に十の勝因あり、袁紹側に十の敗因あり』と曹操を激励した官渡での功績は多大。時代の流れを鋭く見極め、袁紹軍の内情や孫策の死を見事言い当てていた。
袁紹から傲慢な手紙を受け取った曹操は、まず袁紹から征伐してやろうと考えるも、曹操軍10万、袁紹軍50万、という兵力差を思うと、手が出せないのであった。
しかし郭嘉は、曹操が袁紹に勝る十の要素を述べ、袁紹を破ることは容易だと言う。
「第一に、袁紹は形式や礼儀にうるさいですが、我が君は自然に任せて、行動を細かく咎めません。これは勝ちです。第二に、袁紹は皇帝に背く逆賊。我が君は皇帝を擁し、天下を従えています。これは″義″の勝ち。第二に、袁紹は自分にも他人にも甘く、君はそこが厳正です。これは″治″ の勝ち。第四に、袁紹は人を用いるのに疑い多く、親戚ばかりを重用します。君は用いた人間を疑わず、また才能を最優先し、血縁は問いません。これは″度″の勝ち。第五に、袁紹は決断力がなく時機を逃しますが、君は策略をすぐに実行に移し、臨機応変に対応することができる。これは″謀″の勝ち。第六に、袁紹は名声にこだわり、他人を回先だけで褒めますが、君は真心をもって人に接し、日先だけで褒めたりしません。これは″徳″の勝ち。第七に、袁紹は近い者を大事にし、遠い者まで気粉胸らない。君は全体に心を配っています。これは″仁″の勝ち。第八に、袁紹は論言にすぐ惑わされますが、君は惑わされません。これは″明″の勝ちです。第九に、袁紹は規律をあやふやにしますが、君は正しく裁きます。これは″文″の勝ち。第十に、袁紹は兵法の基本を知らない。それに対して君は兵法に明るく、少数でも大勢を破ることができます。これは″武″の勝ちです」
これに対して、荀咳も「私も郭嘉どのの『十勝十敗の説』とまったく同じ意見です」と言ったので、曹操は褒め言葉には謙遜しつつも、袁紹討伐の意志を固めた。ただ女癖が悪く、周囲の文官(特に劉曄)へのウケは悪かったようだが・・・。袁熙北伐の際、風土病にかかり36歳の若さで死去。曹操は詩を以って嘆き、後の赤壁の戦いでも『奉公が生きていればこんな負け方はしなかっただろう』と惜しんでいる。
かく昭 かくしょう 伯道 はくどう
生死年:?~255
出身地:隴西郡大原県
役職:部隊長→雑号将軍
所属:魏
若い時から軍隊に入り、部隊長へと昇進する。黄河西の辺境で蛮族などの攻撃を防ぎ、軍功をあげると雑号将軍に昇進した。その後も度々窮地を乗り越え軍功を重ね、河西地帯を10年以上も統治。その仁を人民は慕い、異民族は恐れて服従しという。陳倉の守将に命じられたていた時、蜀では諸葛亮の第二次北伐が開始され、陳倉の城は数万の蜀軍に包囲されてしまった。対してかく昭率いる魏軍は数千。数から言っても分が悪く、しかも相手は大軍師孔明だった。通常から考えても守りきれる物では無いと思われたが、魏にとって陳倉は重要地点、負けるわけには行かなかった。蜀軍は雲梯や衝車・井欄・土嚢などで次々と攻撃をしかけてきた。しかしその攻撃を防ぎ、魏の援軍が来るまで守り抜いた。その功績を明帝は大いに褒め称え、列候の爵位をあたえた。明帝はさらにかく昭を重用しようとしたが、その前に病にかかり亡くなっている。
楽進 がくしん 文謙 ぶんけん
生死年:?~218
出身地:陽平郡衛国県
役職:帳下の吏→行遊撃将軍→右将軍
所属:魏
曹操が黄巾征伐のために挙兵したときから従軍していたというが、曹操によって無名の兵卒から見出されたという説もある。若いころは県の役所で文書係をしていたが、小柄な体からは想像もつかないほどの度胸で、常に敵陣に一番乗りを遂げ、いつのまにか部隊を指揮するようになったようだ。濮陽で呂布と戦ったときは、敵将・成廉を弓で射殺している。赤壁の戦い後は張遼の副将として合肥の守備にあたる。大軍を率いたという記録はないが、指揮官としての働きもまずまずだったらしく、曹操は彼を徐晃・于禁などとともに五将軍に任命している。濡須江の戦いでは甘寧に顔面を射られ、落馬。曹操自らの必死の看病により一命を取り留めたが、28年、病死。
郭図 かくと 公則 こうそく
生死年:?~205
出身地:穎川郡
役職:計吏
所属:袁紹
袁紹に仕え、参謀役として活躍した。官渡の戦いでは、審配らとともに早期決戦を進言した。しかし、自分の立てた作戦の失敗を高覧、張コウらの責任にしたため、多くの勇将を曹操軍に走らせた。その責任は大きいといえるだろう。袁紹死亡後、後継者争いが起こった際、長男・袁譚を補佐したが、袁譚が袁尚に敗れた時、曹操と共に袁尚を滅ぼす策を立て、一度、袁譚らと共に曹操に帰順する。そして袁尚が滅ぶと、これを機に袁譚を自立させ再度、曹操と対決。最後には南皮で曹操に破れ、斬首された。
郭攸之 かくゆうし 演長 えんちょう
生死年:?~?
出身地:南陽郡
役職:侍中
所属:蜀
郭淮 かくわい 伯済 はくせい
生死年:?~255
出身地:大原郡陽曲県
役職:平原府丞→鎮西長子→陽曲候
所属:魏
元々は考廉に推挙され中央政府で平原府の丞となっていたが、その後曹操に仕えるようになった。張魯征伐にしたがって従軍し、夏侯淵の配下として参戦する。そのまま漢中の守備を命じられた夏侯淵と共に、漢中に残り劉備軍の侵攻に備えた。だが実際には劉備との合戦の時、郭淮は病にかかっていて参加する事ができず、軍は敗走し夏侯淵は黄忠に打たれ戦死してしまった。そのため指揮官を失って混乱する兵士を静め、残兵をあつめて、副将であった張[合β]のもとまで連れ行き軍を立て直した。その後30年にわたり西域をまもり度々功をあげ昇進し、最後は陽曲候にまでのぼりつめていた。孔明の策略は苦手だったらしいが、姜維にはあまり負けていない。司馬懿の配下であったがあまり目立たない存在で「演義」ではヤラレ役っぽい。
夏侯淵 かこうえん 妙才 みょうさい
生死年:?~219
出身地:沛国県[言焦]県
役職:別武司馬・騎都尉→征西将軍
所属:魏
夏候惇や曹操とは従兄弟にあたり、曹操が挙兵する前からの付き合いで曹操が事件を起こした時に身代わりとなって曹操を助けている。のちに曹操に救出されてからは曹操に従軍し、戦場では急襲を得意とし、いつも敵の不意をつく攻撃をしていた。軍中では典軍校尉の夏侯淵、3日で500里、6日で1000里」と言われていた。西涼討伐では活躍し馬超率いる西涼軍を破り馬超を漢中に敗走させている。漢中の張魯が降伏し曹操が平定すると漢中の守備を任され征西将軍に任命されている。劉備軍が攻めてくると張[合β]を東の守備を任せたが敗れ、自軍の兵を半分さいて救援の駆けつけるも劉備軍の黄忠の猛攻を抑えきれずに定軍山で黄忠に討ち取られている
夏侯惇 かこうとん・かこうじゅん 元譲 げんじょう
生死年:?~220
出身地:沛国県[言焦]県
役職:裨将軍→折衛校尉→大将軍
所属:魏
字を元譲。沛国<言焦>県出身。曹操の従兄弟にあたり、前漢の高祖であった劉邦に仕えた夏侯嬰の子孫でもある。曹操とは長いつき合いで、189年に黄布賊討伐のために挙兵した当初から、一軍を率いる武将としてつき従っていた。以来、弟の夏侯淵とともに曹操の片腕として活躍する。
質素な生活を好み、性格は極めて温厚。曹操の従弟にあたる。14歳のときに、師を侮辱した者を、家まで押しかけて行って殺してしまったという事件以来、気性の激しさで知られるようになる。追放され、各地を流離っていたが、曹操の反董卓の激に応じ、手勢を率いて駆けつけ、洛陽炎上の際は、徐栄を数合せぬうちに突き殺している。その後、夏候淵と共に各地を転戦。対呂布戦での、高順との一騎打ち。もちろん相手ではなく、相手は逃げ出したが、夏候惇は追い縋る。終いにはありったけの罵詈雑言を浴びせながら、陣営の周りをぐるぐると追いかけっこを始める始末。中からその様子を見ていた曹性、何とかして同胞を助け出そうと一矢放ち、それが見事に夏候惇の左眼に突き刺さってしまう。引き抜くとなんと目玉が一緒にでる。それを「これは父の精、母の血、捨ててなるものか」と飲み込み(!)、槍を取り直し、敵陣に突進、曹性の顔面を串刺しにしてしまった。正史によると、曹陣営では夏候淵と区別をするために皆は夏候惇を“盲夏候”と呼んでいたが、彼はそれを嫌い、鏡を見るたびに叩き割ったという。関羽が関を破り、魏軍を去ろうとしたときは、斬られた五関の六将が皆の部下だったからか、単騎関羽を追いかけ、一騎打ちを挑む…が、張遼が曹操の手紙を持ってきたために、仕方なく引き下がった。新野の劉備攻めでは、諸葛亮の華々しい初陣のいいカモにされてしまう。自ら身体を縛って、曹操に処断を願い出たが、それまでの功により許された。曹丕即位後、曹仁・程イクと共に功労三臣として賛えられ、大将軍に任命されたが、曹操死後より一年、追うようにして死んだ。財を蓄える事はせず、質素な暮らし振りで、旱魃に見舞われると農業の指揮をし、洪水が起きると土塁を担いだ。曹操の信頼は絶大で、車の同乗や寝室への出入りも許されていた。また、はじめ彼は、魏の称号ではなく、漢の官職に就いていたが、曹操は「なぜ君が“魏”などという国に頭を下げる必要がある?」と、あくまで友人として接しようとしたが、頑固な夏候惇がしつこく言うのでついに魏の偏将軍に任命したという。
夏侯覇 かこうは 仲権 ちゅうけん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:偏将軍→右将軍→車騎将軍
所属:魏→蜀
夏侯淵の次男である。父が蜀との戦いで戦死している為、蜀を仇と憎んでいた。勇猛さに優れ兵士や人民を可愛がったため人気があった。夏侯玄の配下として属し従軍していたが曹爽が司馬懿に斬られると夏侯玄などにも出頭が命じられた。夏侯覇は出頭は危険だと察知し夏侯玄に出頭せず蜀に降ろうと持ちかけるも夏侯玄はそれを降り切り帰国し処刑される。その後、夏侯玄の代わりの上司として日頃から仲の悪い郭淮が来た為、それを嫌って蜀に降る。その後、蜀でも礼遇され車騎将軍に任じられ、姜維の補佐として参軍し良く助けている。蜀滅亡時には夏侯覇の名がない為それ以前の死んでいたようであるが、いつ何で死亡したかは不明である。演義では魏との戦いで司馬望に石矢を浴びせられ戦死している。
賈充 かじゅう 公りょ こうりょ
生死年:217~282
出身地:河東郡襄陵
役職:大将軍長史→史空→太宰
所属:魏→晋
魏の功臣にして有能な政治家でもあった賈逵が晩年に授かった子。父を若くして失うが、その葬儀のときの孝行ぶりが評判となり父の官職を引き継ぐ事となり、その後も順調に昇進する。司馬師の毋丘倹討伐時に従軍し、重病の司馬師帰還後に後の指揮を任され、見事に討伐し功を立てる。また曹髦が司馬昭を誅殺しよとした際にも活躍し、賈充は他の者に帝を殺させ司馬昭の責任を問われないように画策した。司馬昭からの信頼も厚く、その後も要職を歴任し、天下統一に貢献しつつ晋国建国を見届けて死去。
何進 かしん 遂高 すいこう
生死年:?~189
出身地:南陽郡宛県
役職:屠殺業者→大将軍
所属:後漢
はじめ、何進は屠殺業を営んでいた。何進の妹は美しく、妹が霊帝に気に入られ、後宮に入り、霊帝の寵愛を受けて皇子・弁(後の少帝)を生んだところから出世の糸口が開け、大将軍にまで成り上がった。霊帝の生母・董太后が王美人が生んだ皇子・協(後の献帝)を溺愛し、帝の後継者にしようと画策した。その時ちょうど、霊帝が逝去したため、十常侍は董太后と図って、協を帝位に就けようとした。これを知った何進は邪魔者扱いにされ、殺されると思い、兵5千を率いて宮殿に乗り込み、十常侍の幾人かとその協力者を斬り、妹の生んだ弁を即位させた。帝の叔父として全権を掌握した何進は邪魔な董太后を毒殺した。何進の権勢を妬むカン官勢力は結束して何進に対抗。これに対し何進はエン紹らの提案を取り入れて各地の豪族を洛陽に集めて一気にカン官討伐することにした。慌てたカン官一味は何太后(何進の妹)が呼んでいると欺き、何進を宮殿におびき寄せた。何進はまんまとその策にかかり、暗殺された。後に恐怖政治を行う董卓をはじめ、各地の豪族を召集した事から、世は一気に群雄割拠の乱戦時代を迎えるが、そのきっかけを作った男であった。また、もともと屠殺業を営んでいた町民であったため、部下を掌握する事もできず、乱世を治める器量もなかった。
関羽 かんう 雲長 うんちょう
生死年:?~219
出身地:河東郡解県
役職:別部司馬→偏将軍→前将軍
所属:蜀
関羽は、張飛とともに劉備と桃園にて「生まれた日は違えども、願わくば同年同月同日に死なん」と義兄弟の誓いを立て、関・張の二弟は終生劉備を守り通した。
物静かで冷静沈着な関羽は血気盛んな張飛のなだめ役であり、歴史書を愛読するなど学問を好んだ。しかし、一度戦場に出れば、九尺を超える長身から繰り出す八十斤( 約18 ㎏ ) の青竜偃月刀で敵をなぎ倒し、その姿は鬼神のごとしと謳われた。また、「美髯公」と呼ばれた彼の長く艶やかな顎髭は、彼の高い気位と誇りを表わすものであった。
彼が義烈の人としての評価を決定的にしたのは、曹操軍の攻勢に力尽きて捕虜になった時。
曹操は関羽の人柄に惚れ込み、仕官の打診をした。しかし彼は「貴殿の恩顧には胸痛みますが、わが主劉備殿とは、同生同死を誓った兄弟にして主従。やがては劉備殿のもとへ去りましょう」と断った。曹操は「予に欠けた殼大の宝を持つ劉備は果報者よ」と嘆じたという。知勇兼備の猛将で、劉備からは絶大な信頼を得ていた。劉備が曹操に敗れたときには、劉備の妻子を守るために曹操に降伏したという。そして曹操が袁紹を頼っているという報告を聞くと、すぐに曹操の元を離れて、五関で六将を斬った。そして養子の関平と出会い、また張飛と再開して劉備の元へと帰ってきた。これを「関羽千里行」という。しかし、強すぎる程の正義感が災いして、荊州を呉に奪われた後、自らも呂蒙の策にはまり、捕らえられて殺されてしまった。蜀の五虎大将の筆頭といえるだろう。
韓玄 かんげん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:長沙太守
所属:魏→蜀
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、劉度、趙範、金旋らと共に謀反を起こし、国を四分割し、長沙の太守となる。配下に恵まれ、後の五虎将の黄忠、猛将・魏延などを配下としていた。韓玄は自分の栄華のため、住民に重税をかけたり、領地で美女を見つけては無理矢理、城に連れていき、自分のなぐさみ物とするなど、横暴な性格であった。劉備が荊州平定に乗り出した際、城を渡すまいと劉備軍を攻撃し、先鋒に勇将・黄忠を出した。劉備軍・関羽と黄忠は一騎打ちをするが、黄忠の馬が足を折り、黄忠は落馬する。しかし、関羽の男気に黄忠は助けられる。韓玄は黄忠に「薙刀で勝負しおって、愚か者め。明日は得意な弓で関羽を射殺せ」と命令する。次の日、黄忠は矢を放つそぶりを見せ、関羽に助けられた義理を返す。これを韓玄は「劉備軍と図って、主君を売る気であろう」と怒り、黄忠に死罪を申しわたす。韓玄に尽くした功労者・黄忠を死罪にしようとした韓玄に憤りを感じた魏延は民や兵士を説得し、反乱を起こした。それを知った韓玄は逃げようとしたが、魏延に追いつかれ、殺された。仁政を省みず、自分の栄華のために民を苦しめた為に反乱を起こされた愚かな人物であろう。
関興 かんこう 安国 あんこく
生死年:?~?
出身地:不明
役職:侍中・中監軍
所属:蜀
関羽の実子で次男である。まだ幼い頃からその武勇によって高い評価を受けており、諸葛亮にも認められていた。のちに、呉の呂蒙によって殺された父関羽の仇を討つために、張飛の息子張ホウと共に劉備の呉の討伐に参戦した。夷陵の戦いでは老将、黄忠の危機を救い、また諸葛亮の行った第一次、第二次等の北伐でも果敢に戦い、張コウなどの名将も討ち取った。演義には、呉の討伐の際に張ホウと先陣を争って劉備に咎められ、義兄弟の契りを結んだ、とある。しかし、惜しくも諸葛亮と同年の234年に病没した。
韓遂 かんすい 文約 ぶんやく
生死年:?~215
出身地:不明 役
職:計吏→鎮西将軍
所属:後漢→君主
西涼に割拠した諸侯の一人。当初は馬騰と争っていたが、行動を共にするようになる。馬騰が息子等と共に曹操に処刑された後、馬超と共に西涼の騎馬隊を率いて長安に攻め込む。馬超韓遂連合軍の勢いが激しく、曹操軍は押され気味であったが、名参謀賈クにより馬超と仲違いし、韓遂が曹操軍に寝返ったために馬超は大敗してしまう...というアコギな人物に三国演義では描かれている。しかし正史では、曹操軍に寝返る事は無く、馬超韓遂連合軍が負けた後も各地を転戦していた気骨のある人物ということである
かん沢 かんたく 徳潤 とくじゅん
生死年:?~243
出身地:会稽郡山陰県
役職:西曹掾→太子太傳
所属:呉
生まれは官の家ではなく貧しい農家だったため、学問を学びたかったが学資がなく、書物を買うことも出来なかった。考えた結果、他人の書物を写してその書物を売って生活していた。写している間に書物の内容は暗記していたので、持っている意味がなかったという。その知識を基に学識を深め、次第に有名になり、顧雍によって孝廉に推挙された。孫権の出世と共にかん沢も昇進し、孫権が皇帝になると尚書になり、最後は太子太傳にまでなった。
韓当 かんとう 義公 ぎこう
生死年:?~223?
出身地:遼西郡令支県
役職:別部司馬→先登校尉→都督
所属:呉
孫堅・孫策・孫権と三代にわたって仕え、三代ともに深く信頼されていた古株の将軍。部下からの信頼も厚くいつも励ましていたため、兵は皆心を一つにして戦った。会稽・呉・丹楊の三軍討伐・黄祖討伐・赤壁の戦い・宜都の戦いなど多くの戦に参加し活躍した。最後まで信頼され、223年には都督の称号を受けるが、まもなく病気で没する。
甘寧 かんねい 興覇 こうは
生死年:?~?
出身地:巴郡臨江県
役職:西陵太守→折衝将軍
所属:劉表→黄祖→呉
若い頃任侠の道を進み、ならず者を集めて頭領を務め、傍若無人に振舞っていた。そんな生活を二十余年続けた後、これまでの生活を一転させて書物に没頭し、やがて荊州の劉表に仕えた。だが、当時の荊州は戦火を逃れた知識人が多く集まっていたため、インテリ志向の劉表は彼らを重用し、遊侠上がりの甘寧を厚遇することはなかった。逆に甘寧も、劉表はこの乱世を生き抜く器量を持ち得ていないと見切りをつけ、黄祖の下へ身を寄せた。しかしここでも一向に重用されずに並の食客程度の待遇であったため、今度は呉に身を託すことにした。甘寧は志を抱いて劉表の所に身を寄せるが、劉表は甘寧を高く評価せず甘寧は黄祖の所に行く。しかし、黄祖も甘寧を評価しなかったので、孫権のところに身を寄せるようになる。孫権は甘寧を高く評価し呂蒙や周瑜の推挙もあり、特別な待遇をうけた。そのころから才能が開花しはじめる。度胸と機転のきく指揮官ぶりを発揮し、戦地では大胆不敵な戦略でとても活躍した。
関平 かんぺい
生死年:?~219
出身地:不明
役職:不明
所属:蜀
関定の次男だった関平は、家に関羽一行が立ち寄ったとき、同姓のよしみで養子に迎えられた。そのとき関平は十八歳。その後は父の側近として荊州を守る。樊城攻めでは、戦いは有利に運んでいたが、傅士仁と糜芳の裏切りによって形勢は逆転、麦城に敗走し、絶体絶命のピンチ。関羽とともに呉軍に突入し捕虜となり、父子ともども処刑された。一騎打ちでは魏将ホウ徳と互角に渡り合うほどで、後の人々は、関羽を絵に描くとき、必ず周倉とともに関平を側に描くという。
簡雍 かんよう 憲和 けんわ/けんか
生死年:?~?
出身地:タク郡タク県
役職:従事中将→昭徳将軍
所属:蜀
劉備の挙兵時より付き従う。桃園結義は、劉備・関羽・張飛の3人としているのが主だが、簡雍も加わり四人だったという話もある。以来劉備とは、幕僚として、というよりは軽口を叩き合う友人のようだった。豪放な人柄で、軍議の席で諸葛亮の前でも、ただ1人長椅子に寝そべって冗談を言って笑っていた。蜀平定後、劉備は禁酒令を出し、酒造りの道具を持っている者まで処罰しようとした。そこで簡雍は、街を歩いている時に、若い男女を指差し、『あの者らは姦淫するので逮捕しよう。』と言った。劉備がなぜかと問うと、『2人は姦淫の道具を持っています。』を言ったので、劉備は笑って、酒造りの道具を所持する事を許可したという。
200年、袁紹の下に身を寄せていた劉備は彼の執拗な仕官の勧誘に辟易していた。そこで簡雍は「劉備が外へ行くのは袁紹軍への加勢を募ることに成功した。また214年、益州の牧・劉璋に降伏を勧める使者となった時は、敵城に乗り込んで傲慢な態度ため」と偽りの説明をし、見事劉備を脱出させることで、敵将を怒らせた。
そこで彼は急に態度を変え、非礼を詫びつつ降伏を勧めた。劉璋はその弁舌に負けて降伏を寫冐し
たという。
顔良 がんりょう
生死年:?~200
出身地:不明
役職:不明
所属:袁紹
袁紹配下の豪傑。郭図・淳于瓊とともに劉延を攻撃する。荀攸の進言で曹操は白馬へ倍の早さで進軍した。顔良は慌てて迎撃したが張遼と曹操軍の客将、関羽に包囲され関羽に斬られた。演義では白馬の戦いで曹操配下の宋憲と魏続を立て続けに打ち、徐晃もかなわぬほどの豪傑だったが曹操軍にいた関羽に殺された。
魏延 ぎえん 文長 ぶんちょう
生死年:?~234
出身地:義陽郡
役職:牙門将軍→前軍師・征西大将軍・仮節
所属:劉表→蜀
荊州太守・劉表の配下であったが、劉表没後、荊州が劉度、趙範、金旋、韓玄の4つに国が割れた際、韓玄の配下になる。後に劉備が荊州平定に乗り出した際、功労者の黄忠を討とうとした韓玄に憤りを感じ、謀反を起こし韓玄を討ち、劉備に投降した。
彼は反骨の相があるといわれながらも、211年の蜀侵攻で数々の戦功を挙げ、牙門将軍(軍門を守る将軍) に任命された。
219年、劉備が漢中王に即位すると、漢中太守、鎖遠将軍(遠征軍の司令官) に抜擢。劉備の義弟・張飛を差し置いての任命であったことから、劉備からの信頼が厚かったことが窺える。
さらに221年、劉備が皇帝に即位すると魏延は鎮北将軍( 北方守備の総司令官) に昇進する。
だが、その頃から魏延の心には野心が見え始める。軍師たる諸葛亮に度々意見をぶつけるようになったのだ。例えば227年の第一次北伐において、諸葛亮は西方の隴右に進出する安全策を取ったが、魏延は子午谷を通って長安を急襲する策を主張した。だが、彼の策は結局採用されることはなく、これが彼の反骨心を燃え上がらせることになる。黄忠とともに劉備と孔明に謁見した際、孔明は「魏延には反骨の相が見られます。後々、災いを起こすでしょう。投降を許さず、斬首にすべきです」と劉備に進言するが、劉備は「投降した者を斬るは不忠の者がすることだ」と孔明の意見を取り入れなかった。魏延は初め、一部隊長だったが、数々の戦功を挙げて牙門将軍に任命された。また、劉備が益州を治め、漢中王になり、首都を成都にした際、漢中太守に任命され、劉備が帝位に就くと鎮北将軍・都亭侯に昇進した。この頃から、魏延に慢心が見え隠れし始める。魏延は、孔明に従い出陣する度に、いつも1万の兵を要求し、孔明と別進路で魏軍を攻撃したいと願っていたが、孔明が許さなかった為、不満を抱いていた。魏延は人並み以上に誇り高く、野望多き性格であったが、劉備、孔明が健在のときは大人しく命令に従った。しかし劉備、孔明死後、溜まっていた不満を爆発させた。晩年、孔明は「私が死ねば、おそらく魏延は問題を起こすであろう」と予言し、楊儀、馬岱らに反乱予防策を授けていた。その後、孔明が死ぬと、魏延は長史・楊儀の命に反して不穏な行動をとるに至った。「丞相が亡くなろうとも、わしがおる。わし自ら指揮をとり、魏を討ち滅ぼしてやるから、撤退などする必要はない」といい、孔明の遺言を守らず、独自の行動をとり、成都には楊儀が反逆を企てたと虚偽の報告をし、蜀の宮殿を混乱させた。成都へ撤退する楊儀の部隊を阻止しようと先回りをした魏延は桟道を焼き払い、楊儀部隊を阻もうとしたが、孔明の密命で配下に入っていた馬岱に首を討たれた。三国志『魏延伝』の注によれば、魏延と不仲であった楊儀が、魏延のやることなすこと、ちくいち孔明に告げ口したり、魏延が軍勢を引き連れ、魏に降伏するという噂を流したりして、彼を窮地に追いやったからで、魏延には反乱を起こす意志はなかったという説も残されている。
麹義 きくぎ
生死年:?~193?
出身地:不明
役職:不明
所属:袁紹
涼州に長期間滞在していたこともあり、騎馬戦に長けていたという。界橋にて公孫さん軍と交戦した時は、敵将厳綱を討ち取り公孫軍の旗を折るなどして活躍したが、その直後に当時公孫さんの軍にいた趙雲に突き殺された。正史での麹義は、界橋の戦いを生き残ったものの公孫さん軍を撃破した功績を必要以上に誇ったため、それを疎んじた袁紹によって殺された、とある。曹操との戦いあたりまで生きていれば、その騎馬戦に対する技量を生かしてもう少し目立った活躍をしていた可能性も考えられ、早期に散ったのが惜しまれる武将だと言える。
姜維 きょうい 伯約 はくやく
生死年:202~264
出身地:天水郡キ県
役職:上計掾→征西将軍→大将軍
所属:魏→蜀→魏
魏の涼州天水郡の冀県に生まれた姜維は、幼い頃から兵法に通じ、神童として知られていた。幼いころ父が戦死したため母1人に育てられ、親孝行で知られていた。魏の中郎将で、郡太守馬遵のもとにいたが武勇を聞きつけた諸葛孔明の策略にはまり、蜀に降った。227年、第一次北伐で漢中から出撃してきた諸葛亮と激突。諸葛亮が天水の城を奪うべく偽の使者を送った際には、彼はその詭計を見破り追い返した。
姜維の慧眼に感心した諸葛亮は、さらなる策に打って出る。彼の母親が住む冀城を攻めたのである。そして姜維が慌てて戻ったところを冀城に閉じ込め兵糧攻めにした。その頃、蜀軍の第一次北伐は成果をあげ、天水郡の各県は次々と降伏していた。天水太守は姜維が冀城から戻らないため、彼も諸葛亮に降ってしまったと疑った。それこそ諸葛亮の冀城攻めの真の目的。行き場を失った姜維は、本当に降伏するしかなかった。孔明亡き後は9度にわたる北伐を行ったが、全くといっていいほど戦果はなかった。また、内政には手をつけなかったため宦官の勢力が強まった。魏の攻撃の際も剣閣に立てこもって抵抗を続けたが、結局劉禅の降伏によって蜀は滅びた。その後魏の将軍鐘会を誘って謀反を企てるが、失敗に終わり魏兵によって斬られてしまった。
許ちょ きょちょ 仲康 ちゅうこう
生死年:?~?
出身地:しょう県
役職:都尉→中堅→牟郷候
所属:魏
曹操とは同郷の出身。体格がよく武術に優れ、怪力の持ち主だった。漢の末期、世の乱れに乗じ
て各地で賊徒が荒らしまわってた頃には、村の若者を集めて戦いを挑み、その怪力に驚いた賊徒は
それ以後、彼を恐れて村に近寄らなかったという。
その後、曹操の陣営に加わった際、許楮を見た曹操は「わしの樊峅(劉邦の猛将) だ」と喜び、
身辺警護に当たらせた。許楮は曹操の傍を片時も離れず、忠実に任務を果たした。蜀の馬超が曹操を攻めた際にも孤軍奮闘して曹操を守っている。走る猛牛2匹を、両手に尾を持って引きずり戻すという恐るべき怪力の持ち主で『虎痴』とあだ名される。その名のとおり、智謀には欠けるところがあったが、呂布・関羽・張飛など、天下の豪傑と互角に戦う勇猛さ。若くしてすでに敵無し状態だった馬超に舌を巻かせ、槍を受け落馬した際に、自軍が突撃、無事救い出されるという話もあり、配下の人望も厚かった。そんな雰囲気からして、蜀の誰かさんのようにワアワアわめいているのかと思えば、曹操の側にちょこんと座っている。上司たちを敬い、自分をわきまえ、軍議でも無口だったという。典韋の後を継ぐように曹操のボディーガードになる。寝所に入ることができたのは、彼と夏候惇だけだったというから信頼も半端なものではなかったのだろう。死後、忠候と諡される。
許攸 きょゆう 子遠 しえん
生死年:?~?
出身地:南陽郡
役職:幕僚
所属:後漢→袁紹→魏
袁紹の幕僚。若い頃洛陽で過ごしたので、西園八校尉だった袁紹や曹操とも親しかった。官渡の戦いにおいて間者を放ち曹軍の兵糧がほとんど底をついている事をつきとめ、許都を急襲し曹軍を挟撃するように袁紹に献策したが、曹操の旧友であったためスパイではないかと袁紹に疑われる。これに憤慨した許攸は曹軍に投降し、袁紹軍の兵糧のほとんど全てが中継地点の烏巣に集結しているという爆弾情報を曹操に与える。九分九厘敗色濃厚だった曹操は、官渡の守備を曹仁らに任せて、自ら決死の烏巣襲撃隊を編成し、5千の軽騎馬隊に袁紹の旗印を持たせ烏巣を襲撃。これが官渡の戦いの勝敗を決した。中華戦史に輝く官渡の大戦を自分の献策で勝利に導いた許攸は、次第に曹操の幕僚の中でも大きな態度をとるようになり、曹操ならびに旧臣たちに嫌悪されるようになる。あるとき曹操の行列と共に城門をくぐった許攸は、「この人(曹操)は、自分を手にいれなければ、この城門をくぐれなかっただろう」(つまり官渡で死んでただろう、という意)と側近に漏らし、それが曹操の耳に入り、逮捕され首を刎ねられた。
紀霊 きれい 生死年:?~? 出身地:不明 役職:将軍 所属:袁術 袁術の配下の豪の者。重さ50斤の三尖刀の使い手。劉備討伐に行ったものの呂布に仲裁されてしまいった。その後、紀霊は袁術が袁紹を頼ってキ州へと移動している最中に袁術一行は劉備達の待ち伏せにあい、ここで張飛に討ち取られその生涯を閉じた。しかし、そんな彼にも「関羽と一騎打」と言う華やかなエピソードがある。荀周の駆虎呑狼の計によって争うこととなった劉備軍と袁術軍。両軍が激突しようとしたとき、袁術軍の先頭を切ってやってきたのが紀霊だった。劉備軍の関羽はこの紀霊の前に立ちはだかり一騎打ちを挑む。両者共30合あまり打ち合ったが勝負は決まらなかったと言う。可袁想な生涯と最期だったためにせめて、「生涯袁術に付き従った一途で忠義の名将だった」と思いたい。
金環三結 きんかんさんけつ
生死年:?~225
出身地:鳥戈国
役職:南蛮第一洞主
所属:南蛮
孔明の南征時に進軍してきた蜀軍に対して、南蛮王孟獲に命じられ第二洞主:董荼那、第三洞主:阿会喃とともに出兵、それぞれ兵5万で右翼を攻撃を計画し実行したが、趙雲、馬忠の夜襲の中で、趙雲に一突きで討たれ死亡した。他の二人の洞主達は捕らえられたが蜀軍の強大ぶりを屈服した。
金旋 きんせん 元機 げんき
生死年:?~?
出身地:京兆郡
役職:黄門郎→議郎→中郎将・武陵太守
所属:後漢
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、趙範、趙範、韓玄らと共に謀反を起こし、国を四分割し、武陵の太守となる。強気で野心に満ちた性格であったという。劉備の命を受けた張飛が城を攻めようと数里に近づいた。金旋は「一気に滅ぼしてやる」と意気揚々であったが、従事のキョウ志が「すでに零陵、桂陽は劉備の手に落ちました。劉備は仁政を心がけ、民は大喜びしています。ここは大人しく降伏し、民を安んじては」と進言する。しかし金旋はキョウ志の進言を無視し、出陣する。劉備軍と戦った金旋であったが、鬼神の如く攻め来る張飛に恐怖を抱き、城に逃げ帰る。しかし城門は閉ざされたまま。金旋は「わしが帰ったぞ。門を開けんか」と怒鳴り散らした。すると城楼にキョウ志が現れ「戦わずにおれば、兵は死なずにすんだ。貴方の首を持って劉備軍に降伏する」と一喝し、矢を放った。放たれた矢は金旋の首を貫き、金旋は絶命した。進言を無視し、張飛に攻めていったのが運の尽きであった。
虞翻 ぐほん 仲翔 ちゅうしょう
生死年:164~233
出身地:会稽郡余姚県
役職:功曹→騎都尉
所属:呉
元は会稽太守・王郎配下の将だったが王郎が孫策に敗れると、孫策に認められ召抱えられる。孫策死後も引き続き孫権に仕え騎都尉に任じられるが、耳の痛い諫言ばかりいうので、たびたび臣下と衝突し協調できず、地方の職に左遷されてしまう。のちに呂蒙の荊州攻略の際に同行し、功を立て中央政権に復権をはたす。しかし、その後もたびたび孫権を怒らせ最後には、また左遷され歴史から姿を消すことになります。
ケイ康 けいこう 叔夜 しゅくや
生死年:223~262
神仙の世界に興味を持っており、仙人になろうと修行し不老長寿の道をしめす「養生論」を記す。無実の罪の友人をかばって連座し処刑される
ケイ道栄 けいどうえい
生死年:?~208
出身地:不明
役職:不明
所属:劉度
劉備が荊州の南の四郡を征討した時に、零陵の太守をしていた劉度の配下で、大斧の使い手。演義だけに登場する武将で正史にはその名は見当たらない。劉備の征討時に劉度の子「劉賢」と共に劉備軍と戦うが、諸葛亮の計略によって敗れ降伏。劉備が処刑を命じるが、諸葛亮はそれを静止し「降参したければ劉度を捕らえて来い」と命じ釈放する。しかし陣に戻っても約束を守らず、再び劉備軍を攻めて趙雲にやられる。
阮咸 げんかん 仲容 ちゅうよう
生死年:?~?
阮籍の兄の子供。琴の名手であったと言う。阮籍とあわせて「大小阮」と呼ばれていた。
厳顔 げんがん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:巴郡太守
所属:劉璋→蜀
劉璋の武将であったが、劉備が蜀を得ようとした時、万人の敵と言われる張飛と対決。しかし、張飛に捕まり、張飛の言葉を聞き、劉備軍に降伏。その後、老将黄忠と共に、定軍山の戦い、夷陵の戦いなど数々の戦いに参戦し、数々の手柄をたてた。黄忠、厳顔は、蜀の二大老将として活躍した。
阮籍 げんせき 嗣宗 しそう
生死年:210~263
七賢の中の中心人物でリーダー的存在。健安七子の一人である阮うの子供。幼い時から能力を高く評価され司馬懿に召され出世する
献帝 けんてい
生死年:180~234
出身地:洛陽
役職:陳留王→第十四代皇帝→山陽公
所属:後漢
後漢王朝最後の皇帝で姓名は劉協。後漢第十二代皇帝霊帝の次男。霊帝死後兄の劉辯が少帝として即位すると陳留王に封じられたが、9歳にして董卓により皇帝に立てられた。しかし皇帝とは名ばかりで長安強行遷都により長安に移住したが、董卓暗殺の混乱に乗じて長安を脱出して洛陽に帰還した。洛陽は董卓による焼き討ちで廃虚と化していた為曹繰の勧めで許へ遷都した。結局董卓から曹操に変わっただけで名だけの皇帝だった。その後曹操の思い通りに利用されることを嫌って外戚の董承や劉備らと曹操排斥を図るが失敗。計画が露顕した際には婦人の董貴妃を曹操に殺されている。また、215年には曹操が伏皇后の誅殺を図ったが、このときも助けることはできなかった。220年、曹操の死後、曹丕に帝位を禅譲して退位。後漢200年の歴史に幕を降ろした。退位後は魏王朝の下で山陽公に封じられ、その14年後、54歳で没している。
厳白虎 げんはくこ
生死年:?~?
出身地:呉郡鳥程県
役職:不明
所属:独立
呉地方に勢力を張り、「東呉の徳王」と自称していた豪族。玉璽と交換で袁術の兵を借り侵攻してきた、「小覇王」孫策に対して楓橋にて応戦。大敗を喫する。かなわじと見た厳白虎は、弟、厳輿を使者として和睦を申し入れたが聞き入れられず、危険を感じ、会稽の王朗を頼る。王朗と共に、地域の諸豪族を吸合して孫策と戦うが再び破れ、山賊に成り果てたところを、董襲に殺された。
呉懿 ごい 子遠 しえん
生死年:?~237
出身地:陳留郡
役職:中郎将→左将軍→車騎将軍・仮節
所属:劉璋→蜀
字は子遠劉焉に従って蜀に入ったので出身が陳留なのも納得できる。劉備の蜀攻めの際に降伏、諸葛亮の北伐にも参加したが三国志演義での出番が少ないのは地味な勲功しか上げていないだろうが、彼の存在は重要であっただろう、その証拠に諸葛亮没後は最前線の漢中太守になる。正史によると「骨っぽい男で、博愛の心を持ち、弱軍を率いて強軍を制圧し、危機に陥ることがなかった。」そうだ、やはり蜀になくてはならない男のようだ。
黄蓋 こうがい 公覆 こうふく
生死年:?~?
出身地:霊陵郡泉陵県
役職:郡の役人→武鋒中郎将→偏将軍
所属:呉
呉きっての歴戦の将軍として知られる黄蓋は、当初は文官の出だった。しかし、武勇・軍略に優れていたため武官として出世し、数々の戦場で武名をあげることになる。彼自身「私は不徳にしてただ武功によって公事を果たしており、文官として評価を受けたことがない」と語っている。鉄鞭の使い手で、孫堅、孫策、孫権の孫家三代に仕えた。赤壁の戦いの時は開戦派で、周瑜と「苦肉の計」を提案。黄蓋の活躍を象徴するのが、赤壁の戦いでの「苦肉の計」である。まず黄蓋は、裏切って降伏するという偽の文書を曹操に送った。さらに部隊の不和を演じる。黄蓋を信じた曹操は彼の船団を近づけさせるが、黄蓋の船隊は今だとばかりに曹操の船団を火攻めにした。計略は成功し、先鋒として曹操軍に突入し火を放ち、赤壁の勝利の立役者となった。演義では赤壁以後活躍の場面は無いが、正史によれば黄蓋は山越討伐で度々功を立てた異民族対策のエキスパートであり、その後も武陵の少数民族対策で活躍している。なお、正史では「苦肉の計」は行われていない。
高幹 こうかん 元才 げんさい
生死年:?~206
出身地:陳留郡圉県
役職:井州牧→井州刺史
所属:袁紹→曹操
袁紹の甥でへい州太守。高幹は官渡の戦いで伯父である袁紹が曹操に大敗した時、5万の兵を率いて救援に駆けつけた。倉亭の合戦で重症を負ったが、勇敢に戦い、屈する色を見せなかった。曹操軍がキ州城外に押し寄せたときも応戦に応じた。しかし、曹軍の猛攻は収まるところではなくキ州はおろか幽州も陥落。高幹は、壷関の城を死守し、孤立しながらも奮戦した。曹操は官渡で降伏した袁紹部下・呂翔に策を授けた。呂翔は高幹の元へ行き、曹軍から逃げてきたと偽り、同時に夜襲を提案。これに乗せられた高幹は曹軍陣地に夜襲をかけたが惨敗し、逃亡を図ったが、部下に殺された。
黄権 こうけん 公衡 こうこう
生死年:?~240
出身地:巴西郡
役職:主簿→鎮北将軍→車騎将軍
所属:劉璋→蜀→魏
元・劉章配下で劉備の益州入りを強硬に反対し、幾度となく劉章を諌めた。劉備入蜀後は隠遁したが、劉備に乞われて劉備の臣になり、偏将軍に任命される。章武元年(221年)、孔明らとともに漢中王・劉備に、蜀・皇帝の位に就くように奨めた。劉備が関羽の弔い合戦で呉を攻めた際、水軍隊の参軍として出陣、指揮したが、夷陵で陸上部隊が大敗していたため、退路を絶たれ、やむなく呉に降伏。呉降伏後、黄権は魏に送られ、魏の臣として仕えたが、劉備や孔明の不利となるような策は進言せず、内政関係の進言をするなど、降伏後も劉備への恩を忘れることはなかったという。
黄皓 こうこう
生死年:?~?
出身地:不明
役職:黄門令→泰車都尉
所属:蜀
蜀滅亡の原因となった宦官。人のへつらい、つけいるのが上手く劉禅に寵愛された。董允が死ぬと政治に手を出し始め、政治の実権を握った。姜維は黄皓の専横を憎み殺害しようとしたが、劉禅は「黄皓は使い走りの召使いすぎない。董允も黄皓を憎んでいたが、朕はそれが残念である。君が気にする男ではない」と言い耳を傾けなかった。さらに黄皓は巫女や鬼神の言葉を用い政治を行なったため腐敗を招いた。劉禅が降伏すると黄皓は処刑されそうになったが賄賂を贈って死を免れたが司馬昭に憎まれ処刑された。
高順 こうじゅん
生死年:?~198
出身地:不明
役職:中郎将
所属:呂布
清廉潔白な人柄で知られ、中郎将として「陥陣営」と呼ばれる700人の精鋭を率いる。配下のカク萌が呂布に謀反するとこれを斬った。呂布が曹操に背くと、沛にいた劉備を撃ち破り、救援にきた夏侯惇の軍も撃破した。いつも呂布をいさめていたが聞き入れられず、最後は呂布、陳宮と処刑された。
候選 こうせん
生死年:?~?
出身地:河東郡
役職:官吏
所属:韓遂→馬超→張魯→魏
演義系三国志では、韓遂配下の「旗本八騎」のひとり。この八騎、上記程銀の他は、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋である。この内、程銀、張横、成宜は西涼軍として華々しく戦死を遂げたが、侯選含めた残りの五人は、曹操(立案はカク)の離間策によって馬超に疑念された韓遂に曹操軍への帰順を勧めている。この1件を知った馬超によって、馬、梁、(間接的に)李の3名は殺害されるが、韓遂とともに投降した侯選と楊秋は曹操によって列侯に封じられている。正史での侯選は、やはり馬超らとは互角の同盟者であり、馬超敗戦後、程銀と行動をともにし、曹操政権下で復職している。
公孫越 こうそんえつ
生死年:?~192
出身地:不明
役職:不明
所属:公孫さん 公孫サンの従弟。袁紹と袁術が争ったとき、袁術は孫堅と公孫越を派遣し攻撃させたが敗れ、その時の流れ矢で公孫越は死んでいる。そのため公孫サンは袁紹が公孫越を殺したと激怒し、袁紹と争うようになる。演義では公孫サンの弟で、袁紹が冀州をともに攻め分割しようという約束を果たそうとせず、公孫サンの命で、使者になるが帰り道に袁紹の伏兵に殺される。このことから袁紹・公孫サンは争うことになる。
公孫淵 こうそんえん
生死年:?~238
出身地:不明
役職:車騎将軍・仮節→燕王
所属:魏
今で言う満州のあたりを治め、袁家滅亡時に袁尚の首を曹操に送り届けて左将軍に任じられた公孫康の子供その時彼はまだ幼く後継は弟の公孫恭になった。しかし公孫恭は凡庸で国を治める力が無く性的にも不能者で後継者を残すことができないのにつけこみ位を奪い取ってしまう。元々野心家で義理や正義などは持ち合わせていなかったようで、自分や金中心に物事を考える人物だったようだ。魏に使える裏で呉とも通じており燕王と認めさせている。魏にも忠誠を示す事も無く237年には刺史を斬って燕を建国する。翌年すぐに司馬懿が討伐軍を組織し出兵。燕軍はもろくもやぶれ城を包囲された、やがて食料もそこをつき逃げ出すも捕まって斬殺されている。
公孫さん こうそんさん 伯珪 はくけい
生死年:?~199
出身地:遼西郡令支県
役職:郎→奮武将軍
所属:後漢→君主
公孫壜は有力豪族の家系に生まれたが、生母の身分が低いために公孫家の一員とは認められず、
不遇な少年時代を過ごした。だが、やがて容姿端麗かつ頭脳明晰な若者に成長すると、陵西郡の太守に気に入られて娘婿になり、官職の第一歩を踏み出す。泳郡の儒学者・慮植の下では劉備とともに軍略を学んだ。
公孫墳の名が歴史の表舞台に登場するのは、後漢末期の相次ぐ反乱の中で、東北の異民族・羌の討伐を司空の張温か命じられた時であった。張温は精鋭部隊を率いていたが自身は実戦経験に乏しく、実質的司令官として公孫墳を抜擢。公孫讚は幽州・烏丸の選りすぐった3千の若い猛者を白馬に乗せて戦い、「白馬将軍」として恐れられた。さらにこの時の活躍で、騎都尉に昇格した。白い具足をつけ、白馬に乗っていたため白馬将軍と呼ばれていた。虎牢関の戦いの後、袁紹に騙され(その折に従弟の公孫越を殺された)それに怒り袁紹と戦った。しかし、そこで袁紹配下の文醜にあわや討たれる寸前までに追い詰められた。(そこを趙雲が救った)さらに、2度目の戦いでは自慢の白馬陣(白馬の騎兵のみで構成された軍)を用いて戦ったが、袁紹の罠に嵌りまたも討ちとられそうになる。(ここで、今度は劉備の軍が助けた)そこで、董卓から命令された天子(帝)が勅命を送りとりあえずいちど争いはそこで止まる。しかし、袁紹とは終生争う敵であった。そして199年袁紹の軍に囲まれ自害する。(殺されたという説もある)
黄忠 こうちゅう 漢升 かんしょう
生死年:?~220
出身地:荊州南陽郡
役職:中郎将→征西将軍→後将軍
所属:劉表→魏→蜀 荊州の劉表に中郎将に任命され、その甥の劉磐と共に長沙の役人を務めていた。劉表の死後、荊州が曹操の支配下におかれると仮にヒ将軍に任命され、もとの任務のまま長沙の太守韓玄に仕えた。劉備軍の関羽が攻め入ってきた際戦ったが互角であったという。この時すでに60歳近かった。翌日の一騎打ちでは馬が転倒したが、ここで殺すのは卑怯だと感じた関羽に見逃された。その翌日は得意の弓で戦ったが、その際関羽に恩を感じていた黄忠はわざと関羽の兜に矢を当てて見せ、自分の弓の腕を知らせて恩返しをした。ところがこれを内通と見た韓玄に捕らえられ、処刑される寸前に魏延に助けられて劉備の配下となった。劉備入蜀の際には先鋒を務め、益州の平定の際討虜将軍に任命された。また、魏の名将夏侯淵を斬るなど大活躍した定軍山の戦いで征西将軍に昇進した。その後、漢中王となった劉備に関内侯の爵位を授かった。が、その翌年関羽の弔い合戦の時の劉備の「関興、張ホウら若者に期待する」発言に立腹し、たった5,6騎で呉軍に攻め入り、矢を背に受けて息を引き取った。
劉備の長沙平定後、老齢ながら臣従する。この時諸葛亮をして「今年60に手の届くほどでありながら万夫不当の武勇を持つ剛の者」といわしめた。
黄忠は膂力、衆に勝り、長大な薙刀を振り回し、2人張りの弓を引いて戦った。特に弓術は評判で、百歩離れたところからでも柳の葉を射抜くことができたという。
劉備の幕下に入っても、黄忠の勇猛果敢な姿は袁えることはなかった。その武勇は敵将からも賞賛され、中国語には今でもなお「老黄忠」という言葉が残っており、老いてもなお盛んな人の代名詞となっている。幾多の戦闘を生き抜いてきた黄忠の、一番華々しい戦果は定軍山での戦いであった。黄蓋の活躍を象徴するのが、赤壁の戦いでの「苦肉の計」である。まず黄蓋は、裏切って降伏するという偽の文書を曹操に送った。さらに部隊の不和を演じる。黄蓋を信じた曹操は彼の船団を近づけさせるが、黄蓋の船隊は今だとばかりに曹操の船団を火攻めにした。この作戦で曹操は大打撃を被り、敗北することとなったのだ。
孔融 こうゆう 文挙 ぶんきょ
生死年:153~208
出身地:魯国
役職:北軍中候→北海国相
所属:後漢→魏
なんと、あの孔子の20代とも24代ともいわれる子孫。北海太守を履歴したが…理想の政治が失敗して結局最後は身一つで曹操の元に逃亡、そして、諸説入り乱れる死因であるが、どれも「余計な事を言って曹操の怒りをかった」と、いうなんともいえない死に方である。彼に関する逸話はかなり多く「世説新語」に多く収録されている。尚、彼は建安七子に数えられている、彼の詩に…。「座上、客に満ち樽中、酒空くなし」と、いうものがあり彼の人生のモットーであろう。蛇足であるが、孔融は家族が処刑されて、血が絶えたという。
兀突骨 ごつとつこつ
生死年:?~225
出身地:鳥戈国
役職:鳥戈国王
所属:南蛮
兀突骨は孔明が南蛮制圧の時に出てきて南蛮王孟獲と共に蜀軍と戦う武将です。藤で作った藤甲と言う水に浮かび剣や槍を通さない鎧を使い孔明率いる蜀軍を苦しめました。身の丈一丈二尺(276?)という大巨人。穀物はいっさい食べず、生きた獣や蛇を食べていたため、身体の皮膚は鱗のように硬く、刃物で斬りつけても傷が付かなくなっていたという。孟獲は最後の切り札として、兀突骨に加勢を頼み込んだ。承知した兀突骨は、藤の蔓に油を染み込ませ乾かして作った「藤甲鎧」を身に付けた、強力で勇猛果敢な「藤甲兵」を率いて出陣。初戦は刃を通さぬ藤甲軍に圧倒された蜀軍を大いに打ち破った。しかし、武勇一辺倒の男であったようで、孔明の策にあっさり引っかかった。孔明は地雷を使って藤甲兵を火攻めにした。藤甲鎧は油に染み込ませ作っていたため、藤甲兵3万は1人残らず焼死し、兀突骨自身も部下と共に焼死した。この戦いは孔明が自分の行為のため3万の人間を殺した事を悔やんで涙を流した程の殺戮劇であった。
呉班 ごはん 元雄 げんゆう
生死年:?~?
出身地:陳留郡
役職:領軍→督後部後将軍→驃騎将軍
所属:蜀
呉懿の親族。劉彰の配下であったが、劉備の入蜀に際し、劉備に降伏した。劉備に臣従後は、張飛の補佐官として主に活躍した。張飛が部下に暗殺されると、劉備とともに仇討ちのために呉に侵攻、先鋒として勇戦奮戦する。この戦は緒戦は快進撃を続けたが、夷陵で陸遜の火計にかかって大敗。成都へ退却した。劉備の死後は、ヒョウ騎将軍として孔明に従い、北伐に参加し活躍したが、第二次北伐の撤退の際、魏の軍勢の矢を受けて死亡した。
顧雍 こよう 元歎 げんたん
生死年:168~243
出身地:呉郡呉県
役職:郡丞→丞相
所属:呉
冷静沈着で学問に優れていた為、地方の役所が彼を推挙し呉国の中央政権へ踊り出る。県令や太守などの役職を歴任し、孫権の代になっても順調に昇進して、やがて丞相となった。顧雍はいかなる時も冷静で感情に左右されずに人の能力を判断し、能力の高いものを高い位に据えるようにした。顧雍は真面目で的確な発言をしたため、宴会などでは煙たがれ、孫権などが「顧雍がいると酒が不味くなる。」といって共に飲むのを好まなかった。
呉蘭 ごらん
生死年:?~218
出身地:不明
役職:将軍
所属:蜀
劉章の配下。建安十七年(212年)、劉備の入蜀に対抗するべく、ラク城を守る呉懿の副将として激戦を繰り返したが、劉備・黄忠・魏延・張飛に攻め立てられ、混戦の中、雷同と共に劉備軍に捕らわれた。劉備の『蜀を今よりもより良い国にしたい』という思想に心打たれ、劉備の傘下に加わる。劉備の入蜀後、曹操との漢中争奪戦で活躍したが、曹操の三男・曹彰が援軍として蜀軍に攻め寄った際、これを食い止めようと突撃し、曹彰と一騎討ちしたが、殺された。
さ行
蔡瑁 さいぼう
生死年:?~?
出身地:襄陽郡
役職:不明
所属:劉表
荊州の豪族。姉は劉表の妻。劉表が荊州の刺史になった時招かれる。姉の子を後継者にするため、劉表に長男の劉埼を会わせようとしなかった。演義では孫堅が襄陽に攻めてきた時、襄陽城から打って出るが敗れて戻ってくる。カイ良は蔡瑁を処刑するよう進言したが劉表が蔡瑁の姉を娶っていたので処刑できなかった。のちに劉表が劉備を信用するようになると劉備暗殺を企てたが伊籍に阻止される。劉表の死後、遺書を書き換え後継ぎにした。劉備が住民をつれ襄陽城までくると矢を射掛けて入城を拒否。曹操に降伏し水軍大都督に任命され呉の水軍と戦うが敗れ水軍を強化。しかし周瑜を味方につけるために送った説客が周瑜の偽手紙を持って帰り、蔡瑁、張允が呉に内通してるとされ曹操に処刑される。
山とう さんとう 巨源 きょげん
生死年:205~283
七賢のなかで一番の酒豪。隠居していたが出世志向の側面もあり、晋国が建国されると17年間重職を勤めた。
紫虚上人 しきょじょうにん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:不明
所属:なし
人の地位はおろか、生死まで見通す神眼を持っていたと言われる隠者。劉備軍と戦う為に、劉カイ・張任らは5万の兵を率いてラク城に向かう途中に紫虚上人に会いにいった。上人は「人の吉凶などわかるはずがなかろう」と断ったが、再三の頼みに八句の言葉を書いて張任らに渡した。「竜と鳳、西川に入る。鳳雛地に落ち、臥竜天に昇る。天数まさにしかるべし」すなわち「孔明とホウ統は益州に入る。ホウ統は死に、孔明は益州を治める」このように予言した。劉カイらは自分たちの運命を尋ねるが、上人は「天命からは逃れられない。聞いたところで何になる」と言ったきり口を閉ざした。不吉な予言に剛直な張任は「あの様な気違いの言葉なぞ信じても何の得にもならん」と怒ったが、結果、上人の言う通りになった。
司馬懿 しばい 仲達 ちゅうたつ
生死年:179~251
出身地:河内郡温県
役職:文学掾→驃騎将軍→大尉→丞相
所属:魏→晋
名は司馬懿。字は仲達。幼い頃から英才の誉れ高かった司馬懿は、曹操に文官として仕えた当初から、適切な進言で魏の
内政を充実させていく。
だが曹操からは聡明ゆえに信用されていなかったようで、こんな逸話が残っている。彼は首を18 0度後ろに捻ることができる「狼顧の相」の持ち主で、この噂を聞きつけた曹操は、その真偽を確かめるために背後から名前を呼んだ。すると彼は真後ろに振り向いた。
それを見た曹操は「この男は遠大な志を抱いている」と警戒したという。ただ、曹丕からの信頼は厚かったようだ。曹操の没後、曹丕が魂王になると、漢の献帝が彼に譲位の詔を出すが、司馬懿はこれをすぐに受けては不義者の謗りを免れないと助言。曹丕は3度辞退してから帝位を継承した。彼が文帝に即位すると、司馬懿は丞相に任ぜられる。君主である曹操から絶大なる信頼を得、蜀の諸葛亮と激闘を繰り返した天才的な軍師。曹操、曹丕、曹叡と仕え、曹操には文官、曹丕には宰相として仕えた。曹叡が即位すると、荊州と予州の全権をあたえられた。そして、諸葛亮孔明が北伐をすると、それにつこうとした孟達を討ち、孔明の中原制覇の志をくじいた。諸葛亮との戦いにおいては、攻撃よりも守りを中心としていた。五丈原の戦いの途中、孔明が陣中で没っした。その機に戦をしかけようとしたところ、司馬懿は孔明の姿(生き人形)を目撃。すぐさま自陣に逃げ帰ったという。これは「死せる孔明、生ける仲達を走らす。」といわれ、後世まで語り継がれたと言う。
迅速な対応で孟達を討つ
曹盃が亡くなり曹叡の代になると、司馬誌は標騎大将軍に封ぜられ、また自ら志願して一維州と涼州の総督となって現地に向かった。これを知った諸葛亮は、「これ『賊が国にとって大きな悩みの種になるぞ」と嘆く。しかし、それを逆手に取った絶妙な計略によって、司馬誌は曹叡からクーデターの疑いをかけられ、兵権を剛奪され故郷に帰らされてしまった。そして諸葛亮はこれを好機と「出師の表」を奉って魏に攻め込み、迎え撃った魏軍は連戦連敗となる。
魏では、「やはり諸葛亮に対抗できるのは司馬懿しかいない」という話になり、もとに使者が送られ、「もとの官職に戻り、長安で合流するように」
との勅命を司馬懿は受ける。そののち、また別の者が極秘の情報を伝えにやってきて、魏に降っている孟唯が諸葛亮と内通に籍賜記攻めようとしているとの情報を司馬懿は得た。長男の司馬師が「急いで帝に奏上しましょう」と言うのを司馬懿は笑って、「それで返事を待っていては往復で1ヶ月はかかる。いますぐ動かなければ、取り返しがつかなくなるだろう」と言うと、すぐに兵を出して通常の三倍の速さで行軍し、まだ無警戒だった孟達を討ち取った。この迅速な対応により、魏は危機から救われたのである。長安で曹叡は、先の兵権剥奪の件を詫び、さらに孟達の件を聞き知ったので、司馬懿の適切な判断を大いに褒めて多大な恩賞を与えた。そして、以降は、機密の重大事には奏上は必要ないという決まりにしたのである。
司馬炎 しばえん 安世 あんせい
生死年:236~290
出身地:河内郡温県
役職:中掾軍→晋王→初代晋皇帝
所属:晋
名は司馬炎。字は安世。晋の初代皇帝(武帝)。手はひざの下まで届き、立つと髪が地面の届くほど長かったという。
司馬昭の長子として生まれ、後に晋の初代皇帝となる。皇帝となった当初は優れた知謀に加え度量寛大で人徳も厚い人物だったという。
司馬炎が晋王・司馬昭の後継者に指名された頃、魏の政治はほぼ司馬氏が実権を握っていた。そして、司馬昭が没し司馬炎が正式に家督を継ぐと、司馬炎は剣を携えて宮中に乗り込むと、当時魏帝であった曹奐に「魏が保たれているのは誰のおかげか」と問い、帝位の委譲を要求した。
その道義に反した行動を、曹奐の傍らに控えていた魏の臣・張節がなじったが、司馬炎に一喝され、その部下たちに棒で殴り殺されてしまう。
曹奐はこの司馬炎の勢いにすくみあがり、重臣たちに意見を乞うが、事前に司馬炎の意見に迎合していた賈充に説かれ、帝位を譲ることを決意する。
そして、すぐさま禅譲( 皇帝が、その地位を有力人物に譲ること) の儀式が執り行なわれ、魏は滅び、あと少しで皇帝になろうとする直前で世を去った父である司馬昭の基盤を使いながら、晋を建国。自ら、その帝位についた。280年には呉を降伏させて、三国時代を完全に終わらせ、全国統一をした。しかし、その後わずか10年で、この世を去ってしまった。
司馬師 しばし 子元 しげん
生死年:208~255
出身地:河内郡温県
役職:散騎常侍→長平郷候→撫軍大将軍→大将軍
所属:魏→晋
魏の大軍師・司馬懿の嫡子で、その才もあって若くして有名であった。父の朝廷への影響力により初めから高い官職の散騎常侍から始まり、その後も華やかなエリートコースを歩んでいく。249年魏朝廷を専横していた曹爽派へのクーデターを、父・司馬懿と共に決起する。成功後はその功績により長平郷候に昇進する。父・司馬懿が没すると、父の旧職を引継ぎ撫軍大将軍となり、さらに252年には大将軍となり魏の全権を一手に握り、司馬氏の影響力は甚大になった。それを快く思わない人物も多く、そういった反司馬氏勢力は司馬師を廃しようと画策し、クーデターがおきてしまう。その計画に皇帝の曹芳も関与していた事を知った司馬師は、独断で皇帝を廃位し、後継に曹丕の孫・曹髦を即位させる。その独裁的なやり方は多くの反発を招き、翌年司馬師打倒を誓った毋丘倹と文欽が挙兵する。その報を知った司馬師は、眼下の瘤をとった手術の傷が直らないまま出陣してしまい、戦闘中に眼球が飛び出してしまい、その後その傷が悪化して没する。
司馬昭 しばしょう 子上 しじょう
生死年:211~265
出身地:河内郡温県
役職:典農中郎将→征蜀将軍→大将軍→晋王
所属:魏→晋
名は司馬昭、字は子上。魏の軍師・司馬懿仲達の次男。司馬懿の死後、兄の司馬師とともに権勢をふるった。そして、司馬昭の子には、三国時代を統一した晋の武帝・司馬炎がいる。その兄・司馬師が死ぬと大将軍の位をつぎ、蜀を平定し、晋王となった。しかし、呉を平定することができずに、皇帝になれるという直前で息絶えてしまった。そしてその子、司馬炎が統一することになったのだが、その基盤を作ったのは、彼だといっていいだろう。
十常侍 じゅうじょうじ
生死年:176~190
出身地:洛陽
役職:第
周秦 しゅうたい 幼平 ようへい
生死年:?~?
出身地:九江郡下蔡県
役職:別部司馬→奮威将軍
所属:呉
若き孫権を身をもって救った忠義の臣。孫策が父を失い袁術の下に身を寄せている時に、蒋欽と共に出会い配下となっている。戦場ではたびたび手柄を上げ、別部司馬に任じられる。孫権は彼をとても気に入り、孫策に強く頼んで自分の配下にしてもらっている。異民族討伐時に、油断して敵に取り囲まれてしまった孫権を身をもって守り救った。孫権は無事だったが、彼は瀕死の重体で体には無数の傷があった。その後孫権は彼をとても信頼するようになり特別に優遇した。
周瑜 しゅうゆ 公謹 こうきん
生死年:175~210
出身地:廬江郡舒県
役職:建威中郎将→偏将軍 所属:呉
No.1美男子といえば彼。孫策とは義兄弟の契りを結んでいる。21歳の若さでデビューし、『美周郎』とアダ名された。音曲にも秀で、舞は人々を酔わせる。都督に任命され『心を通わすことができるのは君と魯粛だけだ』と孫権から絶大な信頼を得る。重臣たちが曹操への降伏を進める中、頑として開戦を勧め、『連環の計』『苦肉の計』などを駆使して形勢を逆転、見事に勝利へと導いた。惜しくも36歳で病死。三国志きっての美男子として知られ、「美周郎」と謳われたのが周瑜である。彼は音楽に精通、演奏者が音を間違えると必ず気づいたことから「曲に間違えあれば周郎顧みる」といわれた。
呉の小覇工・孫策とは同い年で、幼馴染だった2 人は「断金の交」( 鋼のように強固な関係) を結び、大喬・小喬姉妹をともに娶って義兄弟にもなっている。ともに戦国の世に現れ、江東各地を攻略したが、孫策は26歳の若さで死去。以後は彼の弟の孫権を助け、呉の発展に全力を尽くした。
また、曹操が孫権に人質を出すよう要求した際、重臣たちが動揺する中、ただ1人「不当な人質要求などはねつけよ」と主張。降伏論が多勢であったのに対して彼が「曹操討つべし」と叫び、孫権に「私か心を通わせるのは君と魯粛だけだ」といわしめた。かくして、曹操軍は83万の兵と数千隻の戦艦で押し寄せ、赤壁に布陣。
対する孫権・劉備連合軍の水軍はわずかに3 万であったが、大都督として軍を率いる周瑜は、諸葛亮の「火攻めの計」を採用。さらに腦統の「連環の計」、黄蓋の「苦肉の能力値計」などあらゆる計略を駆使して徐々に曹操軍に罠を張り巡らす。ついには黄蓋の偽装降伏を合図に、一夜にして曹操艦隊を壊滅させた。この赤壁の戦いは、三国志殼大の戦いであると同時に、周瑜一世一代の見せ場となった
つのる孔明への殺意
赤壁の戦いの前、曹操と戦うのか降参するのかで意見が分かれた孫権軍であったが、最後は都督・周瑜の一言で孫権も開戦を決意する。すると曹操側から、周瑜の旧友でもある蒋幹がやってきた。周瑜は、「蒋幹は降伏を説きつけに来鷺証違いない」と思うと、出迎えのときから「降伏でも勧めにきたか」といきなり牽制する。驚いて言葉を濁す蒋幹に、周瑜はわざと親しげに振舞い、「彼は私の旧友であり、北から来たが曹操の説客ではないから,これから曹操とか戦とかいう言葉を国にした者は切り捨てるぞ」と大将らに言って、同時に蒋幹の回も封じた。それだけでなく、周瑜は落幹を逆に利用し、曹操軍の水軍都督・察増と張允は孫権と内通していると勘違いさせ、結果的に察増と張允を曹操に斬らせることに成功した。
しかし周瑜は、この一連の策略を諸葛亮に見抜かれていたことで、彼はいまのうちに殺しておかなければ、後で自分たちにも害になると考えた。そこで周瑜は、諸葛亮に「3日で十万本の矢を用意しろ」という無理難題を押し付けて、その命令が守れなかったことを理由に、処刑しようと企んだ。ところが諸葛亮は、知恵を使って本当に十万本の矢を用意してきたので)、周瑜は「とても自分がかなう相手ではない」と感服せざるをえないのであった。
朱桓 しゅかん 休穆 きゅうぼく
生死年:178~239
出身地:呉郡呉県
役職:余姚県令→前将軍 所属:呉
呉の四大豪族(顧・陸・朱・張)の1人。県令として任地に赴くと、その地は疫病、飢饉に見舞われていた。そこで、有能な役人を選び、医薬品を手配し、炊き出しを幾度も行わせたので、官民とも喜んで彼の指示に従った。その後、孫権の側近として仕えたが、その技量を買われて将として抜擢され、その期待に応えて活躍を続ける。222年、魏が呉に三路の軍勢で攻め込んだとき、朱桓は濡須を守備していた。手持ちの兵は5千。曹仁率いる魏軍は何万もの軍勢。みな恐怖におののいていたが、「勝敗を決するは大将の手腕であり、兵の数ではない。魏軍は昼夜の行軍で疲れ果てている。だが我が軍は高い城壁に、南は大河、北は山岳を背にし、十分な休養を取った兵である。待受けるに適した地形の中で、遠方からやってきた者を防ぐものである。まさに百戦百勝の形勢である。」と教え諭した。城に軍旗も立てず、太鼓も鳴らさず、弱っているように見せかけて急襲し、曹仁を追い払った。この功により、朱桓は奮起将軍に任命された。武芸の達人よりも智謀の将として著名。その反面気位が高く、人の指示を拒否したり、思い通りにいかないと憤激したりする性格でもあったという。全ソウと言い合いになり、気が触れてしまったこともあったという。しかし、部下には非常に優しく、私財を投じてまで兵士たちの生活を第一に考えた慈将であった。また、記憶力も抜群で、直属の部下1万人の妻子の名前と顔を覚えていた。上層部には人気がなかったが、下からはとても慕われた名将である。
祝融夫人 しゅくゆうふじん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:孟獲夫人
所属:南蛮
実際は実在したかは定かではない人物で正史には登場しないが演義においては女性でありながら自ら馬に乗って蜀軍と戦うと言う、とても濃いキャラクターで南蛮王孟獲の妻として登場する。伝説の火の神、祝融氏の末裔にして飛刀の名人という設定。孔明の南征時に孟獲と共に戦うが何度も捕らえられるが逃げて良いと言う孔明の寛容さに心を打たれ孟獲と共に帰順する。
朱然 しゅぜん 義封 ぎほう 生死年:182~249 出身地:不明 役職:折衝校尉→昭武将軍→左大司馬 所属:呉 呉の名将。孫策の仲立ちで朱治の養子となった。孫権と机を並べて勉強した為、朱然、孫権両者の絆は深い。呂蒙に従って荊州を攻略。敗走する関羽を潘璋と協力して捕虜にした。劉備が仇討ちの為攻めてきた時は、孫桓に従い出陣。呉班の計略にはまるところだったが、崔禹の助言で助けられる。演義では、劉備が敗走するのを追う途中に趙雲に斬られた。正史ではそこでは死なず、陸遜亡き後も呉軍の重鎮として活躍。体は小さかったが、気さくで質素を好み規律正しい武人だった。病死した時は孫権自ら哭礼を行なうほど惜しまれた。
朱治 しゅち 君理 くんり
生死年:156~224
出身地:丹楊郡
役職:呉郡太守→安国将軍
所属:呉 孫堅・孫策・孫権と三代にわたって仕えた。孫堅の死後は孫策と共に袁術の下に身を寄せるが、孫策に「袁術から離れて江東を攻めよう」と提言する。孫策の死後も、良く孫権を守り立て共に戦った。彼が孫策に提言しなかったら、呉は出来なかったかもしれないですね。演義にはあまり登場しない。
荀いく じゅんいく 文若 ぶんじゃく
生死年:163~212
出身地:穎川郡穎陰県
役職:守宮令→侍中→光禄大扶
所属:袁紹→魏
字は文若、「王佐の才」と称されたほど類稀な才能を備えた人物である。
後漢末の名門の出で済南刺史の父、司空の叔父を持つ荀彧。彼は若い頃から将来を嘱望され、26歳にして宮廷の庶務官に任命されている。しかし、董卓が権力を握ってからは、彼の身勝手な朝政に嫌気がさして帰郷。その後、冀州にいた袁紹に客人として招かれたが、袁紹には大事業をなしとげられないと判断して、東郡にいた曹操の配下に入った。曹操の参謀となってからは数多くの奇策、妙策を進言し、中原制覇に尽力。また司馬懿や荀攸などの有能な人材の発掘に努め、王佐の才( 主君を支える才能) を遺憾なく発揮した。劉表への攻撃にあたっては、攻め滅ぼすのではなく降伏させることを進言。荊州を戦火に哂すことなく手に入れている。しかし、漢王朝の再興を目指す荀いくに対して、曹操は新王朝の樹立を目論んだのだった。曹操の魏公昇進に反対した荀いくは、空の器を贈られ、己の無用を悟り自殺したという。
二虎競食の計と駆虎呑狼の計
荀彧の勧めで素早い行動を取り、皇帝を擁して権力を握ることに成功した曹操は、手始めに徐州の劉備、呂布を片づけようと、参謀たちに策を問うた。すると荀咳が「まず劉備を勅命によって徐州の牧(総督)に任命し、呂布を討つ」命じましょう。そうすれば劉備と呂布が争い、どちらかが滅びて、我々は漁夫の利を得ることができます。これを『二虎競食の計』と言います」と言う。曹操はこれに同意し、すぐに実行に移した。しかし劉備のほうでは、「頼ってきた者(呂布は曹操に敗れて劉備のもとに身を寄せていた)を殺しては不義になる」と言って従わなかった。
ならば、と荀咳は次なる計を提案する。「まず袁術に使者を送って、劉備が攻めようとしていると言わせます。すると袁術は怒って劉備を攻めるでしょう。同時に劉備には袁術を討てとの勅命を与えます。そうすれば劉備も戦わないわけにはいかないはず。両者が戦っていると、呂布はきっと隙ありと見て、劉備を攻めるに違いありません」という「駆虎呑狼の計」に、曹操は喜び、すぐに実行させた。これが結果的に劉備、呂布の仲を割くことに繋がる。そして劉備は曹操を頼って落ち延びてきたのである。ちなみにこのとき、荀咳は「劉備を殺しておいたほうがいい」と勧めたが、曹操は「天下の人望を失うからやめたほうがいい」という郭嘉の意見を採った。劉備を殺すべきだったか否かは置いておいても、曹操が最も頼りとする2人の参謀の意見がここで食い違っていたことはなかなか興味深い。
淳于瓊 じゅんうけい 仲簡 ちゅうかん
生死年:?~200
出身地:穎川郡
役職:左軍校尉→都督
所属:後漢→袁紹
後漢の霊帝が設立した西園八校尉に中軍校尉の袁紹、典軍校尉の曹操と並んで佐軍校尉となったが、後漢末の混乱で西園軍が自然消滅してしまう。その後袁紹に仕え配下の武将となる。曹操と袁紹の天下分け目である官渡の戦いでは袁紹軍は曹操軍より兵力・物量ともに圧倒的に優位であったが、序盤戦の戦いで顔良・文醜という猛将を失なった。さらに淳于瓊が1万の軍を率いて烏巣の軍糧貯蔵地を守備していたが、曹操軍の奇襲にあって兵糧をすべて焼き払われてしまった。袁紹軍の最大の食料庫であったのだ。このことが袁紹軍の敗北の原因となり、曹操軍に殺された。
荀攸 じゅんゆう 公達 こうたつ
生死年:157~214
出身地:不明
役職:黄門待郎→尚書令
所属:魏
荀いくの甥にあたるが、六歳年上。董卓暗殺を計画して投獄されていたが、荀いくの推挙で曹操に仕官した。外見は愚純に見えたが内に英知を秘め、曹操は彼を『外柔内剛の勇士』と褒め称えた。演義では、魏王に昇ろうとする曹操を諌め、『荀いくの二の舞になりたいか!』と一喝され、憤死したが、正史によると、47歳、孫権征伐の折に病死している。裴松之は彼を『夜光珠』と評している。小さな頃から只者ではなかったようで、こんなエピソードも残っている。…七歳の頃、酒に酔った叔父が誤って彼の右耳を傷つけてしまった。だが、彼は叔父の前でその右耳を隠していたため、ずっと後になるまで叔父はそのことを知らなかった。幼い子どもにそんな風に気遣われ、叔父はちょっとショックを受けたが、同時に彼に期待をかけるようになったという。
袁紹との官渡の戦いでは、二手から攻めると見せ掛け、敵が兵を分けたところを一気に攻めるという妙策で勝利に導いた。外見は柔和ながら、人並みはずれた英知を内に秘めた荀攸を、曹操は「外柔内剛の勇士」と褒め讃えている。しかし214年、曹操が魏王に即こうとするのを「天子の一門が即くべき地位に即いては名分がただない」と諌めたところ、「荀彧の二の舞になりたいのか! 」と一喝され、怒りのあまり憤死している。
魏の重臣という要職にありながら、驕ることのない人柄だったため、交遊も広かった。彼の死
後、その遺児の面倒を彼の友人が見たこというエピソードからもそれが窺える。
鐘会 しょうかい 士季 しき
生死年:225~264
出身地:穎川郡長社県
役職:秘書郎→使徒
所属:魏
魏の太傅にして、「蕭何のようだ」と曹操に言わせた鐘ヨウの末子。幼い頃から神童ぶりを発揮し、周りの大人からは将来を有望視されていた。出仕するようになると秘書郎に任じられ、その後尚書中郎将に昇進する。廃帝曹髦が帝位する頃には関内候になる。討伐戦には司馬師の配下で作戦本部の謀士として参加し活躍。司馬師の死後も、司馬昭の政権下で同様の地位を務める毋丘倹・諸葛誕などの討伐で参謀をつとめ、次第に司馬昭などから信頼をうけ張良(前漢の謀臣・劉邦の先生)のようだともてはやされた。蜀攻めの計画を司馬昭とともに計画し、263年秋に討伐の命をうける。侵攻は鍾会の軍と、トウ艾の軍の二方から進む事になるが、途中鍾会の軍は姜維率いる蜀軍と遭遇し激しい抵抗に合って、蜀入りをトウ艾の軍に先を越されてしまい、劉禅降伏の功を逃すことに。その頃からトウ艾とはあまりそりが合わなかった。次第に鍾会は自立の野心を抱くようになり、姜維と組んで独立を計画。手始めに邪魔なトウ艾を「反逆の疑いがある」と密奏して捕える。その後征伐時の自軍と姜維の元蜀軍で都に攻め入ろうしたが、司馬昭はそれを見ぬいていて事前に軍を出していた。焦った鍾会は急いで成都に戻るが部下に裏切られ姜維と共に殺される。
司馬昭にとっての張良
257年、鍾会は、司馬昭の権力独占に怒って反吼を起こした諸葛誕を討伐するための参謀として司馬昭に呼ばれる。この反乱には呉軍も援軍を送って協力しているという情報を聞き、鍾会は「呉が諸葛誕を助けるのは利欲に駆られての行動。こちらも利欲で誘いましょう」と言って、戦の最中に因営員品を投げ捨てる作戦で、呉の兵の戦う気を逸らして打ち破った。
以降、諸葛誕は城内に立て篭もったが、これを攻めるのにも鍾会は一計を授ける。「いま我が軍が城を四方から囲んで攻めれば、敵は逃げ場がなく、死にものぐるいで戦うので簡単に破れず、もしその間に呉軍との挟撃に遭ったりしては危険です。それよりも三方から攻めて南門の広い道だけ開けておき、逃げられるようにしておきましょう。逃げるところを叩けば簡単に打ち破れます」。
司馬昭は喜んで、鍾会の背中をなでながら、「おまえはわしにとっての張良(漢の創始者・劉邦の名参謀)じゃ」と言った。たまたま淮水が氾濫して洪水となったため、この計はうまく機能しなかったが、そのうち、水も退いて、呉軍も撤退したので、司馬昭の軍は再び城を囲む。やがて城内の食糧が尽き、降参する者も多く出て、諸葛誕は胡奮に斬もれ、反乱は鎮圧されたのである。この戦で司馬昭から大きな信頼を得た鍾会は、魏の最後の名将として頭角を現し、だんだんと力を持っていく。
蒋欽 しょうきん 公奕 こうえき
生死年:?~?
出身地:九江郡下蔡県
役職:別部司馬→盪冠将軍→右将軍
所属:呉
孫策が父を失い袁術の下に身を寄せている時に周泰と共に出会い配下となっている。数々の軍功をあげ合肥の戦いでは危機にあった孫権を救っている。自制心の強い公平な性格で自分の配下を処罰した人物でも、能力が高ければ、公私混同をせずに孫権に推挙している。晩年は学問を好み、親交の深かった呂蒙と共に学問に励んだ。219年の荊州の関羽討伐時に水軍を率い活躍するがその帰りに病気で死亡する。
向秀 しょうしゅう 子期 しき
生死年:227?~272
老荘を特に好み「荘子」に注釈をくわえた人物。
向寵 しょうちょう
生死年:?~240
出身地:不明
役職:牙門将→中部督
所属:蜀
蜀の牙門将軍。演義においてはほとんど登場しないが、諸葛亮の有名な「出師の表」でその名がクローズアップされる。「軍中のことは、事の大小と無くことごとく彼に諮問してください」絶賛されて、蜀漢の北伐時に留守部隊として成都の守備を任される。劉備が大敗を喫した夷陵の戦でも彼の陣だけ無傷だった。ただ、この向寵については、正史でも演義でもほとんど記述が無く、謎が多いのもまた事実。三国志正史の蜀記・馬良伝の馬謖の章でわずかに「向朗の甥である」とだけの記述があり、文官だったのではないかという説もある。
少帝 しょうてい
生死年:176~190
出身地:洛陽
役職:第十三代皇帝→弘濃王
所属:後漢
本名:劉弁。
霊帝死後、霊帝の後妻・何太后は兄・何進と画策して自分の子・劉弁(少帝)を後継ぎにした。しかし、何進が十常侍に暗殺され、その十常侍をエン紹らが討伐に乗り出すと、十常侍の張譲らは少帝と陳留王(後の献帝)を宮殿外へ連れ出した。その後、十常侍が殺されると、陳留王と共に農家で潜伏。後漢の武将・ビン貢に救われ、九死に一生を得た。しかし、董卓が洛陽の都に入り、権力を得ると、少帝は廃されて陳留王が帝に立てられた。少帝は弘農王に格下げされ、やがて何太后ともども毒殺された。霊帝の悪政が漢王朝を滅ぼし、息子の少帝や献帝の悲惨な末路につながるのであった。少帝は献帝と同じく、権力争いの道具として使われた、悲劇の皇帝であった。
鍾ヨウ しょうよう 元常 げんじょう
生死年:151~230
出身地:穎川郡長社県
役職:尚書郎→前軍師→太尉→太ふ
所属:後漢→魏
後の魏の重要人物「鍾会の父」。子供の頃、叔父の鍾瑜.に大事に育てられ特に学問に専念していたやがて学問などで頭角を現すと考廉に推挙され延尉正・黄門侍郎になった。その後、都が混乱し李かくや郭しなどが支配しだすと献帝が長安から脱出するのに暗躍し尚書僕射に昇進する。官渡の戦いでは曹操陣営で軍事物資が足らない中、馬2000頭を補給し曹操に「漢の蕭何のようだ」と言わしめた。(蕭何=項羽と劉邦の時代で劉邦の腹心で政治や軍事物資などの補給でおおいにたすけた大人物)魏が建国されると相国に任じられたが推挙した人物が謀反を企てたことから責任をとって免職している。曹丕が王位につくと復活し大理となった。その後も順調に出世し明帝(曹叡)の時代には太傅にまで昇りつめ、亡くなった後は成候と諡されている。
諸葛恪 しょかつかく 元遜 げんそん
生死年:203~253
出身地:不明
役職:騎都尉→大将軍
所属:呉
諸葛謹の長男で、諸葛亮の甥。若いころから才能に優れ機知に富み、陸遜死後は大将軍として魏の侵攻を防ぐ。孫権死後後事を託され、孫亮を補佐する。しかし魏への攻撃が失敗に終わり、人が変わったように勝手に政治をする。呉帝孫亮、孫峻にうらまれ、最後は酒宴の席で、だまし討ちに合い死んだ。
諸葛謹 しょかつきん 子ゆ しゆ
生死年:174~241
出身地:瑯邪国陽都県
役職:長史→大将軍
所属:呉
諸葛瑾は、あの蜀の諸葛亮孔明の実兄。戦乱をさけて、弟などとともに江東に移住した際に孫権に仕えるようになった。どうしても、偉大な弟と比較されてしまい、影が薄くなってしまいがちだが、諸葛瑾も優秀な人物であったという。弟が蜀に仕えていたために孫権など、呉の武将からは疑うような目で見られていたときもあったが、彼が取った誠実な態度などを見ているうちに、孫権も諸葛瑾に絶大なる信頼を置くようになったというほどの人格者だった。
諸葛瞻 しょかつせん 思遠 しえん
生死年:227~263
出身地:不明
役職:騎都尉→平尚書事
所属:蜀 孔明はなかなか子供に恵まれず、呉に仕えていた兄・諸葛謹の子を養子にしていた。その後、瞻が生まれたが、養子が病没したため、家督は実子の瞻が継いだ。才能は父・諸葛亮に及ばなかったが、誠実な性格で、劉禅の娘を妻に迎え、蜀皇帝の外戚として重きをなしていた。魏のトウ艾の軍勢が蜀に侵攻してきた際、ゲキ正の推挙で全軍を率いるが、情勢を好転させる策があるわけではなく、玉砕覚悟で報国の誠を尽くすべく出撃した。綿竹の戦いで、トウ艾に破れ、篭城していた時、トウ艾の書状が送られてきた。「おとなしく降伏すれば、コウ邪王(位)に封じるように朝廷に上奏いたそう」という内容であった。この時、諸葛瞻は意志がぐらつくが、息子の諸葛尚が「命を惜しんで、名を汚してはなりませぬ」と諌められ気を取り直し、城外へ討って出た。奮戦するも、戦死した。蜀の滅亡に際し、孔明の名を辱めぬ働きをし、最後を飾った武将であろう。
諸葛誕 しょかつたん 公休 こうきゅう
生死年:?~258
出身地:瑯邪国陽都県
役職:尚書郎→驃騎将軍・青州牧・寿春候
所属:魏→呉
諸葛豊の子孫で、諸葛孔明の血縁にあたる。若い時から魏に仕えて昇進をかさねた。朝廷において名声を集め、人民にも人気が高かったが、時の皇帝・曹叡に嫌われ無実の罪で免職に追いやられてしまう。だが曹叡の死後は再び登用される。反乱鎮圧の命で各地に派遣され、手柄を重ね出世するが、周りの人間が多く殺され、このままでは自分の立場も危ないと思い恐怖を感じるようなり、ついにはその恐怖心から呉を巻き込んで反乱をおこしてしまう。呉も援軍を送り魏軍と戦うが、敗戦を重ねた上、最後は腹をたてた呉軍の将に殺されてしまう。
諸葛亮 しょかつりょう 孔明 こうめい
英読 Chu-koLiang
生死年:181~234
出身地:瑯邪郡陽都県 役職:軍師中郎将→軍師将軍→丞相
所属:蜀
父親の諸葛珪は彼の幼い頃に亡くなっており、叔父の諸葛玄に伴われて荊州へ移った。叔父の死後、諸葛亮は農耕生活を営んでいた。臥竜岡( 諸葛亮が臥龍と評されたためこのように言われた) と呼ばれる草廬( 小さな住居)で晴耕雨読しながら、天下の動向を見守る十年間を過ごした。
その間、彼は司馬徽や黄承彦などの知識人と交わり、徐庶や朧統などの学友を得て、物事の大略を見極める才覚を磨いた。
そのうちに徐庶の勧めもあり、劉備が諸葛亮を軍師に迎えるべく草廬を訪れた。最初は断るつもりの諸葛亮だったが、無名の自分を迎えるために、3度足を運んだ劉備の姿に心打たれ、「三顧の礼」に応えて出仕する。
そして諸葛亮は、荊州を足掛かりに益州を併合して、曹操、孫権と天下を三分することを提案。その上で孫権と手を結んで曹操を討てば、孫権はおのずと劉備に降るだろうという「天下三分の計」を説いた。劉備はこれを聞いて彼の見識に惚れ込み、以後「水魚の交わり」をもって彼に接した。彼はしばしば自分を管仲や楽毅になぞらえていたが、その通り、帝位についた劉備により丞相に任じられ、蜀の国政を担うようになった。劉備からの信頼は厚く、遺言で子の劉禅が補佐するに足りない人物であったら代わりに国を取れとまで言われた。忠義に厚い諸葛亮はあくまで無能な劉禅を補佐しつづけた。南方の異民族を平定すると、劉備の遺業達成を掲げ、幾度も北伐を敢行した。しかし、過労がたたり五丈原で魏の司馬懿と対峙したまま陣中で病没した。抜群の政治手腕により、蜀の国力は増し民衆の支持を得た。また賞罰は公正さを重視しており、日頃彼が目をかけていた馬謖が命令無視により大敗を喫したためやむなく処刑したことは、泣いて馬謖を斬るの故事で有名である。演義では卓越した軍略家として描かれており、赤壁の戦いで呉の周瑜と知恵比べをしている。
「三顧の礼」と「水魚の交わり」
三顧の礼をもって劉備に迎えられ、出慮を決意した諸葛亮。彼が傘下に加わってからというもの、劉備は毎日のように彼と話し込んでいたので、関羽や張飛からするとこれが面白くない。この時点ではまだ才能を示す機会がなかった諸葛亮は、関羽と張飛の両人からはよく思われていなかった。「見上はあいつを高く評価しすぎではないか」と2人がなじると、劉備は、「自分にとって諸葛亮が来てくれたのは、魚が水を得たようなものなのだ」と言ってなだめた。
それ以来、諸葛亮は張飛から「水」と言ってからかわれるようになる。曹操が夏侯惇を都督として新野に攻め込んできた一大事にも、「水を差し向けてみたらいいじゃないか」と張飛。そんな調子なので諸葛亮としては、攻め込んできた軍勢のことよりも、2人がちゃんと指図を聞いてくれるのかが心配で、劉備から剣と印を借りる。そして諸葛亮が、関羽、張飛のほか関平、劉封、趙雲らにもそれぞれ指示を出すと、武将らはみな半信半疑の面持ちで出陣していったが、いざ始まってみると、戦は完璧に諸葛亮の読み筋通り。出した指示はどれも的確で、劉備軍は圧勝となった。こうして諸葛亮は、武将たちから力を認められる存在になったのである。
徐晃 じょこう 公明 こうめい
生死年:?~227
出身地:河東郡楊県
役職:騎都尉→平冠将軍→陽平候
所属:楊奉→魏
初めは車騎将軍・楊奉に従っていた。献帝を洛陽に逃がすよう進言したのは徐晃である。曹操軍の豪傑・許楮と互角に戦ったことで曹操に惚れ込まれた。曹操幕下の満寵と顔見知りで、彼に「良禽は木を択んで住むのと同様に、賢臣は主を択んで仕えるものだ」と説得された。徐晃はそれに応じ、曹操配下の将に。袁紹との戦いでは、彼の部将を説得して投降させたり、馬超討伐の時は、先立って黄河を渡り梁興の夜襲を撃退し、曹操を無事に渡河させたりした。中でも樊城を包囲していた関羽を破った功績は大きい。219年に関羽が樊城を包囲した際には、援軍として参戦し、曹仁とともに蜀を大勝利に導陣営を攻撃。平南将軍に任命された。その際、慰労の宴会が行なわれた
が、徐晃の部下はその最中も職務を怠らなかったため、曹操はその様子に大変感心したという。曹
操の死後も魏に仕え、高齢ながらも軍を指揮し続けた。明帝の時代まで活躍しつづけた。彼は曹操という主を得たことを非常に誇りに思っていた。そのため、自分の名誉よりもまず主君の偉業に貢献できることを第一としていた。非常に慎重な性格で、不敗の状況だと判断するまで決して戦いを挑まなかったという。彼の功績はこの慎重さがもたらしたものなのかもしれない。張遼、張コウらと共に「魏の五大将」と称された。もともと楊奉に仕えていたが、友人の満寵の説得により曹操のもとへ降った。常に慎重、冷静沈着かつ勇猛で曹操の信頼も非常に厚かった。また兵士の教育においても一流で、徐晃の軍の兵士たちはみな徐晃を慕っていたという。武器は彼のトレードマークとも言える斧矛であった。がしかし、常に個人の利益ではなく主君曹操に対し手柄を立てることを第一義として生きてきた猛将の最期はあっけなく、西暦227年、静かに病没している。
徐庶 じょしょ 元直 げんちょく
生死年:?~?
出身地:穎川郡
役職:右中郎将→御史中丞
所属:蜀→魏
義に厚い男で、若い頃は学問よりも剣術を好んだ。ある日友人のために人を斬り、逃亡の身となる。以後は“単福”を名を変え、学問を志した。司馬徽の助言で劉備と知り合い、『この馬は凶馬・的廬といい、乗る者に災いを及ぼします、敵に与えて厄を落としてからお乗り下さい。』と進言したが、劉備は『人を陥れるような事を勧める者は要らぬ!』と一喝され、その仁徳に感服し、心から仕えようと決めた。武芸に優れ、義侠心に厚い徐庶は友人の仇討ちを引き受けたが、役人に捕らわれてしまう。その頃から学問の道に励み始めている。荊州に移住して司馬徽の門下生となった後、劉備に仕えた。
その軍略は諸葛亮や腦統に劣らず、5千の曹仁軍を2千の兵で撃退。さらにその報復に編成された2 万5 千もの軍隊を、陣の弱点を突き壊滅させ、劉備を驚かせたという。
その才能を知った曹操は劉備に嫉妬。謀臣・程旻の進言に従い、徐庶の母親を人質にし、彼を帰順させようと偽手紙を送る。それを知った徐庶は諸葛亮を後任に推薦し泣いて劉備と別れるが、徐庶の母親は「明君劉備を捨てて逆臣につくとは」と息子の行為を恥じて自害してしまった。
自らが騙されたことを知り悲嘆にくれるも、すでに遅く、義を大事にするなればこそ、魏を去ることはしなかった。その一方で劉備への恩義も忘れず、結局彼は曹操に」計も献じることはなかったという
劉備の軍師に
仕えるべき主君を探していた徐庶は、新野城の街中で歌を歌って劉備の気を引くことに成功する。話をしてみると、劉備は噂通りの仁義を備えた人物だということがわかったので、彼に仕えることにし、劉備も徐庶を軍師として迎えた。
ちょうどその頃、曹操が焚城を拠点にし、呂噴、呂翔に5千の兵を率いさせて新野に攻めてきたため,劉備は徐庶に相談する。徐庶は、「関翔葬佐から出て敵軍の中ほどを攻め、張飛は右から敵軍の後尾を攻め、劉備どのは趙雲とともに敵軍に正面から当たると良いでしょう」と言ったが、その通りにすると本当にたやすく打ち破ることができた。続いて曹仁と李典が笑城の2万5千の兵を全軍率いてやってきたが、徐庶はこれもすべて予言していた。諸将に指示を言い渡すと、自分は劉備、趙雲とともに曹仁を迎え撃つ。徐庶は曹仁の陣形を見て、「これは『八門金鎖の陣』と言いまして、東南の角の生門から攻め入り、真西の景門へ抜ければ崩すことができます」と劉備に解説する。そして簡単に打ち破った。されにその晩の夜襲も読み通りであり、趙雲と張飛が返り討ちにしたので、曹仁軍は惨敗して焚城へと退却していった。が、すでに焚城は関羽が占領。徐庶は完壁な朱配を見せたのである。
徐盛 じょせい 文嚮 ぶんきょう
生死年:?~?
出身地:瑯邪郡
役職:別部司馬→安東将軍
所属:呉 孫権が孫策の跡を継いだ時期に配下となった。
責任感の強い男だったことを示す、こんな逸話がある。221年、蜀の劉備が呉への進軍を準備した始めた頃のこと。
孫権は蜀との戦いに集中するため、魏に臣従を申し入れた。これを知った徐盛は「我々が不甲斐ないため、主君に恥をかかせてしまった」といって涙を流したという。柴桑に劉表の配下が数千の兵を引き連れて攻めてきた所を、徐盛はわずか200人の兵で破り守った。その功により昇進し、孫権も信頼をよせるようになる。その後数々の戦場にて、同軍の将達が恐れて攻めあぐねている時も、勇敢に戦いを挑み功を上げた。孫権が孫策の後を継ぎ、人材を集めた時に用いられた。周瑜の指揮の下、赤壁の戦い・南郡の戦いで勝利に貢献したが、荊州を襲撃した時惨敗した。周瑜死後、合肥の張遼を攻めたが破れ、濡須の戦いでは李典と戦い、重傷を負う。しかし曹操の後を継いだ曹丕が大軍で呉に攻めて来た時、徐盛は安東将軍として軍を指揮して迎え討つ。長江の南岸にハリボテの城壁や武器、軍旗を持たせた藁人形を大量に配置させたりし、本物の大軍のように見せかけ、曹丕軍を追い払った。このときの徐盛は知勇兼ね備えた将に成長を遂げていた。その後も大都督・陸遜に付き従い、先鋒として魏の曹休の軍を打ち破った。この一戦で魏の兵数万が投降。また多くの戦利品を奪い孫権を喜ばせたが、戦いの後間もなく病死した。孫権は徐盛の死を大いに悲しんだという。
審配 しんぱい 正南 せいなん
生死年:?~204
出身地:魏郡
役職:治中別駕
所属:袁紹
袁紹の幕僚。軍監として袁紹に仕えていた。しかし、深謀遠慮に欠けるところが目立ち、独断専行型の人物であった。官渡の戦いでは、早期決戦を唱え、軍の総指揮をとった。しかし、審配の戦術は曹軍参謀の劉ヨウに全て見破られていたため、ことごとく打ち破られ、大敗に終わった。袁紹没後は、袁尚の参謀として曹軍と何度か対決したが、捕らわれ、降伏を拒否して斬首された。
辛評 しんひょう 仲治 ちゅうじ
生死年:?~204
出身地:穎川郡
役職:不明
所属:袁紹 辛ピの兄。韓フクの配下であったが、袁紹が冀州を占領すると袁紹に帰順した。官渡の戦いでは、郭図らと早期決戦を主張した。官渡の大敗で袁紹が病死した後、袁譚を助けて袁尚と戦う。建安10年(205年)曹操が袁譚を攻めたとき降伏の使者に立った。降伏は許されなかったが、曹操に配下になるように勧められた。しかし辛評は「二君に仕えるつもりはない」と断固拒否し、陣営に帰ったが、袁譚は辛評が曹操に配下になるよう勧められたと密偵から聞いていたため、二心を疑う。二心を疑われた辛評は憤激のあまり卒倒死した。忠義を守り通したが、主君に疑われた袁れな人物であろう。
薜綜 せっそう 敬文 けいぶん
生死年:?~243
出身地:沛郡
役職:五官中郎将→太子少傳 所属:呉
年少の頃、戦火を逃れ交州(荊州の下)に疎開していた時、孫権に見出され召抱えられた。その後、呉の交州平定に貢献。演義では赤壁の戦いの際に、同盟を結ぼうとする蜀からの使者として来た諸葛孔明に、舌戦で挑み見事に負ける役で登場する。
曹叡 そうえい 巨高 きょこう
生死年:?~193?
出身地:沛国県[言焦]県
役職:司隷校尉→大司農→・大鴻臚→大尉
所属:魏
文帝曹丕の跡を継いだ魏の二代目皇帝(明帝)。実母の夫人は郭貴妃に謀られて曹丕に殺された。その為狩りの時、曹丕により親鹿を失った子鹿を見て、射ることなど出来ないと訴えた。曹丕に親を殺された自分を重ねたのだろうか。帝位に就くと司馬懿を重用。一度は蜀の馬謖の策で司馬懿から兵権を取り上げるが、諸葛亮に対抗する為に復帰させ、以後全権を任せた。しかし諸葛亮の死を境に曹叡の暮らしは乱れ始める。宮殿造営など大規模な土木工事を行い、天下の美女を集め郭夫人を寵愛。そして皮肉を口にした毛皇后を、父の行為を繰り返すかの様に殺す。その後司馬懿に後事を託し、わずか39歳の若さでこの世を去った。諸葛亮の北伐に臨む曹叡の姿勢は毅然としており、判断も理にかなっていた。だが晩年には愚かな君主の典型となってしまう。何が彼をそうさせたのだろう。
曹休 そうきゅう 文列 しれん
生死年:?~228
出身地:不明
役職:騎都尉→中領軍→大司馬
所属:魏
字は文烈。曹操の甥にあたり、大司馬の役職に就いている。呉との対戦では、周鮑の偽りの降伏を信じ、周囲の反対を押し切り追撃、伏兵に遭って大敗した。部下の意見をいれずに猛進するタイプで、これといった功績はないが、曹叡の信頼が厚かった。曹叡が即位すると以前よりも厚遇されたが、かえってそれを苦にし、病死してしまった。
宗謙 そうけん
生死年:?~?
出身地:ふめい
役職:将軍
所属:呉
曹昂 そうこう 子修 ししゅう
生死年:?~197
出身地:沛国県[言焦]県
役職:不明
所属:魏
曹操と劉氏の間に生まれたが、母親が早世したため、丁氏に育てられる。字の名は子脩。父に付き従い、初陣は張繍征伐。だが、一端降伏した張繍の裏切りにより窮地に貶められ、退却の際に、馬を射られた曹操に自分の馬を差し出し討ち死。後継ぎに、と期待されていたようだが、曹操の女好きのおかげで思わぬ不幸を蒙ったことになるのか…。
曹洪 そうこう 子廉 しれん
生死年:?~232
出身地:沛国県[言焦]県
役職:県令→鷹場校尉→驃騎将軍
所属:魏
字は子廉。黄巾征伐より従軍。董卓との戦いに敗れたときは、曹操を担いで徐栄の軍から守り抜く。短気で、対馬超では十日辛抱を九日目で罵声に我慢できなくなり大敗。曹操は斬ろうとしたが周囲の取り成しで許される。その直後、危機一髪、馬超の手から救出。『子廉なければ我が命もまたなし』と曹操は複雑な気分だった。後年、文帝に恨まれ投獄され、いつの間に釈放されたのか、献帝から玉璽を奪うところに登場。その後、物語から姿を消した。
曹純 そうじゅん 子和 しわ・しか
生死年:?~210
出身地:不明
役職:議郎→高陵亭候
所属:魏
曹仁の弟で曹操とは従兄弟にあたる。南皮包囲網戦に参戦し、袁譚を討ち取る等の功績を上げる(演技では曹洪と言う事になっています)。長坂の戦いでは劉備を追撃し、2人の娘を捕らえ、江陵を降伏させる。死去の後、威候と謚されている。演義ではけっこうヤラレ役で、曹仁との南郡防衛時にも周瑜と趙雲にあっけなく城を取られている。
曹彰 そうしょう 子文 しぶん
生死年:?~223
出身地:沛国県[言焦]県
役職:北中郎将・驍騎将軍→任城王
所属:魏
曹操の次男。父の武勇面を引き継いだようで、腕力が強く、若い頃は武芸に夢中、素手で虎を倒すほどだったという。行驍騎将軍に任じられていたが、父・曹操死後、十万の兵を率いて長安へ来た。しかし賈逵に説得されて曹丕と面会。そのまま引き下がり任地へ戻った。だが、この行動をきっかけに曹丕は強い疑念を抱くようになり、迫害を受けた。223年病死している。
曹植 そうしょく 子建 しけん
生死年:192~232
出身地:沛国県[言焦]県
役職:平原候→安郷候→陳思王 所属:魏
曹操の三男で、兄弟のうち最も詩文的才能に優れる。だが、皇位継承者の候補に挙げられたことで兄、曹丕に睨まれ、次々と重なる左遷など、冷遇され続け、41歳の若さで病死。あるときは、七歩の間に詩を詠めと命じられ、兄弟を題とし、兄のつれなさを見事な詩に歌ったのは有名なエピソード。その袁しさには曹丕も思わず涙したという。
曹真 そうしん 子丹 したん
生死年:?~231
出身地:不明
役職:偏将軍→鎮西将軍→大司馬
所属:魏
演義ではいつも負けている役にされて情け無い武将というイメージを持たれる方も多いかもしれませんが正史では勇猛果敢で数々の軍功を上げていると正反対に記されている。漢中争奪戦では劉備を2度も破り、街亭では馬謖を破り、陳倉では諸葛亮も破っている。曹真は誠実かつ清廉な人物であったようで部下に対しては常に苦労を共にしていた、政府からの恩賞が少ない時は自分の財産を部下に分け与えていた事もあり将兵からの支持は絶大であった。蜀征伐時に病気にかかり帰還後まもなく死去している。もともとの姓は秦で父が曹操の身代わりになって殺された為、曹姓を賜ったらしく曹操との血のつながりない
曹仁 そうじん 子孝(しこう
生死年:168~223
出身地:沛国県[言焦]県
役職:校尉→大将軍→大司馬 所属:魏
字は子孝。曹操が黄巾征伐に挙兵したときから従軍。
夏侯惇や夏侯淵だちと同様、曹操の従弟にあたり、曹操が挙兵した当初から従軍した人物。若い
頃から弓術や馬術の名手と賞され、狩猟を趣味としていた。親族の中でも腕っぷしが強く、荒くれ
者だった曹操とは、幼い頃から仲がよかったという。曹操が故郷で挙兵すると、千人余の兵を従わせて参陣した。曹操が徐州に侵攻した際には、騎兵を率いて軍の先鋒として活躍。その後、陶謙や呂布との戰いでも騎兵隊の指揮や、別働隊として数々の成果を出したりと、大きな功績を挙げている。曹操が張繍の夜襲に見舞われた時には、別働隊として近隣の県を攻略していたところから援護に急行。負け戦で意気消沈していた兵たちを指揮して、獅子奮迅の働きで戦況を挽回した。関羽に包囲され、水攻めにされたときは樊城にこもり、徐晃の援軍が来るまで守り抜いた。部下の牛金が単騎包囲されたときは、ただ一人救出に向かい、信頼も厚かった。若い頃は勇猛な突撃タイプで法を破る無法者だったが、後年は重厚な司令官へ。曹丕はよく弟を『曹仁将軍のようになれ』とたしなめていたという。
曹嵩 そうすう 巨高 きょこう
生死年:?~193?
出身地:沛国県[言焦]県
役職:司隷校尉→大司農→大尉
所属:後漢
曹操の父親で、宦官の曹騰の養子になった人物、旧姓は“夏侯”。早くから聡明ぶりを見抜いていたのか、たくさんの子の中でも特に曹操を可愛がり、放蕩ぶりも大目に、『この子は鳳眼だ、きっと大物になるに違いない』と言っていたという。曹操が黄布討伐のために挙兵した際も、二代にわたって築いた財産を全て兵糧に費やしてやった。息子はとんとん拍子に出世し、彼を本拠へ呼び寄せた。だが、かねてから曹操とよしみを持とうとしていた陶兼の兵に護衛され、許昌へ向かう途中、山賊に襲われる。曹嵩は妾の1人と逃げようとしたが、厠の塀を越えようとすると、その妾が太りすぎていて登れない。どうしようかとうろうろしているうちについには斬り殺されてしまった。
曹操 そうそう 孟徳もうとく
生死年:155~220
出身地:沛国県[言焦]県
所属:後漢→劉岱→君主(魏) 沛国ショウ県の出身で、霊帝に仕える宦官曹騰の孫に当たる。当時、宦官は世間から軽蔑されていた。その孫というのだから、社会の圧力もあり、なかなか表舞台に立つことは難しい。加えて、背が低いというのも彼のコンプレックス。だが、それをバネとし、武術・舞踊・音曲・兵法など、様々な分野で類まれな才能を発揮。ついには改革的な政治に、人々は始皇帝の再来と噂し恐れるようになった。許子将が『治世の能臣、乱世の姦雄』と評価したのはあまりにも有名で、才能ある者は身分にかまわず登用し、人を見抜くことにかけては誰にも負けなかった。演義では悪役として描かれているが、劉備は血筋を武器とし、孫権には受け継いだ領地と兵があった。まったく無の状態からスタートを切った曹操は中華の統一とまではいかなかったものの、たった5千の挙兵から、群雄割拠の時代を生き抜き、天下の3分の1を手にした。彼の実際的な政治能力の高さがうかがえる。また、幼い頃からウソが上手く、彼の墓は六十近くの偽物が作られ、一向に謎に包まれているという。彼は詩人として有能な人物で、「短歌行」「苦寒行」など多数の優れた詩を残しいる。
宦官( 後宮に仕える去勢した男性) の家に生まれた曹操は、20歳で考廉( 登用試験の一種) に
推挙されてから、後漢王朝下で要職を歴任。黄巾の乱の鎮圧でも大活躍し、将来を嘱望される存在となっていた。
189年、董卓が洛陽を制圧すると、袁紹らとともに連合軍を結成し、反董卓の狼煙をあげた。だが、しだいに連合軍は腰砕けとなり空中分解。これを機に世は群雄割拠の乱世に突入、曹操も天下を狙う1人となった。
その後、克州に地盤を築いた曹操は、群雄らを破り勢力を拡大。特に、本拠地の許に漢の献帝を擁し、彼を大義名分に権勢をふるうことで揺るぎない地位を確立した。
200年、河北で勢力を誇る袁紹と官渡で激突。
袁紹軍70万に対して、曹操軍は7万。数の上では圧倒的に不利であったが、曹操は奇策を弄する。
袁紹軍の物資や倉庫のある鳥巣( 地名) を自ら襲撃して焼き払い、慌てた袁紹軍に総攻撃を仕掛けて逆転勝利を収めたのだ。中原を制圧した曹操は、群雄の中でも最大勢力にのしあがる。
208年、自ら天統一を果たすべく南征の軍をおこすが、赤壁で劉備・孫権の連合軍に遭遇周瑜の仕掛けた焼き討ちの計に大敗を喫し、ひとまず天下統一を諦めることとなった。
乱世の奸雄現る
曹操は若い頃、定職にも就かず、狩りや歌舞が好きでよく遊びまわっていた。見かねた叔父が曹操の父親にそのことをたびたび忠告していたので、曹操は叔父のことを厄介に思っていた。ある日、道でばったり叔父に出会った曹操は、わざと顔を歪め、口をねじ曲げて見せる(『三国志演義』ではてんかんのふり)。叔父がどうしたのかと尋ねると、曹操は「急に顔面麻痺症にかかってしまいました」と言うので、叔父はそれを父親に知らせた。驚いた父親が曹操を呼んでみると、彼はケロリとした顔で「顔面麻痺になんかなっていません。それはきっと叔父さんが私のことを嫌っているから、そんな悪口を言いふらしているのでしょう」と言い放った。以降、曹操の父親は叔父が何を言ってきても信じなくなり、曹操はますます好き勝手に遊び果けることができたのである。こういった悪知恵は曹操の真骨頂でもある。
そんな、遊びに夢中の曹操であったので、世間では彼を評価す多秋網籠ほとんどいなかったが、人物鑑定の名士の幾人かは彼の才能に注目した。橋玄は曹操に、「わしは多くの名士に会ったが、君のような人間は初めてだ。もうすぐ訪れる乱世を鎮めるのは君かもしれない」と言い、何願は「漢の皇室が滅び、天下をまとめるのは必ずやこの人だ」と言った。人物鑑定家として特に名高い許勧は、「治世の能臣、乱世の奸雄(悪知恵に長け、国を奪いかねない英雄)」と評した
曹爽 そうそう 昭伯 しょうはく
生死年:?~249
出身地:不明
役職:武衛将軍→大将軍
所属:魏
曹真の子で明帝には若い頃から可愛がられ重用され次々と昇進している。明帝が病に臥すと大将軍に昇進し司馬懿と共に世継曹芳の補佐を託される司馬懿とは常に権力による駆け引きを繰り返し、ついには何の権限の無い太傅に司馬懿を祭り上げて実権を独占するようになる。その後は天子を軽視し独断による採択で蜀領漢中に遠征し大敗するが行いは改まらず淫楽にふけった。司馬懿を恐れ部下に様子を見に行かせるが司馬懿はボケたフリをしそれを信じてしまう。その後司馬懿は着々とクーデターの用意をし翌年の正月、陵墓参拝の際司馬懿に武器庫を占領され、あっけなく実権を失い、三族もろとも処刑されてしまう。元々は司馬懿を父の様に慕っていた曹爽だったのですが周囲が彼をおだて段々と権力欲に浸ってしまったようです。
曹沖 そうちゅう 倉舒 そうじょ
生死年:196~208
出身地:沛国県[言焦]県
役職:不明
所属:魏
曹操と環夫人との間に生まれる。詩文や政治の能力に長け、曹操の一番のお気に入りだったと言われているが、ただ体が弱かったのも同時に残念がられていた。当然曹丕は、ライバルである彼の存在を疎んでいた。あるとき、曹操の頭痛を治すために華陀が呼び寄せられたが、華陀は曹沖をとても気に入り、病を不憫に思い、曹丕にある“札”を託した。その札を肌身離さず持たせれば曹沖の病は改善するという。兄の命を救うべきか、自らの王位を守るべきか、曹洪に相談したが、曹丕派だった彼は札を焼き捨て、曹沖は病のうちに死んでしまった。享年13歳
曹丕 そうひ 子桓しかん
生死年:187~226
出身地:沛国県[言焦]県
役職:五官中郎将・副丞相→丞相・魏王→皇帝
所属:魏
曹操の嫡男。弟の曹植とともに詩文の才能に優れ、激しい後継者争いを繰り広げる。曹操の嫡男として生まれ、のちに魏国の皇帝となる人物。学問に優れ、8歳のときには文章を書
き、経書の注釈や諸子百家の書物( どちらも儒教をはじめとした学問書)を解読できたという。また詩文の才に秀で、弟の曹植とともに並び賞されていた。
曹丕が誕生したとき、青い雲気が立ち昇り、1日中消えなかった吉兆があったという。これが、嫡男ではあったが実質的には三男だったはずの曹丕が、皇太子の座につくほどの強運を授かった天啓だったのかもしれない。袁煕の妻、甄氏をめぐる恋愛バトルも有名だが、結局はどちらも曹丕が手にする。
弟・曹植との後継争いに勝利
魏の初代皇帝という、とりわけ華やかな苦労があった。曹盃は三男・曹植の聡明さと詩の才能を愛した。しかしその陰には彼に儲けられた曹操の長男だったが、曹操は後継にするつもりでいたのである。
曹操が死ぬと、父の跡を継いで魏王になり、220年には後漢最後の皇帝・献帝から禅譲を受けて、魏王となり、34歳で献帝から禅譲を受け魏を建国。呉が降伏を申し入れたときは『臣従を希望する者を攻めたりすれば天下の信を失う』と周囲の呉殲滅の意見を下げて孫権を呉王に任命する。若く40歳にして病没するが、7年間の間に彼が固めた基礎は見事なものだった。彼は弟の詩聖-曹植にも劣らぬ詩の才能があり:「燕歌行」「雑詩二首」などの優れた詩を残している曹植との跡目争いでは相当苦しんだものと見え、以後、兄弟には距離を置いた冷たい態度を一貫している。
皇帝となった曹丕は、魏王朝の基礎固めに尽力。内政を整え、人材の登用や民生の安定、学問を奨励するなど堅実な采配を振るった。
曹芳 そうほう 蘭卿 らんけい
生死年:232~274
出身地:不明
役職:第3代魏皇帝
所属:魏
魏の第3代皇帝で曹操から数えると4代目(曹操は皇帝に即位していない為)となる、しかし曹叡には世継が無かった為実子ではなく養子であると思われる「魏氏春秋」では曹楷の子であるとされているが事実については不明。曹叡の遺言により3代皇帝に指名され弱冠8歳で即位するが実権は曹爽、司馬氏に握られていた。李豊・夏侯玄・張絹などと謀って司馬氏を退けようとしたが事前に発覚し退位に追いやられる
曹熊 そうゆう
生死年:?~?
出身地:沛国県[言焦]県
役職:不明
所属:魏
曹操の…名目上の4男。後継者争いでは特に関わらなかった人物で影はひたすら薄い。 演義では…曹操の葬式を体調不良で休むも、罪を曹丕に問われるのを恐れて自害。正史では…「曹熊は若くして亡くなった」の、1行のみ…名前だけである。と、まあ歴史上そんなに重要な人物ではなかったようだ。その証拠に、何かをしでかしたのなら、正史に書いてあろう。でも、実際は能力があったかもしれないが、若くして亡くなった事を考えると…不運としかいえないだろう。
沮授 そじゅ
生死年:?~200
出身地:広平郡
役職:別駕→騎都尉→監軍・奮威将軍
所属:韓馥→袁紹 袁紹の幕僚として数々の意見を進言し、袁紹を河北の一大勢力に育てた。献帝が長安を脱出した際「天子を擁して天下に号令すべきです」と進言したが、優柔不断な袁紹はその意見を却下した。沮授は袁紹に天下を取らせるよう努力したが、袁紹はそれに応えるだけの器量がなかった。官渡の戦いでは持久戦を主張し、短期決戦は避けるべきだと何度も袁紹に進言したが、取り入れられることなく、かえって謹慎を命じられた。官渡の戦いは袁紹軍の大敗に終わり、沮授は曹操軍に捕らわれたが、曹操には下らず、逃亡を図って殺された。最後まで袁紹に対しての忠節を守り抜いた。
蘇飛 そひ
生死年:?~?
出身地:不明
役職:都督
所属:劉表→呉
劉表の配下・黄祖のもとで都督を務めていた。黄祖の配下・甘寧の力量を認め、黄祖に甘寧を重用するように何度も進言をしていたが、「忠義を知らぬ海賊を重用できるものか」と却下されつづけた。甘寧を飛躍させたい蘇飛は、甘寧に下野し、呉に行くように説得し、甘寧を呉に向かわせた。その後、呉軍が攻め入り、黄祖は討たれ、蘇飛も捕らわれ、首を討たれそうになったが、甘寧が「蘇飛は私の恩人です。私がこうしていられるのも彼のおかげ、命は助けてください」と必死に懇願したため、命は助けられ、呉に仕えた。その後の蘇飛がどう活躍したかは不明である。
祖茂 そも
出身地:不明
役職:不明
所属:呉
孫堅に仕えた武将で、二刀流の使い手。反董卓連合軍に参加した孫堅が、董卓配下の華雄の夜襲にあった。そこで孫堅は逃げる時、祖茂に自分の赤い頭巾をかぶせ、自分は祖茂の兜をかぶった。敵兵は祖茂を孫堅だと思い、祖茂に敵兵が引きつけられている間に孫堅は無事逃げられたという。そして祖茂は孫堅の身代わりとして華雄に斬り殺された。演義では、祖茂は自分から孫堅の頭巾をかぶったとされる。祖茂は孫堅配下として、黄蓋、程普、韓当と並び称される武将だった。
孫和 そんか 子孝 しこう
生死年:224~?
出身地:不明
役職:東中郎将→呉太子→南陽王
所属:呉 孫権の次男。孫登の後を継ぎ皇太子となる。しかし孫権の娘の全公主に讒言された為、太子を廃された。この時、朱拠、屈晃らは命がけで反対した。そして幽閉され、孫峻に自殺を迫られて死亡。その後、息子の孫皓は孫休の後を継いで帝位につき、孫和は文皇帝と諡された。呉の最後の皇帝、孫皓の教育はしっかりして欲しかったものだ。
孫桓 そんかん 叔武 しゅくぶ
生死年:197?~?
出身地:不明
役職:安東中郎将→建武将軍 所属:呉
元の姓は愈。孫策から孫姓を賜った孫河の3男。25才で安東中郎将となり、劉備の呉侵攻に対する防衛にあたる。最初劉備は圧倒的な勢いで勝ち進み、孫桓は夷道において劉備に包囲されてしまう。だが劉備が陸遜の計にかかり、孫桓も自ら奮戦し、劉備軍は敗走。さらに退路を次々と遮断し、劉備は命からがら逃げ延びることとなった。劉備は「わしが昔、京城にいた頃は小童だったのに、現在わしをここまで追い詰めるとは・・」と嘆息したという。孫桓はこの功績で建武将軍となり、丹徒侯に封じられた。のち牛渚の督に任じられ、横江の砦を築いている時に急死してしまう。
孫堅 そんけん 文台 ぶんだい
生死年:156~192
出身地:呉郡富春県
役職:仮の尉→長沙太守→破虜将軍
所属:朱儁→張温→袁術
呉郡富春県出身。字は文台。17歳のときに父親に付き従って海賊を退治し、その名を馳せた。2年後の174年、会稽郡で反乱をおこした許昌親子を討伐した功績により、塩涜郡の太守補佐官に就任。その後各地で太守補佐官を転任した。一八四年に黄巾の乱がおきた際には、兵を率いてこれを鎮圧。獅子奮迅の活躍を見せ、「江東の虎」と称された。その活躍ぶりを買われ、長沙の太守に任命されている。
董卓の暴政が敷かれていた190年、曹操の呼びかけに応じて反董卓連合軍に参加、先陣を切って洛陽入りを果たしている。この闘いで関羽が華雄を斬ったとされているが、正史によれば実際に華雄を討ったのは孫堅である。連合軍の侵攻を受けた董卓は都に火を放ち、長安へと逃れた。“関羽が華雄を斬り、戻ってくると酒はまだ温かかった”という話があるが、正史によると、華雄を斬ったのは孫堅であった。しかし孫堅の実力を疎み、兵糧係の袁術が兵糧を送らなかったため、やむなく董卓追撃を諦めることになる。董卓が焼き払った洛陽復興にあたった孫堅は、井戸の中から、手にしたものは天下を得るといわれる“伝国の玉璽”を発見し、病と偽って本拠地へ帰ろうとする。だが玉璽を持ち帰ろうとしたことがバレて、袁紹に命じられた劉表に追討をかけられることに。どうにか逃げ切ったものの、その後劉表とは争いが絶えなくなったという。また、この二つの出来事が元凶となり反董卓連盟の団結は砕かれ、董卓を追い詰めることができないまま解散となったのであった。その後孫堅は、劉表の武将・黄祖との戦いの中、カイ越の罠にかかり、全身に石や矢を浴びて死亡、37歳だった。董卓は、孫堅と袁紹さえいなければ…と思っていたので、彼の死の報せを聞いて喜んだが、生きていれば曹操の最大のライバルになったのは間違いないだろう。己の武力に自信があったために『血気にはやり、単騎猛進し命を失う』結果になった。このとき息子の孫策は17歳。皮肉なことに、数年後、彼も父と同じ過ちを繰り返すことになる。
賊を討ち名を上げる
172年、孫堅は17歳のとき、父親と銭塘という街を訪れる。ちょうどそのときこの街では、十人余りの海賊が商人たちから奪い取った金や物品を岸辺で分配しているところだった。それを見た孫堅は、「討伐して見せましょう」と言い、父親が「おまえ一人では手に負えないだろう」と言うのもかまわずに、刀を手に取って岸に上がる。そして手を振り、大声で叫びながら左右に指図をするように見せかけた。
すると海賊たちは官兵が来たのかと勘違いして、金や物品を置いたまま散り散りになって逃げ出したのである。しかも孫堅は海賊たちを追いかけ、そのうちの1人の首を取って戻ってきたので、父親は息子の知恵と勇敢さに大変感心した。この一件によって孫堅の名は知られるようになり、のちに推挙を受けて校尉となった。
174年、会稽郡において許昌が宗教反乱を起きた際も、孫堅は義湧浜1千人余りで数万人の敵軍を打ち破った。その後は県の丞を歴任。 184年に黄巾の乱が起こってからは、郷里の若者たちや淮水・洒水あたりの精鋭ら合わせて1千5百人余りの兵を率いて、救援に駆けつけた。この戦いで孫堅は真っ先に撤駒蹴壁を乗り越え、賊将の趙弘を斬るなどの活躍を見せる。その功が認められて別部司馬の官に任ぜられた孫堅は、さらにその3年後、長沙の大守となり、反乱を起こした区星を様々な計略を用いて破った。孫堅という男はこのようにして、自らの実力で着実に名を上げていったのである。
孫権 そんけん 仲謀 ちゅうぼう
生死年:182~252
出身地:呉郡富春県
役職:陽羨県長→討虜将軍→大将軍→呉皇帝
所属:君主(呉)
いわずと知れた呉の初代皇帝。孫堅の次男で、孫策の弟にあたる。孫堅と孫策が築いた呉の基盤を引継ぎ、蜀や魏とともに三国鼎立時代を築いた人。碧眼に紫髯( 青い眼と赤ひげ) という少数民族の血を色濃く残す異相だったといわれる孫権。
兄・孫策は死の間際「お前の才は私の10倍あるが、攻めるに向かない。よく国を守って、治めよ」と遺言し、後事を託したという。この時、孫権わずか19歳。しかし、常に幕僚の進言によく耳を傾け、敬意をもって接した彼の下には、名君の評判を聞きつけた優秀な人材が各地から集まった。203年、孫権は荊州の劉表の配下であった、父・孫堅の仇、黄祖の討伐に乗り出す。彼は周瑜を大都督(軍政官の最高職) に任命して見事に黄祖の首を討ち取るが、これにはさらに劉表を攻めて荊州を支配下におく狙いもあった。だが、劉表の病死に乗じて曹操が南下してきたため、208年、そのまま赤壁の戦いを迎えることになる。蜀と組み、東時最大の国であった魏を赤壁の戦いで破った。しかし呉の策略は、魏と蜀が戦いつかれたときに両方を同時に討つという作戦だったため、晩年は積極的には出兵しなかった。周瑜死後には陸遜を総大将にした戦いもあったが、最後まで陸遜を信用できなかった孫権は、後継ぎ問題から10人以上を死に追いやることにもなったのである。そして、71歳でこの世を去った。
兄を継ぎ、父の仇を討った孝行者
孫家は、父・孫堅に続いて、兄・孫策も早世したため、孫権は20歳に満たない年齢でその後を継ぐこととなった。当時は英雄豪傑と呼ばれる人物がまだまだ各地に乱立しており、名士や武将たちは情勢を見つつ主君を変えていくような時代背景であったため、まだ年若い主君(孫権)と家臣の関係はお世辞にも固まっているとは言えなかったのであるが、孫権は「国内のことは張昭に、国外のことは周瑜に相談せよ」という孫策の遺言をよく守り、呉の地盤を徐々に固めていった。張昭や周瑜たちも、そんな孫権を「天下に足る人物だ」と見込み、自らの生涯を捧げる気になったのである。さらに周瑜は魯粛を推挙し、魯粛は諸葛理、張紘が顧方を推挙。
こうして孫権は広く名士を集め、次第に人望を厚くしていった。そして203年、孫権は父の仇である劉表配下の黄祖を討つべく兵を起こす。一度は失敗して兵を引き上げた孫権軍だったが、周瑜を都督とし、さらに敵将甘寧が投降してきたのをきっかけにして、翌年に再び出兵。黄祖を討ち果たすことに成功した。甘寧の活躍で黄祖の首を取った孫権は、その首を父の霊前に供え、仇討ちを達成したことを報告したのであった。この後も、孫権の親孝行ぶり(母親や叔母に対して)はしばしば見え、彼の性格がうかがえる。
孫乾 そんけん 公祐 こうゆう
生死年:?~?
出身地:北海郡
役職:従事→従事中郎→秉忠将軍
所属:蜀
「そんかん」。ではなく「そんけん」と読んで、わざわざ呉の親子とごっちゃになりやすくなっているのは不思議なルール。字、公裕。北海の人。劉備の徐州時代から加わったスタッフだというのは、正史でも演義でも変わらない所だが、正史では劉備の徐州刺史就任の際に推挙された補佐役という、いかにも役所然とした登場の仕方に対して、演義では徐州刺史陶謙がその臨終の場に居合わせた劉備に推挙するという若干ドラマチックな登場に書き換えられてはいる。いずれにしても地味な登場である。周知のように、地味なのは登場シーンだけではなく、劉備陣営参加後の彼の仕事はまさに地味の一言である。演義・正史ごっちゃに並べ立てると、連戦連敗の劉備をかくまって貰うためえん紹に書を届けたり、曹操にとっつかまってる関羽と劉備の間をこっそり連絡したり、またしても連戦連敗の主君を今度は劉表にかくまわせたり、新参者孔明の活躍に妬くことなくその戦勝を祝いたてたり、ほう統と張飛のケンカを仲裁したり、ヤケっパチになって宗教団体に仕えてた馬超に降伏を勧めたり・・・・地味だ。地味だが重要だ。彼が良く並べ立てられるビジクや簡ヨウらの活躍も重要だが、劉備とその一党の生き死にに関わるピンチを凌いできたのは、正しくこの人の渉外能力なのである。まさに「縁の下の力持ち」。誰が呼んだか「お使い孫乾」。後世の、そんな軽い愛称も、実は彼の仕事に対する高評価を誰もが知っているからこその「愛」称なのだ。蜀建国後、簡ヨウの次、ビジクと同位の将に据えられ、蜀の重臣としてその一生を終えた。
孫策 そんさく 伯符 はくふ
生死年:175~200
出身地:呉郡富春県
役職:懐義校尉→折衛校尉→討逆将軍
所属:袁術→呉
父親が死んだときはまだ17歳で、後を継ぐための国の地盤が十分ではなかったため、一時は袁術に吸収されていた。21歳になったとき“伝国の玉璽”をかたに、亡き父の残した3千の兵を譲り受け、伯父の加勢に行くと偽り出兵。幼馴染みの周瑜を幕下に入れ、江東の二張と呼ばれる張昭・張紘を招き、旧臣ともに会稽の厳白虎をあっという間に撃破した。人々は江東に孫家が戻ってきたのを喜び、孫策の勇猛さから、覇王・項羽の名を借りて“小覇王”と呼んだ。再び袁術に三千の兵と玉璽の交換を求めたが断わられ、曹操に大司馬の位を要求したがそれも跳ねつけられ、両者と敵対。その後呉郡で謀反の計画があり、怒った孫策は呉郡太守を処刑した。それを恨んだ者が今度は孫策暗殺を企て、刺客の毒矢を顔に受け重態となる。一説によるとその後、于吉という仙人を殺したため崇り殺されたともいわれる。一度は完治しかけたが、ふと鏡を見ると、傷に蝕まれ昔の勇壮さは名残もなく、癒えない傷を破ってしまい、弟の孫権と補佐の周瑜に後事を託し、そのまま26歳で息絶えた。父親似の勇猛さに加えての短気さがアダとなった死に方であった。
智勇を兼ね備えた「小覇王」
父・孫堅を劉表との戦で亡くし、長男の孫策は若くにしてその後を継いだ。彼は脳濤、議論に身を寄せていたが、江東一帯の支配。望みを叶えるべく、伝国の玉璽を質にして袁術から兵を借りる。そして揚州の劉孫を攻めた(194年)。
孫策はこの戦で勇猛ぶりを遺憾なく発揮。特に太史慈との計百合に及ぶ一騎打ちは周囲を唸らせた。また敵将・干靡を生け捕りにして脇に抱えているうちに締め殺したり、林大能を一喝して落馬死させるなどの勇猛ぶりに、人は彼のことを「小覇王」と呼ぶようになる。たしかにこれらが事実なら凄まじいパワーの持ち主だ。
戦いに勝利した孫策は、伏兵によって太史慈を生け捕ることにも成功する。孫策は「劉孫が敗れたのはそなたを重用しなかったからだ」と、陣に招き入れて宴会を開いた。その席で太史慈は、「自分はいったん陣に戻り、敗軍の兵を集めて孫策どのの手助けにしたい」と言う。それを聞いた孫策はとても喜び、明日の正午までに戻ってくるように約束をして、太史慈を行かせた。そのとき孫策配下の大将たちは皆、「もう太史慈は帰ってこないでしょう」と言ったが、孫策は「あの男の性格ならけっして裏切りはしないだろう」と笑う。大将たちはなおも信じられないといった様子だったが、翌日、太史慈は1千の兵を連れて戻ってきたのであった。
孫静 そんせい 幼台 ようだい
生死年:?~? 出身地:不明
役職:奮武校尉→昭義中郎将
所属:呉
呉国の祖・孫堅の弟で共に旗揚げを手伝った。その後も孫策・孫権と三代に使え、孫策の時代には先鋒として活躍した。子の孫静、曾孫の孫峻・孫りんなど子孫が呉の重用ポストについている。
孫登 そんとう 子高 しとう
生死年:209?~241
出身地:不明
役職:東中郎将→呉太子
所属:呉 孫権の長男。生母の身分が低かった為、徐夫人が母親代わりとなって養育した。孫権が呉王になると、皇太子に立てられる。「太子の四友」と呼ばれた、諸葛格、張休、顧譚、陳表らに補佐された。温厚で思慮深く、親思いの人物とされる。孫権が弟の孫和に目をかけているのを知り、孫和を皇太子にする様に、という遺書を孫権に送った後で死亡。33歳の若さだった。彼が帝位を継げば、歴史は変わっていたかもしれない。
孫ゆ そんゆ 仲異 ちゅうい
生死年:177~215
出身地:不明
役職:恭義校尉→奮武将軍
所属:呉
孫堅の弟・孫静の次男。物語中では多くは登場しないが、とても人望が厚く兵や人民には人気があった。丹楊太守を任じられた際には彼を慕って各地から1万人以上の兵が集まった。周瑜や孫権と共に戦い呉に貢献した。学問を好み、いつも書物を手放さなかったと言う。
孫亮 そんりょう 子明 しめい
生死年:243~260
出身地:不明
役職:第2代呉皇帝→会稽王
所属:呉
孫権の七男だが、演義では三男となっている。非常に聡明であったとされる。母親は、後に皇后に立てられた潘夫人。孫権の後を継いで呉の皇帝となる。帝位を継いでからは、諸葛格・孫峻らの専横に苦しめられた。そこで全尚や劉丞とともに孫峻誅殺の謀り事を巡らすが、事前に計画が漏れて失敗。帝位を廃され、会稽王に位を落とされた。正史では侯官侯に落とされている。そしてその後自殺。一説によれば、新皇帝の孫休に毒殺されたとの説もある。
孫朗 そんろう 早安 そうあん
生死年:?~?
出身地:呉郡富春県
役職:不明
所属:呉 呉国の祖・孫堅の子で孫策・孫権の弟。あまり歴史に登場しない、演義にしても同じで孫策が臨終する際に登場するだけ。ここらへんの呉の歴史はハッキリしていなし点多く、孫朗と孫匡が混じってしまっている。
だいきょう しょうきょう
江東に住んでいた姉妹。2人は二喬と呼ばれ、当代一の美人姉妹と讃えられた。
孫策と周瑜が江東を平定した後、姉の大喬は孫策の妻に、妹の小喬は周瑜の妻となった。嫁入りの際、孫策は周瑜に「河東の二喬は美人だが、我等を夫にできる2 人も幸せであろう」といったという。ところが孫策は26歳という若さでこの世を去り、大喬は未亡人となってしまう。孫策が死の間際、小喬に「弟の孫権に仕えるよう、夫の周瑜にいい聞かせてくれ」と後事を託したという。
その後、赤壁の戦いの前に諸葛亮は、同盟を結びに周瑜宅に赴く。その際、抗戦か降参か迷う周瑜に、諸葛亮は大喬が孫策の未亡人で、小喬が周瑜の妻であることを知らないふりをして「曹操が江東にきたのは、二喬を欲しているからです」と話す。すると周瑜はおおいに怒り、曹操と戦うことを決意したという。だが周瑜も36歳の若さで死亡し、小喬も未亡人となっている。
た行
太史慈 たいしじ 子義 しぎ
生死年:166~206
出身地:東莢郡黄県
役職:奏曹史→建昌都尉
所属:劉よう→呉
太史慈、字は子義。東菜郡黄県の人。身の丈七尺七寸。腕が長く弓を撃てば百発百中の名手だった。若い時は学問好きで郡の奏曹史を務めた。21歳の時、太史慈の噂を聞いた北海の孔融が太史慈の母の面倒を見た。その恩に報いるため、管亥に囲まれた孔融の救援に駆けつける。平原にいる劉備に援軍を求めたい孔融の使者を買って出るが、北海の孔融か、黄巾の残党・管亥の軍に包囲された。老母が孔融の世話になっていた恩返しのため、彼は包囲を破って応援に駆けつけている。孔融は援助に使いを頼んだが、包囲は固く城を出ることは困難だった。そこで太史慈は、連日城門を出て弓の稽古をし、敵の兵士が油断した隙を狙って包囲を突破したのだった。
使者の役目を果たした。その後劉ヨウのもとに身を寄せる。そしてその後孫策が劉ヨウに攻めてきたのだった。太史慈を、孫策に当らせるべきだという意見があったが、劉ヨウは騎兵一騎を渡し偵察を任せた。劉ヨウが孫策に破れると1人残り、孫策と戦い続けたが捕虜となった。その時太史慈は「劉ヨウの残党にはまだ有能なのが残っている。60日以内に集めて戻ってくる。」と約束して出立。裏切りを心配するものもいたが約束通りに戻ってきた。合肥の戦いの際に諸葛瑾に止められるのを聞かず張遼の陣に攻めこむが、張遼の待ち伏せに遭い数本の矢を受けてしまい、なんとか陣に戻るも矢傷が癒えず死亡。享年41歳。太史慈はとても親孝行だったと言う。孫策との神亭山での一騎撃ちは有名。孫策は「あの時援軍が来なかったら俺は死んでいた。」と言うくらいなので、呉軍の中ではナンバー1の実力だったと思われる。
張允 ちょういん 生死年:?~? 出身地:不明 役職:不明 所属:劉表 劉表の配下で、劉表の甥。蔡瑁と同じく劉表の腹心であり、水軍の将。荊州に劉備がいた時は他の重臣と共に「劉備は危険な男です」と何度も劉表に諌言したが、取り入れられることはなかった。劉表の死期が近づくと、次男の劉ソウを後継者に据えるべく、蔡瑁らと画策した。劉表死後、新君主の劉ソウに曹操に降るよう進言し、曹操に降伏した。曹操に降伏後、蔡瑁は水軍・都督、張允は水軍・副都督を任され、指揮するが、呉の名将・周瑜の偽書の策で、蔡瑁とともに裏切りの疑惑をかけられ、無実だと必死に助命を願ったが、叶わず、処刑された。その後の水軍は于禁・毛カイが引き継いだが、両者とも水軍に関してはまったくの素人であったという。
趙雲 ちょううん 子龍 しりゅう
英読 Chao Yun
生死年:?~229 出身地:常山郡真定県 役職:牙門将軍→征東将軍→鎮軍将軍
所属:公孫讃→蜀
常山真定の出身。蜀の五虎将の1人で、『趙雲別伝』によると趙雲の身長は八尺と堂々たる体躯で、姿や顔つきは際立って立派だった。武
芸にもまた秀でており一当万騎と謳われた関羽、張飛にも劣らなかったといわれている。
趙雲が初めて劉備と出会ったのは、袁紹と公孫讚が熾烈な戦いを繰り広げた盤河の地。一党を率いて公孫讚の下へ馳せ参じた趙雲は、援軍として駆けつけた劉備と出会う。
その後、たびたび劉備と語らうようになった趙雲は、劉備を主としてあるべき姿と確信するようになる。
そんな時公孫讚は再び袁紹と兵刃を交え敗戦。行き場を失った趙雲は、劉備の後を追って放浪の旅に出た。ようやく再会を果たした趙雲は、「あなたの下で、いかに無残な死に様をいたそうとも悔やむことはございませぬ」と想いを告げた。それに対し劉備は、彼と同じ床で眠るという厚遇で応えた。こうして彼は劉備の下で武勇と忠義をいかんなく発揮する。一騎打ちで文醜を退け、『空城の計』を考案するなど、まさに文武両道。長坂破の戦いでは、阿斗を救うため単騎で百万を越す魏軍の中を駆け抜け、曹操はその凄まじさに舌を巻き、殺すのは惜しいと弓を使うのを禁じたほど。諸葛亮は『子龍は満身これ胆である』と高く評価し、70歳で死去したときには、片腕を失ったと言って嘆いたという。幼い頃は、母を養うために河で魚を捕っていたが、誰にも教わらないのに体を傷つけないようにと魚の『眼』だけを槍で突くという離れ業もできたというエピソードがある。
張温 ちょうおん 恵恕 けいじょ
生死年:193~?
出身地:呉郡呉県
役職:議郎→太子太傳 所属:呉
孫権に才能を見出され召抱えられる。使節として蜀へと赴いた際、蜀の名士たちに才能を高く評価され、だんだんと張温は名声を上げていった。その事によってだんだん孫権は彼を嫌うようになり適当な理由をつけて彼を失脚させる。その後、歴史の表舞台から姿を消す。
張角 ちょうかく
生死年:?~184
出身地:鉅鹿郡
役職:大賢良師
所属:黄巾賊
後漢末における戦乱の直接の引き金と言える黄巾の乱。その乱を起こした太平道の指導者がこの張角である。隠しようの無い漢朝の腐敗に対して、農民を深い団結力で結び付け反旗を翻したのだ。その勢いは凄まじく、わずか半年足らずの間に数十万の勢力を形成し、朝廷が送り出した官軍と対決することとなる。この時に、兵達が黄色い頭巾を着けていたことから、黄巾の乱と呼ばれた。序盤は民の士気も高く勝利を重ねたが、8月に張角が死亡、続けて弟の張宝、張梁も戦死し、反乱は一年を経たずに終息してしまう。しかし張角の意思は民の間に強く残り、以降20年余りにわたって漢朝は黄巾の残党の反乱に悩ませられた。演義で張角は悪役として描かれているが、それは中国の人口を激減させた戦乱のきっかけを作ったとされるからだろう。
張嶷 ちょうぎょく 伯岐 ぶんき
生死年:?~254
出身地:巴郡南充国
役職:功曹→都尉→盪冠将軍 所属:蜀
字は伯岐(はくき)。巴郡南充国の人。三国志ではまま見られる「正史」と「演義」とで扱いが大きく異なる人の1人。いずれの場合でも劉備入蜀後に姿を見せ始めるが、演義系三国志での彼は、孔明の遠征にくっついていっては、「あの山に陣取れ」なんて指図されたときくらいしか出番のないマイナー武将で、たまに出番・台詞があると思えば、あの祝融夫人にコテンパンにされてたりする弱将に描かれており、読み手に、大概二人ワンセットで扱われる張翼共々「ああ、蜀人材は層が薄くなったなあ」と実感させるのが仕事のような人。しかも「ぎょく」の字が読みにくいので、「相棒」張翼よりも更にマイナーだったりもして、切なさは倍増である。しかし、正史の彼は、こんな半端武将ではない。イヤむしろ、五虎将亡き後の蜀を良く支えた良将良吏なのである。貧家の出身で、出世のコネも無かった彼ではあったが、賊の襲撃に際し、県長逃亡後も孤軍奮闘、その夫人を救出したという一件で有名になり、歴史に姿を見せ始める。孔明の南蛮行に従軍した際、なかなか蜀に帰順しようとしない越すい(山かんむりに雋)郡の太守に任命された彼は、現地の異民族を厚遇した上、もっとも強固に反抗していた捉馬族の長、魏狼を捕縛後に無条件で釈放、さらには漢の爵位まで与えて(と、正史にはあるが、孔明の委任を受けたとしても、彼に爵位を発する権限があったかどうかは疑わしい)その身分を保証した。この件が他諸族にも知れ、南方の人々は先を争って張ぎょくに帰順したという。かの「七縦七擒」。つまり孔明と孟獲の一連のエピソードの原型はここにあるのである。これらの功あって都尉に出世した張ぎょくは、孔明の北伐に参加。かしこでも綿竹あたりに出没する山賊を計略を以て掃討するなどの功績を挙げ、前線の将としては重鎮と呼べるだけの地位を獲得する。(ちなみに演義では、この時期に孔明の命で「顔面ペイントしつつ動物の形態模写しながら煙吹いて行軍」を実行。やはり功績を挙げている)孔明死後、「本当に薄く」なってしまった蜀の人材難から、病をおして姜維の魏征伐(張翼共々、この遠征には否定的であったというが、出征が決まった以上、暴走気味の姜維を放置しておけなかったのだろう)にも従軍したが、魏将徐質と交戦後陣没した。張ぎょくが南蛮の任地を離れる際、いつまでもいつまでもその帰路を見送った辺境異民族の人々は、その死を聞くや大いに悲嘆し、季節の折々に彼を祀って、その霊を慰めたという。史実の彼は、特殊な土地勘と柔軟な外交センスを持ちあわせる地方官としては得がたい人材であり、また、戦場にあっては広い戦略眼と鋭い洞察とで着実に仕事をこなす良将であった。手駒の多くが「能力はあっても指示が必要」だった孔明にとって、その自律を信頼できる数少ない配下だったと推測される。
張コウ ちょうこう 儁乂 しゅんがい
生死年:?~?
出身地:河間郡
役職:司馬→校尉→征西車騎将軍
所属:韓馥→袁紹→魏
最初は黄巾の討伐の兵員募集の応じて参加、韓馥に配下として属する。その後袁紹が冀州にやってくると袁紹に身を寄せるようになる。公孫[王贊]などの討伐では数々の功を上げ寧国中郎将に昇進する。官渡の戦いでは同僚の郭図と作戦の事で対立、張コウの意見は採用されず結果袁紹軍は大敗を喫してしまう、郭図は自分の非を問われるのを恐れ、張コウを讒言し落し入れられ張コウは危険を感じ曹操に降る。曹操は韓信の例をだして大変喜んだ。曹操の配下となってからは、数々の戦に赴いている。袁紹の息子・袁譚、袁煕、袁尚征伐で武功を挙げると、漢中の張魯攻めの際はわずか5千の兵で先鋒を務め、張魯を司馬懿のミスにより諸葛亮の罠に陥り、最期を迎えてしまった。
彼は武力に奢ることなく、よく陣営を統率し、状況や地形を考慮して計略を練った。そのため、
降伏させるなど活躍した。
数々の戦いで戦功を上げるがその中でも最も記憶に残る物は街亭の戦いである。街亭の戦いとは孔明の北伐時馬謖に先行任せ孔明の忠告を無視して山の上に陣をはってしまう、張こうは冷静に判断し山を包囲して陣をはった水を汲む通路を断った、馬謖の軍は次第に水が足りなくなり張コウは馬謖の軍を壊滅させるのである。この功により1000戸加増され4300戸の所領を持つようになった。これほどの待遇は異例の事である。その後も度々蜀の北伐を防衛に参加した、その戦い時、敵が逃げたのを見て軍師の司馬懿が追えと命じ張コウは「逃げる敵は追う物ではない」と言ったが司馬懿はその言を聞かず追う事を命じた張コウしかたなくその命に従い追撃途中伏兵にあい戦死しているおかしな事に「演義」ではその話しの立場が逆になっている張コウが司馬懿の止めるを降り切り追撃した事になっている。なんだか張コウが不憫です。
張紘 ちょうこう 子網 しこう
生死年:?~?
出身地:広陵郡
役職:正議校尉→侍御史→長史
所属:呉 呉の二張の1人。孫策・孫権を陰ながら支えた有能な文官。若い頃は都へ出て勉強し、その能力は中央政府からも定評を得ていた為、帰国しても多くの有力者(大将軍・何進/太尉・朱儁/司空・荀爽など)から招かれたが、どれも断っている。戦乱が激しくなった為、戦火を避け江東に移り住むと、呉の2代目孫策に出会い、そこで初めて仕官している。孫策の配下に張昭もいたため孫策は2人を「二張」呼び高く評価し、いつも二張のうち一人は戦に同行させ一人は城を守らせた。張紘の能力が広く有名になると、誰も自分の配下にほしがり色々な策謀をめぐらしたが、孫策は彼を手放す事を拒否した。199年、孫策は江東での勝利について上奏文を書き、張紘に許都への使いを命じる。張絋は「私が行けば、宮廷にとどめ置かれ、漢の臣にされてしまう」と難色を示したが、結局赴くことに。
そして許都に着いた張紘は、予想通り曹操に気に入られ、都仕えすることになってしまった。孫策が急死した際に曹操は呉を攻めようとするが、張紘は反対した。そのため曹操は孫権を降伏させる目的で張紘を呉へ派遣するが、曹操の意に反し、そのまま孫権配下になってしまう。その後は良く若い孫権を補佐し、呉の礎を築いた。享年60歳。
張遵 ちょうじゅん
生死年:?~263
出身地:不明
役職:尚書
所属:蜀
張遵は張苞の息子、つまり張飛の孫にあたる。祖父張飛や父張苞の武名に恥じない活躍をした蜀漢後期の名将。諸葛亮も没し、蜀が弱った時に魏のトウ艾率いる大軍が怒涛の勢いで攻めかかって来た。張遵はその?艾軍を綿竹で迎え撃ち、諸葛瞻の配下として奮闘した。戦いは一進一退を繰り返したものの、もう蜀軍には兵力と士気の低下を抑えるものは無く、綿竹もトウ艾の猛攻の前に陥落した。張遵は覚悟を決め、僅かな同士を率いて大軍に突撃した。そして、その乱戦の中華々しい戦死を遂げた。
張昭 ちょうしょう 子布 しふ
生死年:156~236
出身地:彭城郡
役職:長史→撫軍中郎将→輔呉将軍 所属:呉
呉国を基盤を支えた、頑固な重臣である。若い頃から勤勉で後漢政府が機能していた時代に政府や陶謙からの推挙を受けていたが、気が進まず全て断ってしまう。そのまま仕官をしないまま江東に移住し暮らしていたが、その地で孫策の丁寧な招きに遂には観念し配下となっている。その後、孫策の下で働くがすぐに孫策が急死、後継の孫権を良く守り立て補佐した。孫策からも信頼を置かれていた。
孫策は臨終に際し、弟・孫権に後時を託し「内治で不明の点はすべて張昭に」との遺言を残している。その際、張昭は泣き崩れる孫権に「すぐに葬儀をとり行ない、政治をするように」と進言し、領内の安定を図っている。赤壁の戦い時の会議で、曹操に降伏することを提言して以来、孫権は張紹の事をあまり信用しなくなってしまった。呉の多くの家臣達は張紹が能力的・功労的に丞相の位に相応しいと思い孫権に提案するも、彼が丞相になることはなかった。それでも、たびたび孫権の酒乱癖や狩猟遊びを厳しくいさめている。若い孫権にとって、いつも耳の痛いことを言う後見人のような立場だったのでしょう。
張松 ちょうしょう 永年 えいねん
生死年:?~212
出身地:不明
役職:別駕
所属:劉璋→蜀
劉璋配下の文官。身長が5尺足らずの醜男で、演義では「頭が異様に尖っていて額が異様に前に出ている」と記されている。同僚の法正らと共謀して劉備を入蜀させようと画策。劉備陣営に蜀の精密な地形図「西蜀地形図」を渡す。これが劉備軍の蜀攻略に大きな力を発揮するが、張松自身は劉備軍の成都攻略前に内通が発覚されて殺された。魏の曹操の書いた「孟徳新書」を「そんな物は蜀では子供でもそらんじている」といい一字一句間違えずに暗唱したエピソードは有名。
張任 ちょうじん
生死年:?~214
出身地:蜀郡
役職:従事
所属:劉璋
劉璋配下の猛将。貧しい家柄の出だったが、文武に優れた能力を発揮し、益州の役所に勤め従事となる。劉備の入蜀時、劉璋を招待した宴席で、劉備の軍師・ホウ統の命で魏延が剣舞の最中に劉璋を斬ろうとした計略を見抜き、いっしょに剣舞を舞いこれを防いだ。劉備の成都攻略戦が始まると、これに対抗し益州のラク城で奮戦。落鳳坡(現在の四川省徳陽市)でホウ統を射殺するなどの活躍をする。ホウ統を失った劉備は荊州より諸葛亮と張飛・趙雲らを呼び寄せ、諸葛亮の策略に嵌った張任は、張飛に生け捕られる。張任の勇猛さを認めた劉備は、何度も臣従を勧めるが「士は二君に仕えず」と決して降る事なかったために首を刎ねられ、金雁橋のたもとに埋葬された。劉備は最後まで忠烈に戦い、忠義を曲げなかった張任に感服し、墓の傍に石碑を立てこれを讃えた。「張任墓」は旧跡として四川省広漢市に現存する。
貂蝉 ちょうせん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:楽女
所属:王允→董卓→呂布
演義にのみ登場する人物で、後漢の司徒・王允が抱えていた、歌姫の美少女。
創作上の人物であるが、中国四大美女の1人に数えられる。正史には『呂布は董卓の侍女の1人と内通しており、常に発覚を怖れていた』とあり、その侍女にあたるのではないかともいわれている。名については“貂”と“蝉”はどちらも冠の飾りに使われる“テンの尾”と“蝉の羽”を表していて、美しいものを象徴する言葉だが、同時に実名の残らない者に後からつけられたことも憶測できる。董卓の暴政に嘆く王允が、自らの娘を犠牲にして謀った『連関の計』。大臣の王允から娘同様に可愛がられていた貂蝉は、董卓の暴政に悩み苦しむ彼の姿を見て「役に
立てるならどんなことでもする」と訴える。その姿を見てひらめいた王允は「天下の逆賊の董卓と養子の呂布はどちらも好色の輩ゆえ」といって順に2人に貂蝉を会わせる。
王允はまず呂布に貂蝉を嫁入りさせると約束。しかしその翌日、彼女を董卓に献上してしまう。
呂布は、いくら待っても貂蝉が嫁にこないので王允の元へ怒鳴り込むが、彼は「董卓が強引に連れ去った」と釈明。貂蝉を訪ねて問い質すと「呂布を愛しているが、董卓に身を汚されたので死ぬ」とまでいう。怒り狂った呂布は、王允の支援を受け、ついに董卓を殺害してしまう。
張達 ちょうたつ
生死年:?~?
出身地:不明
役職:不明
所属:蜀→呉
蜀の末将。范彊とともに張飛に仕えていたが、具体的なポジションについては正史も演義も知らせるところはない。正史に曰く、先主劉備が張飛をよく諫めたという。「君子ばかり敬し、小人を袁れまないお前は、刑罰によって部下を殺しすぎるし、毎日のように兵を鞭打っている。しかも、そうした者たちを側で使うのは、いつか災いとなる」と。演義に言う、関羽の弔い合戦に際して兵数分の白装束を2名に調達させたが期日に間に合わず、懲罰を恐れた張達・は張飛の寝首をかいて呉に走ったという。演義の「白装束」のエピソードは、ヒーロー張飛の死を演出するための創作であろうから、正史のようにほとんど予告無く出征中に部下の反逆で死んだ張飛は、よほど兵からの人望がなかったのだろう。両名とも、桃園の義弟2人を失った劉備の復讐を恐れた孫権に蜀に送り返され、張飛の子、張包に斬られている。因みに、長江岸の張飛廟には、張飛の名場面が蝋人形で再現されているが、最後の暗殺のシーンでは、今しも刺されんとする寝床の張飛と、緊張の表情で幔幕に隠れる張達・范彊の人形が、訪れる観光客のすぐ近くに見ることが出来る。凡百の人間が歴史に名を残したくば有名人を暗殺するのが最も簡単な方法であるという典型的な見本の二人である。
張南 ちょうなん 文進 ぶんしん
生死年:?~222
出身地:不明
役職:将軍
所属:蜀 劉備配下の武官。劉備入蜀後、劉備の配下となった。関羽の死に怒り狂った劉備が東征に乗り出した際、先鋒の将として従軍した。先鋒大将の呉班に夜襲を進言し、フウ習とともに呉陣に攻め込み、大いに孫桓軍を打ち破り、孫桓を夷陵まで退却させる功績を上げた。その勢いで夷陵まで攻め込んだが、呉の軍師・陸遜の火計により劉備軍の陣は大火災を起こし、大敗。張南は呉兵に囲まれた劉備を救出し、同僚のフトウに劉備を任せると、自分は呉軍を食い止めるべく突撃、乱戦の中、討ち取られた。この夷陵での大敗により蜀は多くの武将を失うことになり、白帝城に逃げ込んだ劉備は心労のあまり病気になってしまうのであった。曹操配下(元・袁紹配下)で赤壁の戦いで呉の将・周泰に討ち取られる同姓同名の将がいるが、無関係。
趙範 ちょうはん
生死年:?~?
出身地:常山郡
役職:桂陽太守
所属:魏→蜀
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、劉度、金旋、韓玄らと共に謀反を起こし、国を四分割し、桂陽の太守となる。劉度が降伏したのを聞くと「次はわしだ」と恐れ、桂陽に進攻してきたのが趙雲だと聞くや否や、すぐに城門を開き、降伏した。趙雲と今後について話をしている時、趙範は「苗字が趙とは、何かの縁。義兄弟になりませんか」と持ちかけた。趙雲も喜んで承諾した。これで終わりにしておけばよかったのだが、趙範は1人の女性に酒を注がせた。その女性は美しく、趙雲が「このような美しい女性はみたことない。あなたのご夫人ですか」と聞いた。趙範は「いやいや、兄嫁です。兄は早くに亡くなってしまい、私が面倒を見ているのです。見たところ趙雲殿はお気に召した様子。どうです?結婚なされては」と婚姻を持ちかけた。しかし趙雲は激しく怒り「兄嫁に酒を注がせるとは何事か!あまつさえわしと結婚させようとは!忠義のかけらもない奴め」と趙範の顔を何度も殴りつけ、義兄弟の縁を切り、陣へ帰っていった。武士の面を汚された趙範は怒り、部下の陳応とホウ隆に趙雲の討ち取りを命じた。陳応とホウ隆は陣営に入り込み、討ち取ろうとしたが、返り討ちにあい殺害される。趙範は結局、そのまま攻め寄った趙雲に降伏した。自分の行った行動を劉備に話すと劉備は「趙雲は義理に厚い男だ。そなたの行動が気に入らなかったのだろう。そなたが好意でやったことはわかった」と趙範のことを責めずに、そのまま桂陽の太守として留まるよう命じ、趙範は現職に留まった。
張飛 ちょうひ 益徳 えきとく 又は翼徳 よくとく
英読ChangFei
生死年:?~221 出身地:[シ豕]郡
役職:別部司馬→征虜将軍→車騎将軍
所属:蜀
肉屋をしていたが、ある日出会った劉備・関羽と義兄弟の契りを結び、一大事業に乗り出すことになる。張飛も、関羽とともに劉備と桃園の誓いを交わした1人である。人一倍気性の荒い張飛は、ときに無法ぶりを発揮している。黄巾賊討伐で功績を上げたのに、賄賂を贈らないと報奨を授けない役人を怒りに任せて縛りつけて死ぬほど鞭打ったのがよい例だ。土地にいられなくなった3人は、放浪の旅に出るのだった。
194年、劉備は身を寄せていた陶謙から位を譲り受けて徐州の牧となるが、袁術との戦いの最中、裏切った呂布に徐州を乗っ取られてしまう。
この時、留守を任されていながら、酔っぱらって虚を突かれたのが張飛であった。彼はこの失態を恥じて自刃を試みたが劉備は彼を抱きしめ、泣いて止めたという。
208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に侵攻。たちまち当陽の長坂橋まで追いつめられた劉備は命からがら逃げ延びるが、張飛は殿として橋で蛇矛(矛の一種)を構え、殺到する武将たちの前に単身立ちはだかった。「我こそは燕人・張飛なり! 命を惜しまぬ曹操どもよ、どこからでも来い! 」地獄の底から湧き上がるような人声で雄叫びを上げると、曹操軍はすっかりひるみ、劉備は無事に全軍引き上げることができた。有名な桃園結義に至るまでの3人には数え切れないほどたくさんのエピソードがあるが、1番オーソドックスなのが、官軍募集の看板を見て溜息をつく劉備を一喝する、というもの。魏の将夏侯覇を落馬させた大声と、数々の失敗を生み出した大酒が彼のトレードマーク。馬鹿力で浅はかだが、兄貴の言うことにだけは逆らわない。そんな単純な性格の中にも愛嬌があり、本場中国では孫悟空と一、二を争う人気者。だが、天下にその名を轟かせ、蜀に燕人張飛ありと言わしめたが、最期はあまりにもあっけなく、関羽の仇討ちの前夜に、厳しくしすぎた部下に寝首をかかれてしまった。
張苞 ちょうほう
生死年:?~?
出身地:不明
役職:不明
所属:蜀
張飛の血を受け継いだ勇将。関羽の弔い合戦に先立って張飛が、配下に暗殺された。悲しみに暮れる劉備のもとに父・張飛が愛用していた蛇矛を手にした張苞が駆けつける。張飛の再来を思わせるその武者ぶりに劉備は大いに喜び、関羽の息子・関興と義兄弟の契りを結ばせる。その後、2人は蜀軍の先鋒としてよく活躍し、数々の戦功を挙げた。張苞は夷陵の戦いで黄忠を救い、同時に武将を討ち取った。初陣から父の名を辱めぬ立派な働きぶりで劉備を喜ばせた。孔明の北伐にも参戦したが、張苞にとってこれが最後の戦いとなってしまった。逃げる魏軍を追撃していた時、馬もろとも谷底へ落下し、負傷して成都に帰還した。傷の治療に余念がなかったが、不幸にも破傷風を併発、数ヶ月後に死亡した。将来を期待された武将であったが、活動時期はきわめて短かった。弓の腕前も確かで、旗の先に付いた小さな的を射抜くほどであった。また第一線の指揮官としても一流であった。孔明は関興、張苞に大いなる期待を寄せていたため、早すぎた死に大きな衝撃を受けた。関興や張苞といい蜀の中心戦力となるべき将が、次々と早死にしてしまうあたり、蜀の前途に暗い影をなげた。
張宝 ちょうほう
生死年:?~184
出身地:不明
役職:地公将軍
所属:黄巾賊
兄・張角の旗揚げに参加した。兄の張角と同じく幻術の達人で、官軍を何度も苦戦に追い込んだ。穎川方面で黄巾軍の指揮をとり、朱シュン軍と激戦を展開したが、朱シュン軍の先鋒を務めた劉備の放った矢を左ひじに受けて負傷。2人の兄を失った後も、陽城に立てこもり、包囲する朱シュンの軍勢に抵抗した。黄巾軍が劣勢になり、落城必至と見た配下の厳政に裏切られ、あえない最後を遂げた。厳政は張宝の首を持って朱シュンに投降し、陽城は落城した。
張翼 ちょうよく 伯恭 はくきょう
生死年:?~264
出身地:武陽県
役職:書左→尚書→左車騎将軍 所属:蜀
元は劉章配下であったが、劉備入蜀後、帰順した。劉備に降ってからは、重用された。劉備の呉への出兵、孔明の南征、北伐などに従った。孔明の策略により、キョウ維を王平と共に挟み撃ちにして追い詰めたり、街亭の敗戦後、剣閣の山道を整備し、蜀軍の撤退を援護。第二次北伐では、孔明の命を受け、魏軍を奇襲するなど、常に孔明を信じて戦い、実直さには定評があった。孔明は遺言で忠義の士の1人として張翼を挙げている。孔明死後、キョウ維の北伐を助けた。第二次北伐ではリョウ化と共に先鋒を務め、活躍した。第三次北伐では「蜀は小国。民力を浪費せず、要害を守り、国土を保全するのが良策」とキョウ維を諌めたが、キョウ維の決意が固いことを知ると「敵に警戒のいとまを与えず、一気に出撃しよう」と進言した。祁山での戦いでトウガイに囲まれ、あわやというところでキョウ維に助けられ、勇気百倍して、トウガイを一時追い詰める奮戦をした。蜀滅亡後、キョウ維と共に魏に降ったが、鍾会・キョウ維の反乱に参加。魏軍を相手に奮戦したが、戦死した。蜀後期の武将としては、抜群の力量の持ち主であった。
張遼 ちょうりょう 文遠 ぶんえん
生死年:165~221
出身地:雁門郡馬邑県
役職:郡吏→騎都尉→中郎将・関内候→晋陽候
所属:丁原→何進→董卓→呂布→魏
北方の騎馬民族の血を引き、本名は“聶遼”だという説もある。丁原に仕えていたが、洛陽にのぼった際に何進の指揮下に入り、何進暗殺後は董卓へ、董卓死後は呂布の幕下へと。
幼少の頃から武術や乗馬の鍛錬を怠らなかったという張遼。その武勇を買われ、并州の刺史・丁原に召し出されて何進の部下になる。その後、董卓の傘下に入るが、彼の死後は呂布の指揮下に入り、ともに徐州へと落ち延びている。呂布は騎馬隊指揮の才能に長けており、張遼は騎馬隊の育成法や戦略を呂布から学んだという。
その人柄は忠義に溢れる人望があった。そのため呂布に仕えていた頃、関羽が張遼に「貴君のような人材がなぜ呂布のような逆賊に仕えているのか」と問うた話は有名である。
呂布の死亡後、曹操に捕らえられるが、関羽の口添えで曹操の臣下となった。
やっと仕えるべき君主を発見。関羽と仲がよく、小沛陥落で孤立したのを、一時的に降伏するよう説得た。程なく中郎将の地位を授かり、騎馬隊の雄として各地を転戦。その武勇と抜群の統率力を買われ、曹操が特に信頼を寄せる五将軍の筆頭に挙げられている。
赤壁の戦いでは、曹操の間近に迫った黄蓋を弓で射て、その危機を救っている。この戦いで曹操軍は敗走。張遼は、軍を指揮する中で、もっとも難しいとされている殿の大任を見事に果たした。合肥へ孫権が十万の大軍で攻め寄せたときは、獅子奮迅、見事に呉軍を蹴散らした。このことで勇名は轟き、江東では『張遼が来る』というだけで子どもは泣くのをやめたという。後年病に倒れ、文帝は毎日のように食膳を見舞ったが、224年生涯を終える。
張梁 ちょうりょう
生死年:?~184
出身地:不明
役職:人公将軍
所属:黄巾賊
天公将軍・張角の末弟。黄巾の乱の指導者の1人で、兄の旗揚げに参加、地公将軍を自称した。2人の兄と同じく妖術を習得し、武勇もあった。各地で官軍と激戦を繰り広げ、官軍の将軍・ロ植を苦しめた。また、ロ植の後任となった董卓にはしばしば勝利を収めるなどの功績を上げた。黄巾党指導者で兄の張角が病死すると、あとを引き継いで、官軍大将の皇甫嵩の軍と戦ったが、張角病死に勢いづいた官軍に押され、七度の戦いに敗れ、敗走したが、曲陽で皇甫嵩に斬り殺された。
張魯 ちょうろ 公祺 こうき
生死年:?~?
出身地:沛国豊県
役職:督義司馬→鎮南将軍/五斗米道三代目教祖
所属:劉焉→君主→魏
五斗米道の開祖「張陵」の孫にあたる。山深い漢中で五斗米道の自治領を望み、弟の張衛に五斗米道の軍を組織させ、周りの小勢力との小競り合いはあったものの、長年の乱世にもかかわらず平和な自治領を保った。祖父の張陵が始めた五斗米道。5斗の米を出せば誰でも入団できるという、この教団を承継した張魯は、漢中に五斗米道の指導による独立国を築いて30年もの間この地を統治した。
五斗米道の信徒は奇術を学び、民の病気を治すと同時に県吏として領地の行政も担当した。張魯は戦闘を好まず、混乱の時代にあって安定した環境を整備したため、民衆もこの政権を歓迎した。
後漢の朝廷も張魯を討伐せず、漢寧太守に任じて朝貢の義務を与えただけで黙認。父・張衡の死後は益州の牧・劉焉が漢中を攻めたが、張魯はこれを撃退している。しかしその後曹操の間者からの説得などもあって五斗米道軍を武装解除させて攻め込んできた曹操にあっさり降伏。しかし弟の張衛はそれををよしとせず一部の五斗米道軍と山中へ逃げ込む。その後張衛と一部の五斗米道軍は義勇兵として各地を転々とするが、結局、呉の朱桓いによって討ち取られる。
陳珪 ちんけい 漢ゆ かんゆ
生死年:?~?
出身地:下べん国
役職:済北相
所属:陶謙→劉備→呂布→魏
徐州の安泰を願って一生を費やした人間。曹操の命により呂布の撲滅に暗躍する。呂布の娘と袁術の息子が婚姻する事を知り、それを災いの元と考えそれを阻止するべく呂布を騙し説得する。呂布は婚姻をやめ袁術の使者を捕らえさらし首にした。徐々に呂布の信頼を得る様になるが、最後は同士討ちをさせて小沛の城を乗っ取る。その後曹操に攻められ降伏、そのまま守護となる。
陳登 ちんとう 元龍 げんりゅう
生死年:?~?
出身地:下べん国
役職:公陵太守→伏波将軍 所属:陶謙→劉備→呂布→魏
陳珪の子で文武に優れ冷静沈着な人物であったらしい。袁術と呂布のが互いの子供を結婚させる事によって同盟関係になろうとする所を父の陳珪と共に阻止しその後も呂布に欺きながら使え呂布を撲滅に追いやった。曹操と内応していたらしい。呂布の撲滅後はその功を認められ曹操に使え伏波将軍の位を付与され東城の太守なども任されている。この頃から歴史の表舞台からは姿を消し39歳の若さでなくなっている。死因としては刺身を食べて寄生虫に犯され死亡したと「華佗伝」には書かれているが本当の所は分からないようだ
陳武 ちんぶ 子列 しれつ
生死年:?~215
出身地:廬江郡松磁県
役職:別部司馬→偏将軍
所属:呉 身長七尺、顔は黄色く赤目の容貌怪異。武力抜群であった陳武は孫策に気に入られていた。暗君・劉ヨウに不満を抱き、孫策に内応。孫策が劉ヨウを攻めた時、曲阿から攻めた周瑜を城門を開けて迎え入れた。この功により校尉の位を受けた。陳武は早速、わずか十数騎を率いて先鋒となり、敵陣に飛び込むと、瞬く間に敵兵の隊長五十人あまりを切り伏せ、その武力を見せつけた。赤壁の戦いでは四番手として軍船・三百艘を率いて曹操の大船団に突撃、壊滅させた。この功で偏将軍に昇格した。その後の南郡の戦いでは曹仁を攻め、見事破ったが、南郡は劉備に取られ失態を犯してしまう。曹操軍が濡須に40万の大軍をもって攻め入った際陳武は弓隊を率い、一斉に矢を放ち曹軍を追い返した。曹操軍は再度、合肥と濡須を四十万の兵をもって攻めた。このとき陳武は長江の沿岸を警備していた。そこで敵将・ホウ徳と鉢合わせ、直後2人は激しく打ち合うが、陳武は押され、じりじりと山あいの林に追い詰められる。相手の隙をついて、取って返して剣を振りかざした。だが鎧の直垂が枯れ枝にからまり、身動きが取れないままホウ徳に斬り殺された。
程いく ていいく 仲徳 ちゅうとく
生死年:?~?
出身地:東郡東阿県
役職:寿張令→奮武将軍→衛尉 所属:魏
字は仲徳。元の名を“立”と言うが、若いころ泰山で太陽を奉げ持った夢を見たという話を曹操にしたところ、以後程いく(日+立)と改めるよう言われる。身長八尺三寸(計算すると2mを越える…)、頬から顎にかけてたくわえられた美髯、威風堂々たる容姿で、武将としての力量も十分、智勇兼備の将軍だった。出身地の東郡東阿県では、黄巾の乱が起きると、県令が任地から逃げ出してしまい、県民と官吏・官兵は大混乱に陥った。そこを程いくが、敵の数が少ないのを見て取り、県民を城内に避難させ、官軍を率いて賊を大破した。曹丕に三代功労者として夏侯惇・曹仁とともに名を挙げられている。
荒っぽい性格のために他人とぶつかることも多く、批判も少なくなかった。
曹操が徐州遠征に向かった際、隙をついた呂布が反旗を翻して克州に侵入したが、留守を預かっていた程旻は荀彧とともに奮闘。そして、少ない人数にも関わらず反乱を鎮圧し、本拠地である三城を守りきった。
程銀 ていぎん
生死年:?~?
出身地:河東郡
役職:不明
所属:韓遂→馬超→張魯→魏
演義系三国志では、韓遂配下の「旗本八騎」のひとり。主君の義兄弟馬騰の弔い合戦となった馬超の対曹操戦に主力として付き従い、勇戦(イヤ、多分勇戦したはず。記述はないけどね)した。曹操の計略にかかって包囲殲滅の危機にさらされた韓遂・ホウ徳軍を救出しようとする馬軍と、それを迎撃した曹軍との乱戦の中で、同じく旗本八騎の張横とともに死亡した。この死亡のシーンでさえ、「戦闘後、被害を確認したらいなかった」という、三国志演義上、まれにみる空しい死亡宣告(他の旗本たちは、せめて斬られたり射られたりする描写くらい有るのに・・・)であった。正史のなかでの彼は、演義で「旗本」と称された他の七人同様、西涼地方における有力者であり、馬騰や韓遂の同盟者という立場であって、決して配下の将ではない。程銀は、馬家敗北後、張魯に身を寄せていたが、許されて曹政権下で官職に復帰したという。言うまでもないことだが、決して女性ではない。(注:最近程銀その他を女性にしてしまった三国志転生系漫画があるのだ)
丁原 ていげん 建陽 けんよう
生死年:?~189
出身地:不明
役職:井州剌史→騎都尉→執金吾
所属:後漢
荊州刺史。少帝の帝位剥奪を図る董卓にただ一人、養子でもある腹心呂布を背後に立ち向かう。が、李儒の策略にはまり、裏切った呂布に暗殺された。彼は呂布・張遼とともに北方の騎馬民族の出といわれている。だが、呂布は董卓の下に降り、張遼も一緒に出て行ってしまった。もう少し部下の心を掴んでいれば、呂布・張遼という名将がそろっていれば、天下に乗り出すことも可能だったはず・・・?でも、周囲が怖れて何も言えなかったあの場で、呂布が控えていたとはいえ、一人董卓に一喝した勇気は表彰モノでしょう!
程普 ていふ 徳謀 とくぼう
生死年:?~?
出身地:右北平郡土垠県
役職:郡の役人→裨将軍→蕩寇将軍 所属:呉
鉄脊蛇矛を用い孫堅、孫策、孫権の三代に仕え数々の戦功を挙げた。黄巾の乱で孫堅の討伐軍に加わり、その討伐戦で名を馳せた。身体に傷を負ってない場所はないというほど猛者であったという。孫堅の死後はその息子・孫策に従い、若い彼をよく助けた。
一揆が起こり、その首領・祖郎を孫策が攻めた時のこと。敵に包囲された程普は、孫策を庇いつつ矛を構え、大声を上げて包囲網に突入。敵がその勢いに怯んで道を開けたため、見事脱出に成功したという。赤壁の戦いの時副都督となり、大都督となった周瑜の下につくことを不満に思うが、周瑜の見事な采配に感嘆し、謝罪する。気前や面倒見が良く、古参の武将の中でも親しまれた。蕩寇中郎将、零陵大守、裨将軍、江夏大守、南郡大守、蕩寇将軍と昇進。反逆者百人を火の中に放りこんで焼き殺した日、病にかかり、百日後に死亡したと正史に記されている。
丁奉 ていほう 承淵 しょうえん
生死年:?~271
出身地:廬江郡安豊県
役職:偏将軍→大将軍 所属:呉
孫策死後、国を継いだ孫権が東呉の君主になると、広く人材を求めた。その際丁奉も、武官の一人として召し抱えられた。同期の陸遜や徐盛にも官位を抜かれた晩成型で、初めは甘寧や陸遜などの一部将として戦った。劉備とともに荊州へ逃亡を図った孫夫人を追いかけたが、孫夫人に一喝され追い返されるなど情けない役どころが多い。しかし徐々に功を重ね、偏将軍に登った。孫権が死ぬと、司馬兄弟はこれを機に十万の大軍を用いて呉を攻めた。丁奉はわずか3千の兵を率い、部下に鎧兜を脱がせ、真冬の長江を渡り、剣一本で敵陣を襲撃。敵武将二人をあっという間に斬り伏せ、呉を大勝利に導いた。国内では、丞相となった孫リン(孫チン)が専横を極め、呉皇帝・孫休をないがしろにしていたが、丁奉は酒宴の席で孫リンを捕え、謀反のかどで打首にし、孫リン一族も滅ぼした。この功により丁奉は武官の最高位・大将軍にまで出世した。丁奉は呉の建衡三年(271年)、70年にわたる戦いの日々を終わり、死亡した。まさに呉の盛袁を見届けた一生であった。
典韋 てんい
生死年:?~197
出身地:陳留郡
役職:調査中
所属:魏
三国志の中でも壮絶で非業の死を遂げた人物として有名な人物と言ったら典韋でしょう。細かい事は伝わっておらず字もわからない。大柄で腕力は人並み以上の人物だったようであるやがて曹操の軍に従軍するようになり夏候惇の軍の配属され、度々軍功をあげ司馬に任命される。曹操の呂布征伐では大暴れし一人の兵士に敵がきたら知らせる様に命じた、敵が近づくと兵士の掛け声にあわせ戟を投げ敵の攻撃を防いだそれは百発百中であったようである。その功により都尉に任命されると曹操の側近として使えるようになった。いつも曹操の親衛隊を指揮し1日中曹操の側に待立し寝る間を惜しんで護衛した。自分の寝場所でゆっくり寝る事は稀であったようだ。張繍が降伏すると曹操は張繍を招き宴を催した。その時も典韋は曹操の後を大斧もってひかえていた為、張繍等は震え上がって曹操を襲うことは出来ないでいた。数日して張繍が背き曹操の眠る陣営の攻撃をしかけてきたとき、典韋は曹操を身をていして守り退却を助けた。その後も門に仁王立ち追撃をおさえ奮戦したが遂に力尽き敵を大声で罵倒しながら死んでいったそうです。
田豊 でんほう 元皓 げんこう
生死年:?~200
出身地:鋸鹿郡
役職:侍御史→別駕
所属:後漢→袁紹
袁紹のもとで、政治・戦闘両面で献策していたが、次第に袁紹との間に隔たりができてきたようだ。曹操が劉備を討つために徐州へ進撃した際、この隙を突いて許昌へ攻め入るべきだと進言したが、息子の病気を理由に袁紹は好機を逃してしまう。官渡の戦いが始まると、袁紹は即、大軍を進めて決戦を挑もうとした。これに対して田豊は、曹操方の兵糧が底尽きかけていることを察知し、持久戦を主張したが耳を貸さず、士気を挫くと投獄されてしまう。かくして戦は大敗を喫し、幕僚の郭図は『田豊は牢の中で、それ見たことかと嘲笑っていることでしょう。』と讒言、袁紹は田豊を処刑した。獄中からも何度も諌めたが、聞き入れられなかった。そこまでの忠義と智謀を持ち合わせた彼を、袁紹が重用しなかったのは惜しまれることだ。
とう艾 とうがい 士載 しさい
生死年:?~264
出身地:南陽郡棘陽県
役職:都尉学士→尚書郎→太尉 所属:魏
幼い頃に父をなくし汝南地域で細々と牛飼いで生計を立てていた。元々才能があったようで都尉学士になるがドモリだったため幹佐にはなれず農務官の職についた。世間ではよく馬鹿にされていたが典農網紀となって都に転勤すると司馬懿に才能を見出され尚書郎に昇進させ中央に召し出した。将となって国の防衛にも力を注いだが「本当の強い国を作るには農業の発展が必要だ」とかんじて色々な立案を司馬懿に伝えている。姜維の北伐を何度も防ぎ多くの功を上げると次々と昇進し領地は6600戸にまでなっている。263年秋の蜀征伐の詔勅が降ると鍾会と共に蜀へ向かうことになる、その時相国に劉寔は「おそらく蜀には勝つが二人とも2度と魏には戻らないだろう」と予言した。鍾会が攻めあぐねている所にトウ艾は難なく成都に攻め入り劉禅を降伏させる。その功で太尉に任じられるが、鍾会に妬まれ「反逆の意がある」密奏されて捕えられてしまう。その後反逆は鍾会にあったとして元の部下によって救い出されるが反対勢力により討ち取られてしまう。
姜維も舌を巻く才能
部文は、高い山や広い沼地を見るといつも、軍営設置にどこが適当かを測量したり精密な軍用地図を作成していたので、当時それを馬鹿にする者も多かったが、司馬誌はその能力高く、256年都文ら魏軍が姜維率いる蜀軍と対峙しているとき、部文の計略により魏軍はいったん姜維を退かせることに成功。陳泰は、「姜維は3度と打って出はしないだろう」と言って安心していた。しかし部文は、姜維が再び打って出るであろう五つの理由を陳泰に説き、「これほどまでに優れた人物が我が国にいたとは」と彼を感服させている。 一方の蜀側でも、姜維が反対する大将らに、自軍が勝てる五つの理由を説いていたが、この五つの理由というのが、都文、姜維ともにまったく同じ内容なのであった。姜維は、「都文は若いが侮れない」という夏侯覇の注意にも、「恐れることはない」と言って郡山に攻め寄せたが、地理に精通している部文は、すでに九つの陣屋を泣確資待ち構えていた。姜維はこれを見て、「この陣の取り方は絶妙。我が師(諸葛亮)にも劣らないものだ」と言って舌を巻いた。
陶謙 とうけん 恭祖 きょうそ
生死年:132~194
出身地:丹楊郡
役職:廬県令→徐州刺史→安東将軍・徐州牧
所属:後漢→君主
曹操の董卓討伐の檄に応じて集結した諸侯の1人。徐州の牧。彼に仕えた、または取り立てた人物は、王朗、筰融、朱治、藏覇、陳登、糜竺などがいる。このような優秀な人材を集めながら生き残れなかったのは、他の英雄に比べ歳をとり過ぎていた事と、感情まかせに行動する面があったからではないだろうか。韓遂討伐の為西方へ出向いた時、上官だった張温を侮辱し怒らせている。また、孫策を忌み嫌っていた。その為孫策は、陶謙を避け江都の母を移住させている。招きに応じない張昭や、陶謙に不信感を抱いていた呂範を捕らえて幽閉した事もあった。ちなみに張昭は趙雲の懸命な運動によって救われている。そんな陶謙は、徐々に実力を付けてきていた曹操と友好関係を結ぼうとして、曹操の本拠地に呼びよせていた曹操の父、曹嵩の道中の護衛を引き受けた。しかしその護衛部隊の張ガイが一行を殺して逃亡してしまう。報復の為押し寄せる曹操軍の攻撃はかろうじてしのいだが、病にかかりそのまま死んでしまった。死の間際に、劉備に徐州を託して。
とう芝 とうし 伯苗 はくびょう
生死年:?~251
出身地:義陽郡新野県
役職:広漢太守→車騎将軍 所属:劉璋→蜀
蜀の官吏・戸部尚書。後漢創業二十八功臣の筆頭・とううの末裔。魏が50万の大軍で蜀に侵攻してきたとき、孔明に抜擢され、蜀の使者として呉の孫権のもとへ行き、孫権に脅されながらも、劉備の呉への侵攻以来、破綻していた両国の関係を見事に修復、同盟を結ぶ大功を果たした。同盟の使者として呉の孫権に謁見したとき、孫権から「魏を倒して蜀と呉で天下を二分したら、さぞ楽しいことであろうな」と言われたが、毅然とした態度で「天に二日なく、民に二主なし」と言い放ち、孫権を感心させた。
董昭 とうしょう 公仁 こうじん
生死年:156~236
出身地:済陰郡定陶県
役職:鉅鹿太守→司徒 所属:袁紹→張楊→魏
元々は袁紹に使えていた。弟が袁紹と対立していた勢力の配下であった為袁紹に疑われ命を狙われるようになり袁紹の元から逃げる。曹操が献帝を擁立し西進した時には曹操の元に出向き帰順する。軍事物資補給等の後方支援で功をあげ千秋亭候に封ぜられる。軍事と政治の両方の分野での才能がありたびたび活躍する。曹操に魏公・魏王を賜るとの上書したもの彼である。いつも精気に満ちていて眉目秀麗、ルックスが良かった様で演義でもその事が強調されている。肉や魚を食する事を好まないベジタリアンだった様で飢饉でも平気だった様である
董襲 とうしょう 元代 げんだい
生死年:?~?
出身地:会稽郡余姚県
役職:別部司馬→偏将軍
所属:呉
身の丈八尺の猛将。孫策が手こずった呉郡の厳白虎の首級を挙げて、別部司馬に任じられた。赤壁の戦いでは曹操の陣に斬り込み、合肥では張遼に敗れた孫権を救出する。他にも黄祖の討伐などで活躍。山陰に巣食う族徒、周勃と黄龍羅を斬り果たすなど功績が大きかった。第二次濡須口の戦いでは、徐盛とともに大船五十艘を授けられて出陣。戦いの最中嵐に襲われたが、小舟を下ろして逃げようとする兵士を大喝して持ち場を離れなかった。しかし船は結局転覆し、董襲は水中に投げ出されて溺れ死んでしまった。宣城で山越に重傷を負わされた周泰のために、知人の会稽郡吏虞翻を通じ、名医華蛇を推薦したこともある。
董卓 とうたく 仲穎 ちゅうえい
生死年:?~192
出身地:隴西郡
役職:司馬→中郎将→太尉 所属:後漢→独立
若い頃は親分肌で人心掌握の術にも長けて腕力も抜群だった。胡(北方異民族)の討伐でも数々の戦果を上げ、昇進を重ねて中朗将となった。中国北西部の辺境にある隴西郡出身で、異民族とも交流があった。だが、地方官の職に就いた後は、主に西片の異民族を相手に、ときには1万人あまりの民衆を単騎で斬殺したこともあったという。黄布の乱が起こると中郎将に任命され、鎮圧に向かったが連戦連敗。
あわや懲罰ものかと思われたところで、すかさず宦官に賄賂を贈り罪を免れた。そればかりか、西涼の太守の座を買収していたのである。
その後、西涼で兵を養い、旗揚げの機を狙っていた董卓は、漢帝国末期の動乱に合わせ、表舞台へと躍り出た。その後黄巾賊討伐で敗北して免官となったが韓遂らが涼州で反乱を起こすと復職して鎮圧にあたった。この戦いで数万の敵に囲まれながらも董卓は軍勢を損なわず帰還出来た。その力を恐れた朝廷は軍隊を左将軍の皇甫嵩に預けようとしたが董卓は勅命に逆らい続けて力を貯えていた。その頃何進が宦官撲滅を図る為全国の諸侯を召し寄せ、董卓もこれに応じた。皇帝の外戚である何進と宦官たちの抗争が勃発し、何進の命を受けた董卓は、20万
の大軍を率いて首都・洛陽に出兵。ほどなく何進が殺された混乱に乗じて少帝と陳留王の2 人を無理矢理保護。少帝擁することで実権を握った。
董卓は陳留王を即位させたがったが、并州刺史・丁原の猛反対に遭い一度は断念。丁原の傍らには、三国志上最強といわれた呂布が控えていたからである。そこで董卓は天下の名馬・赤兎馬を餌に呂布をそそのかし、丁原を呂布に殺害させることで権力と武力を我が手中に収めた。もちろん少帝、その母の何太后は殺された。さらに呂布を寝返らせ、先政に関わる者は殺された。ここから董卓の暴虐振りがひどくなる。巡行中住民達が春祭りを楽しんでいるのを見るとそこにいた男子すべての首を斬り女性や財宝を奪い取って兵隊達の妾に与え、宮女や公主にまで暴行を加えた。また陵墓を暴いて宝物を奪い自分の住む所には30年分の食料を貯えた。酒宴では反逆者の舌や手足を切り眼をくり抜いたりして大鍋で煮たりした。集まった人達はあまりの地獄絵図に箸を落としたが董卓は平然と食べたという。190年各地の諸侯が袁紹を盟主として董卓討伐の兵を挙げるが、空中分解した。しかし董卓の独裁政権も長くは続かず192年司徒の王允は呂布を誘って董卓殺害を謀る。「演義」では王允の下女の貂蝉を使い、「連環の計」で董卓と呂布を仲違いさせたことになっている。「正史」では呂布が董卓の侍女と密通していていたので事が発覚するのを恐れた為とある。どちらにせよ、結局女絡みで殺されたのである。董卓は会議に参列するという名目で未央殿に招かれる。そして宮殿に入ろうとしたところを衛士に阻まれ「呂布はどこだ」と叫ぶと詔を賜った呂布によって殺害された。董卓の死体は市場にさらされたがへそに火をつけると何日も消えなかったという。
権力がすべて
河東郡の太守を務めていた董卓は黄巾の乱の鎮圧に起用されるが、敵の総大将である張角の軍を相手にして惨敗する。そこへ運良く劉備たちが現れ、賊軍の不意をついて混乱させたので董卓は救われた。陣に戻った董卓は劉備たちを呼び、「おまえたちは何の職に就いている者たちか」と尋ねる。しかし劉備は無位無官だったので、董卓は侮ってまともに礼を言わなかった。
繰り返し、ついには皇甫嵩と交代させられてしまうのだが、」とで罪を免れた。そればかりか、要職に任じられるよう重臣に取り入ったため、その後は西涼の刺史となって力を蓄えることができたのである。
こうして董卓は、20万の大軍を持ち、天下を手中に収めんという大いなる野望を抱いて頃合を見計らっていた。そうするうち、何進が宦官誅滅のため諸国の豪傑を召集したので、これは好機と、董卓は洛陽に向かう。参謀・李儒の策に従い、直接洛陽に入るのではなく、外からしばらく成り行きを見守ることにした董卓。すると何進は宣官たちに殺されて、宮中は大混乱となった。董卓はそこに便乗して駆けつける。これが形として、混乱の最中に城外へ出された少帝と陳留王(のちの献帝)を救出した格好となり、以後、董卓は宮中に出入りできるようになったのである。
董和 とうわ 幼宰 ようさい
生死年:?~?
出身地:南郡枝江県
役職:江原県長→掌軍中郎将
所属:劉璋→蜀
杜預 どよ 元凱 げんがい
生死年:222~284
出身地:京兆郡杜陵
役職:尚書郎→征南大将軍→司隷校尉
所属:晋
父親も魏に使えていたが、司馬懿とそりが合わなかったため、子の杜預も久しく重用されなかった。その後、時の実力者司馬昭の妹と結婚し、それからは出世コースを歩みはじめる。その後鍾会の蜀討伐に副官として従軍するが、討伐中に鍾会が蜀軍の大将・姜維と手を結び反乱を起こしてしまう。多くの魏の将はその巻き添えで死亡するが、杜預は難を逃れて帰国。280年、羊この後を継ぎ、呉を討伐し長江流域を平定する。その後、治水工事を行うが上京中に病死する。
は行
馬休 ばきゅう
生死年:?~212
出身地:扶風郡茂陵県
役職:奉車都尉
所属:馬騰
演義系三国志では以下のような経緯で登場する。即ち、曹操の専横に苦しむ献帝が、その討伐を時の車騎将軍董承に密詔という形で命じた折り、父馬騰もその討伐メンバーとして連判に加わった。しかし、曹操討伐は事前に露見、未遂に終わり、地元西涼で動乱が発生したこともあって馬騰は一時帰郷する運びとなった。しかし、連判状を入手していた曹操は馬騰を警戒し、彼を征南将軍に任じて南方(孫家の討伐と思われる)平定を命じるという口実で許都に呼びつけるのである。罠と看破した甥馬岱は西涼に留まるよう進言するが、むしろアグレッシブに(ここのところがいかにも血気盛んな騎馬文明人であることをアピールする)曹操討伐の好機ととらえ(ハマったフリをして、ってやつですね)た馬騰は、次子休、三子鉄をつれて東進するのである。長子馬超、件の岱は留守居である。西涼の安定をおもんばかったか、それとも曹操戦での敗北を実は予感していたのか。許都に到着後、黄門侍郎黄けい(大をかんむりに圭)と図って曹操討伐を実行せんと計画を詰めていくが、密告によって発覚、駐屯しているところを曹操軍に包囲され、三子鉄は奮戦するも矢襖になって討ち死に。表題の次子休は、やはり善戦むなしく、父騰とともにとらえられて斬首されたという。正史では、西方鎮定に功のあった馬家は、その功績によって父騰をはじめ一族の主要な人物は皆、漢王朝の正式な官職を歴任していた(ただし、やはり馬超は曹操を良く思っていなかったのか、曹操が丞相になった折り、例の人材蒐集家ぶりを発揮して馬超を都に招いた時にはこれを拒否し仕官しなかったのに、後に詔勅が下ったときには刺史や大夫になっている)。さて、そんな「朝臣」馬騰は、自らの老いを理由に、過酷な西方防衛を長子超にゆだね、「自ら」入朝した。この折り同行した、次子休、三子鉄はそれぞれ奉車都尉、騎都尉に任じられている。しかし、曹操の権限拡大に伴う、西涼(まあ他地方もそうだが)に対する有形無形の圧迫は、事実上の「人質」馬騰、馬鉄、馬休の危険を顧みない馬超の遠征を招くこととなり、結局敗戦した馬超は漢中、蜀へ降り、「朝敵」馬超の親族は勅によって誅殺されたのである。えらく簡単な言い方をしてしまえば、馬超の暴走によって、表題の馬休はじめ一族は殺されたようなモノである。
馬元義 ばげんぎ
生死年:?~184
出身地:不明
役職:不明
所属:黄巾党
黄巾党の指導者・張角の配下。太平道教団の幹部・大方(“たいほう”と呼ばれた。方とは将軍を意味した)であった。張角が黄巾の軍を起こすにあたって、宦官の封ショに賄賂を贈って内応させようと企む。馬元義はその使者となり、洛陽に侵入したが、同門の唐周が裏切り、官の役所へ駆け込み、張角が反乱を企てていると告げたため、馬元義は何進に捕えられ、処刑された。内応承諾後の挙兵にあたっては、荊州・楊州の太平道信者数万人を率いる予定であった。また、馬元義が処刑されたため、張角は予定より1ヶ月早い総決起指令を発さざるを得なかったという。
馬謖 ばしょく 幼常 ようじょう
生死年:190~228
出身地:襄陽郡宜城県
役職:荊州従事→太守 所属:蜀
襄陽郡宜城県出身。字は幼常。馬家の五人兄弟の中で、末子にあたるらしい。諸葛亮に気に入られていたようで、常に幕僚として行動をともにしていた。北伐の際、諸葛亮は、彼を長安攻略のための重要拠点にあたる街亭守備の指揮官に起用した。しかし、『街道を守るため高地に陣を敷かず、麓を固めるように』という諸葛亮の命令に添わず、独断で山上に陣を敷いたため、司馬懿率いる魏軍に大敗した。諸葛亮は、彼の才能を惜しんだが、軍法に照らし、涙を流しながらも馬謖を処刑したという。一時は諸葛亮の後継者にと見られていたようだが、自らの才に溺れ、結果、前途を棒に振ってしまった。
馬岱 ばたい 生死年:?~? 出身地:右扶風郡茂陵県 役職:平北将軍 所属:馬謄→張魯→蜀 建安十六年(211年)、馬騰が許都で曹操に殺害されたとき、独り生き残り馬超に馬騰の死を知らせる。その後、馬超とともに関中で奮戦するも、馬超がカクの「離間の計」にかかり、韓遂が魏に走った為、敗戦し、張魯の元に身を寄せるが、張魯との仲が険悪になり、馬超とともに劉備に降る。孔明の南方戦では、孟カクを何度も捕え「七縦七禽」の立役者となった。孔明死後、反乱を起こした魏延の配下になったふりをし、魏延が魏に降らぬよう監視をしていた。魏延が漢に押し寄せた際、「俺を殺せる奴などおるものか!」叫んだ時、馬岱は魏延の首を打ち、反乱を防いだ。生前、孔明は馬岱の誠実さを信頼し「わしが死ねば、おそく魏延は謀反をおこすであろう。もし魏延が『わしを殺せるものか』と叫べば、その時魏延の首を打って、蜀を助けてやってくれ」と密命を与えていたのだ。孔明は死に臨んで「馬岱は忠義の士。決して粗末に扱うでない」と遺言を残したという。最後まで、蜀に忠誠を尽くした忠義の士であったといえよう。
馬忠 ばちゅう
生死年:?~?
出身地:不明
役職:司馬
所属:呉
呉の藩璋の副官(司馬)。今日では神と化した関羽親子を捕縛・殺害したことが、彼の名を有名にしている。しかし、史実ではともかく、演義に於いて関羽を殺してしまっては、ろくな書かれ方をしないのは当然といえば当然であろう。上司の藩璋は、父兄の仇敵を狙う実子関興と出くわして直ちに斬られる(史実では、この一件はない=藩璋は234年まで生きてます)。その藩璋の仇を討たんとたった馬忠だったが張包と関興のタッグワークにやられ、挙げ句の果てには、関羽の復讐に燃える劉備に恐れをなした裏切り者、フ(博をにんべんに)士仁、ビ芳に、再就職の手みやげ代わりに殺されてしまう始末(この後、2人も結局許されず殺される)。馬忠としては、軍人として当たりまえの仕事をしただけなのだが、麦城攻略に関わった呉将は、「総責任者」呂蒙から「実行犯」馬忠に至るまで、後世の人々によって追加的に断罪されるのである。合掌。
馬忠 ばちゅう 徳信 とくしん
生死年:?~249
出身地:巴西郡
役職:郡吏→鎮南将軍
所属:蜀
呉に同姓同名の将が見えるが無論別人。演義での馬忠は、張ギョク、張翼らと同様、劉備・五虎将亡きあとの蜀の人材難を示す「小粒」な将としての表記しかなく、しかもイ(さんずいに胃)水戦のの後は、何の説明もなく文中からその姿を消しているという、ある意味、最も実際の人格・実績を無視された将。正史に見える彼は登場からして派手である。夷陵戦に大敗した劉備の元に援軍を率いて現れ「黄権をうしなうも、我今馬忠を得たり」と大いに主君を喜ばせている。最も、その指揮官としての能力は、夷陵戦に帯同しなかった事実と、本来地方官であった彼を劉備が引き立てて将にしたというエピソードから察しても、さして高いモノとは推測できない(先主没後、従軍自体は増えているが)。しかし、行政担当上がりとしての実力は高く、蜀国内を良く統治したと正史は言う。分けても蜀南部の異民族慰撫に功が高く、彼が病死した後は言質の人々は泣いてその死を悼んだという(同じような記事は張ギョクにも見られるが、正直、両者がどのような位置関係、時間関係で南蛮統治をしていたのかは寡聞にして分からない(馬忠が張ギョクの上司?)。有識者のご助言を請いたい)。上を敬い、下を愛する名吏であり、かつまた対話好きの明るい性格で、苦しい台所事情の蜀末を物心両面で救ったムードメーカーであったろうと想像する。
馬超 ばちょう 孟起 もうき
英読MaChau
生死年:176~222
出身地:右扶風郡茂陵県
役職:督軍従事→驃騎将軍
出身所属:馬騰→張魯→蜀地:右扶風郡茂陵県
役職:督軍従事→驃騎将軍所属:馬騰→張魯→蜀
色白長身で錦のように美しい風貌から「錦馬超」と呼ばれ、曹操に「呂布にも劣らぬ勇者」といわせしめた馬超。父親の馬騰は、北方の騎馬民族である姜人との間に生まれた。彼の父・馬騰は劉備らの曹操暗殺計画に加担。それが曹操に発覚し、一族ともども皆殺しにされ
てしまう。この時、留守を守っていた馬超のみが難を逃れた。そして彼は曹操に反旗を翻した。
馬超は20万の兵を挙げて曹操のいる長安を目指した。当初は曹操軍を撃破していった馬超軍だが、曹操の「離間の計」( 仲違いを誘う策) にはまり参謀の韓遂と反目。その後、参謀を失った彼は反撃を食らい大敗を喫してしまった。
兵を立て直し再び長安に攻め入ったものの、今度は夏侯淵に阻まれ、そこで妻子まで捕らえられて殺されてしまう。彼は悲嘆にくれながら漢中の張魯を頼ることになる。
張魯のもとにいたが、李恢の勧めで劉備に降り、漢中攻略の際に大功を立て、五虎将の1人となった。だが、異民族の多い地域に任じられるとそのまま物語から姿を消し、正史によると222年、47歳で病死している。一族を皆殺しにされ、天涯孤独に戦った男、その堂々とした姿を人々は”錦馬超”と呼んで讃えた。
馬鉄 ばてつ 生死年:?~212
出身地:扶風郡茂陵県
役職:騎都尉
所属:馬騰
馬騰の三子。演義と正史における「登場」と「退場」は馬休の項目を参照していただきたい。馬休とともに登場し、馬休とともに死んだ彼を語れば、同じ文章を二度繰り返すことになるからである。登場シーンと死亡シーンしか無いからである。そこで、本項目をお借りして、馬休の項で記した件の解釈を施してみたい。正史では父馬騰、兄馬休とともに入朝し、騎都尉にまで出世した馬鉄だが、休にしろ鉄にしろ、父騰が活躍した場面でのこれといった活躍は見られない。無論、記されない歴史もあるわけで、記述の外で活躍している可能性は低くないが、もし目立った活躍が有れば、淡々と史実を並べる正史には、文の構成など考えない突発的な記事が一行なりとも載っても良いはずである。そうした記述のない鉄が騎都尉(まあ、そんなに高い階級じゃないけどさ)に任じられた背景に、父騰の朝廷工作が感じれられはすまいか?馬家は、当時でこそ「田舎の力持ち」的役割に置かれてはいても、本来馬援の子孫という名門の出である事を自称している。となれば、いつかは中央で返り咲きをという家族的野心があったことは容易に想像できようと言うモノである。そこで、漢の動乱期にうまい具合に地方官として功績を積んだ騰が「老齢」を理由に入朝して曹操「政権」に対する従順ぶりを一見見せながら、その実、故郷に残した漢族の恐れる異民族混じりの騎兵部隊をやはり精強を以て知られる長子超と、沈着な補佐役甥岱に預けて常に中原を伺わせるよう仕向け、そうした武力を背景に朝廷内部で「アンチ曹操」派閥をとりまとめつつ、その中心にのし上がっていこうと言うわけである。しかし、そこら辺の工作にはやはり鋭敏な曹操に、その野望の核を見抜かれ、馬家は彼にとって排除の対象となるのである。さればこそ、あの人材マニアが簡単に馬超獲得を諦め、さればこそ西涼の権限を圧迫して馬超の暴発(この直前、馬超は曹操暗殺に失敗しているとも言う。なればこの出征は暗殺失敗、露見に親兄弟の危機を感じ、焦った超が出した救出軍ともとれる)を誘ったのである。こう考えると、演義における「悪玉曹操にだまし討ちにあった騰、休、鉄たち」という演出への足がかり的解釈になろう。ただ、正史も演義もひっくるめて、何をどう如何に解釈し語ろうが、馬鉄が、馬休同様、父と兄の存在がなければ歴史にその名すら残し得なかった端役中の端役であることを確認するばかりである。
馬騰 ばとう
生死年:?~212
出身地:扶風郡茂陵県
役職:従事→征西将軍→衛尉
所属:後漢→独立 羌族の母を持ち、身長は八尺を越え雄偉な風貌であったが、性格は温厚であり人望を集めた。反董卓連合軍に参加した際には洛陽に進撃して軍功を挙げる。その後は董卓軍の残党を制圧するために長安へ侵攻したが、敗北して涼州に逃走。その後西涼の太守として領内の平定に努めている。西涼に割拠して当初は韓遂等の他の勢力と争っていたが、韓遂と義兄弟となり行動を共にする。後に都に参内した際に宮中の名医吉平と組んで、権勢を誇る曹操を暗殺しようと企むがこれに失敗。息子休、鉄と共に惨殺されて、長男の馬超が怒り心頭長安に攻め込んでくる...と三国演義ではなっているが、正史では馬騰は諸侯の一人としてただ都に留め置かれていた。西涼に残る血気盛んな馬超は父の命を顧みず長安に攻め込み、父馬騰は曹操に惨殺されたとのこと
逆賊・曹操を討てず無念の死
字は寿成。西涼の大守。211年、孫権を討伐せよとの計略だった。馬騰は十分に警戒していたが、息子の馬超に「これが逆に曹操を討つ絶好の機会になるかもしれません」と言われて、曹操の城の近くまでたどり着いたとき、黄奎という同じく曹操を誅せんと考えている人物がやってきたので、馬騰も自分の心を打ち明け、明日の面会の際に、隙を見て一緒に曹操を打ち殺そうと約束した。
しかしその晩、黄奎が酔った勢いで妾に明日のことを話してしまう。この妾から話が漏れ、ついには曹操の耳にも入ったため、馬騰と黄奎の企みは完全に露呈した。
翌日、曹操を暗殺するつもりだった馬騰と黄奎は逆に捕らえられてしまう。馬騰は黄奎と組んだことを悔やんだが後の祭り。曹操に処刑されてしまったのである(『正史』では話が異なり、馬騰は、馬超が起こした反乱の責任を取って殺されている)。
馬良 ばりょう 季常 きじょう
生死年:187~222
出身地:襄陽郡宜城県
役職:従事→侍中 所属:蜀
若い頃から眉が白かったことから“白眉”とあだ名され、後年は秀才中の秀才のことを指す言葉となった。名門・馬家には五人の子どもがあり、5人皆、字の名に“常”という文字を持っていた。長男の馬良は中でも秀才の誉れが高く、『馬氏の五常、白眉が最も良し』と人々は言った。劉備が蜀へ入ると、関羽の補佐役として荊州に留まり、樊城攻めでは、援軍を求めに成都へ走ったが、間に合わなかった。呉遠征のときは、劉備に適当な勝利を収めてから和睦するよう勧めたが聞き入れられなかった。最期については、はっきりとした記録はなく、正史によると南蛮の異民族鎮圧に向かう途中、夷陵で殺されたとされている。
潘璋 はんしょう 文珪 ぶんけい
生死年:?~234
出身地:東郡発干県
役職:別部司馬→右将軍
所属:呉
陳寿によって、孫氏配下の勇将の一人に数えられた呉の武将。孫策の死後孫権に仕え、戦功を挙げた。江夏の太守黄祖の討伐に参加、蘇飛を生け捕りにした。劉備が孫夫人を連れて蜀へ脱出した際には、陳武と共に追走したが追い返されている。荊州攻略には大都督呂蒙のもと、韓当、周泰、蒋欽、朱然、徐盛、丁奉と共に7人の大将の一人として参加。見事関羽は撃退され、潘璋は敗走する関羽を朱然と協力して追いつめ、部下の馬忠が落馬した関羽を捕らえた。その後関羽は処刑された。劉備軍が仇討ちの為押し寄せてきた時は先鋒として迎え討ち、凌統と協力して黄忠を攻撃したが、関興と張苞に阻まれた。その後蜀が琥亭を取った直後山中で関羽の亡霊に出くわし、その亡霊に導かれやって来た関興に斬られた。だが関興に討たれたのは演義での虚構で、正史では天寿をまっとうしている。蜀の英雄関羽を殺した(正確には馬忠だが)男だから、蜀びいきの作者からすればまともな死に方はさせられなかったのだろう
費い ひい 文偉 ぶんい
生死年:?~253
出身地:江夏郡
役職:太子舎人→大将軍
所属:劉璋→蜀
元・劉璋配下の文官であったが、劉備入蜀後、帰順し、蜀の重臣となった。常人の数倍の速さで書物を読み、一度読んだ書物は決して忘れることはなかったという能吏型の官僚であった。孔明の信頼も厚かったが、人物見識という点では孔明の足元にも及ばず、消極的な性格であったという。孔明死後、丞相であった蒋エンがこの世を去ると、後を継いで丞相に就任したが、やはり専守作戦で斜陽の蜀を何とか維持しようと努めた。延煕十六年(253年)、宴会の席で酔いつぶれたところを魏の降将・郭循に刺殺された。戦場には孔明とともに何度か出陣したが、戦術面での才は乏しかった。孔明没後の魏延の反乱を阻止したのも、孔明の助言のおかげであった。が、有能な官僚の少ない蜀では、やはり貴重な存在であったといえるであろう。
315年、丞相の補佐官である長史として諸葛亮の南蛮征伐に従軍している費緯。ただ宮中の内政には詳しく頭脳派であった彼は、統率力はあったものの、戦闘力や人物識見においては、諸葛亮の足元にも及ばなかったという。
それでも数少ない蜀の信頼できる官僚であり、凡百の賢人と呼ばれる者より優れた才能を持ち合わせていたという。書類を常人の何倍もの速さで読み、一度頭に入れた記録を忘れることはないという特技を持っており、諸葛亮から厚い信頼を受け、内政に貢献した。
費詩 ひし 公挙 こうきょ
生死年:?~?
出身地:南安郡
役職:諫議大夫
所属:劉璋→蜀
糜竺 びじく 子仲 しちゅう
生死年:?~220?
出身地:東海郡
役職:別駕従事→安漢将軍
所属:陶謙→蜀
徐州の太守・陶謙の配下であったが、劉備の徐州入りの際、劉備と知り合い、それ以後、劉備の行く所に付き従った。自分はもとより弟のビ芳も従わせ、妹を劉備の側室にするなど、劉備の人間性に惚れていたという。徐州攻防戦に敗北した劉備に従い、劉備がエン紹の客分になったときも、ともに行動した。その後、劉表を頼って落ち延び、長坂ハの戦いの際、生死の境を彷徨った。彼は、司馬キに「白面の一書生」と酷評されるなど、幕僚としてよりも側近としての役割が多かった?蜀を取った際、劉備に皇帝になるよう薦めた。劉備の蜀建国はビ竺の苦労が報われた時であった。関羽が荊州で打首になった際、弟、ビ芳が呉に寝返り、彼は責任を感じたが、劉備がビ竺に対し、罪を問わなかったが、それを負担に感じ怏々として、楽しまなかった。その後、病を発し一年後に死んだ
び芳 びほう 子方 しほう
生死年:?~?
出身地:東海郡
役職:彭城相→南郡太守
所属:陶謙→蜀→呉
糜芳は陶謙死後、兄や妹と共に劉備に従った。兄は文官であったが、糜芳は戦闘にもよく参加した。城を守ったり、敗残兵を追い討ちしたりといった役目が多く、武将としては下級武将であった。その後関羽のハン城攻めでは、先鋒を務めるが、出陣前夜、陣を出火させてしまい、兵糧や武器を焼いてしまう。怒った関羽は糜芳と同僚のフ士仁の先鋒の印綬を取り上げ、棒刑にしたうえ、南郡の留守居役に格下げした。関羽が出陣した後、呉の呂蒙が荊州を占領し、南郡に迫った際、フ士仁は降伏を主張したが、糜芳は決心がつかない。そこへ関羽の使者が食糧を十万石を送れと要求してきた。呉軍が迫っている急場にとても用意できるものではなかった。フ士仁は使者を斬り捨て、驚く糜芳を尻目に呉に降ったため、糜芳も呉に降った。その後、関羽は斬首される。劉備は関羽の仇討ちに立ち上がり大軍を率いて呉に攻め入った。糜芳とフ士仁は迷った末、呉の先鋒・馬忠の寝首をかき、馬忠の首を手土産に蜀に投降し、再度復帰を願ったが、かえって劉備の怒りを買い、関羽の息子・関興に殺された。糜芳自体は呉に降る気はなかったようだが、関羽の使者をフ士仁が殺した為、罪を恐れ、仕方なく呉に降ったようだ。
文欽 ぶんきん 仲若 ちゅうじゃく
生死年:?~258
出身地:礁郡
役職:五営校督→前将軍→都護・仮節鎮北大将軍
所属:魏→呉
文欽の父は数々の功績を立てた文稷である。若い頃から武勇で名を馳せたが、気の荒い性格で礼儀をわきまえない人物であったため、周りの人間からはあまり好かれていなかった。一度他の人間が反乱を起こした際に連座し処刑されかけたが、曹操は父の功を考えて彼を許した。その後、たびたび戦功をたてたが、横柄な態度はなおらず、その上横領などもみつかり、王陵の上奏により召還させられたが、曹爽には気に入られていたため事件の取調べもなく、昇進した。そのためますます傲慢になっていったという。曹爽死後、後ろ盾をなくし少し静かになったが内心は危惧の念を抱いていた。後に呉に降り、時の大将軍・孫峻に厚遇され高い位に就任するが、呉でも傲慢な態度は改まらなかった。そのため呉の人間からも反感を買っている。魏で諸葛誕が反乱を起こし呉に救援を求めてきた際に、呉の軍に随行するが諸葛誕とは意見が合わず殺害されてしまう。
文醜 ぶんしゅう
生死年:?~200
出身地:不明
役職:不明
所属:袁紹
袁紹配下の豪傑。袁紹が公孫サンと戦った時、敗走する公孫サンを追いつめる。しかし助けに入った趙雲と一騎打ちで敗れそうになり、公孫サンをとり逃がす。顔良が曹操軍の客将、関羽に討ち取られたとき、関羽と戦うが関羽に斬られてしまった。
文聘 ぶんぺい 仲業 ちゅうぎょう
生死年:?~?
出身地:南陽郡宛県
役職:江夏太守→後将軍
所属:劉表→魏
元々は荊州は劉表の忠臣で北方の守備を任されていた。劉表が死去し劉[王宗]が後継となると曹操は荊州に侵攻する。守備の劉備が敗走していなくなると劉[王宗]新政権はあっけなく降伏してしまう。曹操が荊州を占領しても文聘はなかなか出頭してこなかった。曹操が理由を訪ねると「国を守る事もできずなんて恥ずべきことだろう、どの面さげてお会いする事ができましょうか」と言って涙を浮かべたらしい。曹操は忠臣を発見したとおおいに称え江夏郡の太守にし、関内候の爵位も授けた。曹操・曹丕と忠実に使え江陵遠征時には石梵で呉軍を撃退し功をなして、後将軍に昇進している。その後いつ死亡したかは、さだかではない。演義では若干違っていて、もう少し登場の場が多く細かく描かれている。劉備が荊州での敗走時に、襄陽に入れようとした魏延と打ち合っている事などで武力のある人物であったと世の中からは推察されているが、それは「演義」の話しのようで現実は定かではない。
逢紀 ほうき 元図 げんと
生死年:?~202
出身地:不明
役職:不明
所属:袁紹
袁紹配下の幕僚。袁紹に冀州を奪う策を進言し、河北支配に一役かった。官渡の戦いでは田豊・沮授の『長期決戦』に反対し、審配とともに『早期決戦』を進言した。袁紹は『早期決戦』を選択し、曹操と対決したが、惨敗。敗戦後、不仲であった田豊を陥れるため「殿の敗戦を田豊はそれみたことかと嘲笑していることでしょう」と讒言し、田豊を獄中死させる。袁紹死後は、袁譚を後継者として支持した。袁家断絶を目論む曹操が袁譚軍に攻め込んだ際、「不仲といえど袁尚殿は実の兄を見捨てることはないでしょう。私が援軍要求の使者になりましょう」と進言、渋る袁譚に「もし失敗したら焼くなり煮るなり好きにしてください。援軍要求には自信があります」と自信を見せた。意気を買った袁譚は逢紀を援軍要求に向かわせるが、袁尚は援軍要求を一蹴。一兵も連れて戻れなかった逢紀に袁譚は激怒。逢紀は命乞いをしたが、打首にされ、陣中に晒されたのであった。
鮑信 ほうしん
生死年:152~192
出身地:泰山郡平陽県
役職:騎都尉→済北相
所属:後漢
後漢の武将で、後軍校尉。後に済北国の相に任命される。十常侍の乱に乗じて董卓が洛陽に入城し、暴虐の限りを尽くすと、袁紹・王允に董卓を暗殺して災いを未然に防ぐよう進言する。後に曹操が反董卓連合軍を発足させると、鮑信は前々から董卓の非道に憤っていたため、迷わず参加した。また、鮑信は曹操を高く評価し、親交を結んだ。連合軍解散後は、曹操と協力して青州の黄巾賊残党の討伐をおこなった。曹操と共に寿陽で戦場視察を行っていた際、白兵戦となり、乱戦の中、曹操を助けて自分は戦死した。鮑信の子らは曹操が引き取り、その子らは新都亭候、御史中丞にまでのぼった?
法正 ほうせい 考直 こうちょく
生死年:176~220
出身地:扶風郡
役職:新都令→蜀郡太守→尚書令
所属:劉璋→蜀
字は孝直。劉璋の下に身を寄せていたが、重用されていなかった法正。「劉璋では大事をなせない」と考えていた彼は、友人の張松とともに、使者となって荊州の劉備に入蜀を勧めようとした。しかし、この計画が劉璋の耳に入り、張松は殺される。このとき法正は劉備の軍中にいたため、難を逃れた。
劉備が宣戦布告して成都に入った後、法正は蜀郡太守、さらには揚武将軍( 軍の武を上げる将軍) に命じられる。軍略に秀で、謀臣に枯渇する劉備陣営において必要不可欠な人材であった。また劉備のお気に入りで、自身の軍事的才能を過信する劉備が、法正の言葉には素直に従い、なおかつその策も外れることはなかった為に一層重宝された。一方で、自分を中傷した者を殺害するなど、器の小さい人物でもあった。品性を欠き、陣営内で不評であったが、彼の知謀、及びその地位ゆえに諸葛亮さえもその悪行に口出ししなかった。法正は蜀の建国前に45歳で死亡、劉備は何日間も彼を悼んで涙を流したという。翌年、関羽を失い冷静さを欠いた劉備は夷陵にて陸遜に大敗、その翌年に白帝城において死亡した。この報を聞いた諸葛亮は亡き法正を希求したという。法正はいい意味でも悪い意味でも、キレた人物だった。
ほう統 ほうとう 子元 しげん
英読PangTung
生死年:179~214
出身地:襄陽郡
役職:功曹→冶中従事→軍師中郎将
所属:呉→蜀
役職:功曹→冶中従事→軍師中郎将
所属:呉→蜀
字は士元、襄陽の出身。若い頃は彼の才能に気づく者はいなかったが、人物鑑定で知られた司馬徽に見出された。「臥龍」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛」と称えられた程の人物。演義では呉の周瑜に協力して208年の赤壁の戦い。兵力は曹操軍の20万に対し、劉備・孫権連合軍は3万数千。不利な戦況の中、連合軍は敵舟を鎖で繋ぎとめて火を放った。これぞ腦統の献策した連環の計。この策は見事に成功し、連合軍は勝利を収めたのだった。後に魯粛が彼を孫権に推挙したが、容貌が醜悪だったため、召抱えられなかった。劉備に仕えた時も、初め軽んじられたが、諸葛亮と魯粛のとりなしで、劉備の軍師となった。劉備の征蜀に従軍し、参軍としてその才能を発揮した。劉璋を攻撃するとき、劉備に3つの選択肢を提示したことは有名である。しかし蜀を制覇する前に流れ矢に当たり、戦死した。演義では落鳳坡で劉備と間違われ射殺された。劉備は彼の死を涙を流して悼んだという。優れた軍事の才に加え、冷静沈着さを備えた後の蜀に欠かせない人物であったことを思えば、あまりに惜しまれる死である。
孫権に用いられず劉備へ
瀧統は「鳳雛」と呼ばれ、「伏竜」(つまり諸葛亮)と並び称されるほどの才能を持っていたが、その風貌からなかなか評価されず、特定の主君を持たなかった。彼がちょうど江南の地にいたので、魯粛は孫権に推薦し、重く用いるように勧める。
しかし孫権は、瀧統を一目見て気に入らず(ちょうど周瑜を失ったばかりのときでそのギャップが激しかったのだろう)、用いようとしなかった。溜息をつく瀧統に申し訳なく思った魯粛は、劉備への推薦状を書いて手渡す。だが、実は瀧統、先に諸葛亮からも劉備への推薦状をもらっていた。
そこで瀧統は劉備に会いに行くことにする。しかし、あえて2人から推薦状は出さずに面会に臨んだ。すると劉備も、瀧統の名は知っていたものの、風宋の上がとどらない様を見て失望。県令という軽い任務を与えるに留まった。そのとき瀧統は、自分の学を見せて驚かせてやろうかとも考えたが、赴任後、瀧統は終日酒ばかり飲んで仕事をしなかった。
見にいくと、瀧統は彼らの目の前で、滞っていた百日分の事務を半日かからずに片づけてみせる(『正史』では仕事をしない時点で免官処分)。その後で瀧統が出した魯粛からの推薦状には「容貌を見て侮ってはいけない」と書いてあり、劉備は後悔した。ちょうど地方巡察から帰ってきた諸葛亮も、瀧統を重用するように強く薦めたので、劉備はすぐに瀧統を副軍師に任命した。
それにしても、劉備は以前に、司馬徽から「伏竜か鳳雛のどちらかを得れば天下を取れるだろう」と聞き、そのことを忘れさせてしまうほど瀧統の風貌はひどかったのだろう。
歩しつ ほしつ 子山 しざん
生死年:?~247
出身地:臨淮郡淮陰県
役職:主記→驃騎将軍→丞相
所属:呉
孫権の幕僚。若い頃は、頼る人もおらず、貧しい生活を送っていた。田畑を耕し、農作物を売って生活費を稼ぎ、昼は肉体労働に精を出し、夜は書物に目を通していた。孫権が将軍になると、召し出された。呉に降っていた呉巨(元・劉表配下)が異心を抱いたと見るや否や、会見を利用して謀殺し、威勢を振るわせた。赤壁の戦いでは呉と同盟を結ぶため、来国していた孔明に論戦を挑んだが、論破された。後に魏と濡須で戦ったとき、和睦の使者として魏の陣営に赴き、同盟を成立させた。また、荊州攻略戦では、関羽と曹仁の軍勢の動きを的確に読み、呉に勝利をもたらした。229年、孫権が帝位に就くと歩しつはヒョウ騎将軍に任命され、その後、陸遜に代わって都督となった。246年、歩しつは陸遜の後を継いで丞相となったが、普段と変わらず、学者先生として過ごした。性格は太っ腹で喜怒の感情を態度に出さない人物であった。また、日の目をみる事のない人材を推薦し、困難な立場にある者たちを救うべく何十通もの手紙を孫権に出し、彼のおかげで助かった者も少なくなかったという。
ま行
満寵 まんちょう 伯寧 はくねい
生死年:?~242
出身地:山陽郡昌邑県
役職:督郵→従事→揚武将軍→太尉
所属:魏
早くから曹操に仕え、許都の令に任命されていた。任務を忠実に行い、信賞必罰、曹操は彼の働きぶりに喜んだ。最大の功績は、やはり旧友であり楊奉の部下だった徐晃を説得し、傘下に加えたこと。関羽との戦いでは曹仁の参謀として樊城を守る。水攻めに遭い、曹仁は撤退を提案したが『今、城を捨てて退却すれば黄河の南は全て蜀のものになってしまう』と篭城を説得した。また、明帝が曹休に呉を攻めさせたときも、曹休の実戦の経験不足を指摘し、守備を固め大敗を防いだ。曹操から四代にわたって重職を任されていて、財産などにも執着せず、人々にも人気があったという。
毛カイ もうかい 考先 こうせん
生死年:?~?
出身地:陳留郡平丘県
役職:治中従事→尚書僕射 所属:魏
もとは平丘県の役人をしていた。曹操の目にとまり登用される曹操が丞相になると人事を担当するようになり数々の人物を推挙する、しかし彼が推挙する人物は清廉潔白な人物ばかりであった。本人も模範的な人物で謙虚に勤め金銭や権力に執着がなかったようだ。彼は物怖じせずに他の人が言え無い事を曹操に進言し処刑を命じられてしまうが仲間の弁護もあり免職にとどめられている。曹操は彼を認めていたらしく彼が亡くなったあと息子の毛機を取りたてている。
孟獲 もうかく 不明
生死年:?~?
出身地:不明
役職:宜首領→御史中丞
所属:南蛮→蜀
劉備死後、、225年、南蛮族の王・孟獲は蜀に対して反乱を起こした。これには諸葛亮自らが南征し、平定に出向いてくる。
南蛮軍は地の利だけはあるものの、蜀軍と比べると将兵も弱く、なにより相手が諸葛亮であるため歯が立たない。孟獲も簡単に生け捕りにされてしまうが、王のプライドからか降伏しようとはしなかった。孟獲は、「もう一度勝負をして、おれがまた捕えられたら降服してやる」と言ったので、諸葛亮は彼を釈放してやることにした。しかし、孟獲は捕えられるたびに言い訳をつけて「次こそ」と言い、諸葛亮はそのたびに釈放。2人のこのようなやりとりは、その後六回も繰り返される。
そしてついに、7度目の縄を受けた孟獲はようやく帰順を誓った。これが、本当に負けを認めたときにだけ心から服従を誓うという南蛮流なのだろうか。一族と共に与えられた酒を飲みながら「孔明には勝てん。仲間もおらず戦う事も出来ん。人生で最後の酒だ」と死を覚悟していた。しかし、蜀の兵が「孔明様は藤甲軍を皆殺しにしたことを悔いて、今あなた方に会う事に負い目に感じています。今日の所はお引取りくださり、今一度、気持ちよく戦ってくださいとの事です」という孔明の言葉を告げた。それを聞いた孟獲はハラハラと涙を流し「7度負けて、7度許すという話は聞いたことが無い。自分が愚かだった。今までの罪を許して頂きたい」と孔明の前にまかり出て「南蛮はこれ以後、2度と蜀には背きません」と誓いを立てた。これが世にいう『七縦七禽』である。その後、諸葛亮はこれまで通り孟獲に南蛮の王として領地を治めさせたが、以降、南蛮族が反乱を起こすことは一度たりともなかった。以後、孔明を『温情の徳』として、孔明を『慈父』と呼び祭った。祭祀は孔明死後も続けられたという。
孟達 もうたつ 子度 しど
生死年:?~228
出身地:扶風郡
役職:宜都太守→新城太守
所属:劉璋→蜀→魏
元は劉璋の配下だったが、冷遇され張松、法正らと劉備の益州入りを手伝う。その後は蜀で働くがその仕事振りはあまりよくなく、また賄賂を許したため、公平さを重んじた関羽に叱責された。その後、関羽が陸遜に追われ援軍を求めてきたときもそれを無視し関羽を裏切り魏に寝返った。その後、諸葛亮の第二次北伐の際に諸葛亮から誘いを受け再び蜀に寝返ろうとしたが司馬懿の策(変え馬を用意する事によって通常より早く孟達のいる城についた)によってそれを防がれ馬上で槍を刺されて絶命した。(この時孟達は自分によってくる兵を集めるため城の門を開けていた)(直接の諸葛亮第二次北伐の敗因とはならなかったが、それによって司馬懿は魏の中で唯一諸葛亮にも劣らない知の持ち主といわれた。)孟達はまさに裏切りの達人であった。
や行
楊儀 ようぎ 威公 いこう
生死年:?~235
出身地:襄陽郡
役職:主簿→尚書→長吏→中軍師
所属:蜀 孔明の北伐・漢中進出に際し長史に任命される。非常に有能な人物で、孔明をよく補佐し、前線と益州の連絡や補給の任を難なくこなした。孔明の死後、孔明の遺体が入った棺を守り、丞相代理として五丈原から撤退の指揮をとる。魏延の反乱に対して、孔明より授けられた秘策を用いて危機を乗り切った。成都に戻り楊儀は中軍師、ショウエンは丞相に任命された。自分より経歴の浅いショウエンが丞相に任命されたことを不満に思い、魏に降ろうと画策したが、事が露見。官位を剥奪され、平民に落とされた。このことを恥じて、自殺した。
ら行
雷銅 らいどう
生死年:?~218
出身地:不明
役職:将軍
所属:蜀
劉章の配下。建安17年(212年)、劉備の入蜀に対抗するべく、ラク城を守る呉懿の副将として激戦を繰り返したが、劉備・黄忠・魏延・張飛に攻め立てられ、混戦の中、呉蘭と共に劉備軍に捕らわれた。劉備の『蜀を今よりもより良い国にしたい』という思想に心打たれ、劉備の傘下に加わる。劉備の入蜀後は、蜀の臣として、張飛のもとで働いた。漢中での魏軍との戦いで張飛に伏兵の策を進言して勝利の基をつくったが、魏の勇将・張コウに討ち取られた。
雷薄 らいはく
生死年:?~?
出身地:不明
役職:郎中→後将軍
所属:袁術
袁術の配下武将。劉備や呂布との戦いに参加し、功績を上げた。後に袁術が玉璽を手に入れ、皇帝の位に就こうとした時、それを支持した。しかし、帝位に就いた袁術は民のことを省みず、配下の不平不満をよそに、自らの欲望を満たすべく、贅沢三昧する事に専念するばかり。袁術の配下武将は次々と見限っていく中、雷薄も同僚の陳蘭と共に袁術に愛想を尽かして、崇山にこもり、山賊と暮らす。後に袁術は帝の命を受けた、曹・劉・呂・孫の四軍に攻められ、袁術の国家(成)は没落。雷薄らは袁術に頼られるが、援助するどころか、袁術の財宝に目がくらみ、袁術一団を山賊とともに襲撃、財宝や兵糧を奪い取った。その後、雷薄らは、山賊として一生を遂げたという。
陸抗 りくこう 幼節 ようせつ
生死年:226~274
出身地:不明
役職:建武校尉→大司馬
所属:呉
陸遜の子。陸遜が死ぬと建武校尉となり、陸遜配下の兵士五千人を引き継ぐ。遜皓の時代に活躍。歩闡の反乱、晋の羊コ、楊肇の進軍が相次ぎ、いずれの戦いでも指揮をとった。襄陽攻略はで羊コと互いを認め合い、平和的な対峙を十年余にわたって続けた。陸抗が病に臥せった時、羊コから薬が贈られ、毒に違いないと言う部下を諭し薬を飲んだ事もある。しかしこのやりとりで孫皓に敵と内通していると疑われ、兵権を剥がされ司馬に降格された。陸抗がいなくなると、羊コは呉征討を主張した。功績があっても奢らない性格で、部下から信頼された。正に名将陸遜の血を受け継いだ息子と言えよう。
陸績 りくせき 公紀 こうき
生死年:187~219
出身地:呉郡呉県
役職:奏曹掾→偏将軍
所属:呉
盧江太守をしていた陸康の子。自分の思った事をドンドンと言ってしまう性格で、意見を曲げる事が出来なかったので、他の人と協調出来ず中央の権力から追われ、地方の太守となっている。演義では赤壁の戦いの際に、同盟を結ぼうとする蜀からの使者として来た諸葛孔明に、舌戦で挑み見事に負ける役で登場する。
陸遜 りくそん 伯言 はくげん
生死年:183~245
出身地:呉郡呉県
役職:東曹令史→大都督→丞相
所属:袁術→呉
呉の四代目大都督。呉郡の有力豪族の1つであり、陸遜はその傍系として生まれた。
若くして父親を失い、親戚の慮江太守・陸康のもとに身を寄せていたが、袁術に命じられた孫策の
攻撃を受けた折に、本籍である呉へと戻った。
陸遜は若くして孫権の幕下に仕える才覚を有し、地方官として江東各地を歴任し、功績を上げた。
海昌県が干ばつに見舞われた際には、官倉を開いて穀物を支給する一方で、農耕と養蚕を奨励した。孫権は兄・孫策の娘を陸遜に娶らせ、この働きに応えた。荊州攻略時、自分の無名を利用し関羽を油断させ、呂蒙の奇襲を助けた。その後劉備が仇討ちに攻めこんでくると、かん沢の推挙によって呂蒙の後を継ぎ大都督となる。古参の武将は役不足と馬鹿にするが、蜀軍の七百里に及ぶ長大な陣に火攻めを仕掛け、大勝利を収めた。劉備の追撃時は諸葛亮の八陣図に翻弄され退却するが、その後も大きな敗戦無く丞相にまで昇り詰める。しかしその翌年皇太子問題で孫権の激鱗に触れ、憤死に追い込まれた。演技ではこの事は書かれず、五丈原での戦以降いつの間にか姿を消している。
関羽撃破の陰の立役者
当時、孫権軍の都督を務めていた呂蒙は、関羽が焚城を攻めている隙に襄陽を攻め取ることを孫権に提案し、許可を受けて進軍する。しかし、予想以上に襄陽の守りは堅く、実際には簡単に落とせそうになかったので、呂蒙は病気を口実にして引き篭もってしまった。陸遜はそれが仮病であることを見抜いて孫権に伝えたので、孫権は陸遜を派遣して様子を探らせることにする。
呂蒙のもとを訪れた陸遜は、「孫権どのの命を受け、ご病気のお見舞いに参りました」と一応の形式的な挨拶をしたが、やはり呂蒙は病気のように見えない。そこで陸遜は、「私は将軍のご病気を治す処方を持ってまいりました」と探りを入れてみた。すると呂蒙のほうでも、陸遜に自分の心を見抜かれたと悟り、周りの者を下がらせて、「処方とはどういうものか」と問うた。陸遜は、「関羽がいま警戒している人物は呂蒙どのお一人。ならば将軍はこのまま病気を理由に別の人間と交代して、後任の者にはわざと関羽を持ち上げさせます。そうすれば関羽も油断し、襄陽の兵を焚城攻めに回すでしょう」と言う。これを聞いた呂蒙は喜び、後任を陸遜にお願いした。 一方で関羽は、呂蒙が名もない若い武将と交代したと知り、「そんな若僧を大将にするとは孫権も間抜けだな。これで心配事がなくなった」と完全に陸遜をなめてかかる。そして陸遜の読み通り、襄陽の軍勢を減らしてその分を奨城攻めに回したので、陸遜はすぐに呂蒙に攻め込むよう伝えた。こうして襄陽の城は簡単に落とすことができたのである。ちなみにこの戦の功績は、(呂蒙の立場を考え)あくまで呂蒙ということになっており、陸遜の活躍および実力は、孫権軍の他の将らにはまだ認識されないままであった。
李厳 りげん 正方 せいほう
生死年:?~234
出身地:南陽郡
役職:郡官吏→驃騎将軍
所属:蜀 もともと荊州の劉表のもとにいたが、曹操の侵略により劉ショウのもとへ逃れた。その後劉備が侵攻してきた際綿竹の守備にあたったが、孔明の策にはまって劉備に降伏した。それからはどんどん出世し、瓢騎将軍になった際、李平と改名した。のちに劉備の死に際に孔明とともに後事を託されるなど非常に信頼されていた。が、後年、孔明の北伐の際、大雨で兵糧の輸送ができなかったため孔明に偽りの内容の手紙を出し、驚いて帰国した孔明に責任逃れのため、「なぜ戻ったのか?」と問い詰め孔明の逆鱗に触れ、平民に落とされた。が、のちに孔明の訃報を聞くと失望し、病にかかり没したという。
李典 りてん 曼盛 まんせい
生死年:?~?
出身地:山陽郡鉅野県
役職:中郎将→裨将軍→破虜将軍
所属:丁原→何進→董卓→呂布→魏
配下の中でも、曹・夏候一族とともに挙兵時から付き従っている古参の将。慎重派で特に華々しい戦歴はないが、篭城&防御戦の専門家として力を発揮。新野の戦いでは、猛進する曹仁にブレーキをかけ、伏兵に遭った夏侯惇を救出した。赤壁の戦い後は合肥を守り、太史慈軍が城内に火を放ったときも冷静に対処、消火後は反撃に転じている。普段仲の悪かった張遼が協力を求めてくると『戦いとあっては日頃の関係とは別、喜んで指示を仰ごう』と言い、私情を交えず、ともに呉軍を撃破した。正史によると、一介の武人ではなく、知識をよく吸収し謙虚だったという。将来は文官としての活躍も期待されたが、209年、36歳の若さで病死した。
劉延 りゅうえん
生死年:?~?
出身地:ふめい
役職:東郡太守
所属:魏
200年の有名な袁紹との官渡の戦いの際、白馬にいた劉延は袁紹に攻撃されピンチであったが。荀攸の策にて敵将顔良の軍を打ち破る。演義では少し違い、劉備の下へ向かう関羽を迎える役で登場
劉焉 りゅうえん 君郎 くんろう
生死年:?~194
出身地:江夏郡竟陵県
役職:中郎→洛陽令→冀州刺史→益州牧
所属:後漢→君主
漢の魯の恭王に連なる名門で、漢の皇族。黄巾の乱時代、幽州太守に就任していた。黄巾賊討伐の義勇兵を募集し、当時、無名であった劉備を漢朝末裔のよしみで義理の甥として優遇した。黄巾の乱平定後は、中央の混乱を避けるべく、自ら望んで長年空白であった益州刺史の位を受けた。そこで後に益州防衛戦で活躍する張任や厳顔など、有能な士を集め、よく自領を治め、中原から半独立状態を保った。しかし、体調を崩し、病を患った。自分の命が長くないと知ると、益州を息子の劉璋を後継者にするよう遺言を残し、静かにこの世を去った。皮肉にも後に益州は劉焉が義理の甥とした劉備に奪われてしまうのである。
劉き りゅうき
生死年:?~209?
出身地:山陽郡高平県
役職:江夏太守→荊州刺史
所属:劉表 荊州太守・劉表の長男。次男・劉ソウとは異母兄弟で劉表の先妻・陳夫人の子供。息子の劉ソウに後を継がせたい現夫人の蔡夫人や蔡夫人の弟(兄という説もある)・蔡ボウにうとまれ、殺されそうになる。孔明から春秋時代の晋の献公の2人の子供のたとえ話を聞き、自ら身を引いて江夏の太守に転じた。曹操の荊州攻略に際して劉備と同盟を結んだが、特にめざましい働きはなかった。赤壁の戦いの後、劉備の後見を得て荊州刺史になったが、持病が悪化し、間もなく病死した。温厚な二代目タイプで乱世の世をたくましく行き抜く力がなかった。
劉璋 りゅうしょう 季玉 きぎょく
生死年:?~219
出身地:常山郡
役職:桂陽太守
所属:魏→蜀 後漢の皇室に連なる一族で代々、高官を務めてきた。父・劉焉の代に益州の牧となって成都に根拠地を構えた。父の死後、後を継いだが、性格は平凡で乱世の世の中、国を治める能力に欠けていた。北は曹操、東は孫権が勢力を伸ばし、漢中では張魯が国家を築き、益州を狙っているというのに何の対処もせずにいた為、法正、張松、孟達など有能な人材に見限られた。幾度となく攻める劉備を攻撃するが、結局、劉備に国を譲り、君主の幕を下ろす。しかし君主の座を降りた劉璋を惜しむ者はいなかったという。その上、成都城内には兵糧も1年分あり、精兵3万が無傷で残っていたにもかかわらず、降伏を選択するなど、武将としての能力も無きに等しいといっていい。識見、人望、勇気など将が持つべき素質があったならば、こんなお粗末な結果にならなかったと思われる。
温厚な劉備を
激怒させる
字は季玉。父・劉焉を継いで益州の牧。劉璋は参謀・張松の意見で劉備に助けを求める。その際、これに反対する文官らに強く諫められ、特に王累は城門に逆さ吊りになってまで劉埠を説得しようとしたが劉璋は聞き入れず、頑固な一面を見せる。劉備と対面してからはますます彼を信用。基本的に人が良いのは間違いないようだ。実際、劉備は同族の土地を奪えるような性格ではなく、もはや攻めてくる気配がない張魯ではなく曹操を討つため、精兵4万と食糧10万石を貸してほしいと頼む。劉埠は喜んで協力しようとしたが、家臣がこぞって諫めたので、老兵4千と米1万石だけを送った。これにはあの劉備も激怒。戦争となり、徐々に追いつめられた劉埠はついに降伏の決断をするが、その際、「自分は二十余年の間、人民に情けをかけたこともなく、多くの民を苦しめた。劉備どのに降伏したほうが人民のためだろう」と、意外にも立派な発言をしている。
劉禅 りゅうぜん 公嗣 こうし
英読LiouChan
生死年:207~271
出身地:不明
役職:蜀2代皇帝(後主)
所属:蜀
父である劉備は、早くから劉禅が蜀を統率できる器ではないと見抜いていたようで、臨終の際には彼ではなく、諸葛亮に後事を託し『もし我が子に才がないのなら、迷わずに君が帝位に就いて欲しい』と遺言した。劉備の勘は的中、諸葛亮・費イ・ショウエンが国政を見ている間はよかったが、3人の没後、宦官黄皓に政治を任せ、酒色に溺れるようになった。魏軍が成都に侵略すると、部下を見捨てて降伏。以後、洛陽で気ままに過ごしたというが、生涯反省の色もなく、天然ボケで人々は苦笑いしたという。
208年、長坂の戦いで追い詰められた劉備は赤子の劉禅を捨てて逃走するが、将軍・趙雲が劉禅を連れ出して救出したといわれる。218年、劉備が死ぬと劉禅が跡を継ぎ皇帝に即位。しかし、劉備は諸葛亮に「もしこの子が皇帝として補佐するに値しなければ、迷わず君が帝位に就け」と遺言した。
劉備は、劉禅に皇帝の器がないと考えていたのだ。しばらくは諸葛亮などの能臣によって国政は保たれていたが、彼らが世を去ると、劉禅は酒色に親しむようになり、国政は傾き始める。263年、魏軍が成都に迫ると劉禅はあっさりと降伏し、蜀は崩壊を迎えた。
諸葛売の降格
323年、劉備の死により劉禅は17歳の若さで蜀の二代目皇帝となる。即位当初は、南蛮討伐、第一次北伐と、諸葛亮に任せっきりの方針が功を奏し、愚直さを露埋しなかった鋼紳ずったが、次第に化けの皮が剥がれ、230年、諸葛亮ら蜀軍がまさに長安に進出しようとしていた矢先のこと、司馬課の計略によって、成都に「諸葛亮が自立して国を奪おうとしている」というデマが流された。それを耳にした宮官が劉禅に伝え、「すぐさま成都に呼び戻し、兵権を剥奪して謀反しないようにすれば良いでしょう」と言ったので、劉禅は言われるがままに詔を出し、蒋碗の諫めにも耳を貸さず、諸葛亮に軍勢を引き上げさせた。
詔を受け取った諸葛亮は、絶好の戦機をふいにしてしまうことを嘆きつつも、「従わねば、我が君をないがしろにすることになる」と言って撤退し、成都へいった。呼び戻された理由を諸葛亮に尋ねられた劉禅は返す言葉に困り、「しばらく丞相(諸葛亮)の顔を見ていなかったので会いたくなったのだ」とごまかしたが、諸葛亮は事の顛末をすべて読んでおり、今後はいい加減な富官の言葉を信用しないように、と諭した。劉禅も「ようやく目が覚めた」と言って(その場は)反省している。
劉そう りゅうそう
生死年:?~?
出身地:山陽郡高平県
役職:君主→青州刺史→諫議大夫
所属:劉表→君主→魏 荊州太守・劉表とその妻・蔡夫人との間に生まれた次男。長男・劉埼とは異母兄弟。劉ソウは母親の蔡夫人と伯父の蔡瑁の画策で劉表死後、後を継ぎ、荊州太守となる。しかし、曹操が荊州攻略に踏み出すと、蔡瑁、その他の部下の曹操降伏論に従い、曹操に拠点・上庸城をあけ渡す。曹操は上庸が無傷で手に入った事を大喜びしたが、劉ソウは後の災いになると考え、劉ソウを幽州へ追いやる。しかし、念には念をと部下に暗殺を命令。幽州へ向かう劉ソウ一団を襲撃させた。逃げ遅れた劉ソウは蔡夫人ともども曹操軍に暗殺された。乱世に飛躍することなく、わずか13歳でその生涯を閉じた。
劉岱 りゅうたい 公山 こうさん
生死年:?~192
出身地:牟平県
役職:侍中→刺史
所属:後漢
エン州の刺史。後漢の皇族で劉ヨウの実兄。董卓の非道ぶりに憤りを感じていた1人で、反董卓連合が発足されると連合軍に合流、参加した。反董卓連合が解散すると、自国が兵糧不足であったため、隣国の喬瑁に兵糧の借用を申し込んだが、断られる。劉岱は兵糧借用を断られたことを恨み、喬瑁を攻め殺した。2年後、青州の黄巾賊残党の行動が活発になると、黄巾残党を抑えきれず曹操に帰順し、鮑信と協力して討伐をおこなった。しかし、黄巾の残党は大軍で、兵の士気は下がる一方であった。劉岱は兵の士気を上げるべく、鮑信の制止を振り切り、無謀な攻撃をかけ、討死にした。正史での劉岱は黄巾の乱で戦死したとされている。
劉度 りゅうど
生死年:?~?
出身地:不明
役職:零陵太守
所属:後漢
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、趙範、金旋、韓玄らと共に謀反を起こし、国を四分割し、零陵の太守となる。劉備の荊州平定戦の一番初めの敵対勢力。劉度は気が弱い性格で、謀反を起こしたのが不思議なくらいであった。劉備軍が近くまで攻め入っているのを知った劉度は「降伏しよう。劉備には万夫不当の張飛や関羽、それに曹軍百万を一騎で駆け抜けたという趙雲。おまけに天才軍師の孔明までいる。勝ち目など万に一もない」と迷わず降伏を唱えたが、息子の劉賢に「何のために人材を集めているのです。このような時の為にでしょう。こちらには刑道栄がいるではありませんか。劉備軍などすぐに蹴散らすでしょう」と諌められ、劉賢と刑道栄に出陣を命じる。2人が出陣したあとも劉備軍に恐れおののき「どうあっても勝てるとは思えぬ…」と側近に漏らしていたという。その後、刑道栄が策にかかり、斬首され、劉賢も捕らわれたと聞くと迷わず零陵城の門を開け、劉備軍を迎え入れた。斬首されるものと思い込んでいた劉度であったが、劉備の温情で零陵の太守として現職に留まった。
劉備 りゅうび 玄徳 げんとく
生死年:161~223
出身地:[シ豕]郡
役職:安喜県尉→左将軍→漢中王→皇帝
所属:公孫さん→田楷→陶謙→君主→呂布→曹操→袁紹→劉表→君主(蜀)
三国志演義の主役ともいえる蜀の君主。劉勝の血をひいているというが確証はない。天下のために立ち上がり、漢王室の復興を提唱した。自ら三顧の礼をして迎え入れた天才軍師、諸葛亮孔明の計略によって西蜀の地を得た。関羽や張飛とともに義兄弟の契りを結び、後、蜀皇帝になった。
劉備は幼くして父を失い、母とともに草履売りやむしろ織りで生計を立てる貧しい暮らしを強いられていた。だが、元をたどれば前漢の中山靖工( 前漢の王族) の末裔にあたる血筋であった。
彼が24 歳のとき、中国全土に黄巾の乱が起こる。その討伐のための義勇軍募集の立て札の前で、彼は巨漢の張飛、長身の関羽と知り合い、満開の桃園で3人は義兄弟の誓いを立てる。
彼らは漢王室復興のため、仲間を集め、武器をそろえて徐州の牧( 長官)、袁紹の客将( 客分の武将)、荊州の客将と渡り歩いた。だが、根拠地もない弱小勢力であった。そのため後にライバ
ルになる曹操には遠く及ばなかった。
しかし、「三顧の礼」を尽くして天才・諸葛亮を軍師に迎えると、劉備に追い風が吹き始める。
208年、若くして才気溢れる諸葛亮の軍略により、孫権と同盟した劉備軍は、赤壁にて曹操の水軍70万を焼き尽くして荊州を手中に収め、かの地の牧の地位に就く。はじめは呉と組んで赤壁の戦いなどで魏を破っていったものの、関羽が呉の呂蒙の策にはまり、殺されたと聞いて激怒し、呉の討伐に向かった。しかし、呉の軍師、陸遜率いる呉に、火計によって大敗し(夷陵の戦い)、失意のままにこの世を去った。
桃園の誓い
黄巾賊の反乱が起こり、「天下の英雄豪傑と関わりを持ちたい」とつねづね考えていた劉備は、その高札を見て絶好の機会だと思うと同時に、自分の無力さを見つめ、ただ溜め息をつくばかりだった。
そこで張飛という男に声をかけられる。劉備が「賊を討ち、世の平和を取り戻したくても自分にはその力がない」と胸の内を語ると、張飛は二人で旗揚げをしようと持ちかけた。そこへ、同じく義勇兵志願の関羽という男も現れる。「黄巾賊を討ち、国(漢王朝)に身を捧げよう」と意気投合した二人は、張飛の屋敷裏の桃畑で義兄弟の契りを結ぶことにした。この二人を得たことは劉備にとってかなり大きい。
「我ら劉備、関羽、張飛の二人、姓は違えど兄弟の契りを結ぶからには、心を1つにして力を合わせ、願わくば同年同月同日に死にたい」と誓いを立てる2人。当時28歳で、最年長だった劉備が兄。関羽がその次、張飛は一番下の弟となった。
劉表 りゅうひょう 景升 けいしょう
生死年:?~208
出身地:山陽郡高平県
役職:北軍中候→荊州剌史
所属:後漢
前漢の景帝の血筋を引くというという名門の出で、若い頃から儒学者として著名であった。後漢の大将軍・何進に仕え、190年に霊帝が死ぬと荊州の刺史に任命される。
しかし、当時の荊州は群小の豪族が割拠して勢力を張り、隣の南陽郡に拠点を置く袁術からつけ狙われていた。
劉表は同地の豪族であった刪良・鯏越兄弟や蔡倡らに協力を仰ぎ、群小の豪族を平定することに成功。周辺の賊も討伐し、荊州の実権を得て襄陽に本拠を築いた。劉表に恨みを持つ孫堅が荊州を攻め入ってきた際には、守りを固めて、逆に討ち取っている。大将軍の何進によってとりたてられ、霊帝が崩御すると、荊州刺史に任じられた。若い頃から儒者として知られ、「八友」や「八交」のひとりに数えられて名士の誉れが高かったが、実際には優柔不断で、猜疑心が強かった。密かに通じていた河北の袁紹に官渡の戦いでは援軍を送ると約束しておきながら、兵を動かさなかった。韓嵩らが曹操に降るべきだと進言した際も、決断し切れなかったばかりか、彼らが曹操に寝返ったのではないかと疑ったりさえした。劉備が頼ってくると厚遇したが、とても彼を使いこなせる器ではなかったのだ。また、末子の劉{jを溺愛し、長男を追い出して江夏太守にしたが、劉表の死後、すぐに曹操に降服してしまう。劉表はその直前に病死している。乱世に中立を保とうとしたように、時流を読む能力に欠け、激動の時代を生きる力は無かった。
後継者が決められない
優柔不断な父親
字は景升。(漢の)皇室の一族で、荊州の刺史。初めは孫堅(孫権)との戦いなばかび戦争での登場が主だが、同族である劉備が頼って身を寄せてきたあたりからは、北征中で手薄な曹操を攻めるよう勧められても、「荊州九郡を治めており、それだけで十分。他人の領土に手出しはしない」という平和主義者となる。「それよりも……」と劉備に相談したのは後継者問題だった。「どちらも賢い子なのだが、先妻の子の長男・劉埼は柔弱で頼りない。だからといって後妻(察夫人)の子の次男劉踪を立てては礼法に背くとも思う。しかし軍務を取り仕切るのが察氏の一族ゆえ、長男を後継にした場合に争いが起きそうで決断がつかないのだ」と言う劉表。病気が重くなってからは、劉備に荊州を託そうとしたが、彼には断わられる。そこで後継を劉踪にし、劉備をその補佐に、と思うが、そう言い切るだけの決断力も威厳もない。結局、彼の死後、察夫人が遺書をでっち上げて劉踪を後継者とした。
劉封 りゅうほう
生死年:?~220?
出身地:不明
役職:副軍中郎将→副軍将軍
所属:蜀
劉備の養子で元の姓は寇。武芸に秀で蜀平定に活躍。その後、孟達と上庸の守りについたが、もともと仲が悪く、関羽の救援要請を断ったため、孟達は魏に降る。彼はそれを討伐しようとしたが、敗れて成都へ帰り、のちの憂いを考え自害させられた。演義では劉禅が生まれたあとの養子であり、それを関羽が反対したことや孟達の援軍反対などで援軍を送らなかった。劉備に処刑される。劉封はハン城の県令・劉泌の甥で、本名:冠封。両親を亡くした為、劉泌の世話になっていた。劉備がハン城を攻略した際、劉泌と会話をしていた時に劉泌の側に立っていた。劉備は「凛々しい若者だ。よければ養子にくださらんか」と養子縁組みを劉泌に頼んだ。劉泌は「これほど幸せなことはありません」と大喜びで了承。冠封自身も「天下に聞こえし仁徳者の息子になれるとは…」と涙を流し喜んだ。その時に名前を『劉封』と改名した。関羽は「殿には『阿斗』様がいらっしゃるではありませんか!後のお家騒動の災いになりまする」と劉備に詰め寄ったが、劉備は気にしなかった。劉封はその後、中堅の武将として活躍。三国鼎立後、漢中戦では劉備の側にいて、劉備から三度に渡って一騎打ちに指名される程になった。曹操は「何かというと、もらい子を出しおってからに」と毒づいたという。劉備が漢中王になると劉封は、孟達と共に上庸の守りに就いた。そこへリョウ化がやって来て「関羽様が同盟国の呉の裏切り合い、窮地に陥っておられます。どうか援軍を」と援軍を頼みにきた。劉封は早速、援軍に向かおうとしたが、孟達が「敵は大軍。この城の兵力では多勢に無勢です。それに、貴方が劉備様の後継者に選ばれそうになった時、反対したのは関羽様です。貴方は厄介払いに上庸に追いやられたのですぞ」と言い、迷う劉封を尻目にリョウ化を追い払った。この為、関羽は麦城で刑死。劉封は援軍を断った罪を恐れ、魏に降った孟達と戦ったが破れ、成都へ逃げ帰ったが、劉備に「おのれは誰の息子じゃ!この劉備の息子であろう。わしと関羽は義兄弟じゃ。おまえには関羽は叔父にあたる。その叔父を見捨てて、のこのこ帰ってくるとは何事じゃ。おのれは不忠者じゃ!関羽を見捨てた罪は重い。死罪じゃ」と大喝され、刑場に連れていかれた。その後すぐ、劉封の配下がつなぎ合わせた紙を持ってきた。劉封配下は「劉封様は関羽様の援軍に向かわなかった事をひどく後悔なさっておられました。孟達が魏に降った際、劉封様を魏に引き入れようとこの手紙を持ってきました。劉封様は『義父と言えど父は父。その父を裏切れと言うか!許さぬぞ、孟達め!』とお怒りになり、討ってでられましたが、策にかかり戦に負けました。劉封様は不忠者ではありません。死罪は取りやめてください」と懇願した。劉備も「劉封も忠義を心得ておったか。死罪にするのはかわいそうだ。死罪は取り消そう」と急いで刑場へ向かったが、劉封はすでに刑に服した後であった。劉封の首を前に劉備は「怒りにまかせて、なんと愚かなことをしてしまったのだ!」と叫び、首を抱きしめ泣きじゃくったという。劉封は忠義を守り通した男であったが、不幸に満ちた人生であった。
劉曄 りゅうよう 子揚 しよう
生死年:?~?
出身地:淮南郡成悳県
役職:司空倉曹掾→主簿→太中太夫 所属:魏
曹操に見出され、以後三代にわたって仕えているが、華々しい話題はなく、地味な存在だと思われている。だが、実際彼はかなりの無法者だったらしい。子供の頃、母親が臨終の床に彼と彼の兄・劉渙を呼び、『お父さんの側近は人に取り入って悪事をなす者です、おまえたちが大きくなったら取り除いておくれ。』と言い残した。劉曄は13歳になると、15歳の兄に遺言をを実行するべきだと話した。だが兄がそんなことはできない、と止めたので、劉曄は1人で奥の部屋に入り、その側近を殺してしまった。父親は怒ったが、『母上の御遺言に従いました、勝手な行動をした罰は受けます。』と言ったので、見所のあるやつだと許された。明帝・曹叡の信頼も厚く、臣下の者たちに、明帝の人柄はどうかと訊かれ、『秦の始皇帝、漢の武帝と肩を並べるお方だが、才略という点では少し劣る』と言ったという。
劉伶 りゅうれいう 伯倫 はくりん
生死年:?~?
体が小さく、顔はお世辞にもカッコ良いとは言えない人物だったらしい。酒が好きで客が来るとよく素っ裸で出迎えとがめられた。
りょう化 りょうか 元倹 げんけん
生死年:?~264
出身地:襄陽郡
役職:主簿→右車騎将軍・仮節
所属:蜀→呉→蜀
またの名をリョウ惇、リョウ淳字を元倹襄陽の人で黄巾賊の残党荊州にいた頃の劉備に投降し以後関羽の配下になる関羽の死後、呉に居たが蜀に戻りたい一心で「リョウ化は死んだ」と噂を流し母親と脱出、関羽の弔い合戦に行く劉備に合流後に右車騎将軍に昇進。劉禅の降伏後洛陽に強制移住させられる途中病死しても信じてもらえなかった悲しい人黄巾の乱から蜀滅亡までいた何歳なのかわからない
凌統 りょうとう 公績 こうせき
生死年:?~?
出身地:呉郡余抗県
役職:別部司馬→偏将軍
所属:呉
呉群余坑県の人。凌操の子で、命知らずな性格。孫権時代からの配下。黄祖との戦いで父「凌操」が甘寧に射殺された際、必死に戦って遺体を取り返す。後に甘寧が呉に降ると、恨みを捨てきれない凌統は甘寧に斬りかかるが孫権に止められる。だが、その後も甘寧に幾度となく張り合った。ある日呂蒙の開いた宴席で剣舞を舞い甘寧を殺そうとするが、呂蒙に止めに入られ復讐は果たせなかった。濡須口の戦いで無理に張遼に攻めかかり、曹休の矢を受けて落馬。楽進に殺されそうになるが、そこに甘寧が来て楽進を射たため彼は助かった。これがきっかけで恨みは水に流した。合肥の戦いで、張遼に襲われた孫権を命懸けで助けたため偏将軍に昇進。すごく頑張った凌統だったがあまり功績は認められず、地味なまま、49歳で病死。
呂凱 りょがい 季平 きへい 生死年:?~? 出身地:永昌郡不韋県 役職:五官掾功曹→雲南太守 所属:蜀 蜀の永昌郡の太守・王坑の功曹(功績記録係)。蜀の建興三年(225年)蛮王・孟獲の反乱に益州南部の太守たちも次々と呼応して反乱を起こしたが、呂凱は王坑を励まして反乱に加わらなかったため、反乱軍の攻撃を受けていた。反乱の報を受けた孔明は自ら南征を指揮して、諸郡を平定し、王坑の永昌郡を解放した。そのとき孔明は呂凱の功績は大きなものだとして褒め称えた。南蛮征伐に赴く孔明に呂凱は、南蛮の土地を詳しく描いた地図「平蛮指掌図」を渡した。孔明は喜んで受け取り、南蛮に詳しい呂凱を参謀の一人に加えて南征に出発した。
呂範 りょはん 子衡 しこう
生死年:?~228
出身地:汝南郡細陽県
役職:征虜中郎将→建威将軍→大司馬
所属:呉
孫策時代に呉に仕えるようになり、各地での戦いに同行し大きく貢献している。孫権の代になっても引き続き呉に仕え、赤壁・荊州攻略などでも活躍。劉備が呉にきた際に劉備を逃がさないように進言した人物。その後も良く活躍し順調に昇進し大司馬となる命が降るが、印綬を受け取るまで生きている事ができなかった。
呂布 りょふ 奉先 ほうせん
生死年:?~198
出身地:五原郡九原県(内蒙古自治区包頭市)
役職:調査中
所属:丁原→董卓→袁紹→張楊→張ばく→劉備→独立
「馬中の赤兎、人中の呂布」で有名。三国志最強の武将。通り名:飛将軍。初め、丁原の配下で養子であったが、呂布の力量に目をつけた董卓が、呂布と同郷の李粛に名馬・赤兎馬を送り物とし丁原の陣に向かわせた。本来、物欲に弱かった呂布は、天下の名馬の贈り物に負け、丁原を殺害し、董卓配下に加わる。董卓が朝廷の重臣になるにつれ、呂布も立身を続け、奮威将軍になった。董卓は呂布の歓心を買い、丁原同様、呂布を養子とした。反董卓連合が結成され諸将は、虎牢関まで攻め入るが、虎牢関を守る呂布の前に多くの武将を失う。そして、劉備の義弟・張飛が呂布に挑戦。打ち合うこと五十合に及んだが、勝負がつかず、この間に関羽、劉備も応援に駆けつけた為、不利を悟り、逃げ去った。その後、董卓抹殺を企む王允のチョウ蝉を使った「連環の策」が発動する。チョウ蝉の色香に董卓、呂布は迷い、チョウ蝉の奪い合いで、両人は仲が悪くなった。連環の策は見事に的中し、次に王允は帝位を譲ると虚偽の勅令を出し、董卓を宮廷に呼び出す。董卓が宮殿に入ると剣を手にした兵が並び、驚いた董卓は呂布に助けを求めたが、チョウ蝉を奪った董卓に対する怒りが溜まっていた呂布は「詔だ。逆賊董卓、覚悟しろ」と一喝。矛で喉を突き刺し、董卓を殺した。呂布は2人の養父をその手で殺したのだ。しかし、董卓の死を怒った李確、郭シらの反撃に合い、単騎、長安を脱出した。呂布自身、常に天下に君臨しようという野望を抱いていたので、頼ろうとしたエン術に断られ、エン紹に殺されそうになる。結局、自立以外に道の無い呂布は、軍師・陳宮の勧めで曹操の本拠・エン州を襲撃、奪取に成功する。エン奪還を図る曹操とは一進一退したが、肝心な所で陳宮の策を採用せず、結局一敗地にまみれ、徐州・劉備を頼る。呂布を暖かく迎えた劉備は小ハイの城を守らせたが、隙をついて徐州を奪う。しかし、抜群の武勇を誇った呂布も、陳宮の忠義と才能の心も生かせず、陳珪父子の策にかかって窮地に陥る。その後、劉備・曹操連合軍と戦ったが、配下に裏切られ生け捕りにされるという形で人生に終止符を打つ事になった。最後に打首直前の陳宮が「呂布は愚かであったが、曹操、貴様のように偽り多き姦雄ではない」と捨て台詞を吐いたのが、せめてもの救いといえるであろう。
「人中の呂布、馬中の赤兎」と謳われた猛将。
州刺史・丁原の養子だったが、董卓に赤兎馬を与えられると、丁原を殺し董卓の養子となった。
董卓に対して反董卓連合軍が結成された際には赤兎馬に跨り活躍。多くの武将を討ち倒す。だが、
劉備・関羽・張飛の三将に攻められると、さすがに不利と見て敗走した。
その後、董卓は洛陽を焼き捨て長安に遷都。そこでも暴政は続いたため彼の幕僚だった王允は国を憂い、呂布に彼を殺させる策を仕掛けた。単純な呂布は王允の思惑通り、彼を斬殺してしまう。
そして呂布は諸国を放浪。参謀・陳宮に従い自立を目指して曹操支配下の克州を奪取した。だが途中、陳宮の策を無視したために、結局奪い返され、今度は徐州の劉備を頼った。
呂蒙 りょもう 子明 しめい
生死年:178~219
出身地:汝南郡富陂県
役職:征虜中郎将→建威将軍→大司馬
所属:呉
子供の頃、身を寄せていた親戚・とう当が孫策に仕えていたため、そのまま呉の人間として成長していった。孫策の死後、孫権が実権を継承すると孫権は呂蒙の非凡な能力を認め、彼を将軍として引き立て兵を与えた。すると呂蒙もその期待に応えるように多くの戦功を上げ、孫権からの信頼をえるようになった。呂蒙は10代半ばから、すでに戦場で活躍を見せていた。その頃の彼は、己の胆力と膂力に頼った
武勇一辺倒の武将で、学問を軽んじていた。だが、孫権から「将たるものは学問を修め、教養を高めなければ真の名将とはいえない。学問を修めることも主君への忠義だ」と諭されて一念発起。勉学に励み、やがては学者に並ぶほどの知識を身につけた魯粛が死ぬと最高司令官の職は呂蒙に引き継がれ、呉の兵権を握るようになった。蜀呉の友好関係が崩れてくると、荊州の関羽討伐を計画(演義では陸遜が考えたと言われている)、関羽が北方に進軍している留守を狙って荊州に進行する、その際兵に戦地での略奪を禁じ、人民や捕虜も手厚く保護するように徹底した。その効果もあって関羽が戻ってきたときには荊州の人民は呉に心を開き、それを見た兵たちも呉に降伏してしまった。兵を失った関羽は逃亡中に捕らえられ処刑される。荊州平定の大功績に孫権も大いに喜んだが、呂蒙は帰国してまもなく病にかかり死去する。周瑜→魯粛→呂蒙、そして陸遜へと呉の最高司令官の座は継承される。世間における、、、もとい演義における呂蒙は事実とは大きく違っている。それはやはり絶大的は人気の関羽を殺したと言うところにあるようだが、呂蒙には気の毒なほど正史における良いエピソード部分は演義では大きくカットされ、マイナス的はエピソードが加えられている。実際の彼は学問に強く、戦略にも優れた周瑜・魯粛に引けを取らない司令官であった。忠義心にも厚く、孫権から貰った褒美は全て使わずに保管しておいて自分が死んだ後は全て返納する遺言していたらしい。
霊帝 れいてい
生死年:156~189
出身地:洛陽
役職:第十二代皇帝
所属:後漢
後漢第12代皇帝で姓名は「劉宏」霊帝は皇帝自ら官職を売り私財を貯える事に精を出していた。官職を買い占めて勢力を伸ばした宦官たちに印璽を預けるなど十常侍に詔勅を自由に操られた。そして宦官達は官職を買い占めて自分達の縁者を地方官にし、飢饉に苦しむ農民からさらに搾取をした。宦官達はそのお金で新たな官職を買い漁りやがて中央政界まで牛耳るようになる。そんな腐敗しきた宦官政治を排除しようとクーデターが計画されたが情報が漏れ失敗に終わる。見せしめとして首謀者・陳蕃他100人あまり惨殺され、2000人に及ぶ者が拷問を受け、逆に宦官の力を世に知らしめる事になった。これを「党錮の禁」という。「演義」では臨終の際後の献帝となる劉協を後継に立てたいため宦官の蹇碩と謀って何進大将軍誅殺を企てたが実行する前に亡くなった。
魯粛 ろしゅく 子敬 しけい
生死年:172~217
出身地:臨淮郡東城県
役職:東城県長→賛軍校尉→横江将軍
所属:袁術→呉
周瑜の後継者となった大資産家。生家は資産家で気前のいい性格だった彼は、周瑜が数百万の部下を抱えて困っていた所、魯粛は3千石の食糧を簡単に提供し周瑜を感嘆させ、2人は無二の親友となった。周瑜の推挙によって孫権に仕えるようになる。曹操が荊州に侵入してきた際には、孫権に劉備と共同戦線を組むよう進言。自らが使者となって同盟を締結させた。だが、劉備軍と孫権軍は同盟以後も意見の相違が多く、特に周瑜と諸葛亮は反りが合わなかった。魯粛はその間を取り持ち、赤壁の戦いで同盟を見事勝利に導く赤壁の戦いでは劉備と同盟して曹操に対抗することを提唱し、呉を勝利に導く。演義ではお人好しで弱々しく書かれているが、正史では大活躍している。最近では蒼天航路などでも活躍し、強気の魯粛として書かれてる。
伊籍 いせき 機伯 きはく
生死年:?
出身地:山陽郡
役職:左将軍従事中郎→昭文将軍
所属:劉表→蜀
もともと荊州の劉表に仕えていた。劉備も劉表のもとに身を寄せていたころから、伊籍はよく劉備のところへ通い、頼りにしていたという。劉備の馬が的ろと呼ばれる凶馬であると指摘したのは彼であった。劉表亡き後は、そのまま劉備に仕えた。また、赤壁の戦い終了後、馬良、馬ショクなどの優れた人材の推薦も行った。益州が平定された際、左将軍従事中郎に任命された。そののち呉に使者として遣わされた際には彼を言い負かそうとした孫権を反対にやり込め、感服させた。劉備入蜀の際昭文将軍に昇進し、諸葛亮、法正らと共に法律『蜀科』を編纂した。
尹黙 いんもく 思潜 しせん
生死年:?~?
出身地:梓潼郡
役職:観学従事→太中大夫
所属:蜀
于禁 うきん 文則 ぶんそく
生死年:?~221
出身地:泰山郡鉅平県
役職:軍司馬→安遠将軍
所属:鮑信→魏→蜀→呉→魏
元は鮑信の将であったが、曹操が現れると仲間と共に出頭し従軍するようになる。数々の軍功をあげるが張繍に曹操が負けたとき元黄巾の青洲兵が略奪をはじめ、それを于禁は処罰した。数人の青洲兵が逃げ出し曹操に虚偽の報告をし于禁を陥れようとしたが于禁は取り乱さずに陣形を整えてから冷静に曹操に謁見し実情を話しその後2人の信頼が深まった軍において極めて冷酷無比な人物で、人身や部下の心をつかむ事はできなかった様だ。最後のほうは蜀に降伏したり呉に降伏したりと国を転々としてしまう、最後に魏に戻るが自分を恥じて倒れたまま亡くなる。
袁胤 えんいん 公路 こうろ
生死年:?~199
出身地:不明
役職:丹楊太守
所属:後漢→孫策
袁術の従弟。一時は周尚(周瑜の叔父)の代わりに丹楊の太守に任ぜられていた。しかし、袁術から独立した孫策の配下である徐コン(王毘)に攻められ、太守の座を追われてしまった。やがて袁術が曹操と劉備に敗れて死ぬと、袁胤は一族と女婿である黄猗らと共に袁術の遺体を入れた棺を持って南に逃れ、皖城に勢力を築いていた劉勲を頼った。しかし、その皖城も孫策に攻め落とされ、袁胤と一族、工芸者、楽隊約3万人は捕虜となった。その後は処刑されたとも、下っ端として人生を送ったともいわれるが、何処にも袁胤の晩年の記述は無い。袁術の従弟にしては、一族を守ろうとする結構良い人物であったと予想出来る。
袁煕 えんき 顕奕 けんえき
生死年:?~207
出身地:汝南郡汝陽県
役職:幽州刺史
所属:袁紹
袁紹の次男で、袁尚のすぐ上の兄。父の袁紹には軟弱な人間だと誤解されていたが、本来は軟弱な人物ではなかったといわれている。証拠として、官渡の戦いで、袁紹が曹操に敗れた時、六万の軍勢を率いて応援に駆けつけたり、倉亭の一戦では、十面埋伏の計にかかり、全滅の危機に陥った父・袁紹を従兄弟の高幹とともに矢傷を負いながらも助け出したりしている。父の死後、袁譚・袁尚の相続争いを傍観していたが、曹操が冀州攻撃を開始した時、袁譚・袁尚を説得し、三兄弟で防戦に努めたが、敗れ、袁尚とともに幽州へ退却した。冀州城陥落の報を幽州で聞いたが、この時冀州に残してきた妻・甄姫を曹丕に奪われてしまう。その後、曹操に幽州を攻められ、袁尚と一緒に公孫康のもとへ逃れた。公孫康を殺害し、再起を図ろうと袁尚と画策したが見破られ、袁尚とともに首を討たれた。妻を敵に奪われるあたり不覚人といえる。
袁術 えんじゅつ 公路 こうろ
生死年:?~199
出身地:汝南郡汝陽県
役職:郎中→後将軍/皇帝(ただしあくまで自称、伝国の玉璽を孫策からもらったため)
所属:後漢→独立
愛されない自分主義者
南陽の太守として董卓討伐連合軍に参加し、食糧の監督を担当する。このとき、先陣として勝利を収めて勢いに乗る孫堅(彼が力を持つのを恐れて)わざと食糧を送らなかったり、身分の低い劉備たちが活躍しても蔑むなど、早くも性格の悪さは垣間見られた。
のちに、兵を貸す質として孫策から伝国の玉璽を手に入れた袁術は、帝位を僣称する。もともと贅沢で、税金を際限なく取り立てていた袁術が、皇帝となることでさらに贅沢を極めたので、彼が治める長江と淮水に挟まれた一帯からは何もなくなり、人が人を食い合うほど人民は貧困を極めた。名門袁家の出身であるため周囲からもてはやされた袁術は、自尊心が強く、周囲を見下すような
態度を取ったという。
董卓に対抗するために曹操ら諸将たちが反董卓連合軍を結成すると、南陽太守であった彼もそれ
に参加。洛陽を攻めた。だが、先陣の孫堅が武功を挙げるのを恐れ、兵糧を送らないなど利己的な
行動を取っている。
洛陽攻略後、連合軍が空中分解すると、孫堅、劉表攻めは、うまく孫堅を操り攻撃させていたが、あと一歩のところで彼が横死したため失敗。
その後は孫策を保護する。
2人は一時は良好な関係だったが、袁術が活躍に見合った報酬を渋ったため、孫策は袁術のもとを
去っていった。この頃から、周辺の豪族の反感を買うようになり、袁術は次第に孤立していく。袁紹の従弟。反董卓連合軍の際に、先鋒の孫堅に兵糧を渋りこれが原因で孫堅は敗走している。またその後、孫堅が死に、さらに孫堅の息子の孫策を飼い殺しにした。そして、孫策に伝国の玉璽と交換に3000の兵を貸し与えた。が、その後は袁退の道をたどる事となる。僅か3000の兵しか持っていなかった孫策が一気に大きくなり1つの勢力として独立。さらに、呂布を手懐けるために呂布の娘と袁術の息子と縁談を申し出ていたが、呂布が拒否。これによって袁術は呂布を討とうとするが返り討ちに遭い危うく討ち取られるところまで。そして、泣く泣く犬猿の仲だった袁術と組む事に・・・しかし袁紹の曹操討伐戦の時袁術との合同作戦のための北上中に大量の血を吐いて死亡した。
袁紹 えんしょう 本初 ほんしょ
生死年:?~202
出身地:汝南郡汝陽県
役職:侍御史→司隷校尉→冀州牧
所属:君主
三国志前半の主人公である曹操孟徳の最大のライバルと言えばこの人。四代に渡って有名な役職に就いていた名門袁家の御曹司。しかし彼はその名に恥じない威風堂々とした好人物だったと言う。
後漢の官僚時代、大将軍・何進に宦官撲滅を進言。だが逆に何進が宦官によって殺されると、逆
上し宦官を皆殺しにした。
宦官亡き後、朝廷内を牛耳った董卓が少帝を廃立しようとすると、袁紹はそれに反対して気骨を見せたが、董卓の報復を恐れ冀州に逃れた。群雄となってからも激戦区だった河北を持ち前の統率力と彼に従った優秀な文官武官と共に統一。一大勢力を築き上げた。いくら曹操や劉備よりスタートラインが良い位置にあったからと言ってここまでできたのは袁紹に長としての才があってのことであろう。しかし、末子の病気で好機を逃したり、郭嘉に「曹操よりも十劣る所がある」と言われたり、有能な部下の意見もろくに聞かず曹操と官渡で対峙して惨敗してしまったりと後半は散々であった。その官渡での敗北も部下の裏切りからと言うのだから目も当てられない。成功が失敗の元となってしまった悲運の群雄である。
頼りないリーダー
袁紹は大将軍・何進の腹心として登場する。政治を乱す宦官たちの誅滅を何度も勧めた袁紹だったが、何進はなかなか決断ができなかった。そしてようやく、袁紹の「諸方の豪傑を呼び集めてともに宦官を打ち滅ぼしましょう」という意見が採用される(思えばこれがのちの董卓の暴政を生む引き金になっている。このとき、同じく何進の腹心だった曹操は、わざわざ豪傑を呼び集めることには反対している)。
まもなく、何進が宦官の陰謀で殺されてしまったため、袁紹らはそれを機に宮中に突入して宦官を皆殺しにする。ここで新たに董卓という問題の火種が生まれたが、このとき飽信に「董卓は野心を持っているから早めに殺しておくべきだ」と言われても、袁紹は「やっと宦官の問題が片づいたのだから」と取り合わなかった。
間もなく董卓は政治の実権を握り、悪政を極めるようになる。
その後、曹操らの呼びかけによって、全国から17もの諸侯が董卓討伐を目的として集まり、袁紹は(家柄のよさを理由に)その連合軍の盟主に推される洛陽に攻め込んだ連合軍は董卓軍を撃破。董卓は急遽長安への遷都を決め、洛陽を焼
き払って逃げた。
だが洛陽を奪還したことで、群雄の集まりであった反董卓連合軍は空中分解。袁紹も自己の版図を広げることに専念。
河北で勢力を広げ、群雄の中でも最大規模の軍事大国を築いた。だが、しだいに袁紹の栄光にも陰
りが見えてくる。それは群雄の中で頭1つ抜きん出たことで、袁紹に驕りが生まれたためであった。
袁尚 えんしょう 顕甫 けんほ
生死年:?~207
出身地:汝南郡汝陽県
役職:不明
所属:袁紹→君主
袁紹の三男。整った容貌の持ち主でそこそこの才能も持っていたため、袁紹の寵愛を受ける。袁紹死後、2人の兄を抜いて後継者に抜擢される。しかし、所詮は凡庸な二代目で、曹操という強敵を迎えながら兄弟喧嘩や相続争いに振り回されて河北の地盤を失う。曹操との戦いで、キ州城を失った袁尚は次男・袁煕を頼って幽州に落ち延びたが、ここも曹操の侵略のところとなり、袁煕と共に公孫康のもとへ逃れた。袁尚としては、公孫康のもとで、兵を休ませ、折あらば公孫康を倒して遼東の軍勢を率いて再度、曹操と戦い、河北を奪い返すつもりであったが、袁尚の企みを見破った公孫康により、次男・袁煕と共に首を討たれた。
袁譚 えんたん 顕思 けんし
生死年:?~205
出身地:汝南郡汝陽県
役職:青州刺史
所属:袁紹→曹操
袁紹の長男で、青州の太守を務めた。強情で好戦的な性格で父・袁紹に嫌われて跡目を弟の袁尚に奪われてしまう。父の死を青州で知った袁譚は、袁紹の葬儀でも、参謀の辛評の進言で軍を城外に留め、袁尚の様子を探った。曹操が侵攻している間は、三兄弟で防戦したが、曹操が軍を引くと兄弟喧嘩を起こし、収拾がつかない泥沼にはまってしまう。結局、この骨肉の争いは袁譚は、袁尚・袁煕に敗れ、郭図の助言で曹操に降伏する。しかし、この降伏はあくまで袁尚を葬る為の便宜的なもので、袁尚敗走後、発起。曹操と対立する。袁譚の目論みを見破っていた曹操は、袁譚の軍勢を撃破した。曹操に降伏を願ったが、許されず、最後の決戦で曹操配下・曹洪に討たれた。河北に一大勢力を築いていた袁一族であったが、兄弟一致団結して国を守るべき時期に内紛を起こしては救いようがなかった。袁紹が長男を後継ぎにしなかった事により、袁一族滅亡の道を辿ることになってしまった。
えん圃 えんほ 生死年:?~? 出身地:巴西郡 役職:功曹 所属:張魯→魏 張魯の懐刀。張魯の軍師として五斗米国の独立に大きく貢献した。張魯が漢寧王を望んだとき、これに意見して「今も漢中で独立した勢力を維持し、財力豊か。人民も我々の支配のもと、無事に過ごしております。あえて今、王になる事もありますまい。まずは益州を奪い、その後、王の位に就かれてもよろしいでしょう」と、張魯に益州を奪うよう進言した。曹操が漢中へ侵攻してきたときも圧倒的な軍勢との対戦を避けて南山へ逃走するように勧めた。冷静な分析力の持ち主で、よく張魯を助けて無残な敗戦を免れさせた功績は大きい。張魯降伏後、共に曹操に帰順した。曹操もえん圃の力を認め、張魯と同じように列侯に取り立てている。
王允 おういん
「一日千里、王佐の才」(王を支えるすばらしい才能がある)と謳われた後漢の名士。黄巾賊が反
乱したときに鎮圧軍を率いている。王允は董卓の側近として政務を執り行なっており、立場上、董卓への不満が寄せられることが多かった。彼自身も董卓の横暴には不満を抱く日々を送っていた。そこで諸将に諮ってみたところ、曹操が董卓暗殺を引き受けた。曹操は王允の持っていた宝剣・七星の剣を借り、董卓の寝込みを襲うことを計画。だが、彼の参謀・李儒に気づかれ失敗に終わってしまう。
その後、董卓は反董卓連合軍との戦闘を避けて長安に遷都。王允は自分の屋敷にいた歌姫・貂蝉を利用し董卓と呂布を仲違いさせることを目論む。彼の策は見事成功し、呂布は董卓を斬り捨てることになる。都には平和が訪れたかと思われたが、董卓の部下が復讐のために攻め寄せた。呂布は逃げ出したが、彼はこれまでと観念。「王允はここに果てるのみ」と叫び、兵の前に躍り出て殺され
てしまうのだった。
王伉 おうこう
生死年:?~?
出身地:蜀郡
役職:府丞→永昌太守
所属:蜀
蜀・永昌郡の太守。蜀の建興三年(225年)蛮王・孟獲の反乱に益州南部の太守たちも次々と呼応して反乱を起こしたが、王坑だけが反乱に加わらなかったため、反乱軍の攻撃を受け続けていた。敵は南蛮軍を後ろに控えた三郡の連合軍。どこまで守り通せるのかと弱気になっていたが、配下の呂凱に「ここは益州の門です。何があっても守り通さねばなりません」と励まされ、最後まで守り通す覚悟を決める。反乱を平定するため、蜀の丞相・孔明が自ら指揮し、三郡を平定し、王坑の永昌郡を解放した。孔明は反乱に加わらなかった王坑を忠義の士と称え、功績は大きなものとした。王坑は南蛮に詳しい呂凱を孔明に従わせ、自分は太守として永昌郡に留まった。
王戎 おうじゅう しゅん仲 ほんしょ
生死年:234~305
七賢の中で最年少者。司徒まで昇進した。ケチだったらしい。
王濬 おうしゅん 士治 しじ
生死年:206~285
出身地:弘農郡湖県
役職:巴郡太守→輔国大将軍→歩兵校尉
所属:魏→晋
晋建国と同時に重用され巴郡太守となる。最後の呉討伐に参加し蜀・成都から呉の都・建業を目指した。進軍は調子良く連戦戦勝で他のコースから進軍していた軍隊より一番早く建業到着し呉帝の孫晧を降伏させた。
王平 おうへい 子均 しきん
生死年:?~248
出身地:益州巴西郡宕渠県
役職:校尉→裨将軍→鎮北大将軍
所属:魏→蜀
魏の将軍徐晃の下にいたが、劉備に降る。街亭では山上に布陣しようとする馬謖を諌めるが聞き入れられなかった。北伐の際は張翼とともに奮戦、木牛・流馬を使って見事に勝利を収める。王平は一説には漢中の少数民族の出身ともいわれ、陣中で育ったために文字が十文字ほどしか書けなかったから、命令書は口述で。だが、事態の本質を正確に把握する能力は十分だったという。諸葛亮死後は漢中を守っていたが、二四八年、病没。
王朗 おうろう 景興 けいこう
生死年:?~228
出身地:東海郡
役職:郎中→諫議大夫→司空→司徒
所属:後漢→陶謙→魏
孝廉出身で後漢に仕えた会稽の太守。厳白虎に味方し、孫策に対抗したが敗れた。その後は魏の朝廷に仕えた。博識の戦術家で有名で老いてからは大儒の風格があったといわれる。蜀の孔明が祁山に出陣し、長安を狙う勢いを見せた時、総大将・曹真の軍師として出陣。祁山で対峙した両軍は王朗の主張で開戦前に論戦で勝負に出る。王朗は孔明に論戦で勝つ自身があった。錦の直垂に黒塗りの鎧姿で白髯をなびかせ陣頭に立った。王朗は昔、季布が高祖を陣頭で論破し、戦にも勝った前例を再現するつもりであったのだ。挑戦を受けてたった孔明は蜀王朝の正当性を説くとともに、魏に仕える王朗の不忠を鋭く責めた。王朗は孔明が放つ痛烈な言葉に耐え切れずに憤死した。
王累 おおるい
生死年:?~211?
出身地:広漢郡
役職:従事
所属:劉璋
益州の牧、劉璋の従事。赤壁の敗戦の後、曹操は西への侵攻を開始し、馬超らを破って関中、涼州を手にした。そして次は漢中を狙い始めると、漢中で勢力圏を築いていた張魯は予てより仲違いしていた劉璋の益州を先に奪わんとした。劉璋は恐れおののき、部下達に対策を聞くと、法正や張松、孟達らは荊州の劉備に救援を求めるべきと説いた。実はこの時この3人は劉璋の君主としての器に見切りを付け、劉備を益州の牧にせんと謀っていたのである。そんな事とは知らず、劉備を迎えようとする劉璋を止めようとしたのが、王累を始め、張任、黄権らだった。必死に引き止める彼らだったが劉璋の決意は思いの他強く、尽く一蹴した。王累は覚悟を決め、劉備を迎えに行こうとする劉璋を成都城の城門に逆さにぶら下がって待ち構えた。王累は「殿が行くというなら足の縄を切って自害する」と言った。それでも劉璋は決意を曲げず、王累は無念を思って縄を切った。結果、彼らの心配通り、益州は劉備に取られてしまったのであった。
か行
かい良 かいりょう 子柔 しじゅう
生死年:?~?
出身地:襄陽郡中廬県
役職:不明
所属:劉表
荊州の豪族。カイ越の兄で、兄弟ともども秦から漢にかけての時代に活躍したカイ通の子孫と言われた。弟とともに何進の属官として仕え、劉表とも親しかった。頭脳明晰、公正無比の人物。後に弟と共に何進を見限り、故郷・荊州に帰っていたが、劉表荊州入りに際して、弟と共に劉表に仕えた。孫堅が荊州に侵攻してきたとき、孫堅の将星が尽きかけている事を知り、袁紹に援軍を求めての持久戦を示唆した。その後、武将の呂公に待ち伏せの計を授けてケン山で孫堅を射殺させるなど、良策を立てた。孫堅死後、江東を攻め取る絶好の機会だと進言したが、取り入れられないとみると、荊州を仁愛と恩徳で掌握すべしと進言した。劉表死後、曹操への降伏を反対したが、劉ソウが降伏を決めると、心労のあまり病死した。
賈ク かく 文和 ぶんわ
生死年:147~223
出身地:武威郡姑臧県
役職:郎→左馮翊→尚書→太尉
所属:牛輔→李かく→?→張繍→魏
孝廉に推挙され洛陽で役人として使えていたが、病気になって辞職。だが、故郷へ帰る途中に、運悪く賊に襲われ捕われてしまう。ここは乱世の切り抜け方を熟知していたのだろう。その地方の豪族・段氏の名を語り、『私は段家の親族だ。もし私を殺すのならば、他の者とは別に埋葬するがいい。家の者が十分な礼をするだろう。』と嘘八百並べ立てると、賊は彼の縄を解き、盟約を結んでまで送り返した。彼のいつでも臨機応変に対応できた能力は素晴らしいものだったのだろう。その後、再び討虜校尉に任じられ、董卓が暗殺されると、李カク・張済に長安攻略を立案。2人が呂布に敗れると、今度は張繍に仕え、その策略で何度も曹操を苦しめたが、官渡の戦いの際に張繍に曹操に降るよう勧め、それからは魏の陣営で戦略を献策した。しかし、降将の立場をわきまえ、重用されても奢ることなく、人付き合いは慎重でひっそりと暮らし、77歳で世を去った。
賣認に相談して知恵をつけてもらう。のちに曹操が出征し、息子たちが見送る際のこと、曹植は父を褒め称え、その言葉はそのまま文章になるほど立派なものだったが、 一方の曹盃はただ下を向いて涙を流すばかり。しかし涙によって、曹盃は側近たちの同情を集めるようになる。
後日、曹盃は呉質にも相談したいと思い、その姿を人に見られないよう気遣って、彼を大きな篭に隠して屋敷に入れた。しかしそれを知った曹植のブレーン・楊修が曹操に告げ口をする。「ならば明日捕えてみよう」と曹操。それを側近の者たちから伝え聞いた曹盃が焦っていると、「明日は籠の中に絹をたくさん入れたものを運び込めばよろしいでしょう」と呉質は言った。翌日、同じく籠が運び込まれたので、曹操が籠の中を調炒させると、中身は絹ばかり。不審に思った曹操は、「楊修が論言によって曹盃を陥れようとしているのではないか」と疑うようになったのである。さらに、優秀だと感心していた曹植も実は楊修が入れ知恵していたのだと知ると、ついには曹植自身にも好意を持たなくなってしまった。こうして曹蚕は、後継の座を自分のものにすることができたのである。
敵の裏を読む適確な状況判断で曹操を破る
張繍は惨謀を務めていたとき、賣認はのちの主君である曹操を何度も破っている。
曹操が南陽の城を攻める際、補強の弱い西北の側から攻め入ろうと、そちらに将兵らを集めていると、賣詔は軍の精鋭部隊を東南のほうに集めて家の中に隠れさせ、西北側には百姓を兵士に扮装させて置いた。曹操は城内の兵が西北に集まっていると聞き、「計略にかかったな」とほくそえみ、西北ではなく諌舗の側から攻め込んだが、伏せていた張繍軍の精鋭が突然現れたので、曹操軍は惨敗となり、兵を退いた。
その後、曹操軍も盛り返し、戦況が一進一退の膠着状態となっていたとき、曹操は袁紹が本城を狙っていると聞いて、仕方なく引き揚げることになった。張繍はこれを聞きつけてすぐに追撃に出ようとする。賣詔は、「これを追撃すれば必ず敗れます」と諌めたが聞き入れられず、張繍と劉表の2人は出撃して惨敗。すると戻ってきた2人に対して賣認は「いまからまた追撃なさいませ」と言う。張繍と劉表は、いま負けたばかりだぞ、と驚いたが、賣認が「もし負けたら私の首をお斬りください」とまで言うので、張繍だけはその言葉を信じ、手勢を率いて追撃に向かった。
するとその言葉の通り、張繍軍は大勝し、逃げ去った曹操軍が捨てていった軍馬や軍用品などを大量に手に入れることができたのである。
納得がいかない2人に賣認は、「曹操は知謀に長けた男ですから、急な退却であればこそ、追撃には必ず備えておくでしょう。しかし、急に引き揚げるからには、それなりの急ぐ理由もあるはず。我が軍の追撃を退けた後には、退却のほうを優先して備えは甘くなるだろうと思ったのです」と解説。張繍も劉表も、彼の読みの深さには感服したのであった。頁認は人の心理の裏を突いた計略が得意なのである。
郭嘉 かくか 奉孝 ほうこう
生死年:170?~207?
出身地:豫州潁川郡陽擢県
役職:司空軍祭酒
所属:魏
字は奉孝。荀イクの推挙で曹操に仕える。あらゆるエピソードから郭嘉こそが「三国志」における天才だという声も高い。特に彼の発言はあまりに遠大であり、それは予言の域に達している。病弱で早くに亡くなり、曹操の悲しみは深く、郭嘉を惜しみ、称える曹操の言葉が多く残されている。世に出るにあたって、まずは仕官のために袁招の元を訪れるも、その人柄に失望した郭嘉。彼は荀彧の紹介を経て、かねてから人材を物色していた曹操と出会うことになる。2人は歳が離れていたにも関わらず意気投合。曹操の幕下に加わって、その天下統一に貢献する。2人の間には厚い信頼関係が築かれていった。呂布討伐にあたっては常に的確な作戦を考案し、毎回のようにその策略が
採用された。そのため、結果的に曹操は三戦で三勝。ついには呂布を打ち倒すに至ったまた、曹操との相性もよく、荀イクへの手紙の中で「奉孝こそはわしの心を理解していた男なのだ。天下の人で理解してくれるものは少ない。この事でも残念至極なのだ」と述べている。もう一つ、荀イクへの違う手紙の中では、こうも言っている。「かの人物が下した時事・軍事に対する判断は、はるかに人を超えていた」次代を担う参謀として曹操に期待された天才軍師。若くしてその才能を発揮し、『曹操側に十の勝因あり、袁紹側に十の敗因あり』と曹操を激励した官渡での功績は多大。時代の流れを鋭く見極め、袁紹軍の内情や孫策の死を見事言い当てていた。
袁紹から傲慢な手紙を受け取った曹操は、まず袁紹から征伐してやろうと考えるも、曹操軍10万、袁紹軍50万、という兵力差を思うと、手が出せないのであった。
しかし郭嘉は、曹操が袁紹に勝る十の要素を述べ、袁紹を破ることは容易だと言う。
「第一に、袁紹は形式や礼儀にうるさいですが、我が君は自然に任せて、行動を細かく咎めません。これは勝ちです。第二に、袁紹は皇帝に背く逆賊。我が君は皇帝を擁し、天下を従えています。これは″義″の勝ち。第二に、袁紹は自分にも他人にも甘く、君はそこが厳正です。これは″治″ の勝ち。第四に、袁紹は人を用いるのに疑い多く、親戚ばかりを重用します。君は用いた人間を疑わず、また才能を最優先し、血縁は問いません。これは″度″の勝ち。第五に、袁紹は決断力がなく時機を逃しますが、君は策略をすぐに実行に移し、臨機応変に対応することができる。これは″謀″の勝ち。第六に、袁紹は名声にこだわり、他人を回先だけで褒めますが、君は真心をもって人に接し、日先だけで褒めたりしません。これは″徳″の勝ち。第七に、袁紹は近い者を大事にし、遠い者まで気粉胸らない。君は全体に心を配っています。これは″仁″の勝ち。第八に、袁紹は論言にすぐ惑わされますが、君は惑わされません。これは″明″の勝ちです。第九に、袁紹は規律をあやふやにしますが、君は正しく裁きます。これは″文″の勝ち。第十に、袁紹は兵法の基本を知らない。それに対して君は兵法に明るく、少数でも大勢を破ることができます。これは″武″の勝ちです」
これに対して、荀咳も「私も郭嘉どのの『十勝十敗の説』とまったく同じ意見です」と言ったので、曹操は褒め言葉には謙遜しつつも、袁紹討伐の意志を固めた。ただ女癖が悪く、周囲の文官(特に劉曄)へのウケは悪かったようだが・・・。袁熙北伐の際、風土病にかかり36歳の若さで死去。曹操は詩を以って嘆き、後の赤壁の戦いでも『奉公が生きていればこんな負け方はしなかっただろう』と惜しんでいる。
かく昭 かくしょう 伯道 はくどう
生死年:?~255
出身地:隴西郡大原県
役職:部隊長→雑号将軍
所属:魏
若い時から軍隊に入り、部隊長へと昇進する。黄河西の辺境で蛮族などの攻撃を防ぎ、軍功をあげると雑号将軍に昇進した。その後も度々窮地を乗り越え軍功を重ね、河西地帯を10年以上も統治。その仁を人民は慕い、異民族は恐れて服従しという。陳倉の守将に命じられたていた時、蜀では諸葛亮の第二次北伐が開始され、陳倉の城は数万の蜀軍に包囲されてしまった。対してかく昭率いる魏軍は数千。数から言っても分が悪く、しかも相手は大軍師孔明だった。通常から考えても守りきれる物では無いと思われたが、魏にとって陳倉は重要地点、負けるわけには行かなかった。蜀軍は雲梯や衝車・井欄・土嚢などで次々と攻撃をしかけてきた。しかしその攻撃を防ぎ、魏の援軍が来るまで守り抜いた。その功績を明帝は大いに褒め称え、列候の爵位をあたえた。明帝はさらにかく昭を重用しようとしたが、その前に病にかかり亡くなっている。
楽進 がくしん 文謙 ぶんけん
生死年:?~218
出身地:陽平郡衛国県
役職:帳下の吏→行遊撃将軍→右将軍
所属:魏
曹操が黄巾征伐のために挙兵したときから従軍していたというが、曹操によって無名の兵卒から見出されたという説もある。若いころは県の役所で文書係をしていたが、小柄な体からは想像もつかないほどの度胸で、常に敵陣に一番乗りを遂げ、いつのまにか部隊を指揮するようになったようだ。濮陽で呂布と戦ったときは、敵将・成廉を弓で射殺している。赤壁の戦い後は張遼の副将として合肥の守備にあたる。大軍を率いたという記録はないが、指揮官としての働きもまずまずだったらしく、曹操は彼を徐晃・于禁などとともに五将軍に任命している。濡須江の戦いでは甘寧に顔面を射られ、落馬。曹操自らの必死の看病により一命を取り留めたが、28年、病死。
郭図 かくと 公則 こうそく
生死年:?~205
出身地:穎川郡
役職:計吏
所属:袁紹
袁紹に仕え、参謀役として活躍した。官渡の戦いでは、審配らとともに早期決戦を進言した。しかし、自分の立てた作戦の失敗を高覧、張コウらの責任にしたため、多くの勇将を曹操軍に走らせた。その責任は大きいといえるだろう。袁紹死亡後、後継者争いが起こった際、長男・袁譚を補佐したが、袁譚が袁尚に敗れた時、曹操と共に袁尚を滅ぼす策を立て、一度、袁譚らと共に曹操に帰順する。そして袁尚が滅ぶと、これを機に袁譚を自立させ再度、曹操と対決。最後には南皮で曹操に破れ、斬首された。
郭攸之 かくゆうし 演長 えんちょう
生死年:?~?
出身地:南陽郡
役職:侍中
所属:蜀
郭淮 かくわい 伯済 はくせい
生死年:?~255
出身地:大原郡陽曲県
役職:平原府丞→鎮西長子→陽曲候
所属:魏
元々は考廉に推挙され中央政府で平原府の丞となっていたが、その後曹操に仕えるようになった。張魯征伐にしたがって従軍し、夏侯淵の配下として参戦する。そのまま漢中の守備を命じられた夏侯淵と共に、漢中に残り劉備軍の侵攻に備えた。だが実際には劉備との合戦の時、郭淮は病にかかっていて参加する事ができず、軍は敗走し夏侯淵は黄忠に打たれ戦死してしまった。そのため指揮官を失って混乱する兵士を静め、残兵をあつめて、副将であった張[合β]のもとまで連れ行き軍を立て直した。その後30年にわたり西域をまもり度々功をあげ昇進し、最後は陽曲候にまでのぼりつめていた。孔明の策略は苦手だったらしいが、姜維にはあまり負けていない。司馬懿の配下であったがあまり目立たない存在で「演義」ではヤラレ役っぽい。
夏侯淵 かこうえん 妙才 みょうさい
生死年:?~219
出身地:沛国県[言焦]県
役職:別武司馬・騎都尉→征西将軍
所属:魏
夏候惇や曹操とは従兄弟にあたり、曹操が挙兵する前からの付き合いで曹操が事件を起こした時に身代わりとなって曹操を助けている。のちに曹操に救出されてからは曹操に従軍し、戦場では急襲を得意とし、いつも敵の不意をつく攻撃をしていた。軍中では典軍校尉の夏侯淵、3日で500里、6日で1000里」と言われていた。西涼討伐では活躍し馬超率いる西涼軍を破り馬超を漢中に敗走させている。漢中の張魯が降伏し曹操が平定すると漢中の守備を任され征西将軍に任命されている。劉備軍が攻めてくると張[合β]を東の守備を任せたが敗れ、自軍の兵を半分さいて救援の駆けつけるも劉備軍の黄忠の猛攻を抑えきれずに定軍山で黄忠に討ち取られている
夏侯惇 かこうとん・かこうじゅん 元譲 げんじょう
生死年:?~220
出身地:沛国県[言焦]県
役職:裨将軍→折衛校尉→大将軍
所属:魏
字を元譲。沛国<言焦>県出身。曹操の従兄弟にあたり、前漢の高祖であった劉邦に仕えた夏侯嬰の子孫でもある。曹操とは長いつき合いで、189年に黄布賊討伐のために挙兵した当初から、一軍を率いる武将としてつき従っていた。以来、弟の夏侯淵とともに曹操の片腕として活躍する。
質素な生活を好み、性格は極めて温厚。曹操の従弟にあたる。14歳のときに、師を侮辱した者を、家まで押しかけて行って殺してしまったという事件以来、気性の激しさで知られるようになる。追放され、各地を流離っていたが、曹操の反董卓の激に応じ、手勢を率いて駆けつけ、洛陽炎上の際は、徐栄を数合せぬうちに突き殺している。その後、夏候淵と共に各地を転戦。対呂布戦での、高順との一騎打ち。もちろん相手ではなく、相手は逃げ出したが、夏候惇は追い縋る。終いにはありったけの罵詈雑言を浴びせながら、陣営の周りをぐるぐると追いかけっこを始める始末。中からその様子を見ていた曹性、何とかして同胞を助け出そうと一矢放ち、それが見事に夏候惇の左眼に突き刺さってしまう。引き抜くとなんと目玉が一緒にでる。それを「これは父の精、母の血、捨ててなるものか」と飲み込み(!)、槍を取り直し、敵陣に突進、曹性の顔面を串刺しにしてしまった。正史によると、曹陣営では夏候淵と区別をするために皆は夏候惇を“盲夏候”と呼んでいたが、彼はそれを嫌い、鏡を見るたびに叩き割ったという。関羽が関を破り、魏軍を去ろうとしたときは、斬られた五関の六将が皆の部下だったからか、単騎関羽を追いかけ、一騎打ちを挑む…が、張遼が曹操の手紙を持ってきたために、仕方なく引き下がった。新野の劉備攻めでは、諸葛亮の華々しい初陣のいいカモにされてしまう。自ら身体を縛って、曹操に処断を願い出たが、それまでの功により許された。曹丕即位後、曹仁・程イクと共に功労三臣として賛えられ、大将軍に任命されたが、曹操死後より一年、追うようにして死んだ。財を蓄える事はせず、質素な暮らし振りで、旱魃に見舞われると農業の指揮をし、洪水が起きると土塁を担いだ。曹操の信頼は絶大で、車の同乗や寝室への出入りも許されていた。また、はじめ彼は、魏の称号ではなく、漢の官職に就いていたが、曹操は「なぜ君が“魏”などという国に頭を下げる必要がある?」と、あくまで友人として接しようとしたが、頑固な夏候惇がしつこく言うのでついに魏の偏将軍に任命したという。
夏侯覇 かこうは 仲権 ちゅうけん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:偏将軍→右将軍→車騎将軍
所属:魏→蜀
夏侯淵の次男である。父が蜀との戦いで戦死している為、蜀を仇と憎んでいた。勇猛さに優れ兵士や人民を可愛がったため人気があった。夏侯玄の配下として属し従軍していたが曹爽が司馬懿に斬られると夏侯玄などにも出頭が命じられた。夏侯覇は出頭は危険だと察知し夏侯玄に出頭せず蜀に降ろうと持ちかけるも夏侯玄はそれを降り切り帰国し処刑される。その後、夏侯玄の代わりの上司として日頃から仲の悪い郭淮が来た為、それを嫌って蜀に降る。その後、蜀でも礼遇され車騎将軍に任じられ、姜維の補佐として参軍し良く助けている。蜀滅亡時には夏侯覇の名がない為それ以前の死んでいたようであるが、いつ何で死亡したかは不明である。演義では魏との戦いで司馬望に石矢を浴びせられ戦死している。
賈充 かじゅう 公りょ こうりょ
生死年:217~282
出身地:河東郡襄陵
役職:大将軍長史→史空→太宰
所属:魏→晋
魏の功臣にして有能な政治家でもあった賈逵が晩年に授かった子。父を若くして失うが、その葬儀のときの孝行ぶりが評判となり父の官職を引き継ぐ事となり、その後も順調に昇進する。司馬師の毋丘倹討伐時に従軍し、重病の司馬師帰還後に後の指揮を任され、見事に討伐し功を立てる。また曹髦が司馬昭を誅殺しよとした際にも活躍し、賈充は他の者に帝を殺させ司馬昭の責任を問われないように画策した。司馬昭からの信頼も厚く、その後も要職を歴任し、天下統一に貢献しつつ晋国建国を見届けて死去。
何進 かしん 遂高 すいこう
生死年:?~189
出身地:南陽郡宛県
役職:屠殺業者→大将軍
所属:後漢
はじめ、何進は屠殺業を営んでいた。何進の妹は美しく、妹が霊帝に気に入られ、後宮に入り、霊帝の寵愛を受けて皇子・弁(後の少帝)を生んだところから出世の糸口が開け、大将軍にまで成り上がった。霊帝の生母・董太后が王美人が生んだ皇子・協(後の献帝)を溺愛し、帝の後継者にしようと画策した。その時ちょうど、霊帝が逝去したため、十常侍は董太后と図って、協を帝位に就けようとした。これを知った何進は邪魔者扱いにされ、殺されると思い、兵5千を率いて宮殿に乗り込み、十常侍の幾人かとその協力者を斬り、妹の生んだ弁を即位させた。帝の叔父として全権を掌握した何進は邪魔な董太后を毒殺した。何進の権勢を妬むカン官勢力は結束して何進に対抗。これに対し何進はエン紹らの提案を取り入れて各地の豪族を洛陽に集めて一気にカン官討伐することにした。慌てたカン官一味は何太后(何進の妹)が呼んでいると欺き、何進を宮殿におびき寄せた。何進はまんまとその策にかかり、暗殺された。後に恐怖政治を行う董卓をはじめ、各地の豪族を召集した事から、世は一気に群雄割拠の乱戦時代を迎えるが、そのきっかけを作った男であった。また、もともと屠殺業を営んでいた町民であったため、部下を掌握する事もできず、乱世を治める器量もなかった。
関羽 かんう 雲長 うんちょう
生死年:?~219
出身地:河東郡解県
役職:別部司馬→偏将軍→前将軍
所属:蜀
関羽は、張飛とともに劉備と桃園にて「生まれた日は違えども、願わくば同年同月同日に死なん」と義兄弟の誓いを立て、関・張の二弟は終生劉備を守り通した。
物静かで冷静沈着な関羽は血気盛んな張飛のなだめ役であり、歴史書を愛読するなど学問を好んだ。しかし、一度戦場に出れば、九尺を超える長身から繰り出す八十斤( 約18 ㎏ ) の青竜偃月刀で敵をなぎ倒し、その姿は鬼神のごとしと謳われた。また、「美髯公」と呼ばれた彼の長く艶やかな顎髭は、彼の高い気位と誇りを表わすものであった。
彼が義烈の人としての評価を決定的にしたのは、曹操軍の攻勢に力尽きて捕虜になった時。
曹操は関羽の人柄に惚れ込み、仕官の打診をした。しかし彼は「貴殿の恩顧には胸痛みますが、わが主劉備殿とは、同生同死を誓った兄弟にして主従。やがては劉備殿のもとへ去りましょう」と断った。曹操は「予に欠けた殼大の宝を持つ劉備は果報者よ」と嘆じたという。知勇兼備の猛将で、劉備からは絶大な信頼を得ていた。劉備が曹操に敗れたときには、劉備の妻子を守るために曹操に降伏したという。そして曹操が袁紹を頼っているという報告を聞くと、すぐに曹操の元を離れて、五関で六将を斬った。そして養子の関平と出会い、また張飛と再開して劉備の元へと帰ってきた。これを「関羽千里行」という。しかし、強すぎる程の正義感が災いして、荊州を呉に奪われた後、自らも呂蒙の策にはまり、捕らえられて殺されてしまった。蜀の五虎大将の筆頭といえるだろう。
韓玄 かんげん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:長沙太守
所属:魏→蜀
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、劉度、趙範、金旋らと共に謀反を起こし、国を四分割し、長沙の太守となる。配下に恵まれ、後の五虎将の黄忠、猛将・魏延などを配下としていた。韓玄は自分の栄華のため、住民に重税をかけたり、領地で美女を見つけては無理矢理、城に連れていき、自分のなぐさみ物とするなど、横暴な性格であった。劉備が荊州平定に乗り出した際、城を渡すまいと劉備軍を攻撃し、先鋒に勇将・黄忠を出した。劉備軍・関羽と黄忠は一騎打ちをするが、黄忠の馬が足を折り、黄忠は落馬する。しかし、関羽の男気に黄忠は助けられる。韓玄は黄忠に「薙刀で勝負しおって、愚か者め。明日は得意な弓で関羽を射殺せ」と命令する。次の日、黄忠は矢を放つそぶりを見せ、関羽に助けられた義理を返す。これを韓玄は「劉備軍と図って、主君を売る気であろう」と怒り、黄忠に死罪を申しわたす。韓玄に尽くした功労者・黄忠を死罪にしようとした韓玄に憤りを感じた魏延は民や兵士を説得し、反乱を起こした。それを知った韓玄は逃げようとしたが、魏延に追いつかれ、殺された。仁政を省みず、自分の栄華のために民を苦しめた為に反乱を起こされた愚かな人物であろう。
関興 かんこう 安国 あんこく
生死年:?~?
出身地:不明
役職:侍中・中監軍
所属:蜀
関羽の実子で次男である。まだ幼い頃からその武勇によって高い評価を受けており、諸葛亮にも認められていた。のちに、呉の呂蒙によって殺された父関羽の仇を討つために、張飛の息子張ホウと共に劉備の呉の討伐に参戦した。夷陵の戦いでは老将、黄忠の危機を救い、また諸葛亮の行った第一次、第二次等の北伐でも果敢に戦い、張コウなどの名将も討ち取った。演義には、呉の討伐の際に張ホウと先陣を争って劉備に咎められ、義兄弟の契りを結んだ、とある。しかし、惜しくも諸葛亮と同年の234年に病没した。
韓遂 かんすい 文約 ぶんやく
生死年:?~215
出身地:不明 役
職:計吏→鎮西将軍
所属:後漢→君主
西涼に割拠した諸侯の一人。当初は馬騰と争っていたが、行動を共にするようになる。馬騰が息子等と共に曹操に処刑された後、馬超と共に西涼の騎馬隊を率いて長安に攻め込む。馬超韓遂連合軍の勢いが激しく、曹操軍は押され気味であったが、名参謀賈クにより馬超と仲違いし、韓遂が曹操軍に寝返ったために馬超は大敗してしまう...というアコギな人物に三国演義では描かれている。しかし正史では、曹操軍に寝返る事は無く、馬超韓遂連合軍が負けた後も各地を転戦していた気骨のある人物ということである
かん沢 かんたく 徳潤 とくじゅん
生死年:?~243
出身地:会稽郡山陰県
役職:西曹掾→太子太傳
所属:呉
生まれは官の家ではなく貧しい農家だったため、学問を学びたかったが学資がなく、書物を買うことも出来なかった。考えた結果、他人の書物を写してその書物を売って生活していた。写している間に書物の内容は暗記していたので、持っている意味がなかったという。その知識を基に学識を深め、次第に有名になり、顧雍によって孝廉に推挙された。孫権の出世と共にかん沢も昇進し、孫権が皇帝になると尚書になり、最後は太子太傳にまでなった。
韓当 かんとう 義公 ぎこう
生死年:?~223?
出身地:遼西郡令支県
役職:別部司馬→先登校尉→都督
所属:呉
孫堅・孫策・孫権と三代にわたって仕え、三代ともに深く信頼されていた古株の将軍。部下からの信頼も厚くいつも励ましていたため、兵は皆心を一つにして戦った。会稽・呉・丹楊の三軍討伐・黄祖討伐・赤壁の戦い・宜都の戦いなど多くの戦に参加し活躍した。最後まで信頼され、223年には都督の称号を受けるが、まもなく病気で没する。
甘寧 かんねい 興覇 こうは
生死年:?~?
出身地:巴郡臨江県
役職:西陵太守→折衝将軍
所属:劉表→黄祖→呉
若い頃任侠の道を進み、ならず者を集めて頭領を務め、傍若無人に振舞っていた。そんな生活を二十余年続けた後、これまでの生活を一転させて書物に没頭し、やがて荊州の劉表に仕えた。だが、当時の荊州は戦火を逃れた知識人が多く集まっていたため、インテリ志向の劉表は彼らを重用し、遊侠上がりの甘寧を厚遇することはなかった。逆に甘寧も、劉表はこの乱世を生き抜く器量を持ち得ていないと見切りをつけ、黄祖の下へ身を寄せた。しかしここでも一向に重用されずに並の食客程度の待遇であったため、今度は呉に身を託すことにした。甘寧は志を抱いて劉表の所に身を寄せるが、劉表は甘寧を高く評価せず甘寧は黄祖の所に行く。しかし、黄祖も甘寧を評価しなかったので、孫権のところに身を寄せるようになる。孫権は甘寧を高く評価し呂蒙や周瑜の推挙もあり、特別な待遇をうけた。そのころから才能が開花しはじめる。度胸と機転のきく指揮官ぶりを発揮し、戦地では大胆不敵な戦略でとても活躍した。
関平 かんぺい
生死年:?~219
出身地:不明
役職:不明
所属:蜀
関定の次男だった関平は、家に関羽一行が立ち寄ったとき、同姓のよしみで養子に迎えられた。そのとき関平は十八歳。その後は父の側近として荊州を守る。樊城攻めでは、戦いは有利に運んでいたが、傅士仁と糜芳の裏切りによって形勢は逆転、麦城に敗走し、絶体絶命のピンチ。関羽とともに呉軍に突入し捕虜となり、父子ともども処刑された。一騎打ちでは魏将ホウ徳と互角に渡り合うほどで、後の人々は、関羽を絵に描くとき、必ず周倉とともに関平を側に描くという。
簡雍 かんよう 憲和 けんわ/けんか
生死年:?~?
出身地:タク郡タク県
役職:従事中将→昭徳将軍
所属:蜀
劉備の挙兵時より付き従う。桃園結義は、劉備・関羽・張飛の3人としているのが主だが、簡雍も加わり四人だったという話もある。以来劉備とは、幕僚として、というよりは軽口を叩き合う友人のようだった。豪放な人柄で、軍議の席で諸葛亮の前でも、ただ1人長椅子に寝そべって冗談を言って笑っていた。蜀平定後、劉備は禁酒令を出し、酒造りの道具を持っている者まで処罰しようとした。そこで簡雍は、街を歩いている時に、若い男女を指差し、『あの者らは姦淫するので逮捕しよう。』と言った。劉備がなぜかと問うと、『2人は姦淫の道具を持っています。』を言ったので、劉備は笑って、酒造りの道具を所持する事を許可したという。
200年、袁紹の下に身を寄せていた劉備は彼の執拗な仕官の勧誘に辟易していた。そこで簡雍は「劉備が外へ行くのは袁紹軍への加勢を募ることに成功した。また214年、益州の牧・劉璋に降伏を勧める使者となった時は、敵城に乗り込んで傲慢な態度ため」と偽りの説明をし、見事劉備を脱出させることで、敵将を怒らせた。
そこで彼は急に態度を変え、非礼を詫びつつ降伏を勧めた。劉璋はその弁舌に負けて降伏を寫冐し
たという。
顔良 がんりょう
生死年:?~200
出身地:不明
役職:不明
所属:袁紹
袁紹配下の豪傑。郭図・淳于瓊とともに劉延を攻撃する。荀攸の進言で曹操は白馬へ倍の早さで進軍した。顔良は慌てて迎撃したが張遼と曹操軍の客将、関羽に包囲され関羽に斬られた。演義では白馬の戦いで曹操配下の宋憲と魏続を立て続けに打ち、徐晃もかなわぬほどの豪傑だったが曹操軍にいた関羽に殺された。
魏延 ぎえん 文長 ぶんちょう
生死年:?~234
出身地:義陽郡
役職:牙門将軍→前軍師・征西大将軍・仮節
所属:劉表→蜀
荊州太守・劉表の配下であったが、劉表没後、荊州が劉度、趙範、金旋、韓玄の4つに国が割れた際、韓玄の配下になる。後に劉備が荊州平定に乗り出した際、功労者の黄忠を討とうとした韓玄に憤りを感じ、謀反を起こし韓玄を討ち、劉備に投降した。
彼は反骨の相があるといわれながらも、211年の蜀侵攻で数々の戦功を挙げ、牙門将軍(軍門を守る将軍) に任命された。
219年、劉備が漢中王に即位すると、漢中太守、鎖遠将軍(遠征軍の司令官) に抜擢。劉備の義弟・張飛を差し置いての任命であったことから、劉備からの信頼が厚かったことが窺える。
さらに221年、劉備が皇帝に即位すると魏延は鎮北将軍( 北方守備の総司令官) に昇進する。
だが、その頃から魏延の心には野心が見え始める。軍師たる諸葛亮に度々意見をぶつけるようになったのだ。例えば227年の第一次北伐において、諸葛亮は西方の隴右に進出する安全策を取ったが、魏延は子午谷を通って長安を急襲する策を主張した。だが、彼の策は結局採用されることはなく、これが彼の反骨心を燃え上がらせることになる。黄忠とともに劉備と孔明に謁見した際、孔明は「魏延には反骨の相が見られます。後々、災いを起こすでしょう。投降を許さず、斬首にすべきです」と劉備に進言するが、劉備は「投降した者を斬るは不忠の者がすることだ」と孔明の意見を取り入れなかった。魏延は初め、一部隊長だったが、数々の戦功を挙げて牙門将軍に任命された。また、劉備が益州を治め、漢中王になり、首都を成都にした際、漢中太守に任命され、劉備が帝位に就くと鎮北将軍・都亭侯に昇進した。この頃から、魏延に慢心が見え隠れし始める。魏延は、孔明に従い出陣する度に、いつも1万の兵を要求し、孔明と別進路で魏軍を攻撃したいと願っていたが、孔明が許さなかった為、不満を抱いていた。魏延は人並み以上に誇り高く、野望多き性格であったが、劉備、孔明が健在のときは大人しく命令に従った。しかし劉備、孔明死後、溜まっていた不満を爆発させた。晩年、孔明は「私が死ねば、おそらく魏延は問題を起こすであろう」と予言し、楊儀、馬岱らに反乱予防策を授けていた。その後、孔明が死ぬと、魏延は長史・楊儀の命に反して不穏な行動をとるに至った。「丞相が亡くなろうとも、わしがおる。わし自ら指揮をとり、魏を討ち滅ぼしてやるから、撤退などする必要はない」といい、孔明の遺言を守らず、独自の行動をとり、成都には楊儀が反逆を企てたと虚偽の報告をし、蜀の宮殿を混乱させた。成都へ撤退する楊儀の部隊を阻止しようと先回りをした魏延は桟道を焼き払い、楊儀部隊を阻もうとしたが、孔明の密命で配下に入っていた馬岱に首を討たれた。三国志『魏延伝』の注によれば、魏延と不仲であった楊儀が、魏延のやることなすこと、ちくいち孔明に告げ口したり、魏延が軍勢を引き連れ、魏に降伏するという噂を流したりして、彼を窮地に追いやったからで、魏延には反乱を起こす意志はなかったという説も残されている。
麹義 きくぎ
生死年:?~193?
出身地:不明
役職:不明
所属:袁紹
涼州に長期間滞在していたこともあり、騎馬戦に長けていたという。界橋にて公孫さん軍と交戦した時は、敵将厳綱を討ち取り公孫軍の旗を折るなどして活躍したが、その直後に当時公孫さんの軍にいた趙雲に突き殺された。正史での麹義は、界橋の戦いを生き残ったものの公孫さん軍を撃破した功績を必要以上に誇ったため、それを疎んじた袁紹によって殺された、とある。曹操との戦いあたりまで生きていれば、その騎馬戦に対する技量を生かしてもう少し目立った活躍をしていた可能性も考えられ、早期に散ったのが惜しまれる武将だと言える。
姜維 きょうい 伯約 はくやく
生死年:202~264
出身地:天水郡キ県
役職:上計掾→征西将軍→大将軍
所属:魏→蜀→魏
魏の涼州天水郡の冀県に生まれた姜維は、幼い頃から兵法に通じ、神童として知られていた。幼いころ父が戦死したため母1人に育てられ、親孝行で知られていた。魏の中郎将で、郡太守馬遵のもとにいたが武勇を聞きつけた諸葛孔明の策略にはまり、蜀に降った。227年、第一次北伐で漢中から出撃してきた諸葛亮と激突。諸葛亮が天水の城を奪うべく偽の使者を送った際には、彼はその詭計を見破り追い返した。
姜維の慧眼に感心した諸葛亮は、さらなる策に打って出る。彼の母親が住む冀城を攻めたのである。そして姜維が慌てて戻ったところを冀城に閉じ込め兵糧攻めにした。その頃、蜀軍の第一次北伐は成果をあげ、天水郡の各県は次々と降伏していた。天水太守は姜維が冀城から戻らないため、彼も諸葛亮に降ってしまったと疑った。それこそ諸葛亮の冀城攻めの真の目的。行き場を失った姜維は、本当に降伏するしかなかった。孔明亡き後は9度にわたる北伐を行ったが、全くといっていいほど戦果はなかった。また、内政には手をつけなかったため宦官の勢力が強まった。魏の攻撃の際も剣閣に立てこもって抵抗を続けたが、結局劉禅の降伏によって蜀は滅びた。その後魏の将軍鐘会を誘って謀反を企てるが、失敗に終わり魏兵によって斬られてしまった。
許ちょ きょちょ 仲康 ちゅうこう
生死年:?~?
出身地:しょう県
役職:都尉→中堅→牟郷候
所属:魏
曹操とは同郷の出身。体格がよく武術に優れ、怪力の持ち主だった。漢の末期、世の乱れに乗じ
て各地で賊徒が荒らしまわってた頃には、村の若者を集めて戦いを挑み、その怪力に驚いた賊徒は
それ以後、彼を恐れて村に近寄らなかったという。
その後、曹操の陣営に加わった際、許楮を見た曹操は「わしの樊峅(劉邦の猛将) だ」と喜び、
身辺警護に当たらせた。許楮は曹操の傍を片時も離れず、忠実に任務を果たした。蜀の馬超が曹操を攻めた際にも孤軍奮闘して曹操を守っている。走る猛牛2匹を、両手に尾を持って引きずり戻すという恐るべき怪力の持ち主で『虎痴』とあだ名される。その名のとおり、智謀には欠けるところがあったが、呂布・関羽・張飛など、天下の豪傑と互角に戦う勇猛さ。若くしてすでに敵無し状態だった馬超に舌を巻かせ、槍を受け落馬した際に、自軍が突撃、無事救い出されるという話もあり、配下の人望も厚かった。そんな雰囲気からして、蜀の誰かさんのようにワアワアわめいているのかと思えば、曹操の側にちょこんと座っている。上司たちを敬い、自分をわきまえ、軍議でも無口だったという。典韋の後を継ぐように曹操のボディーガードになる。寝所に入ることができたのは、彼と夏候惇だけだったというから信頼も半端なものではなかったのだろう。死後、忠候と諡される。
許攸 きょゆう 子遠 しえん
生死年:?~?
出身地:南陽郡
役職:幕僚
所属:後漢→袁紹→魏
袁紹の幕僚。若い頃洛陽で過ごしたので、西園八校尉だった袁紹や曹操とも親しかった。官渡の戦いにおいて間者を放ち曹軍の兵糧がほとんど底をついている事をつきとめ、許都を急襲し曹軍を挟撃するように袁紹に献策したが、曹操の旧友であったためスパイではないかと袁紹に疑われる。これに憤慨した許攸は曹軍に投降し、袁紹軍の兵糧のほとんど全てが中継地点の烏巣に集結しているという爆弾情報を曹操に与える。九分九厘敗色濃厚だった曹操は、官渡の守備を曹仁らに任せて、自ら決死の烏巣襲撃隊を編成し、5千の軽騎馬隊に袁紹の旗印を持たせ烏巣を襲撃。これが官渡の戦いの勝敗を決した。中華戦史に輝く官渡の大戦を自分の献策で勝利に導いた許攸は、次第に曹操の幕僚の中でも大きな態度をとるようになり、曹操ならびに旧臣たちに嫌悪されるようになる。あるとき曹操の行列と共に城門をくぐった許攸は、「この人(曹操)は、自分を手にいれなければ、この城門をくぐれなかっただろう」(つまり官渡で死んでただろう、という意)と側近に漏らし、それが曹操の耳に入り、逮捕され首を刎ねられた。
紀霊 きれい 生死年:?~? 出身地:不明 役職:将軍 所属:袁術 袁術の配下の豪の者。重さ50斤の三尖刀の使い手。劉備討伐に行ったものの呂布に仲裁されてしまいった。その後、紀霊は袁術が袁紹を頼ってキ州へと移動している最中に袁術一行は劉備達の待ち伏せにあい、ここで張飛に討ち取られその生涯を閉じた。しかし、そんな彼にも「関羽と一騎打」と言う華やかなエピソードがある。荀周の駆虎呑狼の計によって争うこととなった劉備軍と袁術軍。両軍が激突しようとしたとき、袁術軍の先頭を切ってやってきたのが紀霊だった。劉備軍の関羽はこの紀霊の前に立ちはだかり一騎打ちを挑む。両者共30合あまり打ち合ったが勝負は決まらなかったと言う。可袁想な生涯と最期だったためにせめて、「生涯袁術に付き従った一途で忠義の名将だった」と思いたい。
金環三結 きんかんさんけつ
生死年:?~225
出身地:鳥戈国
役職:南蛮第一洞主
所属:南蛮
孔明の南征時に進軍してきた蜀軍に対して、南蛮王孟獲に命じられ第二洞主:董荼那、第三洞主:阿会喃とともに出兵、それぞれ兵5万で右翼を攻撃を計画し実行したが、趙雲、馬忠の夜襲の中で、趙雲に一突きで討たれ死亡した。他の二人の洞主達は捕らえられたが蜀軍の強大ぶりを屈服した。
金旋 きんせん 元機 げんき
生死年:?~?
出身地:京兆郡
役職:黄門郎→議郎→中郎将・武陵太守
所属:後漢
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、趙範、趙範、韓玄らと共に謀反を起こし、国を四分割し、武陵の太守となる。強気で野心に満ちた性格であったという。劉備の命を受けた張飛が城を攻めようと数里に近づいた。金旋は「一気に滅ぼしてやる」と意気揚々であったが、従事のキョウ志が「すでに零陵、桂陽は劉備の手に落ちました。劉備は仁政を心がけ、民は大喜びしています。ここは大人しく降伏し、民を安んじては」と進言する。しかし金旋はキョウ志の進言を無視し、出陣する。劉備軍と戦った金旋であったが、鬼神の如く攻め来る張飛に恐怖を抱き、城に逃げ帰る。しかし城門は閉ざされたまま。金旋は「わしが帰ったぞ。門を開けんか」と怒鳴り散らした。すると城楼にキョウ志が現れ「戦わずにおれば、兵は死なずにすんだ。貴方の首を持って劉備軍に降伏する」と一喝し、矢を放った。放たれた矢は金旋の首を貫き、金旋は絶命した。進言を無視し、張飛に攻めていったのが運の尽きであった。
虞翻 ぐほん 仲翔 ちゅうしょう
生死年:164~233
出身地:会稽郡余姚県
役職:功曹→騎都尉
所属:呉
元は会稽太守・王郎配下の将だったが王郎が孫策に敗れると、孫策に認められ召抱えられる。孫策死後も引き続き孫権に仕え騎都尉に任じられるが、耳の痛い諫言ばかりいうので、たびたび臣下と衝突し協調できず、地方の職に左遷されてしまう。のちに呂蒙の荊州攻略の際に同行し、功を立て中央政権に復権をはたす。しかし、その後もたびたび孫権を怒らせ最後には、また左遷され歴史から姿を消すことになります。
ケイ康 けいこう 叔夜 しゅくや
生死年:223~262
神仙の世界に興味を持っており、仙人になろうと修行し不老長寿の道をしめす「養生論」を記す。無実の罪の友人をかばって連座し処刑される
ケイ道栄 けいどうえい
生死年:?~208
出身地:不明
役職:不明
所属:劉度
劉備が荊州の南の四郡を征討した時に、零陵の太守をしていた劉度の配下で、大斧の使い手。演義だけに登場する武将で正史にはその名は見当たらない。劉備の征討時に劉度の子「劉賢」と共に劉備軍と戦うが、諸葛亮の計略によって敗れ降伏。劉備が処刑を命じるが、諸葛亮はそれを静止し「降参したければ劉度を捕らえて来い」と命じ釈放する。しかし陣に戻っても約束を守らず、再び劉備軍を攻めて趙雲にやられる。
阮咸 げんかん 仲容 ちゅうよう
生死年:?~?
阮籍の兄の子供。琴の名手であったと言う。阮籍とあわせて「大小阮」と呼ばれていた。
厳顔 げんがん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:巴郡太守
所属:劉璋→蜀
劉璋の武将であったが、劉備が蜀を得ようとした時、万人の敵と言われる張飛と対決。しかし、張飛に捕まり、張飛の言葉を聞き、劉備軍に降伏。その後、老将黄忠と共に、定軍山の戦い、夷陵の戦いなど数々の戦いに参戦し、数々の手柄をたてた。黄忠、厳顔は、蜀の二大老将として活躍した。
阮籍 げんせき 嗣宗 しそう
生死年:210~263
七賢の中の中心人物でリーダー的存在。健安七子の一人である阮うの子供。幼い時から能力を高く評価され司馬懿に召され出世する
献帝 けんてい
生死年:180~234
出身地:洛陽
役職:陳留王→第十四代皇帝→山陽公
所属:後漢
後漢王朝最後の皇帝で姓名は劉協。後漢第十二代皇帝霊帝の次男。霊帝死後兄の劉辯が少帝として即位すると陳留王に封じられたが、9歳にして董卓により皇帝に立てられた。しかし皇帝とは名ばかりで長安強行遷都により長安に移住したが、董卓暗殺の混乱に乗じて長安を脱出して洛陽に帰還した。洛陽は董卓による焼き討ちで廃虚と化していた為曹繰の勧めで許へ遷都した。結局董卓から曹操に変わっただけで名だけの皇帝だった。その後曹操の思い通りに利用されることを嫌って外戚の董承や劉備らと曹操排斥を図るが失敗。計画が露顕した際には婦人の董貴妃を曹操に殺されている。また、215年には曹操が伏皇后の誅殺を図ったが、このときも助けることはできなかった。220年、曹操の死後、曹丕に帝位を禅譲して退位。後漢200年の歴史に幕を降ろした。退位後は魏王朝の下で山陽公に封じられ、その14年後、54歳で没している。
厳白虎 げんはくこ
生死年:?~?
出身地:呉郡鳥程県
役職:不明
所属:独立
呉地方に勢力を張り、「東呉の徳王」と自称していた豪族。玉璽と交換で袁術の兵を借り侵攻してきた、「小覇王」孫策に対して楓橋にて応戦。大敗を喫する。かなわじと見た厳白虎は、弟、厳輿を使者として和睦を申し入れたが聞き入れられず、危険を感じ、会稽の王朗を頼る。王朗と共に、地域の諸豪族を吸合して孫策と戦うが再び破れ、山賊に成り果てたところを、董襲に殺された。
呉懿 ごい 子遠 しえん
生死年:?~237
出身地:陳留郡
役職:中郎将→左将軍→車騎将軍・仮節
所属:劉璋→蜀
字は子遠劉焉に従って蜀に入ったので出身が陳留なのも納得できる。劉備の蜀攻めの際に降伏、諸葛亮の北伐にも参加したが三国志演義での出番が少ないのは地味な勲功しか上げていないだろうが、彼の存在は重要であっただろう、その証拠に諸葛亮没後は最前線の漢中太守になる。正史によると「骨っぽい男で、博愛の心を持ち、弱軍を率いて強軍を制圧し、危機に陥ることがなかった。」そうだ、やはり蜀になくてはならない男のようだ。
黄蓋 こうがい 公覆 こうふく
生死年:?~?
出身地:霊陵郡泉陵県
役職:郡の役人→武鋒中郎将→偏将軍
所属:呉
呉きっての歴戦の将軍として知られる黄蓋は、当初は文官の出だった。しかし、武勇・軍略に優れていたため武官として出世し、数々の戦場で武名をあげることになる。彼自身「私は不徳にしてただ武功によって公事を果たしており、文官として評価を受けたことがない」と語っている。鉄鞭の使い手で、孫堅、孫策、孫権の孫家三代に仕えた。赤壁の戦いの時は開戦派で、周瑜と「苦肉の計」を提案。黄蓋の活躍を象徴するのが、赤壁の戦いでの「苦肉の計」である。まず黄蓋は、裏切って降伏するという偽の文書を曹操に送った。さらに部隊の不和を演じる。黄蓋を信じた曹操は彼の船団を近づけさせるが、黄蓋の船隊は今だとばかりに曹操の船団を火攻めにした。計略は成功し、先鋒として曹操軍に突入し火を放ち、赤壁の勝利の立役者となった。演義では赤壁以後活躍の場面は無いが、正史によれば黄蓋は山越討伐で度々功を立てた異民族対策のエキスパートであり、その後も武陵の少数民族対策で活躍している。なお、正史では「苦肉の計」は行われていない。
高幹 こうかん 元才 げんさい
生死年:?~206
出身地:陳留郡圉県
役職:井州牧→井州刺史
所属:袁紹→曹操
袁紹の甥でへい州太守。高幹は官渡の戦いで伯父である袁紹が曹操に大敗した時、5万の兵を率いて救援に駆けつけた。倉亭の合戦で重症を負ったが、勇敢に戦い、屈する色を見せなかった。曹操軍がキ州城外に押し寄せたときも応戦に応じた。しかし、曹軍の猛攻は収まるところではなくキ州はおろか幽州も陥落。高幹は、壷関の城を死守し、孤立しながらも奮戦した。曹操は官渡で降伏した袁紹部下・呂翔に策を授けた。呂翔は高幹の元へ行き、曹軍から逃げてきたと偽り、同時に夜襲を提案。これに乗せられた高幹は曹軍陣地に夜襲をかけたが惨敗し、逃亡を図ったが、部下に殺された。
黄権 こうけん 公衡 こうこう
生死年:?~240
出身地:巴西郡
役職:主簿→鎮北将軍→車騎将軍
所属:劉璋→蜀→魏
元・劉章配下で劉備の益州入りを強硬に反対し、幾度となく劉章を諌めた。劉備入蜀後は隠遁したが、劉備に乞われて劉備の臣になり、偏将軍に任命される。章武元年(221年)、孔明らとともに漢中王・劉備に、蜀・皇帝の位に就くように奨めた。劉備が関羽の弔い合戦で呉を攻めた際、水軍隊の参軍として出陣、指揮したが、夷陵で陸上部隊が大敗していたため、退路を絶たれ、やむなく呉に降伏。呉降伏後、黄権は魏に送られ、魏の臣として仕えたが、劉備や孔明の不利となるような策は進言せず、内政関係の進言をするなど、降伏後も劉備への恩を忘れることはなかったという。
黄皓 こうこう
生死年:?~?
出身地:不明
役職:黄門令→泰車都尉
所属:蜀
蜀滅亡の原因となった宦官。人のへつらい、つけいるのが上手く劉禅に寵愛された。董允が死ぬと政治に手を出し始め、政治の実権を握った。姜維は黄皓の専横を憎み殺害しようとしたが、劉禅は「黄皓は使い走りの召使いすぎない。董允も黄皓を憎んでいたが、朕はそれが残念である。君が気にする男ではない」と言い耳を傾けなかった。さらに黄皓は巫女や鬼神の言葉を用い政治を行なったため腐敗を招いた。劉禅が降伏すると黄皓は処刑されそうになったが賄賂を贈って死を免れたが司馬昭に憎まれ処刑された。
高順 こうじゅん
生死年:?~198
出身地:不明
役職:中郎将
所属:呂布
清廉潔白な人柄で知られ、中郎将として「陥陣営」と呼ばれる700人の精鋭を率いる。配下のカク萌が呂布に謀反するとこれを斬った。呂布が曹操に背くと、沛にいた劉備を撃ち破り、救援にきた夏侯惇の軍も撃破した。いつも呂布をいさめていたが聞き入れられず、最後は呂布、陳宮と処刑された。
候選 こうせん
生死年:?~?
出身地:河東郡
役職:官吏
所属:韓遂→馬超→張魯→魏
演義系三国志では、韓遂配下の「旗本八騎」のひとり。この八騎、上記程銀の他は、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋である。この内、程銀、張横、成宜は西涼軍として華々しく戦死を遂げたが、侯選含めた残りの五人は、曹操(立案はカク)の離間策によって馬超に疑念された韓遂に曹操軍への帰順を勧めている。この1件を知った馬超によって、馬、梁、(間接的に)李の3名は殺害されるが、韓遂とともに投降した侯選と楊秋は曹操によって列侯に封じられている。正史での侯選は、やはり馬超らとは互角の同盟者であり、馬超敗戦後、程銀と行動をともにし、曹操政権下で復職している。
公孫越 こうそんえつ
生死年:?~192
出身地:不明
役職:不明
所属:公孫さん 公孫サンの従弟。袁紹と袁術が争ったとき、袁術は孫堅と公孫越を派遣し攻撃させたが敗れ、その時の流れ矢で公孫越は死んでいる。そのため公孫サンは袁紹が公孫越を殺したと激怒し、袁紹と争うようになる。演義では公孫サンの弟で、袁紹が冀州をともに攻め分割しようという約束を果たそうとせず、公孫サンの命で、使者になるが帰り道に袁紹の伏兵に殺される。このことから袁紹・公孫サンは争うことになる。
公孫淵 こうそんえん
生死年:?~238
出身地:不明
役職:車騎将軍・仮節→燕王
所属:魏
今で言う満州のあたりを治め、袁家滅亡時に袁尚の首を曹操に送り届けて左将軍に任じられた公孫康の子供その時彼はまだ幼く後継は弟の公孫恭になった。しかし公孫恭は凡庸で国を治める力が無く性的にも不能者で後継者を残すことができないのにつけこみ位を奪い取ってしまう。元々野心家で義理や正義などは持ち合わせていなかったようで、自分や金中心に物事を考える人物だったようだ。魏に使える裏で呉とも通じており燕王と認めさせている。魏にも忠誠を示す事も無く237年には刺史を斬って燕を建国する。翌年すぐに司馬懿が討伐軍を組織し出兵。燕軍はもろくもやぶれ城を包囲された、やがて食料もそこをつき逃げ出すも捕まって斬殺されている。
公孫さん こうそんさん 伯珪 はくけい
生死年:?~199
出身地:遼西郡令支県
役職:郎→奮武将軍
所属:後漢→君主
公孫壜は有力豪族の家系に生まれたが、生母の身分が低いために公孫家の一員とは認められず、
不遇な少年時代を過ごした。だが、やがて容姿端麗かつ頭脳明晰な若者に成長すると、陵西郡の太守に気に入られて娘婿になり、官職の第一歩を踏み出す。泳郡の儒学者・慮植の下では劉備とともに軍略を学んだ。
公孫墳の名が歴史の表舞台に登場するのは、後漢末期の相次ぐ反乱の中で、東北の異民族・羌の討伐を司空の張温か命じられた時であった。張温は精鋭部隊を率いていたが自身は実戦経験に乏しく、実質的司令官として公孫墳を抜擢。公孫讚は幽州・烏丸の選りすぐった3千の若い猛者を白馬に乗せて戦い、「白馬将軍」として恐れられた。さらにこの時の活躍で、騎都尉に昇格した。白い具足をつけ、白馬に乗っていたため白馬将軍と呼ばれていた。虎牢関の戦いの後、袁紹に騙され(その折に従弟の公孫越を殺された)それに怒り袁紹と戦った。しかし、そこで袁紹配下の文醜にあわや討たれる寸前までに追い詰められた。(そこを趙雲が救った)さらに、2度目の戦いでは自慢の白馬陣(白馬の騎兵のみで構成された軍)を用いて戦ったが、袁紹の罠に嵌りまたも討ちとられそうになる。(ここで、今度は劉備の軍が助けた)そこで、董卓から命令された天子(帝)が勅命を送りとりあえずいちど争いはそこで止まる。しかし、袁紹とは終生争う敵であった。そして199年袁紹の軍に囲まれ自害する。(殺されたという説もある)
黄忠 こうちゅう 漢升 かんしょう
生死年:?~220
出身地:荊州南陽郡
役職:中郎将→征西将軍→後将軍
所属:劉表→魏→蜀 荊州の劉表に中郎将に任命され、その甥の劉磐と共に長沙の役人を務めていた。劉表の死後、荊州が曹操の支配下におかれると仮にヒ将軍に任命され、もとの任務のまま長沙の太守韓玄に仕えた。劉備軍の関羽が攻め入ってきた際戦ったが互角であったという。この時すでに60歳近かった。翌日の一騎打ちでは馬が転倒したが、ここで殺すのは卑怯だと感じた関羽に見逃された。その翌日は得意の弓で戦ったが、その際関羽に恩を感じていた黄忠はわざと関羽の兜に矢を当てて見せ、自分の弓の腕を知らせて恩返しをした。ところがこれを内通と見た韓玄に捕らえられ、処刑される寸前に魏延に助けられて劉備の配下となった。劉備入蜀の際には先鋒を務め、益州の平定の際討虜将軍に任命された。また、魏の名将夏侯淵を斬るなど大活躍した定軍山の戦いで征西将軍に昇進した。その後、漢中王となった劉備に関内侯の爵位を授かった。が、その翌年関羽の弔い合戦の時の劉備の「関興、張ホウら若者に期待する」発言に立腹し、たった5,6騎で呉軍に攻め入り、矢を背に受けて息を引き取った。
劉備の長沙平定後、老齢ながら臣従する。この時諸葛亮をして「今年60に手の届くほどでありながら万夫不当の武勇を持つ剛の者」といわしめた。
黄忠は膂力、衆に勝り、長大な薙刀を振り回し、2人張りの弓を引いて戦った。特に弓術は評判で、百歩離れたところからでも柳の葉を射抜くことができたという。
劉備の幕下に入っても、黄忠の勇猛果敢な姿は袁えることはなかった。その武勇は敵将からも賞賛され、中国語には今でもなお「老黄忠」という言葉が残っており、老いてもなお盛んな人の代名詞となっている。幾多の戦闘を生き抜いてきた黄忠の、一番華々しい戦果は定軍山での戦いであった。黄蓋の活躍を象徴するのが、赤壁の戦いでの「苦肉の計」である。まず黄蓋は、裏切って降伏するという偽の文書を曹操に送った。さらに部隊の不和を演じる。黄蓋を信じた曹操は彼の船団を近づけさせるが、黄蓋の船隊は今だとばかりに曹操の船団を火攻めにした。この作戦で曹操は大打撃を被り、敗北することとなったのだ。
孔融 こうゆう 文挙 ぶんきょ
生死年:153~208
出身地:魯国
役職:北軍中候→北海国相
所属:後漢→魏
なんと、あの孔子の20代とも24代ともいわれる子孫。北海太守を履歴したが…理想の政治が失敗して結局最後は身一つで曹操の元に逃亡、そして、諸説入り乱れる死因であるが、どれも「余計な事を言って曹操の怒りをかった」と、いうなんともいえない死に方である。彼に関する逸話はかなり多く「世説新語」に多く収録されている。尚、彼は建安七子に数えられている、彼の詩に…。「座上、客に満ち樽中、酒空くなし」と、いうものがあり彼の人生のモットーであろう。蛇足であるが、孔融は家族が処刑されて、血が絶えたという。
兀突骨 ごつとつこつ
生死年:?~225
出身地:鳥戈国
役職:鳥戈国王
所属:南蛮
兀突骨は孔明が南蛮制圧の時に出てきて南蛮王孟獲と共に蜀軍と戦う武将です。藤で作った藤甲と言う水に浮かび剣や槍を通さない鎧を使い孔明率いる蜀軍を苦しめました。身の丈一丈二尺(276?)という大巨人。穀物はいっさい食べず、生きた獣や蛇を食べていたため、身体の皮膚は鱗のように硬く、刃物で斬りつけても傷が付かなくなっていたという。孟獲は最後の切り札として、兀突骨に加勢を頼み込んだ。承知した兀突骨は、藤の蔓に油を染み込ませ乾かして作った「藤甲鎧」を身に付けた、強力で勇猛果敢な「藤甲兵」を率いて出陣。初戦は刃を通さぬ藤甲軍に圧倒された蜀軍を大いに打ち破った。しかし、武勇一辺倒の男であったようで、孔明の策にあっさり引っかかった。孔明は地雷を使って藤甲兵を火攻めにした。藤甲鎧は油に染み込ませ作っていたため、藤甲兵3万は1人残らず焼死し、兀突骨自身も部下と共に焼死した。この戦いは孔明が自分の行為のため3万の人間を殺した事を悔やんで涙を流した程の殺戮劇であった。
呉班 ごはん 元雄 げんゆう
生死年:?~?
出身地:陳留郡
役職:領軍→督後部後将軍→驃騎将軍
所属:蜀
呉懿の親族。劉彰の配下であったが、劉備の入蜀に際し、劉備に降伏した。劉備に臣従後は、張飛の補佐官として主に活躍した。張飛が部下に暗殺されると、劉備とともに仇討ちのために呉に侵攻、先鋒として勇戦奮戦する。この戦は緒戦は快進撃を続けたが、夷陵で陸遜の火計にかかって大敗。成都へ退却した。劉備の死後は、ヒョウ騎将軍として孔明に従い、北伐に参加し活躍したが、第二次北伐の撤退の際、魏の軍勢の矢を受けて死亡した。
顧雍 こよう 元歎 げんたん
生死年:168~243
出身地:呉郡呉県
役職:郡丞→丞相
所属:呉
冷静沈着で学問に優れていた為、地方の役所が彼を推挙し呉国の中央政権へ踊り出る。県令や太守などの役職を歴任し、孫権の代になっても順調に昇進して、やがて丞相となった。顧雍はいかなる時も冷静で感情に左右されずに人の能力を判断し、能力の高いものを高い位に据えるようにした。顧雍は真面目で的確な発言をしたため、宴会などでは煙たがれ、孫権などが「顧雍がいると酒が不味くなる。」といって共に飲むのを好まなかった。
呉蘭 ごらん
生死年:?~218
出身地:不明
役職:将軍
所属:蜀
劉章の配下。建安十七年(212年)、劉備の入蜀に対抗するべく、ラク城を守る呉懿の副将として激戦を繰り返したが、劉備・黄忠・魏延・張飛に攻め立てられ、混戦の中、雷同と共に劉備軍に捕らわれた。劉備の『蜀を今よりもより良い国にしたい』という思想に心打たれ、劉備の傘下に加わる。劉備の入蜀後、曹操との漢中争奪戦で活躍したが、曹操の三男・曹彰が援軍として蜀軍に攻め寄った際、これを食い止めようと突撃し、曹彰と一騎討ちしたが、殺された。
さ行
蔡瑁 さいぼう
生死年:?~?
出身地:襄陽郡
役職:不明
所属:劉表
荊州の豪族。姉は劉表の妻。劉表が荊州の刺史になった時招かれる。姉の子を後継者にするため、劉表に長男の劉埼を会わせようとしなかった。演義では孫堅が襄陽に攻めてきた時、襄陽城から打って出るが敗れて戻ってくる。カイ良は蔡瑁を処刑するよう進言したが劉表が蔡瑁の姉を娶っていたので処刑できなかった。のちに劉表が劉備を信用するようになると劉備暗殺を企てたが伊籍に阻止される。劉表の死後、遺書を書き換え後継ぎにした。劉備が住民をつれ襄陽城までくると矢を射掛けて入城を拒否。曹操に降伏し水軍大都督に任命され呉の水軍と戦うが敗れ水軍を強化。しかし周瑜を味方につけるために送った説客が周瑜の偽手紙を持って帰り、蔡瑁、張允が呉に内通してるとされ曹操に処刑される。
山とう さんとう 巨源 きょげん
生死年:205~283
七賢のなかで一番の酒豪。隠居していたが出世志向の側面もあり、晋国が建国されると17年間重職を勤めた。
紫虚上人 しきょじょうにん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:不明
所属:なし
人の地位はおろか、生死まで見通す神眼を持っていたと言われる隠者。劉備軍と戦う為に、劉カイ・張任らは5万の兵を率いてラク城に向かう途中に紫虚上人に会いにいった。上人は「人の吉凶などわかるはずがなかろう」と断ったが、再三の頼みに八句の言葉を書いて張任らに渡した。「竜と鳳、西川に入る。鳳雛地に落ち、臥竜天に昇る。天数まさにしかるべし」すなわち「孔明とホウ統は益州に入る。ホウ統は死に、孔明は益州を治める」このように予言した。劉カイらは自分たちの運命を尋ねるが、上人は「天命からは逃れられない。聞いたところで何になる」と言ったきり口を閉ざした。不吉な予言に剛直な張任は「あの様な気違いの言葉なぞ信じても何の得にもならん」と怒ったが、結果、上人の言う通りになった。
司馬懿 しばい 仲達 ちゅうたつ
生死年:179~251
出身地:河内郡温県
役職:文学掾→驃騎将軍→大尉→丞相
所属:魏→晋
名は司馬懿。字は仲達。幼い頃から英才の誉れ高かった司馬懿は、曹操に文官として仕えた当初から、適切な進言で魏の
内政を充実させていく。
だが曹操からは聡明ゆえに信用されていなかったようで、こんな逸話が残っている。彼は首を18 0度後ろに捻ることができる「狼顧の相」の持ち主で、この噂を聞きつけた曹操は、その真偽を確かめるために背後から名前を呼んだ。すると彼は真後ろに振り向いた。
それを見た曹操は「この男は遠大な志を抱いている」と警戒したという。ただ、曹丕からの信頼は厚かったようだ。曹操の没後、曹丕が魂王になると、漢の献帝が彼に譲位の詔を出すが、司馬懿はこれをすぐに受けては不義者の謗りを免れないと助言。曹丕は3度辞退してから帝位を継承した。彼が文帝に即位すると、司馬懿は丞相に任ぜられる。君主である曹操から絶大なる信頼を得、蜀の諸葛亮と激闘を繰り返した天才的な軍師。曹操、曹丕、曹叡と仕え、曹操には文官、曹丕には宰相として仕えた。曹叡が即位すると、荊州と予州の全権をあたえられた。そして、諸葛亮孔明が北伐をすると、それにつこうとした孟達を討ち、孔明の中原制覇の志をくじいた。諸葛亮との戦いにおいては、攻撃よりも守りを中心としていた。五丈原の戦いの途中、孔明が陣中で没っした。その機に戦をしかけようとしたところ、司馬懿は孔明の姿(生き人形)を目撃。すぐさま自陣に逃げ帰ったという。これは「死せる孔明、生ける仲達を走らす。」といわれ、後世まで語り継がれたと言う。
迅速な対応で孟達を討つ
曹盃が亡くなり曹叡の代になると、司馬誌は標騎大将軍に封ぜられ、また自ら志願して一維州と涼州の総督となって現地に向かった。これを知った諸葛亮は、「これ『賊が国にとって大きな悩みの種になるぞ」と嘆く。しかし、それを逆手に取った絶妙な計略によって、司馬誌は曹叡からクーデターの疑いをかけられ、兵権を剛奪され故郷に帰らされてしまった。そして諸葛亮はこれを好機と「出師の表」を奉って魏に攻め込み、迎え撃った魏軍は連戦連敗となる。
魏では、「やはり諸葛亮に対抗できるのは司馬懿しかいない」という話になり、もとに使者が送られ、「もとの官職に戻り、長安で合流するように」
との勅命を司馬懿は受ける。そののち、また別の者が極秘の情報を伝えにやってきて、魏に降っている孟唯が諸葛亮と内通に籍賜記攻めようとしているとの情報を司馬懿は得た。長男の司馬師が「急いで帝に奏上しましょう」と言うのを司馬懿は笑って、「それで返事を待っていては往復で1ヶ月はかかる。いますぐ動かなければ、取り返しがつかなくなるだろう」と言うと、すぐに兵を出して通常の三倍の速さで行軍し、まだ無警戒だった孟達を討ち取った。この迅速な対応により、魏は危機から救われたのである。長安で曹叡は、先の兵権剥奪の件を詫び、さらに孟達の件を聞き知ったので、司馬懿の適切な判断を大いに褒めて多大な恩賞を与えた。そして、以降は、機密の重大事には奏上は必要ないという決まりにしたのである。
司馬炎 しばえん 安世 あんせい
生死年:236~290
出身地:河内郡温県
役職:中掾軍→晋王→初代晋皇帝
所属:晋
名は司馬炎。字は安世。晋の初代皇帝(武帝)。手はひざの下まで届き、立つと髪が地面の届くほど長かったという。
司馬昭の長子として生まれ、後に晋の初代皇帝となる。皇帝となった当初は優れた知謀に加え度量寛大で人徳も厚い人物だったという。
司馬炎が晋王・司馬昭の後継者に指名された頃、魏の政治はほぼ司馬氏が実権を握っていた。そして、司馬昭が没し司馬炎が正式に家督を継ぐと、司馬炎は剣を携えて宮中に乗り込むと、当時魏帝であった曹奐に「魏が保たれているのは誰のおかげか」と問い、帝位の委譲を要求した。
その道義に反した行動を、曹奐の傍らに控えていた魏の臣・張節がなじったが、司馬炎に一喝され、その部下たちに棒で殴り殺されてしまう。
曹奐はこの司馬炎の勢いにすくみあがり、重臣たちに意見を乞うが、事前に司馬炎の意見に迎合していた賈充に説かれ、帝位を譲ることを決意する。
そして、すぐさま禅譲( 皇帝が、その地位を有力人物に譲ること) の儀式が執り行なわれ、魏は滅び、あと少しで皇帝になろうとする直前で世を去った父である司馬昭の基盤を使いながら、晋を建国。自ら、その帝位についた。280年には呉を降伏させて、三国時代を完全に終わらせ、全国統一をした。しかし、その後わずか10年で、この世を去ってしまった。
司馬師 しばし 子元 しげん
生死年:208~255
出身地:河内郡温県
役職:散騎常侍→長平郷候→撫軍大将軍→大将軍
所属:魏→晋
魏の大軍師・司馬懿の嫡子で、その才もあって若くして有名であった。父の朝廷への影響力により初めから高い官職の散騎常侍から始まり、その後も華やかなエリートコースを歩んでいく。249年魏朝廷を専横していた曹爽派へのクーデターを、父・司馬懿と共に決起する。成功後はその功績により長平郷候に昇進する。父・司馬懿が没すると、父の旧職を引継ぎ撫軍大将軍となり、さらに252年には大将軍となり魏の全権を一手に握り、司馬氏の影響力は甚大になった。それを快く思わない人物も多く、そういった反司馬氏勢力は司馬師を廃しようと画策し、クーデターがおきてしまう。その計画に皇帝の曹芳も関与していた事を知った司馬師は、独断で皇帝を廃位し、後継に曹丕の孫・曹髦を即位させる。その独裁的なやり方は多くの反発を招き、翌年司馬師打倒を誓った毋丘倹と文欽が挙兵する。その報を知った司馬師は、眼下の瘤をとった手術の傷が直らないまま出陣してしまい、戦闘中に眼球が飛び出してしまい、その後その傷が悪化して没する。
司馬昭 しばしょう 子上 しじょう
生死年:211~265
出身地:河内郡温県
役職:典農中郎将→征蜀将軍→大将軍→晋王
所属:魏→晋
名は司馬昭、字は子上。魏の軍師・司馬懿仲達の次男。司馬懿の死後、兄の司馬師とともに権勢をふるった。そして、司馬昭の子には、三国時代を統一した晋の武帝・司馬炎がいる。その兄・司馬師が死ぬと大将軍の位をつぎ、蜀を平定し、晋王となった。しかし、呉を平定することができずに、皇帝になれるという直前で息絶えてしまった。そしてその子、司馬炎が統一することになったのだが、その基盤を作ったのは、彼だといっていいだろう。
十常侍 じゅうじょうじ
生死年:176~190
出身地:洛陽
役職:第
周秦 しゅうたい 幼平 ようへい
生死年:?~?
出身地:九江郡下蔡県
役職:別部司馬→奮威将軍
所属:呉
若き孫権を身をもって救った忠義の臣。孫策が父を失い袁術の下に身を寄せている時に、蒋欽と共に出会い配下となっている。戦場ではたびたび手柄を上げ、別部司馬に任じられる。孫権は彼をとても気に入り、孫策に強く頼んで自分の配下にしてもらっている。異民族討伐時に、油断して敵に取り囲まれてしまった孫権を身をもって守り救った。孫権は無事だったが、彼は瀕死の重体で体には無数の傷があった。その後孫権は彼をとても信頼するようになり特別に優遇した。
周瑜 しゅうゆ 公謹 こうきん
生死年:175~210
出身地:廬江郡舒県
役職:建威中郎将→偏将軍 所属:呉
No.1美男子といえば彼。孫策とは義兄弟の契りを結んでいる。21歳の若さでデビューし、『美周郎』とアダ名された。音曲にも秀で、舞は人々を酔わせる。都督に任命され『心を通わすことができるのは君と魯粛だけだ』と孫権から絶大な信頼を得る。重臣たちが曹操への降伏を進める中、頑として開戦を勧め、『連環の計』『苦肉の計』などを駆使して形勢を逆転、見事に勝利へと導いた。惜しくも36歳で病死。三国志きっての美男子として知られ、「美周郎」と謳われたのが周瑜である。彼は音楽に精通、演奏者が音を間違えると必ず気づいたことから「曲に間違えあれば周郎顧みる」といわれた。
呉の小覇工・孫策とは同い年で、幼馴染だった2 人は「断金の交」( 鋼のように強固な関係) を結び、大喬・小喬姉妹をともに娶って義兄弟にもなっている。ともに戦国の世に現れ、江東各地を攻略したが、孫策は26歳の若さで死去。以後は彼の弟の孫権を助け、呉の発展に全力を尽くした。
また、曹操が孫権に人質を出すよう要求した際、重臣たちが動揺する中、ただ1人「不当な人質要求などはねつけよ」と主張。降伏論が多勢であったのに対して彼が「曹操討つべし」と叫び、孫権に「私か心を通わせるのは君と魯粛だけだ」といわしめた。かくして、曹操軍は83万の兵と数千隻の戦艦で押し寄せ、赤壁に布陣。
対する孫権・劉備連合軍の水軍はわずかに3 万であったが、大都督として軍を率いる周瑜は、諸葛亮の「火攻めの計」を採用。さらに腦統の「連環の計」、黄蓋の「苦肉の能力値計」などあらゆる計略を駆使して徐々に曹操軍に罠を張り巡らす。ついには黄蓋の偽装降伏を合図に、一夜にして曹操艦隊を壊滅させた。この赤壁の戦いは、三国志殼大の戦いであると同時に、周瑜一世一代の見せ場となった
つのる孔明への殺意
赤壁の戦いの前、曹操と戦うのか降参するのかで意見が分かれた孫権軍であったが、最後は都督・周瑜の一言で孫権も開戦を決意する。すると曹操側から、周瑜の旧友でもある蒋幹がやってきた。周瑜は、「蒋幹は降伏を説きつけに来鷺証違いない」と思うと、出迎えのときから「降伏でも勧めにきたか」といきなり牽制する。驚いて言葉を濁す蒋幹に、周瑜はわざと親しげに振舞い、「彼は私の旧友であり、北から来たが曹操の説客ではないから,これから曹操とか戦とかいう言葉を国にした者は切り捨てるぞ」と大将らに言って、同時に蒋幹の回も封じた。それだけでなく、周瑜は落幹を逆に利用し、曹操軍の水軍都督・察増と張允は孫権と内通していると勘違いさせ、結果的に察増と張允を曹操に斬らせることに成功した。
しかし周瑜は、この一連の策略を諸葛亮に見抜かれていたことで、彼はいまのうちに殺しておかなければ、後で自分たちにも害になると考えた。そこで周瑜は、諸葛亮に「3日で十万本の矢を用意しろ」という無理難題を押し付けて、その命令が守れなかったことを理由に、処刑しようと企んだ。ところが諸葛亮は、知恵を使って本当に十万本の矢を用意してきたので)、周瑜は「とても自分がかなう相手ではない」と感服せざるをえないのであった。
朱桓 しゅかん 休穆 きゅうぼく
生死年:178~239
出身地:呉郡呉県
役職:余姚県令→前将軍 所属:呉
呉の四大豪族(顧・陸・朱・張)の1人。県令として任地に赴くと、その地は疫病、飢饉に見舞われていた。そこで、有能な役人を選び、医薬品を手配し、炊き出しを幾度も行わせたので、官民とも喜んで彼の指示に従った。その後、孫権の側近として仕えたが、その技量を買われて将として抜擢され、その期待に応えて活躍を続ける。222年、魏が呉に三路の軍勢で攻め込んだとき、朱桓は濡須を守備していた。手持ちの兵は5千。曹仁率いる魏軍は何万もの軍勢。みな恐怖におののいていたが、「勝敗を決するは大将の手腕であり、兵の数ではない。魏軍は昼夜の行軍で疲れ果てている。だが我が軍は高い城壁に、南は大河、北は山岳を背にし、十分な休養を取った兵である。待受けるに適した地形の中で、遠方からやってきた者を防ぐものである。まさに百戦百勝の形勢である。」と教え諭した。城に軍旗も立てず、太鼓も鳴らさず、弱っているように見せかけて急襲し、曹仁を追い払った。この功により、朱桓は奮起将軍に任命された。武芸の達人よりも智謀の将として著名。その反面気位が高く、人の指示を拒否したり、思い通りにいかないと憤激したりする性格でもあったという。全ソウと言い合いになり、気が触れてしまったこともあったという。しかし、部下には非常に優しく、私財を投じてまで兵士たちの生活を第一に考えた慈将であった。また、記憶力も抜群で、直属の部下1万人の妻子の名前と顔を覚えていた。上層部には人気がなかったが、下からはとても慕われた名将である。
祝融夫人 しゅくゆうふじん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:孟獲夫人
所属:南蛮
実際は実在したかは定かではない人物で正史には登場しないが演義においては女性でありながら自ら馬に乗って蜀軍と戦うと言う、とても濃いキャラクターで南蛮王孟獲の妻として登場する。伝説の火の神、祝融氏の末裔にして飛刀の名人という設定。孔明の南征時に孟獲と共に戦うが何度も捕らえられるが逃げて良いと言う孔明の寛容さに心を打たれ孟獲と共に帰順する。
朱然 しゅぜん 義封 ぎほう 生死年:182~249 出身地:不明 役職:折衝校尉→昭武将軍→左大司馬 所属:呉 呉の名将。孫策の仲立ちで朱治の養子となった。孫権と机を並べて勉強した為、朱然、孫権両者の絆は深い。呂蒙に従って荊州を攻略。敗走する関羽を潘璋と協力して捕虜にした。劉備が仇討ちの為攻めてきた時は、孫桓に従い出陣。呉班の計略にはまるところだったが、崔禹の助言で助けられる。演義では、劉備が敗走するのを追う途中に趙雲に斬られた。正史ではそこでは死なず、陸遜亡き後も呉軍の重鎮として活躍。体は小さかったが、気さくで質素を好み規律正しい武人だった。病死した時は孫権自ら哭礼を行なうほど惜しまれた。
朱治 しゅち 君理 くんり
生死年:156~224
出身地:丹楊郡
役職:呉郡太守→安国将軍
所属:呉 孫堅・孫策・孫権と三代にわたって仕えた。孫堅の死後は孫策と共に袁術の下に身を寄せるが、孫策に「袁術から離れて江東を攻めよう」と提言する。孫策の死後も、良く孫権を守り立て共に戦った。彼が孫策に提言しなかったら、呉は出来なかったかもしれないですね。演義にはあまり登場しない。
荀いく じゅんいく 文若 ぶんじゃく
生死年:163~212
出身地:穎川郡穎陰県
役職:守宮令→侍中→光禄大扶
所属:袁紹→魏
字は文若、「王佐の才」と称されたほど類稀な才能を備えた人物である。
後漢末の名門の出で済南刺史の父、司空の叔父を持つ荀彧。彼は若い頃から将来を嘱望され、26歳にして宮廷の庶務官に任命されている。しかし、董卓が権力を握ってからは、彼の身勝手な朝政に嫌気がさして帰郷。その後、冀州にいた袁紹に客人として招かれたが、袁紹には大事業をなしとげられないと判断して、東郡にいた曹操の配下に入った。曹操の参謀となってからは数多くの奇策、妙策を進言し、中原制覇に尽力。また司馬懿や荀攸などの有能な人材の発掘に努め、王佐の才( 主君を支える才能) を遺憾なく発揮した。劉表への攻撃にあたっては、攻め滅ぼすのではなく降伏させることを進言。荊州を戦火に哂すことなく手に入れている。しかし、漢王朝の再興を目指す荀いくに対して、曹操は新王朝の樹立を目論んだのだった。曹操の魏公昇進に反対した荀いくは、空の器を贈られ、己の無用を悟り自殺したという。
二虎競食の計と駆虎呑狼の計
荀彧の勧めで素早い行動を取り、皇帝を擁して権力を握ることに成功した曹操は、手始めに徐州の劉備、呂布を片づけようと、参謀たちに策を問うた。すると荀咳が「まず劉備を勅命によって徐州の牧(総督)に任命し、呂布を討つ」命じましょう。そうすれば劉備と呂布が争い、どちらかが滅びて、我々は漁夫の利を得ることができます。これを『二虎競食の計』と言います」と言う。曹操はこれに同意し、すぐに実行に移した。しかし劉備のほうでは、「頼ってきた者(呂布は曹操に敗れて劉備のもとに身を寄せていた)を殺しては不義になる」と言って従わなかった。
ならば、と荀咳は次なる計を提案する。「まず袁術に使者を送って、劉備が攻めようとしていると言わせます。すると袁術は怒って劉備を攻めるでしょう。同時に劉備には袁術を討てとの勅命を与えます。そうすれば劉備も戦わないわけにはいかないはず。両者が戦っていると、呂布はきっと隙ありと見て、劉備を攻めるに違いありません」という「駆虎呑狼の計」に、曹操は喜び、すぐに実行させた。これが結果的に劉備、呂布の仲を割くことに繋がる。そして劉備は曹操を頼って落ち延びてきたのである。ちなみにこのとき、荀咳は「劉備を殺しておいたほうがいい」と勧めたが、曹操は「天下の人望を失うからやめたほうがいい」という郭嘉の意見を採った。劉備を殺すべきだったか否かは置いておいても、曹操が最も頼りとする2人の参謀の意見がここで食い違っていたことはなかなか興味深い。
淳于瓊 じゅんうけい 仲簡 ちゅうかん
生死年:?~200
出身地:穎川郡
役職:左軍校尉→都督
所属:後漢→袁紹
後漢の霊帝が設立した西園八校尉に中軍校尉の袁紹、典軍校尉の曹操と並んで佐軍校尉となったが、後漢末の混乱で西園軍が自然消滅してしまう。その後袁紹に仕え配下の武将となる。曹操と袁紹の天下分け目である官渡の戦いでは袁紹軍は曹操軍より兵力・物量ともに圧倒的に優位であったが、序盤戦の戦いで顔良・文醜という猛将を失なった。さらに淳于瓊が1万の軍を率いて烏巣の軍糧貯蔵地を守備していたが、曹操軍の奇襲にあって兵糧をすべて焼き払われてしまった。袁紹軍の最大の食料庫であったのだ。このことが袁紹軍の敗北の原因となり、曹操軍に殺された。
荀攸 じゅんゆう 公達 こうたつ
生死年:157~214
出身地:不明
役職:黄門待郎→尚書令
所属:魏
荀いくの甥にあたるが、六歳年上。董卓暗殺を計画して投獄されていたが、荀いくの推挙で曹操に仕官した。外見は愚純に見えたが内に英知を秘め、曹操は彼を『外柔内剛の勇士』と褒め称えた。演義では、魏王に昇ろうとする曹操を諌め、『荀いくの二の舞になりたいか!』と一喝され、憤死したが、正史によると、47歳、孫権征伐の折に病死している。裴松之は彼を『夜光珠』と評している。小さな頃から只者ではなかったようで、こんなエピソードも残っている。…七歳の頃、酒に酔った叔父が誤って彼の右耳を傷つけてしまった。だが、彼は叔父の前でその右耳を隠していたため、ずっと後になるまで叔父はそのことを知らなかった。幼い子どもにそんな風に気遣われ、叔父はちょっとショックを受けたが、同時に彼に期待をかけるようになったという。
袁紹との官渡の戦いでは、二手から攻めると見せ掛け、敵が兵を分けたところを一気に攻めるという妙策で勝利に導いた。外見は柔和ながら、人並みはずれた英知を内に秘めた荀攸を、曹操は「外柔内剛の勇士」と褒め讃えている。しかし214年、曹操が魏王に即こうとするのを「天子の一門が即くべき地位に即いては名分がただない」と諌めたところ、「荀彧の二の舞になりたいのか! 」と一喝され、怒りのあまり憤死している。
魏の重臣という要職にありながら、驕ることのない人柄だったため、交遊も広かった。彼の死
後、その遺児の面倒を彼の友人が見たこというエピソードからもそれが窺える。
鐘会 しょうかい 士季 しき
生死年:225~264
出身地:穎川郡長社県
役職:秘書郎→使徒
所属:魏
魏の太傅にして、「蕭何のようだ」と曹操に言わせた鐘ヨウの末子。幼い頃から神童ぶりを発揮し、周りの大人からは将来を有望視されていた。出仕するようになると秘書郎に任じられ、その後尚書中郎将に昇進する。廃帝曹髦が帝位する頃には関内候になる。討伐戦には司馬師の配下で作戦本部の謀士として参加し活躍。司馬師の死後も、司馬昭の政権下で同様の地位を務める毋丘倹・諸葛誕などの討伐で参謀をつとめ、次第に司馬昭などから信頼をうけ張良(前漢の謀臣・劉邦の先生)のようだともてはやされた。蜀攻めの計画を司馬昭とともに計画し、263年秋に討伐の命をうける。侵攻は鍾会の軍と、トウ艾の軍の二方から進む事になるが、途中鍾会の軍は姜維率いる蜀軍と遭遇し激しい抵抗に合って、蜀入りをトウ艾の軍に先を越されてしまい、劉禅降伏の功を逃すことに。その頃からトウ艾とはあまりそりが合わなかった。次第に鍾会は自立の野心を抱くようになり、姜維と組んで独立を計画。手始めに邪魔なトウ艾を「反逆の疑いがある」と密奏して捕える。その後征伐時の自軍と姜維の元蜀軍で都に攻め入ろうしたが、司馬昭はそれを見ぬいていて事前に軍を出していた。焦った鍾会は急いで成都に戻るが部下に裏切られ姜維と共に殺される。
司馬昭にとっての張良
257年、鍾会は、司馬昭の権力独占に怒って反吼を起こした諸葛誕を討伐するための参謀として司馬昭に呼ばれる。この反乱には呉軍も援軍を送って協力しているという情報を聞き、鍾会は「呉が諸葛誕を助けるのは利欲に駆られての行動。こちらも利欲で誘いましょう」と言って、戦の最中に因営員品を投げ捨てる作戦で、呉の兵の戦う気を逸らして打ち破った。
以降、諸葛誕は城内に立て篭もったが、これを攻めるのにも鍾会は一計を授ける。「いま我が軍が城を四方から囲んで攻めれば、敵は逃げ場がなく、死にものぐるいで戦うので簡単に破れず、もしその間に呉軍との挟撃に遭ったりしては危険です。それよりも三方から攻めて南門の広い道だけ開けておき、逃げられるようにしておきましょう。逃げるところを叩けば簡単に打ち破れます」。
司馬昭は喜んで、鍾会の背中をなでながら、「おまえはわしにとっての張良(漢の創始者・劉邦の名参謀)じゃ」と言った。たまたま淮水が氾濫して洪水となったため、この計はうまく機能しなかったが、そのうち、水も退いて、呉軍も撤退したので、司馬昭の軍は再び城を囲む。やがて城内の食糧が尽き、降参する者も多く出て、諸葛誕は胡奮に斬もれ、反乱は鎮圧されたのである。この戦で司馬昭から大きな信頼を得た鍾会は、魏の最後の名将として頭角を現し、だんだんと力を持っていく。
蒋欽 しょうきん 公奕 こうえき
生死年:?~?
出身地:九江郡下蔡県
役職:別部司馬→盪冠将軍→右将軍
所属:呉
孫策が父を失い袁術の下に身を寄せている時に周泰と共に出会い配下となっている。数々の軍功をあげ合肥の戦いでは危機にあった孫権を救っている。自制心の強い公平な性格で自分の配下を処罰した人物でも、能力が高ければ、公私混同をせずに孫権に推挙している。晩年は学問を好み、親交の深かった呂蒙と共に学問に励んだ。219年の荊州の関羽討伐時に水軍を率い活躍するがその帰りに病気で死亡する。
向秀 しょうしゅう 子期 しき
生死年:227?~272
老荘を特に好み「荘子」に注釈をくわえた人物。
向寵 しょうちょう
生死年:?~240
出身地:不明
役職:牙門将→中部督
所属:蜀
蜀の牙門将軍。演義においてはほとんど登場しないが、諸葛亮の有名な「出師の表」でその名がクローズアップされる。「軍中のことは、事の大小と無くことごとく彼に諮問してください」絶賛されて、蜀漢の北伐時に留守部隊として成都の守備を任される。劉備が大敗を喫した夷陵の戦でも彼の陣だけ無傷だった。ただ、この向寵については、正史でも演義でもほとんど記述が無く、謎が多いのもまた事実。三国志正史の蜀記・馬良伝の馬謖の章でわずかに「向朗の甥である」とだけの記述があり、文官だったのではないかという説もある。
少帝 しょうてい
生死年:176~190
出身地:洛陽
役職:第十三代皇帝→弘濃王
所属:後漢
本名:劉弁。
霊帝死後、霊帝の後妻・何太后は兄・何進と画策して自分の子・劉弁(少帝)を後継ぎにした。しかし、何進が十常侍に暗殺され、その十常侍をエン紹らが討伐に乗り出すと、十常侍の張譲らは少帝と陳留王(後の献帝)を宮殿外へ連れ出した。その後、十常侍が殺されると、陳留王と共に農家で潜伏。後漢の武将・ビン貢に救われ、九死に一生を得た。しかし、董卓が洛陽の都に入り、権力を得ると、少帝は廃されて陳留王が帝に立てられた。少帝は弘農王に格下げされ、やがて何太后ともども毒殺された。霊帝の悪政が漢王朝を滅ぼし、息子の少帝や献帝の悲惨な末路につながるのであった。少帝は献帝と同じく、権力争いの道具として使われた、悲劇の皇帝であった。
鍾ヨウ しょうよう 元常 げんじょう
生死年:151~230
出身地:穎川郡長社県
役職:尚書郎→前軍師→太尉→太ふ
所属:後漢→魏
後の魏の重要人物「鍾会の父」。子供の頃、叔父の鍾瑜.に大事に育てられ特に学問に専念していたやがて学問などで頭角を現すと考廉に推挙され延尉正・黄門侍郎になった。その後、都が混乱し李かくや郭しなどが支配しだすと献帝が長安から脱出するのに暗躍し尚書僕射に昇進する。官渡の戦いでは曹操陣営で軍事物資が足らない中、馬2000頭を補給し曹操に「漢の蕭何のようだ」と言わしめた。(蕭何=項羽と劉邦の時代で劉邦の腹心で政治や軍事物資などの補給でおおいにたすけた大人物)魏が建国されると相国に任じられたが推挙した人物が謀反を企てたことから責任をとって免職している。曹丕が王位につくと復活し大理となった。その後も順調に出世し明帝(曹叡)の時代には太傅にまで昇りつめ、亡くなった後は成候と諡されている。
諸葛恪 しょかつかく 元遜 げんそん
生死年:203~253
出身地:不明
役職:騎都尉→大将軍
所属:呉
諸葛謹の長男で、諸葛亮の甥。若いころから才能に優れ機知に富み、陸遜死後は大将軍として魏の侵攻を防ぐ。孫権死後後事を託され、孫亮を補佐する。しかし魏への攻撃が失敗に終わり、人が変わったように勝手に政治をする。呉帝孫亮、孫峻にうらまれ、最後は酒宴の席で、だまし討ちに合い死んだ。
諸葛謹 しょかつきん 子ゆ しゆ
生死年:174~241
出身地:瑯邪国陽都県
役職:長史→大将軍
所属:呉
諸葛瑾は、あの蜀の諸葛亮孔明の実兄。戦乱をさけて、弟などとともに江東に移住した際に孫権に仕えるようになった。どうしても、偉大な弟と比較されてしまい、影が薄くなってしまいがちだが、諸葛瑾も優秀な人物であったという。弟が蜀に仕えていたために孫権など、呉の武将からは疑うような目で見られていたときもあったが、彼が取った誠実な態度などを見ているうちに、孫権も諸葛瑾に絶大なる信頼を置くようになったというほどの人格者だった。
諸葛瞻 しょかつせん 思遠 しえん
生死年:227~263
出身地:不明
役職:騎都尉→平尚書事
所属:蜀 孔明はなかなか子供に恵まれず、呉に仕えていた兄・諸葛謹の子を養子にしていた。その後、瞻が生まれたが、養子が病没したため、家督は実子の瞻が継いだ。才能は父・諸葛亮に及ばなかったが、誠実な性格で、劉禅の娘を妻に迎え、蜀皇帝の外戚として重きをなしていた。魏のトウ艾の軍勢が蜀に侵攻してきた際、ゲキ正の推挙で全軍を率いるが、情勢を好転させる策があるわけではなく、玉砕覚悟で報国の誠を尽くすべく出撃した。綿竹の戦いで、トウ艾に破れ、篭城していた時、トウ艾の書状が送られてきた。「おとなしく降伏すれば、コウ邪王(位)に封じるように朝廷に上奏いたそう」という内容であった。この時、諸葛瞻は意志がぐらつくが、息子の諸葛尚が「命を惜しんで、名を汚してはなりませぬ」と諌められ気を取り直し、城外へ討って出た。奮戦するも、戦死した。蜀の滅亡に際し、孔明の名を辱めぬ働きをし、最後を飾った武将であろう。
諸葛誕 しょかつたん 公休 こうきゅう
生死年:?~258
出身地:瑯邪国陽都県
役職:尚書郎→驃騎将軍・青州牧・寿春候
所属:魏→呉
諸葛豊の子孫で、諸葛孔明の血縁にあたる。若い時から魏に仕えて昇進をかさねた。朝廷において名声を集め、人民にも人気が高かったが、時の皇帝・曹叡に嫌われ無実の罪で免職に追いやられてしまう。だが曹叡の死後は再び登用される。反乱鎮圧の命で各地に派遣され、手柄を重ね出世するが、周りの人間が多く殺され、このままでは自分の立場も危ないと思い恐怖を感じるようなり、ついにはその恐怖心から呉を巻き込んで反乱をおこしてしまう。呉も援軍を送り魏軍と戦うが、敗戦を重ねた上、最後は腹をたてた呉軍の将に殺されてしまう。
諸葛亮 しょかつりょう 孔明 こうめい
英読 Chu-koLiang
生死年:181~234
出身地:瑯邪郡陽都県 役職:軍師中郎将→軍師将軍→丞相
所属:蜀
父親の諸葛珪は彼の幼い頃に亡くなっており、叔父の諸葛玄に伴われて荊州へ移った。叔父の死後、諸葛亮は農耕生活を営んでいた。臥竜岡( 諸葛亮が臥龍と評されたためこのように言われた) と呼ばれる草廬( 小さな住居)で晴耕雨読しながら、天下の動向を見守る十年間を過ごした。
その間、彼は司馬徽や黄承彦などの知識人と交わり、徐庶や朧統などの学友を得て、物事の大略を見極める才覚を磨いた。
そのうちに徐庶の勧めもあり、劉備が諸葛亮を軍師に迎えるべく草廬を訪れた。最初は断るつもりの諸葛亮だったが、無名の自分を迎えるために、3度足を運んだ劉備の姿に心打たれ、「三顧の礼」に応えて出仕する。
そして諸葛亮は、荊州を足掛かりに益州を併合して、曹操、孫権と天下を三分することを提案。その上で孫権と手を結んで曹操を討てば、孫権はおのずと劉備に降るだろうという「天下三分の計」を説いた。劉備はこれを聞いて彼の見識に惚れ込み、以後「水魚の交わり」をもって彼に接した。彼はしばしば自分を管仲や楽毅になぞらえていたが、その通り、帝位についた劉備により丞相に任じられ、蜀の国政を担うようになった。劉備からの信頼は厚く、遺言で子の劉禅が補佐するに足りない人物であったら代わりに国を取れとまで言われた。忠義に厚い諸葛亮はあくまで無能な劉禅を補佐しつづけた。南方の異民族を平定すると、劉備の遺業達成を掲げ、幾度も北伐を敢行した。しかし、過労がたたり五丈原で魏の司馬懿と対峙したまま陣中で病没した。抜群の政治手腕により、蜀の国力は増し民衆の支持を得た。また賞罰は公正さを重視しており、日頃彼が目をかけていた馬謖が命令無視により大敗を喫したためやむなく処刑したことは、泣いて馬謖を斬るの故事で有名である。演義では卓越した軍略家として描かれており、赤壁の戦いで呉の周瑜と知恵比べをしている。
「三顧の礼」と「水魚の交わり」
三顧の礼をもって劉備に迎えられ、出慮を決意した諸葛亮。彼が傘下に加わってからというもの、劉備は毎日のように彼と話し込んでいたので、関羽や張飛からするとこれが面白くない。この時点ではまだ才能を示す機会がなかった諸葛亮は、関羽と張飛の両人からはよく思われていなかった。「見上はあいつを高く評価しすぎではないか」と2人がなじると、劉備は、「自分にとって諸葛亮が来てくれたのは、魚が水を得たようなものなのだ」と言ってなだめた。
それ以来、諸葛亮は張飛から「水」と言ってからかわれるようになる。曹操が夏侯惇を都督として新野に攻め込んできた一大事にも、「水を差し向けてみたらいいじゃないか」と張飛。そんな調子なので諸葛亮としては、攻め込んできた軍勢のことよりも、2人がちゃんと指図を聞いてくれるのかが心配で、劉備から剣と印を借りる。そして諸葛亮が、関羽、張飛のほか関平、劉封、趙雲らにもそれぞれ指示を出すと、武将らはみな半信半疑の面持ちで出陣していったが、いざ始まってみると、戦は完璧に諸葛亮の読み筋通り。出した指示はどれも的確で、劉備軍は圧勝となった。こうして諸葛亮は、武将たちから力を認められる存在になったのである。
徐晃 じょこう 公明 こうめい
生死年:?~227
出身地:河東郡楊県
役職:騎都尉→平冠将軍→陽平候
所属:楊奉→魏
初めは車騎将軍・楊奉に従っていた。献帝を洛陽に逃がすよう進言したのは徐晃である。曹操軍の豪傑・許楮と互角に戦ったことで曹操に惚れ込まれた。曹操幕下の満寵と顔見知りで、彼に「良禽は木を択んで住むのと同様に、賢臣は主を択んで仕えるものだ」と説得された。徐晃はそれに応じ、曹操配下の将に。袁紹との戦いでは、彼の部将を説得して投降させたり、馬超討伐の時は、先立って黄河を渡り梁興の夜襲を撃退し、曹操を無事に渡河させたりした。中でも樊城を包囲していた関羽を破った功績は大きい。219年に関羽が樊城を包囲した際には、援軍として参戦し、曹仁とともに蜀を大勝利に導陣営を攻撃。平南将軍に任命された。その際、慰労の宴会が行なわれた
が、徐晃の部下はその最中も職務を怠らなかったため、曹操はその様子に大変感心したという。曹
操の死後も魏に仕え、高齢ながらも軍を指揮し続けた。明帝の時代まで活躍しつづけた。彼は曹操という主を得たことを非常に誇りに思っていた。そのため、自分の名誉よりもまず主君の偉業に貢献できることを第一としていた。非常に慎重な性格で、不敗の状況だと判断するまで決して戦いを挑まなかったという。彼の功績はこの慎重さがもたらしたものなのかもしれない。張遼、張コウらと共に「魏の五大将」と称された。もともと楊奉に仕えていたが、友人の満寵の説得により曹操のもとへ降った。常に慎重、冷静沈着かつ勇猛で曹操の信頼も非常に厚かった。また兵士の教育においても一流で、徐晃の軍の兵士たちはみな徐晃を慕っていたという。武器は彼のトレードマークとも言える斧矛であった。がしかし、常に個人の利益ではなく主君曹操に対し手柄を立てることを第一義として生きてきた猛将の最期はあっけなく、西暦227年、静かに病没している。
徐庶 じょしょ 元直 げんちょく
生死年:?~?
出身地:穎川郡
役職:右中郎将→御史中丞
所属:蜀→魏
義に厚い男で、若い頃は学問よりも剣術を好んだ。ある日友人のために人を斬り、逃亡の身となる。以後は“単福”を名を変え、学問を志した。司馬徽の助言で劉備と知り合い、『この馬は凶馬・的廬といい、乗る者に災いを及ぼします、敵に与えて厄を落としてからお乗り下さい。』と進言したが、劉備は『人を陥れるような事を勧める者は要らぬ!』と一喝され、その仁徳に感服し、心から仕えようと決めた。武芸に優れ、義侠心に厚い徐庶は友人の仇討ちを引き受けたが、役人に捕らわれてしまう。その頃から学問の道に励み始めている。荊州に移住して司馬徽の門下生となった後、劉備に仕えた。
その軍略は諸葛亮や腦統に劣らず、5千の曹仁軍を2千の兵で撃退。さらにその報復に編成された2 万5 千もの軍隊を、陣の弱点を突き壊滅させ、劉備を驚かせたという。
その才能を知った曹操は劉備に嫉妬。謀臣・程旻の進言に従い、徐庶の母親を人質にし、彼を帰順させようと偽手紙を送る。それを知った徐庶は諸葛亮を後任に推薦し泣いて劉備と別れるが、徐庶の母親は「明君劉備を捨てて逆臣につくとは」と息子の行為を恥じて自害してしまった。
自らが騙されたことを知り悲嘆にくれるも、すでに遅く、義を大事にするなればこそ、魏を去ることはしなかった。その一方で劉備への恩義も忘れず、結局彼は曹操に」計も献じることはなかったという
劉備の軍師に
仕えるべき主君を探していた徐庶は、新野城の街中で歌を歌って劉備の気を引くことに成功する。話をしてみると、劉備は噂通りの仁義を備えた人物だということがわかったので、彼に仕えることにし、劉備も徐庶を軍師として迎えた。
ちょうどその頃、曹操が焚城を拠点にし、呂噴、呂翔に5千の兵を率いさせて新野に攻めてきたため,劉備は徐庶に相談する。徐庶は、「関翔葬佐から出て敵軍の中ほどを攻め、張飛は右から敵軍の後尾を攻め、劉備どのは趙雲とともに敵軍に正面から当たると良いでしょう」と言ったが、その通りにすると本当にたやすく打ち破ることができた。続いて曹仁と李典が笑城の2万5千の兵を全軍率いてやってきたが、徐庶はこれもすべて予言していた。諸将に指示を言い渡すと、自分は劉備、趙雲とともに曹仁を迎え撃つ。徐庶は曹仁の陣形を見て、「これは『八門金鎖の陣』と言いまして、東南の角の生門から攻め入り、真西の景門へ抜ければ崩すことができます」と劉備に解説する。そして簡単に打ち破った。されにその晩の夜襲も読み通りであり、趙雲と張飛が返り討ちにしたので、曹仁軍は惨敗して焚城へと退却していった。が、すでに焚城は関羽が占領。徐庶は完壁な朱配を見せたのである。
徐盛 じょせい 文嚮 ぶんきょう
生死年:?~?
出身地:瑯邪郡
役職:別部司馬→安東将軍
所属:呉 孫権が孫策の跡を継いだ時期に配下となった。
責任感の強い男だったことを示す、こんな逸話がある。221年、蜀の劉備が呉への進軍を準備した始めた頃のこと。
孫権は蜀との戦いに集中するため、魏に臣従を申し入れた。これを知った徐盛は「我々が不甲斐ないため、主君に恥をかかせてしまった」といって涙を流したという。柴桑に劉表の配下が数千の兵を引き連れて攻めてきた所を、徐盛はわずか200人の兵で破り守った。その功により昇進し、孫権も信頼をよせるようになる。その後数々の戦場にて、同軍の将達が恐れて攻めあぐねている時も、勇敢に戦いを挑み功を上げた。孫権が孫策の後を継ぎ、人材を集めた時に用いられた。周瑜の指揮の下、赤壁の戦い・南郡の戦いで勝利に貢献したが、荊州を襲撃した時惨敗した。周瑜死後、合肥の張遼を攻めたが破れ、濡須の戦いでは李典と戦い、重傷を負う。しかし曹操の後を継いだ曹丕が大軍で呉に攻めて来た時、徐盛は安東将軍として軍を指揮して迎え討つ。長江の南岸にハリボテの城壁や武器、軍旗を持たせた藁人形を大量に配置させたりし、本物の大軍のように見せかけ、曹丕軍を追い払った。このときの徐盛は知勇兼ね備えた将に成長を遂げていた。その後も大都督・陸遜に付き従い、先鋒として魏の曹休の軍を打ち破った。この一戦で魏の兵数万が投降。また多くの戦利品を奪い孫権を喜ばせたが、戦いの後間もなく病死した。孫権は徐盛の死を大いに悲しんだという。
審配 しんぱい 正南 せいなん
生死年:?~204
出身地:魏郡
役職:治中別駕
所属:袁紹
袁紹の幕僚。軍監として袁紹に仕えていた。しかし、深謀遠慮に欠けるところが目立ち、独断専行型の人物であった。官渡の戦いでは、早期決戦を唱え、軍の総指揮をとった。しかし、審配の戦術は曹軍参謀の劉ヨウに全て見破られていたため、ことごとく打ち破られ、大敗に終わった。袁紹没後は、袁尚の参謀として曹軍と何度か対決したが、捕らわれ、降伏を拒否して斬首された。
辛評 しんひょう 仲治 ちゅうじ
生死年:?~204
出身地:穎川郡
役職:不明
所属:袁紹 辛ピの兄。韓フクの配下であったが、袁紹が冀州を占領すると袁紹に帰順した。官渡の戦いでは、郭図らと早期決戦を主張した。官渡の大敗で袁紹が病死した後、袁譚を助けて袁尚と戦う。建安10年(205年)曹操が袁譚を攻めたとき降伏の使者に立った。降伏は許されなかったが、曹操に配下になるように勧められた。しかし辛評は「二君に仕えるつもりはない」と断固拒否し、陣営に帰ったが、袁譚は辛評が曹操に配下になるよう勧められたと密偵から聞いていたため、二心を疑う。二心を疑われた辛評は憤激のあまり卒倒死した。忠義を守り通したが、主君に疑われた袁れな人物であろう。
薜綜 せっそう 敬文 けいぶん
生死年:?~243
出身地:沛郡
役職:五官中郎将→太子少傳 所属:呉
年少の頃、戦火を逃れ交州(荊州の下)に疎開していた時、孫権に見出され召抱えられた。その後、呉の交州平定に貢献。演義では赤壁の戦いの際に、同盟を結ぼうとする蜀からの使者として来た諸葛孔明に、舌戦で挑み見事に負ける役で登場する。
曹叡 そうえい 巨高 きょこう
生死年:?~193?
出身地:沛国県[言焦]県
役職:司隷校尉→大司農→・大鴻臚→大尉
所属:魏
文帝曹丕の跡を継いだ魏の二代目皇帝(明帝)。実母の夫人は郭貴妃に謀られて曹丕に殺された。その為狩りの時、曹丕により親鹿を失った子鹿を見て、射ることなど出来ないと訴えた。曹丕に親を殺された自分を重ねたのだろうか。帝位に就くと司馬懿を重用。一度は蜀の馬謖の策で司馬懿から兵権を取り上げるが、諸葛亮に対抗する為に復帰させ、以後全権を任せた。しかし諸葛亮の死を境に曹叡の暮らしは乱れ始める。宮殿造営など大規模な土木工事を行い、天下の美女を集め郭夫人を寵愛。そして皮肉を口にした毛皇后を、父の行為を繰り返すかの様に殺す。その後司馬懿に後事を託し、わずか39歳の若さでこの世を去った。諸葛亮の北伐に臨む曹叡の姿勢は毅然としており、判断も理にかなっていた。だが晩年には愚かな君主の典型となってしまう。何が彼をそうさせたのだろう。
曹休 そうきゅう 文列 しれん
生死年:?~228
出身地:不明
役職:騎都尉→中領軍→大司馬
所属:魏
字は文烈。曹操の甥にあたり、大司馬の役職に就いている。呉との対戦では、周鮑の偽りの降伏を信じ、周囲の反対を押し切り追撃、伏兵に遭って大敗した。部下の意見をいれずに猛進するタイプで、これといった功績はないが、曹叡の信頼が厚かった。曹叡が即位すると以前よりも厚遇されたが、かえってそれを苦にし、病死してしまった。
宗謙 そうけん
生死年:?~?
出身地:ふめい
役職:将軍
所属:呉
曹昂 そうこう 子修 ししゅう
生死年:?~197
出身地:沛国県[言焦]県
役職:不明
所属:魏
曹操と劉氏の間に生まれたが、母親が早世したため、丁氏に育てられる。字の名は子脩。父に付き従い、初陣は張繍征伐。だが、一端降伏した張繍の裏切りにより窮地に貶められ、退却の際に、馬を射られた曹操に自分の馬を差し出し討ち死。後継ぎに、と期待されていたようだが、曹操の女好きのおかげで思わぬ不幸を蒙ったことになるのか…。
曹洪 そうこう 子廉 しれん
生死年:?~232
出身地:沛国県[言焦]県
役職:県令→鷹場校尉→驃騎将軍
所属:魏
字は子廉。黄巾征伐より従軍。董卓との戦いに敗れたときは、曹操を担いで徐栄の軍から守り抜く。短気で、対馬超では十日辛抱を九日目で罵声に我慢できなくなり大敗。曹操は斬ろうとしたが周囲の取り成しで許される。その直後、危機一髪、馬超の手から救出。『子廉なければ我が命もまたなし』と曹操は複雑な気分だった。後年、文帝に恨まれ投獄され、いつの間に釈放されたのか、献帝から玉璽を奪うところに登場。その後、物語から姿を消した。
曹純 そうじゅん 子和 しわ・しか
生死年:?~210
出身地:不明
役職:議郎→高陵亭候
所属:魏
曹仁の弟で曹操とは従兄弟にあたる。南皮包囲網戦に参戦し、袁譚を討ち取る等の功績を上げる(演技では曹洪と言う事になっています)。長坂の戦いでは劉備を追撃し、2人の娘を捕らえ、江陵を降伏させる。死去の後、威候と謚されている。演義ではけっこうヤラレ役で、曹仁との南郡防衛時にも周瑜と趙雲にあっけなく城を取られている。
曹彰 そうしょう 子文 しぶん
生死年:?~223
出身地:沛国県[言焦]県
役職:北中郎将・驍騎将軍→任城王
所属:魏
曹操の次男。父の武勇面を引き継いだようで、腕力が強く、若い頃は武芸に夢中、素手で虎を倒すほどだったという。行驍騎将軍に任じられていたが、父・曹操死後、十万の兵を率いて長安へ来た。しかし賈逵に説得されて曹丕と面会。そのまま引き下がり任地へ戻った。だが、この行動をきっかけに曹丕は強い疑念を抱くようになり、迫害を受けた。223年病死している。
曹植 そうしょく 子建 しけん
生死年:192~232
出身地:沛国県[言焦]県
役職:平原候→安郷候→陳思王 所属:魏
曹操の三男で、兄弟のうち最も詩文的才能に優れる。だが、皇位継承者の候補に挙げられたことで兄、曹丕に睨まれ、次々と重なる左遷など、冷遇され続け、41歳の若さで病死。あるときは、七歩の間に詩を詠めと命じられ、兄弟を題とし、兄のつれなさを見事な詩に歌ったのは有名なエピソード。その袁しさには曹丕も思わず涙したという。
曹真 そうしん 子丹 したん
生死年:?~231
出身地:不明
役職:偏将軍→鎮西将軍→大司馬
所属:魏
演義ではいつも負けている役にされて情け無い武将というイメージを持たれる方も多いかもしれませんが正史では勇猛果敢で数々の軍功を上げていると正反対に記されている。漢中争奪戦では劉備を2度も破り、街亭では馬謖を破り、陳倉では諸葛亮も破っている。曹真は誠実かつ清廉な人物であったようで部下に対しては常に苦労を共にしていた、政府からの恩賞が少ない時は自分の財産を部下に分け与えていた事もあり将兵からの支持は絶大であった。蜀征伐時に病気にかかり帰還後まもなく死去している。もともとの姓は秦で父が曹操の身代わりになって殺された為、曹姓を賜ったらしく曹操との血のつながりない
曹仁 そうじん 子孝(しこう
生死年:168~223
出身地:沛国県[言焦]県
役職:校尉→大将軍→大司馬 所属:魏
字は子孝。曹操が黄巾征伐に挙兵したときから従軍。
夏侯惇や夏侯淵だちと同様、曹操の従弟にあたり、曹操が挙兵した当初から従軍した人物。若い
頃から弓術や馬術の名手と賞され、狩猟を趣味としていた。親族の中でも腕っぷしが強く、荒くれ
者だった曹操とは、幼い頃から仲がよかったという。曹操が故郷で挙兵すると、千人余の兵を従わせて参陣した。曹操が徐州に侵攻した際には、騎兵を率いて軍の先鋒として活躍。その後、陶謙や呂布との戰いでも騎兵隊の指揮や、別働隊として数々の成果を出したりと、大きな功績を挙げている。曹操が張繍の夜襲に見舞われた時には、別働隊として近隣の県を攻略していたところから援護に急行。負け戦で意気消沈していた兵たちを指揮して、獅子奮迅の働きで戦況を挽回した。関羽に包囲され、水攻めにされたときは樊城にこもり、徐晃の援軍が来るまで守り抜いた。部下の牛金が単騎包囲されたときは、ただ一人救出に向かい、信頼も厚かった。若い頃は勇猛な突撃タイプで法を破る無法者だったが、後年は重厚な司令官へ。曹丕はよく弟を『曹仁将軍のようになれ』とたしなめていたという。
曹嵩 そうすう 巨高 きょこう
生死年:?~193?
出身地:沛国県[言焦]県
役職:司隷校尉→大司農→大尉
所属:後漢
曹操の父親で、宦官の曹騰の養子になった人物、旧姓は“夏侯”。早くから聡明ぶりを見抜いていたのか、たくさんの子の中でも特に曹操を可愛がり、放蕩ぶりも大目に、『この子は鳳眼だ、きっと大物になるに違いない』と言っていたという。曹操が黄布討伐のために挙兵した際も、二代にわたって築いた財産を全て兵糧に費やしてやった。息子はとんとん拍子に出世し、彼を本拠へ呼び寄せた。だが、かねてから曹操とよしみを持とうとしていた陶兼の兵に護衛され、許昌へ向かう途中、山賊に襲われる。曹嵩は妾の1人と逃げようとしたが、厠の塀を越えようとすると、その妾が太りすぎていて登れない。どうしようかとうろうろしているうちについには斬り殺されてしまった。
曹操 そうそう 孟徳もうとく
生死年:155~220
出身地:沛国県[言焦]県
所属:後漢→劉岱→君主(魏) 沛国ショウ県の出身で、霊帝に仕える宦官曹騰の孫に当たる。当時、宦官は世間から軽蔑されていた。その孫というのだから、社会の圧力もあり、なかなか表舞台に立つことは難しい。加えて、背が低いというのも彼のコンプレックス。だが、それをバネとし、武術・舞踊・音曲・兵法など、様々な分野で類まれな才能を発揮。ついには改革的な政治に、人々は始皇帝の再来と噂し恐れるようになった。許子将が『治世の能臣、乱世の姦雄』と評価したのはあまりにも有名で、才能ある者は身分にかまわず登用し、人を見抜くことにかけては誰にも負けなかった。演義では悪役として描かれているが、劉備は血筋を武器とし、孫権には受け継いだ領地と兵があった。まったく無の状態からスタートを切った曹操は中華の統一とまではいかなかったものの、たった5千の挙兵から、群雄割拠の時代を生き抜き、天下の3分の1を手にした。彼の実際的な政治能力の高さがうかがえる。また、幼い頃からウソが上手く、彼の墓は六十近くの偽物が作られ、一向に謎に包まれているという。彼は詩人として有能な人物で、「短歌行」「苦寒行」など多数の優れた詩を残しいる。
宦官( 後宮に仕える去勢した男性) の家に生まれた曹操は、20歳で考廉( 登用試験の一種) に
推挙されてから、後漢王朝下で要職を歴任。黄巾の乱の鎮圧でも大活躍し、将来を嘱望される存在となっていた。
189年、董卓が洛陽を制圧すると、袁紹らとともに連合軍を結成し、反董卓の狼煙をあげた。だが、しだいに連合軍は腰砕けとなり空中分解。これを機に世は群雄割拠の乱世に突入、曹操も天下を狙う1人となった。
その後、克州に地盤を築いた曹操は、群雄らを破り勢力を拡大。特に、本拠地の許に漢の献帝を擁し、彼を大義名分に権勢をふるうことで揺るぎない地位を確立した。
200年、河北で勢力を誇る袁紹と官渡で激突。
袁紹軍70万に対して、曹操軍は7万。数の上では圧倒的に不利であったが、曹操は奇策を弄する。
袁紹軍の物資や倉庫のある鳥巣( 地名) を自ら襲撃して焼き払い、慌てた袁紹軍に総攻撃を仕掛けて逆転勝利を収めたのだ。中原を制圧した曹操は、群雄の中でも最大勢力にのしあがる。
208年、自ら天統一を果たすべく南征の軍をおこすが、赤壁で劉備・孫権の連合軍に遭遇周瑜の仕掛けた焼き討ちの計に大敗を喫し、ひとまず天下統一を諦めることとなった。
乱世の奸雄現る
曹操は若い頃、定職にも就かず、狩りや歌舞が好きでよく遊びまわっていた。見かねた叔父が曹操の父親にそのことをたびたび忠告していたので、曹操は叔父のことを厄介に思っていた。ある日、道でばったり叔父に出会った曹操は、わざと顔を歪め、口をねじ曲げて見せる(『三国志演義』ではてんかんのふり)。叔父がどうしたのかと尋ねると、曹操は「急に顔面麻痺症にかかってしまいました」と言うので、叔父はそれを父親に知らせた。驚いた父親が曹操を呼んでみると、彼はケロリとした顔で「顔面麻痺になんかなっていません。それはきっと叔父さんが私のことを嫌っているから、そんな悪口を言いふらしているのでしょう」と言い放った。以降、曹操の父親は叔父が何を言ってきても信じなくなり、曹操はますます好き勝手に遊び果けることができたのである。こういった悪知恵は曹操の真骨頂でもある。
そんな、遊びに夢中の曹操であったので、世間では彼を評価す多秋網籠ほとんどいなかったが、人物鑑定の名士の幾人かは彼の才能に注目した。橋玄は曹操に、「わしは多くの名士に会ったが、君のような人間は初めてだ。もうすぐ訪れる乱世を鎮めるのは君かもしれない」と言い、何願は「漢の皇室が滅び、天下をまとめるのは必ずやこの人だ」と言った。人物鑑定家として特に名高い許勧は、「治世の能臣、乱世の奸雄(悪知恵に長け、国を奪いかねない英雄)」と評した
曹爽 そうそう 昭伯 しょうはく
生死年:?~249
出身地:不明
役職:武衛将軍→大将軍
所属:魏
曹真の子で明帝には若い頃から可愛がられ重用され次々と昇進している。明帝が病に臥すと大将軍に昇進し司馬懿と共に世継曹芳の補佐を託される司馬懿とは常に権力による駆け引きを繰り返し、ついには何の権限の無い太傅に司馬懿を祭り上げて実権を独占するようになる。その後は天子を軽視し独断による採択で蜀領漢中に遠征し大敗するが行いは改まらず淫楽にふけった。司馬懿を恐れ部下に様子を見に行かせるが司馬懿はボケたフリをしそれを信じてしまう。その後司馬懿は着々とクーデターの用意をし翌年の正月、陵墓参拝の際司馬懿に武器庫を占領され、あっけなく実権を失い、三族もろとも処刑されてしまう。元々は司馬懿を父の様に慕っていた曹爽だったのですが周囲が彼をおだて段々と権力欲に浸ってしまったようです。
曹沖 そうちゅう 倉舒 そうじょ
生死年:196~208
出身地:沛国県[言焦]県
役職:不明
所属:魏
曹操と環夫人との間に生まれる。詩文や政治の能力に長け、曹操の一番のお気に入りだったと言われているが、ただ体が弱かったのも同時に残念がられていた。当然曹丕は、ライバルである彼の存在を疎んでいた。あるとき、曹操の頭痛を治すために華陀が呼び寄せられたが、華陀は曹沖をとても気に入り、病を不憫に思い、曹丕にある“札”を託した。その札を肌身離さず持たせれば曹沖の病は改善するという。兄の命を救うべきか、自らの王位を守るべきか、曹洪に相談したが、曹丕派だった彼は札を焼き捨て、曹沖は病のうちに死んでしまった。享年13歳
曹丕 そうひ 子桓しかん
生死年:187~226
出身地:沛国県[言焦]県
役職:五官中郎将・副丞相→丞相・魏王→皇帝
所属:魏
曹操の嫡男。弟の曹植とともに詩文の才能に優れ、激しい後継者争いを繰り広げる。曹操の嫡男として生まれ、のちに魏国の皇帝となる人物。学問に優れ、8歳のときには文章を書
き、経書の注釈や諸子百家の書物( どちらも儒教をはじめとした学問書)を解読できたという。また詩文の才に秀で、弟の曹植とともに並び賞されていた。
曹丕が誕生したとき、青い雲気が立ち昇り、1日中消えなかった吉兆があったという。これが、嫡男ではあったが実質的には三男だったはずの曹丕が、皇太子の座につくほどの強運を授かった天啓だったのかもしれない。袁煕の妻、甄氏をめぐる恋愛バトルも有名だが、結局はどちらも曹丕が手にする。
弟・曹植との後継争いに勝利
魏の初代皇帝という、とりわけ華やかな苦労があった。曹盃は三男・曹植の聡明さと詩の才能を愛した。しかしその陰には彼に儲けられた曹操の長男だったが、曹操は後継にするつもりでいたのである。
曹操が死ぬと、父の跡を継いで魏王になり、220年には後漢最後の皇帝・献帝から禅譲を受けて、魏王となり、34歳で献帝から禅譲を受け魏を建国。呉が降伏を申し入れたときは『臣従を希望する者を攻めたりすれば天下の信を失う』と周囲の呉殲滅の意見を下げて孫権を呉王に任命する。若く40歳にして病没するが、7年間の間に彼が固めた基礎は見事なものだった。彼は弟の詩聖-曹植にも劣らぬ詩の才能があり:「燕歌行」「雑詩二首」などの優れた詩を残している曹植との跡目争いでは相当苦しんだものと見え、以後、兄弟には距離を置いた冷たい態度を一貫している。
皇帝となった曹丕は、魏王朝の基礎固めに尽力。内政を整え、人材の登用や民生の安定、学問を奨励するなど堅実な采配を振るった。
曹芳 そうほう 蘭卿 らんけい
生死年:232~274
出身地:不明
役職:第3代魏皇帝
所属:魏
魏の第3代皇帝で曹操から数えると4代目(曹操は皇帝に即位していない為)となる、しかし曹叡には世継が無かった為実子ではなく養子であると思われる「魏氏春秋」では曹楷の子であるとされているが事実については不明。曹叡の遺言により3代皇帝に指名され弱冠8歳で即位するが実権は曹爽、司馬氏に握られていた。李豊・夏侯玄・張絹などと謀って司馬氏を退けようとしたが事前に発覚し退位に追いやられる
曹熊 そうゆう
生死年:?~?
出身地:沛国県[言焦]県
役職:不明
所属:魏
曹操の…名目上の4男。後継者争いでは特に関わらなかった人物で影はひたすら薄い。 演義では…曹操の葬式を体調不良で休むも、罪を曹丕に問われるのを恐れて自害。正史では…「曹熊は若くして亡くなった」の、1行のみ…名前だけである。と、まあ歴史上そんなに重要な人物ではなかったようだ。その証拠に、何かをしでかしたのなら、正史に書いてあろう。でも、実際は能力があったかもしれないが、若くして亡くなった事を考えると…不運としかいえないだろう。
沮授 そじゅ
生死年:?~200
出身地:広平郡
役職:別駕→騎都尉→監軍・奮威将軍
所属:韓馥→袁紹 袁紹の幕僚として数々の意見を進言し、袁紹を河北の一大勢力に育てた。献帝が長安を脱出した際「天子を擁して天下に号令すべきです」と進言したが、優柔不断な袁紹はその意見を却下した。沮授は袁紹に天下を取らせるよう努力したが、袁紹はそれに応えるだけの器量がなかった。官渡の戦いでは持久戦を主張し、短期決戦は避けるべきだと何度も袁紹に進言したが、取り入れられることなく、かえって謹慎を命じられた。官渡の戦いは袁紹軍の大敗に終わり、沮授は曹操軍に捕らわれたが、曹操には下らず、逃亡を図って殺された。最後まで袁紹に対しての忠節を守り抜いた。
蘇飛 そひ
生死年:?~?
出身地:不明
役職:都督
所属:劉表→呉
劉表の配下・黄祖のもとで都督を務めていた。黄祖の配下・甘寧の力量を認め、黄祖に甘寧を重用するように何度も進言をしていたが、「忠義を知らぬ海賊を重用できるものか」と却下されつづけた。甘寧を飛躍させたい蘇飛は、甘寧に下野し、呉に行くように説得し、甘寧を呉に向かわせた。その後、呉軍が攻め入り、黄祖は討たれ、蘇飛も捕らわれ、首を討たれそうになったが、甘寧が「蘇飛は私の恩人です。私がこうしていられるのも彼のおかげ、命は助けてください」と必死に懇願したため、命は助けられ、呉に仕えた。その後の蘇飛がどう活躍したかは不明である。
祖茂 そも
出身地:不明
役職:不明
所属:呉
孫堅に仕えた武将で、二刀流の使い手。反董卓連合軍に参加した孫堅が、董卓配下の華雄の夜襲にあった。そこで孫堅は逃げる時、祖茂に自分の赤い頭巾をかぶせ、自分は祖茂の兜をかぶった。敵兵は祖茂を孫堅だと思い、祖茂に敵兵が引きつけられている間に孫堅は無事逃げられたという。そして祖茂は孫堅の身代わりとして華雄に斬り殺された。演義では、祖茂は自分から孫堅の頭巾をかぶったとされる。祖茂は孫堅配下として、黄蓋、程普、韓当と並び称される武将だった。
孫和 そんか 子孝 しこう
生死年:224~?
出身地:不明
役職:東中郎将→呉太子→南陽王
所属:呉 孫権の次男。孫登の後を継ぎ皇太子となる。しかし孫権の娘の全公主に讒言された為、太子を廃された。この時、朱拠、屈晃らは命がけで反対した。そして幽閉され、孫峻に自殺を迫られて死亡。その後、息子の孫皓は孫休の後を継いで帝位につき、孫和は文皇帝と諡された。呉の最後の皇帝、孫皓の教育はしっかりして欲しかったものだ。
孫桓 そんかん 叔武 しゅくぶ
生死年:197?~?
出身地:不明
役職:安東中郎将→建武将軍 所属:呉
元の姓は愈。孫策から孫姓を賜った孫河の3男。25才で安東中郎将となり、劉備の呉侵攻に対する防衛にあたる。最初劉備は圧倒的な勢いで勝ち進み、孫桓は夷道において劉備に包囲されてしまう。だが劉備が陸遜の計にかかり、孫桓も自ら奮戦し、劉備軍は敗走。さらに退路を次々と遮断し、劉備は命からがら逃げ延びることとなった。劉備は「わしが昔、京城にいた頃は小童だったのに、現在わしをここまで追い詰めるとは・・」と嘆息したという。孫桓はこの功績で建武将軍となり、丹徒侯に封じられた。のち牛渚の督に任じられ、横江の砦を築いている時に急死してしまう。
孫堅 そんけん 文台 ぶんだい
生死年:156~192
出身地:呉郡富春県
役職:仮の尉→長沙太守→破虜将軍
所属:朱儁→張温→袁術
呉郡富春県出身。字は文台。17歳のときに父親に付き従って海賊を退治し、その名を馳せた。2年後の174年、会稽郡で反乱をおこした許昌親子を討伐した功績により、塩涜郡の太守補佐官に就任。その後各地で太守補佐官を転任した。一八四年に黄巾の乱がおきた際には、兵を率いてこれを鎮圧。獅子奮迅の活躍を見せ、「江東の虎」と称された。その活躍ぶりを買われ、長沙の太守に任命されている。
董卓の暴政が敷かれていた190年、曹操の呼びかけに応じて反董卓連合軍に参加、先陣を切って洛陽入りを果たしている。この闘いで関羽が華雄を斬ったとされているが、正史によれば実際に華雄を討ったのは孫堅である。連合軍の侵攻を受けた董卓は都に火を放ち、長安へと逃れた。“関羽が華雄を斬り、戻ってくると酒はまだ温かかった”という話があるが、正史によると、華雄を斬ったのは孫堅であった。しかし孫堅の実力を疎み、兵糧係の袁術が兵糧を送らなかったため、やむなく董卓追撃を諦めることになる。董卓が焼き払った洛陽復興にあたった孫堅は、井戸の中から、手にしたものは天下を得るといわれる“伝国の玉璽”を発見し、病と偽って本拠地へ帰ろうとする。だが玉璽を持ち帰ろうとしたことがバレて、袁紹に命じられた劉表に追討をかけられることに。どうにか逃げ切ったものの、その後劉表とは争いが絶えなくなったという。また、この二つの出来事が元凶となり反董卓連盟の団結は砕かれ、董卓を追い詰めることができないまま解散となったのであった。その後孫堅は、劉表の武将・黄祖との戦いの中、カイ越の罠にかかり、全身に石や矢を浴びて死亡、37歳だった。董卓は、孫堅と袁紹さえいなければ…と思っていたので、彼の死の報せを聞いて喜んだが、生きていれば曹操の最大のライバルになったのは間違いないだろう。己の武力に自信があったために『血気にはやり、単騎猛進し命を失う』結果になった。このとき息子の孫策は17歳。皮肉なことに、数年後、彼も父と同じ過ちを繰り返すことになる。
賊を討ち名を上げる
172年、孫堅は17歳のとき、父親と銭塘という街を訪れる。ちょうどそのときこの街では、十人余りの海賊が商人たちから奪い取った金や物品を岸辺で分配しているところだった。それを見た孫堅は、「討伐して見せましょう」と言い、父親が「おまえ一人では手に負えないだろう」と言うのもかまわずに、刀を手に取って岸に上がる。そして手を振り、大声で叫びながら左右に指図をするように見せかけた。
すると海賊たちは官兵が来たのかと勘違いして、金や物品を置いたまま散り散りになって逃げ出したのである。しかも孫堅は海賊たちを追いかけ、そのうちの1人の首を取って戻ってきたので、父親は息子の知恵と勇敢さに大変感心した。この一件によって孫堅の名は知られるようになり、のちに推挙を受けて校尉となった。
174年、会稽郡において許昌が宗教反乱を起きた際も、孫堅は義湧浜1千人余りで数万人の敵軍を打ち破った。その後は県の丞を歴任。 184年に黄巾の乱が起こってからは、郷里の若者たちや淮水・洒水あたりの精鋭ら合わせて1千5百人余りの兵を率いて、救援に駆けつけた。この戦いで孫堅は真っ先に撤駒蹴壁を乗り越え、賊将の趙弘を斬るなどの活躍を見せる。その功が認められて別部司馬の官に任ぜられた孫堅は、さらにその3年後、長沙の大守となり、反乱を起こした区星を様々な計略を用いて破った。孫堅という男はこのようにして、自らの実力で着実に名を上げていったのである。
孫権 そんけん 仲謀 ちゅうぼう
生死年:182~252
出身地:呉郡富春県
役職:陽羨県長→討虜将軍→大将軍→呉皇帝
所属:君主(呉)
いわずと知れた呉の初代皇帝。孫堅の次男で、孫策の弟にあたる。孫堅と孫策が築いた呉の基盤を引継ぎ、蜀や魏とともに三国鼎立時代を築いた人。碧眼に紫髯( 青い眼と赤ひげ) という少数民族の血を色濃く残す異相だったといわれる孫権。
兄・孫策は死の間際「お前の才は私の10倍あるが、攻めるに向かない。よく国を守って、治めよ」と遺言し、後事を託したという。この時、孫権わずか19歳。しかし、常に幕僚の進言によく耳を傾け、敬意をもって接した彼の下には、名君の評判を聞きつけた優秀な人材が各地から集まった。203年、孫権は荊州の劉表の配下であった、父・孫堅の仇、黄祖の討伐に乗り出す。彼は周瑜を大都督(軍政官の最高職) に任命して見事に黄祖の首を討ち取るが、これにはさらに劉表を攻めて荊州を支配下におく狙いもあった。だが、劉表の病死に乗じて曹操が南下してきたため、208年、そのまま赤壁の戦いを迎えることになる。蜀と組み、東時最大の国であった魏を赤壁の戦いで破った。しかし呉の策略は、魏と蜀が戦いつかれたときに両方を同時に討つという作戦だったため、晩年は積極的には出兵しなかった。周瑜死後には陸遜を総大将にした戦いもあったが、最後まで陸遜を信用できなかった孫権は、後継ぎ問題から10人以上を死に追いやることにもなったのである。そして、71歳でこの世を去った。
兄を継ぎ、父の仇を討った孝行者
孫家は、父・孫堅に続いて、兄・孫策も早世したため、孫権は20歳に満たない年齢でその後を継ぐこととなった。当時は英雄豪傑と呼ばれる人物がまだまだ各地に乱立しており、名士や武将たちは情勢を見つつ主君を変えていくような時代背景であったため、まだ年若い主君(孫権)と家臣の関係はお世辞にも固まっているとは言えなかったのであるが、孫権は「国内のことは張昭に、国外のことは周瑜に相談せよ」という孫策の遺言をよく守り、呉の地盤を徐々に固めていった。張昭や周瑜たちも、そんな孫権を「天下に足る人物だ」と見込み、自らの生涯を捧げる気になったのである。さらに周瑜は魯粛を推挙し、魯粛は諸葛理、張紘が顧方を推挙。
こうして孫権は広く名士を集め、次第に人望を厚くしていった。そして203年、孫権は父の仇である劉表配下の黄祖を討つべく兵を起こす。一度は失敗して兵を引き上げた孫権軍だったが、周瑜を都督とし、さらに敵将甘寧が投降してきたのをきっかけにして、翌年に再び出兵。黄祖を討ち果たすことに成功した。甘寧の活躍で黄祖の首を取った孫権は、その首を父の霊前に供え、仇討ちを達成したことを報告したのであった。この後も、孫権の親孝行ぶり(母親や叔母に対して)はしばしば見え、彼の性格がうかがえる。
孫乾 そんけん 公祐 こうゆう
生死年:?~?
出身地:北海郡
役職:従事→従事中郎→秉忠将軍
所属:蜀
「そんかん」。ではなく「そんけん」と読んで、わざわざ呉の親子とごっちゃになりやすくなっているのは不思議なルール。字、公裕。北海の人。劉備の徐州時代から加わったスタッフだというのは、正史でも演義でも変わらない所だが、正史では劉備の徐州刺史就任の際に推挙された補佐役という、いかにも役所然とした登場の仕方に対して、演義では徐州刺史陶謙がその臨終の場に居合わせた劉備に推挙するという若干ドラマチックな登場に書き換えられてはいる。いずれにしても地味な登場である。周知のように、地味なのは登場シーンだけではなく、劉備陣営参加後の彼の仕事はまさに地味の一言である。演義・正史ごっちゃに並べ立てると、連戦連敗の劉備をかくまって貰うためえん紹に書を届けたり、曹操にとっつかまってる関羽と劉備の間をこっそり連絡したり、またしても連戦連敗の主君を今度は劉表にかくまわせたり、新参者孔明の活躍に妬くことなくその戦勝を祝いたてたり、ほう統と張飛のケンカを仲裁したり、ヤケっパチになって宗教団体に仕えてた馬超に降伏を勧めたり・・・・地味だ。地味だが重要だ。彼が良く並べ立てられるビジクや簡ヨウらの活躍も重要だが、劉備とその一党の生き死にに関わるピンチを凌いできたのは、正しくこの人の渉外能力なのである。まさに「縁の下の力持ち」。誰が呼んだか「お使い孫乾」。後世の、そんな軽い愛称も、実は彼の仕事に対する高評価を誰もが知っているからこその「愛」称なのだ。蜀建国後、簡ヨウの次、ビジクと同位の将に据えられ、蜀の重臣としてその一生を終えた。
孫策 そんさく 伯符 はくふ
生死年:175~200
出身地:呉郡富春県
役職:懐義校尉→折衛校尉→討逆将軍
所属:袁術→呉
父親が死んだときはまだ17歳で、後を継ぐための国の地盤が十分ではなかったため、一時は袁術に吸収されていた。21歳になったとき“伝国の玉璽”をかたに、亡き父の残した3千の兵を譲り受け、伯父の加勢に行くと偽り出兵。幼馴染みの周瑜を幕下に入れ、江東の二張と呼ばれる張昭・張紘を招き、旧臣ともに会稽の厳白虎をあっという間に撃破した。人々は江東に孫家が戻ってきたのを喜び、孫策の勇猛さから、覇王・項羽の名を借りて“小覇王”と呼んだ。再び袁術に三千の兵と玉璽の交換を求めたが断わられ、曹操に大司馬の位を要求したがそれも跳ねつけられ、両者と敵対。その後呉郡で謀反の計画があり、怒った孫策は呉郡太守を処刑した。それを恨んだ者が今度は孫策暗殺を企て、刺客の毒矢を顔に受け重態となる。一説によるとその後、于吉という仙人を殺したため崇り殺されたともいわれる。一度は完治しかけたが、ふと鏡を見ると、傷に蝕まれ昔の勇壮さは名残もなく、癒えない傷を破ってしまい、弟の孫権と補佐の周瑜に後事を託し、そのまま26歳で息絶えた。父親似の勇猛さに加えての短気さがアダとなった死に方であった。
智勇を兼ね備えた「小覇王」
父・孫堅を劉表との戦で亡くし、長男の孫策は若くにしてその後を継いだ。彼は脳濤、議論に身を寄せていたが、江東一帯の支配。望みを叶えるべく、伝国の玉璽を質にして袁術から兵を借りる。そして揚州の劉孫を攻めた(194年)。
孫策はこの戦で勇猛ぶりを遺憾なく発揮。特に太史慈との計百合に及ぶ一騎打ちは周囲を唸らせた。また敵将・干靡を生け捕りにして脇に抱えているうちに締め殺したり、林大能を一喝して落馬死させるなどの勇猛ぶりに、人は彼のことを「小覇王」と呼ぶようになる。たしかにこれらが事実なら凄まじいパワーの持ち主だ。
戦いに勝利した孫策は、伏兵によって太史慈を生け捕ることにも成功する。孫策は「劉孫が敗れたのはそなたを重用しなかったからだ」と、陣に招き入れて宴会を開いた。その席で太史慈は、「自分はいったん陣に戻り、敗軍の兵を集めて孫策どのの手助けにしたい」と言う。それを聞いた孫策はとても喜び、明日の正午までに戻ってくるように約束をして、太史慈を行かせた。そのとき孫策配下の大将たちは皆、「もう太史慈は帰ってこないでしょう」と言ったが、孫策は「あの男の性格ならけっして裏切りはしないだろう」と笑う。大将たちはなおも信じられないといった様子だったが、翌日、太史慈は1千の兵を連れて戻ってきたのであった。
孫静 そんせい 幼台 ようだい
生死年:?~? 出身地:不明
役職:奮武校尉→昭義中郎将
所属:呉
呉国の祖・孫堅の弟で共に旗揚げを手伝った。その後も孫策・孫権と三代に使え、孫策の時代には先鋒として活躍した。子の孫静、曾孫の孫峻・孫りんなど子孫が呉の重用ポストについている。
孫登 そんとう 子高 しとう
生死年:209?~241
出身地:不明
役職:東中郎将→呉太子
所属:呉 孫権の長男。生母の身分が低かった為、徐夫人が母親代わりとなって養育した。孫権が呉王になると、皇太子に立てられる。「太子の四友」と呼ばれた、諸葛格、張休、顧譚、陳表らに補佐された。温厚で思慮深く、親思いの人物とされる。孫権が弟の孫和に目をかけているのを知り、孫和を皇太子にする様に、という遺書を孫権に送った後で死亡。33歳の若さだった。彼が帝位を継げば、歴史は変わっていたかもしれない。
孫ゆ そんゆ 仲異 ちゅうい
生死年:177~215
出身地:不明
役職:恭義校尉→奮武将軍
所属:呉
孫堅の弟・孫静の次男。物語中では多くは登場しないが、とても人望が厚く兵や人民には人気があった。丹楊太守を任じられた際には彼を慕って各地から1万人以上の兵が集まった。周瑜や孫権と共に戦い呉に貢献した。学問を好み、いつも書物を手放さなかったと言う。
孫亮 そんりょう 子明 しめい
生死年:243~260
出身地:不明
役職:第2代呉皇帝→会稽王
所属:呉
孫権の七男だが、演義では三男となっている。非常に聡明であったとされる。母親は、後に皇后に立てられた潘夫人。孫権の後を継いで呉の皇帝となる。帝位を継いでからは、諸葛格・孫峻らの専横に苦しめられた。そこで全尚や劉丞とともに孫峻誅殺の謀り事を巡らすが、事前に計画が漏れて失敗。帝位を廃され、会稽王に位を落とされた。正史では侯官侯に落とされている。そしてその後自殺。一説によれば、新皇帝の孫休に毒殺されたとの説もある。
孫朗 そんろう 早安 そうあん
生死年:?~?
出身地:呉郡富春県
役職:不明
所属:呉 呉国の祖・孫堅の子で孫策・孫権の弟。あまり歴史に登場しない、演義にしても同じで孫策が臨終する際に登場するだけ。ここらへんの呉の歴史はハッキリしていなし点多く、孫朗と孫匡が混じってしまっている。
だいきょう しょうきょう
江東に住んでいた姉妹。2人は二喬と呼ばれ、当代一の美人姉妹と讃えられた。
孫策と周瑜が江東を平定した後、姉の大喬は孫策の妻に、妹の小喬は周瑜の妻となった。嫁入りの際、孫策は周瑜に「河東の二喬は美人だが、我等を夫にできる2 人も幸せであろう」といったという。ところが孫策は26歳という若さでこの世を去り、大喬は未亡人となってしまう。孫策が死の間際、小喬に「弟の孫権に仕えるよう、夫の周瑜にいい聞かせてくれ」と後事を託したという。
その後、赤壁の戦いの前に諸葛亮は、同盟を結びに周瑜宅に赴く。その際、抗戦か降参か迷う周瑜に、諸葛亮は大喬が孫策の未亡人で、小喬が周瑜の妻であることを知らないふりをして「曹操が江東にきたのは、二喬を欲しているからです」と話す。すると周瑜はおおいに怒り、曹操と戦うことを決意したという。だが周瑜も36歳の若さで死亡し、小喬も未亡人となっている。
た行
太史慈 たいしじ 子義 しぎ
生死年:166~206
出身地:東莢郡黄県
役職:奏曹史→建昌都尉
所属:劉よう→呉
太史慈、字は子義。東菜郡黄県の人。身の丈七尺七寸。腕が長く弓を撃てば百発百中の名手だった。若い時は学問好きで郡の奏曹史を務めた。21歳の時、太史慈の噂を聞いた北海の孔融が太史慈の母の面倒を見た。その恩に報いるため、管亥に囲まれた孔融の救援に駆けつける。平原にいる劉備に援軍を求めたい孔融の使者を買って出るが、北海の孔融か、黄巾の残党・管亥の軍に包囲された。老母が孔融の世話になっていた恩返しのため、彼は包囲を破って応援に駆けつけている。孔融は援助に使いを頼んだが、包囲は固く城を出ることは困難だった。そこで太史慈は、連日城門を出て弓の稽古をし、敵の兵士が油断した隙を狙って包囲を突破したのだった。
使者の役目を果たした。その後劉ヨウのもとに身を寄せる。そしてその後孫策が劉ヨウに攻めてきたのだった。太史慈を、孫策に当らせるべきだという意見があったが、劉ヨウは騎兵一騎を渡し偵察を任せた。劉ヨウが孫策に破れると1人残り、孫策と戦い続けたが捕虜となった。その時太史慈は「劉ヨウの残党にはまだ有能なのが残っている。60日以内に集めて戻ってくる。」と約束して出立。裏切りを心配するものもいたが約束通りに戻ってきた。合肥の戦いの際に諸葛瑾に止められるのを聞かず張遼の陣に攻めこむが、張遼の待ち伏せに遭い数本の矢を受けてしまい、なんとか陣に戻るも矢傷が癒えず死亡。享年41歳。太史慈はとても親孝行だったと言う。孫策との神亭山での一騎撃ちは有名。孫策は「あの時援軍が来なかったら俺は死んでいた。」と言うくらいなので、呉軍の中ではナンバー1の実力だったと思われる。
張允 ちょういん 生死年:?~? 出身地:不明 役職:不明 所属:劉表 劉表の配下で、劉表の甥。蔡瑁と同じく劉表の腹心であり、水軍の将。荊州に劉備がいた時は他の重臣と共に「劉備は危険な男です」と何度も劉表に諌言したが、取り入れられることはなかった。劉表の死期が近づくと、次男の劉ソウを後継者に据えるべく、蔡瑁らと画策した。劉表死後、新君主の劉ソウに曹操に降るよう進言し、曹操に降伏した。曹操に降伏後、蔡瑁は水軍・都督、張允は水軍・副都督を任され、指揮するが、呉の名将・周瑜の偽書の策で、蔡瑁とともに裏切りの疑惑をかけられ、無実だと必死に助命を願ったが、叶わず、処刑された。その後の水軍は于禁・毛カイが引き継いだが、両者とも水軍に関してはまったくの素人であったという。
趙雲 ちょううん 子龍 しりゅう
英読 Chao Yun
生死年:?~229 出身地:常山郡真定県 役職:牙門将軍→征東将軍→鎮軍将軍
所属:公孫讃→蜀
常山真定の出身。蜀の五虎将の1人で、『趙雲別伝』によると趙雲の身長は八尺と堂々たる体躯で、姿や顔つきは際立って立派だった。武
芸にもまた秀でており一当万騎と謳われた関羽、張飛にも劣らなかったといわれている。
趙雲が初めて劉備と出会ったのは、袁紹と公孫讚が熾烈な戦いを繰り広げた盤河の地。一党を率いて公孫讚の下へ馳せ参じた趙雲は、援軍として駆けつけた劉備と出会う。
その後、たびたび劉備と語らうようになった趙雲は、劉備を主としてあるべき姿と確信するようになる。
そんな時公孫讚は再び袁紹と兵刃を交え敗戦。行き場を失った趙雲は、劉備の後を追って放浪の旅に出た。ようやく再会を果たした趙雲は、「あなたの下で、いかに無残な死に様をいたそうとも悔やむことはございませぬ」と想いを告げた。それに対し劉備は、彼と同じ床で眠るという厚遇で応えた。こうして彼は劉備の下で武勇と忠義をいかんなく発揮する。一騎打ちで文醜を退け、『空城の計』を考案するなど、まさに文武両道。長坂破の戦いでは、阿斗を救うため単騎で百万を越す魏軍の中を駆け抜け、曹操はその凄まじさに舌を巻き、殺すのは惜しいと弓を使うのを禁じたほど。諸葛亮は『子龍は満身これ胆である』と高く評価し、70歳で死去したときには、片腕を失ったと言って嘆いたという。幼い頃は、母を養うために河で魚を捕っていたが、誰にも教わらないのに体を傷つけないようにと魚の『眼』だけを槍で突くという離れ業もできたというエピソードがある。
張温 ちょうおん 恵恕 けいじょ
生死年:193~?
出身地:呉郡呉県
役職:議郎→太子太傳 所属:呉
孫権に才能を見出され召抱えられる。使節として蜀へと赴いた際、蜀の名士たちに才能を高く評価され、だんだんと張温は名声を上げていった。その事によってだんだん孫権は彼を嫌うようになり適当な理由をつけて彼を失脚させる。その後、歴史の表舞台から姿を消す。
張角 ちょうかく
生死年:?~184
出身地:鉅鹿郡
役職:大賢良師
所属:黄巾賊
後漢末における戦乱の直接の引き金と言える黄巾の乱。その乱を起こした太平道の指導者がこの張角である。隠しようの無い漢朝の腐敗に対して、農民を深い団結力で結び付け反旗を翻したのだ。その勢いは凄まじく、わずか半年足らずの間に数十万の勢力を形成し、朝廷が送り出した官軍と対決することとなる。この時に、兵達が黄色い頭巾を着けていたことから、黄巾の乱と呼ばれた。序盤は民の士気も高く勝利を重ねたが、8月に張角が死亡、続けて弟の張宝、張梁も戦死し、反乱は一年を経たずに終息してしまう。しかし張角の意思は民の間に強く残り、以降20年余りにわたって漢朝は黄巾の残党の反乱に悩ませられた。演義で張角は悪役として描かれているが、それは中国の人口を激減させた戦乱のきっかけを作ったとされるからだろう。
張嶷 ちょうぎょく 伯岐 ぶんき
生死年:?~254
出身地:巴郡南充国
役職:功曹→都尉→盪冠将軍 所属:蜀
字は伯岐(はくき)。巴郡南充国の人。三国志ではまま見られる「正史」と「演義」とで扱いが大きく異なる人の1人。いずれの場合でも劉備入蜀後に姿を見せ始めるが、演義系三国志での彼は、孔明の遠征にくっついていっては、「あの山に陣取れ」なんて指図されたときくらいしか出番のないマイナー武将で、たまに出番・台詞があると思えば、あの祝融夫人にコテンパンにされてたりする弱将に描かれており、読み手に、大概二人ワンセットで扱われる張翼共々「ああ、蜀人材は層が薄くなったなあ」と実感させるのが仕事のような人。しかも「ぎょく」の字が読みにくいので、「相棒」張翼よりも更にマイナーだったりもして、切なさは倍増である。しかし、正史の彼は、こんな半端武将ではない。イヤむしろ、五虎将亡き後の蜀を良く支えた良将良吏なのである。貧家の出身で、出世のコネも無かった彼ではあったが、賊の襲撃に際し、県長逃亡後も孤軍奮闘、その夫人を救出したという一件で有名になり、歴史に姿を見せ始める。孔明の南蛮行に従軍した際、なかなか蜀に帰順しようとしない越すい(山かんむりに雋)郡の太守に任命された彼は、現地の異民族を厚遇した上、もっとも強固に反抗していた捉馬族の長、魏狼を捕縛後に無条件で釈放、さらには漢の爵位まで与えて(と、正史にはあるが、孔明の委任を受けたとしても、彼に爵位を発する権限があったかどうかは疑わしい)その身分を保証した。この件が他諸族にも知れ、南方の人々は先を争って張ぎょくに帰順したという。かの「七縦七擒」。つまり孔明と孟獲の一連のエピソードの原型はここにあるのである。これらの功あって都尉に出世した張ぎょくは、孔明の北伐に参加。かしこでも綿竹あたりに出没する山賊を計略を以て掃討するなどの功績を挙げ、前線の将としては重鎮と呼べるだけの地位を獲得する。(ちなみに演義では、この時期に孔明の命で「顔面ペイントしつつ動物の形態模写しながら煙吹いて行軍」を実行。やはり功績を挙げている)孔明死後、「本当に薄く」なってしまった蜀の人材難から、病をおして姜維の魏征伐(張翼共々、この遠征には否定的であったというが、出征が決まった以上、暴走気味の姜維を放置しておけなかったのだろう)にも従軍したが、魏将徐質と交戦後陣没した。張ぎょくが南蛮の任地を離れる際、いつまでもいつまでもその帰路を見送った辺境異民族の人々は、その死を聞くや大いに悲嘆し、季節の折々に彼を祀って、その霊を慰めたという。史実の彼は、特殊な土地勘と柔軟な外交センスを持ちあわせる地方官としては得がたい人材であり、また、戦場にあっては広い戦略眼と鋭い洞察とで着実に仕事をこなす良将であった。手駒の多くが「能力はあっても指示が必要」だった孔明にとって、その自律を信頼できる数少ない配下だったと推測される。
張コウ ちょうこう 儁乂 しゅんがい
生死年:?~?
出身地:河間郡
役職:司馬→校尉→征西車騎将軍
所属:韓馥→袁紹→魏
最初は黄巾の討伐の兵員募集の応じて参加、韓馥に配下として属する。その後袁紹が冀州にやってくると袁紹に身を寄せるようになる。公孫[王贊]などの討伐では数々の功を上げ寧国中郎将に昇進する。官渡の戦いでは同僚の郭図と作戦の事で対立、張コウの意見は採用されず結果袁紹軍は大敗を喫してしまう、郭図は自分の非を問われるのを恐れ、張コウを讒言し落し入れられ張コウは危険を感じ曹操に降る。曹操は韓信の例をだして大変喜んだ。曹操の配下となってからは、数々の戦に赴いている。袁紹の息子・袁譚、袁煕、袁尚征伐で武功を挙げると、漢中の張魯攻めの際はわずか5千の兵で先鋒を務め、張魯を司馬懿のミスにより諸葛亮の罠に陥り、最期を迎えてしまった。
彼は武力に奢ることなく、よく陣営を統率し、状況や地形を考慮して計略を練った。そのため、
降伏させるなど活躍した。
数々の戦いで戦功を上げるがその中でも最も記憶に残る物は街亭の戦いである。街亭の戦いとは孔明の北伐時馬謖に先行任せ孔明の忠告を無視して山の上に陣をはってしまう、張こうは冷静に判断し山を包囲して陣をはった水を汲む通路を断った、馬謖の軍は次第に水が足りなくなり張コウは馬謖の軍を壊滅させるのである。この功により1000戸加増され4300戸の所領を持つようになった。これほどの待遇は異例の事である。その後も度々蜀の北伐を防衛に参加した、その戦い時、敵が逃げたのを見て軍師の司馬懿が追えと命じ張コウは「逃げる敵は追う物ではない」と言ったが司馬懿はその言を聞かず追う事を命じた張コウしかたなくその命に従い追撃途中伏兵にあい戦死しているおかしな事に「演義」ではその話しの立場が逆になっている張コウが司馬懿の止めるを降り切り追撃した事になっている。なんだか張コウが不憫です。
張紘 ちょうこう 子網 しこう
生死年:?~?
出身地:広陵郡
役職:正議校尉→侍御史→長史
所属:呉 呉の二張の1人。孫策・孫権を陰ながら支えた有能な文官。若い頃は都へ出て勉強し、その能力は中央政府からも定評を得ていた為、帰国しても多くの有力者(大将軍・何進/太尉・朱儁/司空・荀爽など)から招かれたが、どれも断っている。戦乱が激しくなった為、戦火を避け江東に移り住むと、呉の2代目孫策に出会い、そこで初めて仕官している。孫策の配下に張昭もいたため孫策は2人を「二張」呼び高く評価し、いつも二張のうち一人は戦に同行させ一人は城を守らせた。張紘の能力が広く有名になると、誰も自分の配下にほしがり色々な策謀をめぐらしたが、孫策は彼を手放す事を拒否した。199年、孫策は江東での勝利について上奏文を書き、張紘に許都への使いを命じる。張絋は「私が行けば、宮廷にとどめ置かれ、漢の臣にされてしまう」と難色を示したが、結局赴くことに。
そして許都に着いた張紘は、予想通り曹操に気に入られ、都仕えすることになってしまった。孫策が急死した際に曹操は呉を攻めようとするが、張紘は反対した。そのため曹操は孫権を降伏させる目的で張紘を呉へ派遣するが、曹操の意に反し、そのまま孫権配下になってしまう。その後は良く若い孫権を補佐し、呉の礎を築いた。享年60歳。
張遵 ちょうじゅん
生死年:?~263
出身地:不明
役職:尚書
所属:蜀
張遵は張苞の息子、つまり張飛の孫にあたる。祖父張飛や父張苞の武名に恥じない活躍をした蜀漢後期の名将。諸葛亮も没し、蜀が弱った時に魏のトウ艾率いる大軍が怒涛の勢いで攻めかかって来た。張遵はその?艾軍を綿竹で迎え撃ち、諸葛瞻の配下として奮闘した。戦いは一進一退を繰り返したものの、もう蜀軍には兵力と士気の低下を抑えるものは無く、綿竹もトウ艾の猛攻の前に陥落した。張遵は覚悟を決め、僅かな同士を率いて大軍に突撃した。そして、その乱戦の中華々しい戦死を遂げた。
張昭 ちょうしょう 子布 しふ
生死年:156~236
出身地:彭城郡
役職:長史→撫軍中郎将→輔呉将軍 所属:呉
呉国を基盤を支えた、頑固な重臣である。若い頃から勤勉で後漢政府が機能していた時代に政府や陶謙からの推挙を受けていたが、気が進まず全て断ってしまう。そのまま仕官をしないまま江東に移住し暮らしていたが、その地で孫策の丁寧な招きに遂には観念し配下となっている。その後、孫策の下で働くがすぐに孫策が急死、後継の孫権を良く守り立て補佐した。孫策からも信頼を置かれていた。
孫策は臨終に際し、弟・孫権に後時を託し「内治で不明の点はすべて張昭に」との遺言を残している。その際、張昭は泣き崩れる孫権に「すぐに葬儀をとり行ない、政治をするように」と進言し、領内の安定を図っている。赤壁の戦い時の会議で、曹操に降伏することを提言して以来、孫権は張紹の事をあまり信用しなくなってしまった。呉の多くの家臣達は張紹が能力的・功労的に丞相の位に相応しいと思い孫権に提案するも、彼が丞相になることはなかった。それでも、たびたび孫権の酒乱癖や狩猟遊びを厳しくいさめている。若い孫権にとって、いつも耳の痛いことを言う後見人のような立場だったのでしょう。
張松 ちょうしょう 永年 えいねん
生死年:?~212
出身地:不明
役職:別駕
所属:劉璋→蜀
劉璋配下の文官。身長が5尺足らずの醜男で、演義では「頭が異様に尖っていて額が異様に前に出ている」と記されている。同僚の法正らと共謀して劉備を入蜀させようと画策。劉備陣営に蜀の精密な地形図「西蜀地形図」を渡す。これが劉備軍の蜀攻略に大きな力を発揮するが、張松自身は劉備軍の成都攻略前に内通が発覚されて殺された。魏の曹操の書いた「孟徳新書」を「そんな物は蜀では子供でもそらんじている」といい一字一句間違えずに暗唱したエピソードは有名。
張任 ちょうじん
生死年:?~214
出身地:蜀郡
役職:従事
所属:劉璋
劉璋配下の猛将。貧しい家柄の出だったが、文武に優れた能力を発揮し、益州の役所に勤め従事となる。劉備の入蜀時、劉璋を招待した宴席で、劉備の軍師・ホウ統の命で魏延が剣舞の最中に劉璋を斬ろうとした計略を見抜き、いっしょに剣舞を舞いこれを防いだ。劉備の成都攻略戦が始まると、これに対抗し益州のラク城で奮戦。落鳳坡(現在の四川省徳陽市)でホウ統を射殺するなどの活躍をする。ホウ統を失った劉備は荊州より諸葛亮と張飛・趙雲らを呼び寄せ、諸葛亮の策略に嵌った張任は、張飛に生け捕られる。張任の勇猛さを認めた劉備は、何度も臣従を勧めるが「士は二君に仕えず」と決して降る事なかったために首を刎ねられ、金雁橋のたもとに埋葬された。劉備は最後まで忠烈に戦い、忠義を曲げなかった張任に感服し、墓の傍に石碑を立てこれを讃えた。「張任墓」は旧跡として四川省広漢市に現存する。
貂蝉 ちょうせん
生死年:?~?
出身地:不明
役職:楽女
所属:王允→董卓→呂布
演義にのみ登場する人物で、後漢の司徒・王允が抱えていた、歌姫の美少女。
創作上の人物であるが、中国四大美女の1人に数えられる。正史には『呂布は董卓の侍女の1人と内通しており、常に発覚を怖れていた』とあり、その侍女にあたるのではないかともいわれている。名については“貂”と“蝉”はどちらも冠の飾りに使われる“テンの尾”と“蝉の羽”を表していて、美しいものを象徴する言葉だが、同時に実名の残らない者に後からつけられたことも憶測できる。董卓の暴政に嘆く王允が、自らの娘を犠牲にして謀った『連関の計』。大臣の王允から娘同様に可愛がられていた貂蝉は、董卓の暴政に悩み苦しむ彼の姿を見て「役に
立てるならどんなことでもする」と訴える。その姿を見てひらめいた王允は「天下の逆賊の董卓と養子の呂布はどちらも好色の輩ゆえ」といって順に2人に貂蝉を会わせる。
王允はまず呂布に貂蝉を嫁入りさせると約束。しかしその翌日、彼女を董卓に献上してしまう。
呂布は、いくら待っても貂蝉が嫁にこないので王允の元へ怒鳴り込むが、彼は「董卓が強引に連れ去った」と釈明。貂蝉を訪ねて問い質すと「呂布を愛しているが、董卓に身を汚されたので死ぬ」とまでいう。怒り狂った呂布は、王允の支援を受け、ついに董卓を殺害してしまう。
張達 ちょうたつ
生死年:?~?
出身地:不明
役職:不明
所属:蜀→呉
蜀の末将。范彊とともに張飛に仕えていたが、具体的なポジションについては正史も演義も知らせるところはない。正史に曰く、先主劉備が張飛をよく諫めたという。「君子ばかり敬し、小人を袁れまないお前は、刑罰によって部下を殺しすぎるし、毎日のように兵を鞭打っている。しかも、そうした者たちを側で使うのは、いつか災いとなる」と。演義に言う、関羽の弔い合戦に際して兵数分の白装束を2名に調達させたが期日に間に合わず、懲罰を恐れた張達・は張飛の寝首をかいて呉に走ったという。演義の「白装束」のエピソードは、ヒーロー張飛の死を演出するための創作であろうから、正史のようにほとんど予告無く出征中に部下の反逆で死んだ張飛は、よほど兵からの人望がなかったのだろう。両名とも、桃園の義弟2人を失った劉備の復讐を恐れた孫権に蜀に送り返され、張飛の子、張包に斬られている。因みに、長江岸の張飛廟には、張飛の名場面が蝋人形で再現されているが、最後の暗殺のシーンでは、今しも刺されんとする寝床の張飛と、緊張の表情で幔幕に隠れる張達・范彊の人形が、訪れる観光客のすぐ近くに見ることが出来る。凡百の人間が歴史に名を残したくば有名人を暗殺するのが最も簡単な方法であるという典型的な見本の二人である。
張南 ちょうなん 文進 ぶんしん
生死年:?~222
出身地:不明
役職:将軍
所属:蜀 劉備配下の武官。劉備入蜀後、劉備の配下となった。関羽の死に怒り狂った劉備が東征に乗り出した際、先鋒の将として従軍した。先鋒大将の呉班に夜襲を進言し、フウ習とともに呉陣に攻め込み、大いに孫桓軍を打ち破り、孫桓を夷陵まで退却させる功績を上げた。その勢いで夷陵まで攻め込んだが、呉の軍師・陸遜の火計により劉備軍の陣は大火災を起こし、大敗。張南は呉兵に囲まれた劉備を救出し、同僚のフトウに劉備を任せると、自分は呉軍を食い止めるべく突撃、乱戦の中、討ち取られた。この夷陵での大敗により蜀は多くの武将を失うことになり、白帝城に逃げ込んだ劉備は心労のあまり病気になってしまうのであった。曹操配下(元・袁紹配下)で赤壁の戦いで呉の将・周泰に討ち取られる同姓同名の将がいるが、無関係。
趙範 ちょうはん
生死年:?~?
出身地:常山郡
役職:桂陽太守
所属:魏→蜀
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、劉度、金旋、韓玄らと共に謀反を起こし、国を四分割し、桂陽の太守となる。劉度が降伏したのを聞くと「次はわしだ」と恐れ、桂陽に進攻してきたのが趙雲だと聞くや否や、すぐに城門を開き、降伏した。趙雲と今後について話をしている時、趙範は「苗字が趙とは、何かの縁。義兄弟になりませんか」と持ちかけた。趙雲も喜んで承諾した。これで終わりにしておけばよかったのだが、趙範は1人の女性に酒を注がせた。その女性は美しく、趙雲が「このような美しい女性はみたことない。あなたのご夫人ですか」と聞いた。趙範は「いやいや、兄嫁です。兄は早くに亡くなってしまい、私が面倒を見ているのです。見たところ趙雲殿はお気に召した様子。どうです?結婚なされては」と婚姻を持ちかけた。しかし趙雲は激しく怒り「兄嫁に酒を注がせるとは何事か!あまつさえわしと結婚させようとは!忠義のかけらもない奴め」と趙範の顔を何度も殴りつけ、義兄弟の縁を切り、陣へ帰っていった。武士の面を汚された趙範は怒り、部下の陳応とホウ隆に趙雲の討ち取りを命じた。陳応とホウ隆は陣営に入り込み、討ち取ろうとしたが、返り討ちにあい殺害される。趙範は結局、そのまま攻め寄った趙雲に降伏した。自分の行った行動を劉備に話すと劉備は「趙雲は義理に厚い男だ。そなたの行動が気に入らなかったのだろう。そなたが好意でやったことはわかった」と趙範のことを責めずに、そのまま桂陽の太守として留まるよう命じ、趙範は現職に留まった。
張飛 ちょうひ 益徳 えきとく 又は翼徳 よくとく
英読ChangFei
生死年:?~221 出身地:[シ豕]郡
役職:別部司馬→征虜将軍→車騎将軍
所属:蜀
肉屋をしていたが、ある日出会った劉備・関羽と義兄弟の契りを結び、一大事業に乗り出すことになる。張飛も、関羽とともに劉備と桃園の誓いを交わした1人である。人一倍気性の荒い張飛は、ときに無法ぶりを発揮している。黄巾賊討伐で功績を上げたのに、賄賂を贈らないと報奨を授けない役人を怒りに任せて縛りつけて死ぬほど鞭打ったのがよい例だ。土地にいられなくなった3人は、放浪の旅に出るのだった。
194年、劉備は身を寄せていた陶謙から位を譲り受けて徐州の牧となるが、袁術との戦いの最中、裏切った呂布に徐州を乗っ取られてしまう。
この時、留守を任されていながら、酔っぱらって虚を突かれたのが張飛であった。彼はこの失態を恥じて自刃を試みたが劉備は彼を抱きしめ、泣いて止めたという。
208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に侵攻。たちまち当陽の長坂橋まで追いつめられた劉備は命からがら逃げ延びるが、張飛は殿として橋で蛇矛(矛の一種)を構え、殺到する武将たちの前に単身立ちはだかった。「我こそは燕人・張飛なり! 命を惜しまぬ曹操どもよ、どこからでも来い! 」地獄の底から湧き上がるような人声で雄叫びを上げると、曹操軍はすっかりひるみ、劉備は無事に全軍引き上げることができた。有名な桃園結義に至るまでの3人には数え切れないほどたくさんのエピソードがあるが、1番オーソドックスなのが、官軍募集の看板を見て溜息をつく劉備を一喝する、というもの。魏の将夏侯覇を落馬させた大声と、数々の失敗を生み出した大酒が彼のトレードマーク。馬鹿力で浅はかだが、兄貴の言うことにだけは逆らわない。そんな単純な性格の中にも愛嬌があり、本場中国では孫悟空と一、二を争う人気者。だが、天下にその名を轟かせ、蜀に燕人張飛ありと言わしめたが、最期はあまりにもあっけなく、関羽の仇討ちの前夜に、厳しくしすぎた部下に寝首をかかれてしまった。
張苞 ちょうほう
生死年:?~?
出身地:不明
役職:不明
所属:蜀
張飛の血を受け継いだ勇将。関羽の弔い合戦に先立って張飛が、配下に暗殺された。悲しみに暮れる劉備のもとに父・張飛が愛用していた蛇矛を手にした張苞が駆けつける。張飛の再来を思わせるその武者ぶりに劉備は大いに喜び、関羽の息子・関興と義兄弟の契りを結ばせる。その後、2人は蜀軍の先鋒としてよく活躍し、数々の戦功を挙げた。張苞は夷陵の戦いで黄忠を救い、同時に武将を討ち取った。初陣から父の名を辱めぬ立派な働きぶりで劉備を喜ばせた。孔明の北伐にも参戦したが、張苞にとってこれが最後の戦いとなってしまった。逃げる魏軍を追撃していた時、馬もろとも谷底へ落下し、負傷して成都に帰還した。傷の治療に余念がなかったが、不幸にも破傷風を併発、数ヶ月後に死亡した。将来を期待された武将であったが、活動時期はきわめて短かった。弓の腕前も確かで、旗の先に付いた小さな的を射抜くほどであった。また第一線の指揮官としても一流であった。孔明は関興、張苞に大いなる期待を寄せていたため、早すぎた死に大きな衝撃を受けた。関興や張苞といい蜀の中心戦力となるべき将が、次々と早死にしてしまうあたり、蜀の前途に暗い影をなげた。
張宝 ちょうほう
生死年:?~184
出身地:不明
役職:地公将軍
所属:黄巾賊
兄・張角の旗揚げに参加した。兄の張角と同じく幻術の達人で、官軍を何度も苦戦に追い込んだ。穎川方面で黄巾軍の指揮をとり、朱シュン軍と激戦を展開したが、朱シュン軍の先鋒を務めた劉備の放った矢を左ひじに受けて負傷。2人の兄を失った後も、陽城に立てこもり、包囲する朱シュンの軍勢に抵抗した。黄巾軍が劣勢になり、落城必至と見た配下の厳政に裏切られ、あえない最後を遂げた。厳政は張宝の首を持って朱シュンに投降し、陽城は落城した。
張翼 ちょうよく 伯恭 はくきょう
生死年:?~264
出身地:武陽県
役職:書左→尚書→左車騎将軍 所属:蜀
元は劉章配下であったが、劉備入蜀後、帰順した。劉備に降ってからは、重用された。劉備の呉への出兵、孔明の南征、北伐などに従った。孔明の策略により、キョウ維を王平と共に挟み撃ちにして追い詰めたり、街亭の敗戦後、剣閣の山道を整備し、蜀軍の撤退を援護。第二次北伐では、孔明の命を受け、魏軍を奇襲するなど、常に孔明を信じて戦い、実直さには定評があった。孔明は遺言で忠義の士の1人として張翼を挙げている。孔明死後、キョウ維の北伐を助けた。第二次北伐ではリョウ化と共に先鋒を務め、活躍した。第三次北伐では「蜀は小国。民力を浪費せず、要害を守り、国土を保全するのが良策」とキョウ維を諌めたが、キョウ維の決意が固いことを知ると「敵に警戒のいとまを与えず、一気に出撃しよう」と進言した。祁山での戦いでトウガイに囲まれ、あわやというところでキョウ維に助けられ、勇気百倍して、トウガイを一時追い詰める奮戦をした。蜀滅亡後、キョウ維と共に魏に降ったが、鍾会・キョウ維の反乱に参加。魏軍を相手に奮戦したが、戦死した。蜀後期の武将としては、抜群の力量の持ち主であった。
張遼 ちょうりょう 文遠 ぶんえん
生死年:165~221
出身地:雁門郡馬邑県
役職:郡吏→騎都尉→中郎将・関内候→晋陽候
所属:丁原→何進→董卓→呂布→魏
北方の騎馬民族の血を引き、本名は“聶遼”だという説もある。丁原に仕えていたが、洛陽にのぼった際に何進の指揮下に入り、何進暗殺後は董卓へ、董卓死後は呂布の幕下へと。
幼少の頃から武術や乗馬の鍛錬を怠らなかったという張遼。その武勇を買われ、并州の刺史・丁原に召し出されて何進の部下になる。その後、董卓の傘下に入るが、彼の死後は呂布の指揮下に入り、ともに徐州へと落ち延びている。呂布は騎馬隊指揮の才能に長けており、張遼は騎馬隊の育成法や戦略を呂布から学んだという。
その人柄は忠義に溢れる人望があった。そのため呂布に仕えていた頃、関羽が張遼に「貴君のような人材がなぜ呂布のような逆賊に仕えているのか」と問うた話は有名である。
呂布の死亡後、曹操に捕らえられるが、関羽の口添えで曹操の臣下となった。
やっと仕えるべき君主を発見。関羽と仲がよく、小沛陥落で孤立したのを、一時的に降伏するよう説得た。程なく中郎将の地位を授かり、騎馬隊の雄として各地を転戦。その武勇と抜群の統率力を買われ、曹操が特に信頼を寄せる五将軍の筆頭に挙げられている。
赤壁の戦いでは、曹操の間近に迫った黄蓋を弓で射て、その危機を救っている。この戦いで曹操軍は敗走。張遼は、軍を指揮する中で、もっとも難しいとされている殿の大任を見事に果たした。合肥へ孫権が十万の大軍で攻め寄せたときは、獅子奮迅、見事に呉軍を蹴散らした。このことで勇名は轟き、江東では『張遼が来る』というだけで子どもは泣くのをやめたという。後年病に倒れ、文帝は毎日のように食膳を見舞ったが、224年生涯を終える。
張梁 ちょうりょう
生死年:?~184
出身地:不明
役職:人公将軍
所属:黄巾賊
天公将軍・張角の末弟。黄巾の乱の指導者の1人で、兄の旗揚げに参加、地公将軍を自称した。2人の兄と同じく妖術を習得し、武勇もあった。各地で官軍と激戦を繰り広げ、官軍の将軍・ロ植を苦しめた。また、ロ植の後任となった董卓にはしばしば勝利を収めるなどの功績を上げた。黄巾党指導者で兄の張角が病死すると、あとを引き継いで、官軍大将の皇甫嵩の軍と戦ったが、張角病死に勢いづいた官軍に押され、七度の戦いに敗れ、敗走したが、曲陽で皇甫嵩に斬り殺された。
張魯 ちょうろ 公祺 こうき
生死年:?~?
出身地:沛国豊県
役職:督義司馬→鎮南将軍/五斗米道三代目教祖
所属:劉焉→君主→魏
五斗米道の開祖「張陵」の孫にあたる。山深い漢中で五斗米道の自治領を望み、弟の張衛に五斗米道の軍を組織させ、周りの小勢力との小競り合いはあったものの、長年の乱世にもかかわらず平和な自治領を保った。祖父の張陵が始めた五斗米道。5斗の米を出せば誰でも入団できるという、この教団を承継した張魯は、漢中に五斗米道の指導による独立国を築いて30年もの間この地を統治した。
五斗米道の信徒は奇術を学び、民の病気を治すと同時に県吏として領地の行政も担当した。張魯は戦闘を好まず、混乱の時代にあって安定した環境を整備したため、民衆もこの政権を歓迎した。
後漢の朝廷も張魯を討伐せず、漢寧太守に任じて朝貢の義務を与えただけで黙認。父・張衡の死後は益州の牧・劉焉が漢中を攻めたが、張魯はこれを撃退している。しかしその後曹操の間者からの説得などもあって五斗米道軍を武装解除させて攻め込んできた曹操にあっさり降伏。しかし弟の張衛はそれををよしとせず一部の五斗米道軍と山中へ逃げ込む。その後張衛と一部の五斗米道軍は義勇兵として各地を転々とするが、結局、呉の朱桓いによって討ち取られる。
陳珪 ちんけい 漢ゆ かんゆ
生死年:?~?
出身地:下べん国
役職:済北相
所属:陶謙→劉備→呂布→魏
徐州の安泰を願って一生を費やした人間。曹操の命により呂布の撲滅に暗躍する。呂布の娘と袁術の息子が婚姻する事を知り、それを災いの元と考えそれを阻止するべく呂布を騙し説得する。呂布は婚姻をやめ袁術の使者を捕らえさらし首にした。徐々に呂布の信頼を得る様になるが、最後は同士討ちをさせて小沛の城を乗っ取る。その後曹操に攻められ降伏、そのまま守護となる。
陳登 ちんとう 元龍 げんりゅう
生死年:?~?
出身地:下べん国
役職:公陵太守→伏波将軍 所属:陶謙→劉備→呂布→魏
陳珪の子で文武に優れ冷静沈着な人物であったらしい。袁術と呂布のが互いの子供を結婚させる事によって同盟関係になろうとする所を父の陳珪と共に阻止しその後も呂布に欺きながら使え呂布を撲滅に追いやった。曹操と内応していたらしい。呂布の撲滅後はその功を認められ曹操に使え伏波将軍の位を付与され東城の太守なども任されている。この頃から歴史の表舞台からは姿を消し39歳の若さでなくなっている。死因としては刺身を食べて寄生虫に犯され死亡したと「華佗伝」には書かれているが本当の所は分からないようだ
陳武 ちんぶ 子列 しれつ
生死年:?~215
出身地:廬江郡松磁県
役職:別部司馬→偏将軍
所属:呉 身長七尺、顔は黄色く赤目の容貌怪異。武力抜群であった陳武は孫策に気に入られていた。暗君・劉ヨウに不満を抱き、孫策に内応。孫策が劉ヨウを攻めた時、曲阿から攻めた周瑜を城門を開けて迎え入れた。この功により校尉の位を受けた。陳武は早速、わずか十数騎を率いて先鋒となり、敵陣に飛び込むと、瞬く間に敵兵の隊長五十人あまりを切り伏せ、その武力を見せつけた。赤壁の戦いでは四番手として軍船・三百艘を率いて曹操の大船団に突撃、壊滅させた。この功で偏将軍に昇格した。その後の南郡の戦いでは曹仁を攻め、見事破ったが、南郡は劉備に取られ失態を犯してしまう。曹操軍が濡須に40万の大軍をもって攻め入った際陳武は弓隊を率い、一斉に矢を放ち曹軍を追い返した。曹操軍は再度、合肥と濡須を四十万の兵をもって攻めた。このとき陳武は長江の沿岸を警備していた。そこで敵将・ホウ徳と鉢合わせ、直後2人は激しく打ち合うが、陳武は押され、じりじりと山あいの林に追い詰められる。相手の隙をついて、取って返して剣を振りかざした。だが鎧の直垂が枯れ枝にからまり、身動きが取れないままホウ徳に斬り殺された。
程いく ていいく 仲徳 ちゅうとく
生死年:?~?
出身地:東郡東阿県
役職:寿張令→奮武将軍→衛尉 所属:魏
字は仲徳。元の名を“立”と言うが、若いころ泰山で太陽を奉げ持った夢を見たという話を曹操にしたところ、以後程いく(日+立)と改めるよう言われる。身長八尺三寸(計算すると2mを越える…)、頬から顎にかけてたくわえられた美髯、威風堂々たる容姿で、武将としての力量も十分、智勇兼備の将軍だった。出身地の東郡東阿県では、黄巾の乱が起きると、県令が任地から逃げ出してしまい、県民と官吏・官兵は大混乱に陥った。そこを程いくが、敵の数が少ないのを見て取り、県民を城内に避難させ、官軍を率いて賊を大破した。曹丕に三代功労者として夏侯惇・曹仁とともに名を挙げられている。
荒っぽい性格のために他人とぶつかることも多く、批判も少なくなかった。
曹操が徐州遠征に向かった際、隙をついた呂布が反旗を翻して克州に侵入したが、留守を預かっていた程旻は荀彧とともに奮闘。そして、少ない人数にも関わらず反乱を鎮圧し、本拠地である三城を守りきった。
程銀 ていぎん
生死年:?~?
出身地:河東郡
役職:不明
所属:韓遂→馬超→張魯→魏
演義系三国志では、韓遂配下の「旗本八騎」のひとり。主君の義兄弟馬騰の弔い合戦となった馬超の対曹操戦に主力として付き従い、勇戦(イヤ、多分勇戦したはず。記述はないけどね)した。曹操の計略にかかって包囲殲滅の危機にさらされた韓遂・ホウ徳軍を救出しようとする馬軍と、それを迎撃した曹軍との乱戦の中で、同じく旗本八騎の張横とともに死亡した。この死亡のシーンでさえ、「戦闘後、被害を確認したらいなかった」という、三国志演義上、まれにみる空しい死亡宣告(他の旗本たちは、せめて斬られたり射られたりする描写くらい有るのに・・・)であった。正史のなかでの彼は、演義で「旗本」と称された他の七人同様、西涼地方における有力者であり、馬騰や韓遂の同盟者という立場であって、決して配下の将ではない。程銀は、馬家敗北後、張魯に身を寄せていたが、許されて曹政権下で官職に復帰したという。言うまでもないことだが、決して女性ではない。(注:最近程銀その他を女性にしてしまった三国志転生系漫画があるのだ)
丁原 ていげん 建陽 けんよう
生死年:?~189
出身地:不明
役職:井州剌史→騎都尉→執金吾
所属:後漢
荊州刺史。少帝の帝位剥奪を図る董卓にただ一人、養子でもある腹心呂布を背後に立ち向かう。が、李儒の策略にはまり、裏切った呂布に暗殺された。彼は呂布・張遼とともに北方の騎馬民族の出といわれている。だが、呂布は董卓の下に降り、張遼も一緒に出て行ってしまった。もう少し部下の心を掴んでいれば、呂布・張遼という名将がそろっていれば、天下に乗り出すことも可能だったはず・・・?でも、周囲が怖れて何も言えなかったあの場で、呂布が控えていたとはいえ、一人董卓に一喝した勇気は表彰モノでしょう!
程普 ていふ 徳謀 とくぼう
生死年:?~?
出身地:右北平郡土垠県
役職:郡の役人→裨将軍→蕩寇将軍 所属:呉
鉄脊蛇矛を用い孫堅、孫策、孫権の三代に仕え数々の戦功を挙げた。黄巾の乱で孫堅の討伐軍に加わり、その討伐戦で名を馳せた。身体に傷を負ってない場所はないというほど猛者であったという。孫堅の死後はその息子・孫策に従い、若い彼をよく助けた。
一揆が起こり、その首領・祖郎を孫策が攻めた時のこと。敵に包囲された程普は、孫策を庇いつつ矛を構え、大声を上げて包囲網に突入。敵がその勢いに怯んで道を開けたため、見事脱出に成功したという。赤壁の戦いの時副都督となり、大都督となった周瑜の下につくことを不満に思うが、周瑜の見事な采配に感嘆し、謝罪する。気前や面倒見が良く、古参の武将の中でも親しまれた。蕩寇中郎将、零陵大守、裨将軍、江夏大守、南郡大守、蕩寇将軍と昇進。反逆者百人を火の中に放りこんで焼き殺した日、病にかかり、百日後に死亡したと正史に記されている。
丁奉 ていほう 承淵 しょうえん
生死年:?~271
出身地:廬江郡安豊県
役職:偏将軍→大将軍 所属:呉
孫策死後、国を継いだ孫権が東呉の君主になると、広く人材を求めた。その際丁奉も、武官の一人として召し抱えられた。同期の陸遜や徐盛にも官位を抜かれた晩成型で、初めは甘寧や陸遜などの一部将として戦った。劉備とともに荊州へ逃亡を図った孫夫人を追いかけたが、孫夫人に一喝され追い返されるなど情けない役どころが多い。しかし徐々に功を重ね、偏将軍に登った。孫権が死ぬと、司馬兄弟はこれを機に十万の大軍を用いて呉を攻めた。丁奉はわずか3千の兵を率い、部下に鎧兜を脱がせ、真冬の長江を渡り、剣一本で敵陣を襲撃。敵武将二人をあっという間に斬り伏せ、呉を大勝利に導いた。国内では、丞相となった孫リン(孫チン)が専横を極め、呉皇帝・孫休をないがしろにしていたが、丁奉は酒宴の席で孫リンを捕え、謀反のかどで打首にし、孫リン一族も滅ぼした。この功により丁奉は武官の最高位・大将軍にまで出世した。丁奉は呉の建衡三年(271年)、70年にわたる戦いの日々を終わり、死亡した。まさに呉の盛袁を見届けた一生であった。
典韋 てんい
生死年:?~197
出身地:陳留郡
役職:調査中
所属:魏
三国志の中でも壮絶で非業の死を遂げた人物として有名な人物と言ったら典韋でしょう。細かい事は伝わっておらず字もわからない。大柄で腕力は人並み以上の人物だったようであるやがて曹操の軍に従軍するようになり夏候惇の軍の配属され、度々軍功をあげ司馬に任命される。曹操の呂布征伐では大暴れし一人の兵士に敵がきたら知らせる様に命じた、敵が近づくと兵士の掛け声にあわせ戟を投げ敵の攻撃を防いだそれは百発百中であったようである。その功により都尉に任命されると曹操の側近として使えるようになった。いつも曹操の親衛隊を指揮し1日中曹操の側に待立し寝る間を惜しんで護衛した。自分の寝場所でゆっくり寝る事は稀であったようだ。張繍が降伏すると曹操は張繍を招き宴を催した。その時も典韋は曹操の後を大斧もってひかえていた為、張繍等は震え上がって曹操を襲うことは出来ないでいた。数日して張繍が背き曹操の眠る陣営の攻撃をしかけてきたとき、典韋は曹操を身をていして守り退却を助けた。その後も門に仁王立ち追撃をおさえ奮戦したが遂に力尽き敵を大声で罵倒しながら死んでいったそうです。
田豊 でんほう 元皓 げんこう
生死年:?~200
出身地:鋸鹿郡
役職:侍御史→別駕
所属:後漢→袁紹
袁紹のもとで、政治・戦闘両面で献策していたが、次第に袁紹との間に隔たりができてきたようだ。曹操が劉備を討つために徐州へ進撃した際、この隙を突いて許昌へ攻め入るべきだと進言したが、息子の病気を理由に袁紹は好機を逃してしまう。官渡の戦いが始まると、袁紹は即、大軍を進めて決戦を挑もうとした。これに対して田豊は、曹操方の兵糧が底尽きかけていることを察知し、持久戦を主張したが耳を貸さず、士気を挫くと投獄されてしまう。かくして戦は大敗を喫し、幕僚の郭図は『田豊は牢の中で、それ見たことかと嘲笑っていることでしょう。』と讒言、袁紹は田豊を処刑した。獄中からも何度も諌めたが、聞き入れられなかった。そこまでの忠義と智謀を持ち合わせた彼を、袁紹が重用しなかったのは惜しまれることだ。
とう艾 とうがい 士載 しさい
生死年:?~264
出身地:南陽郡棘陽県
役職:都尉学士→尚書郎→太尉 所属:魏
幼い頃に父をなくし汝南地域で細々と牛飼いで生計を立てていた。元々才能があったようで都尉学士になるがドモリだったため幹佐にはなれず農務官の職についた。世間ではよく馬鹿にされていたが典農網紀となって都に転勤すると司馬懿に才能を見出され尚書郎に昇進させ中央に召し出した。将となって国の防衛にも力を注いだが「本当の強い国を作るには農業の発展が必要だ」とかんじて色々な立案を司馬懿に伝えている。姜維の北伐を何度も防ぎ多くの功を上げると次々と昇進し領地は6600戸にまでなっている。263年秋の蜀征伐の詔勅が降ると鍾会と共に蜀へ向かうことになる、その時相国に劉寔は「おそらく蜀には勝つが二人とも2度と魏には戻らないだろう」と予言した。鍾会が攻めあぐねている所にトウ艾は難なく成都に攻め入り劉禅を降伏させる。その功で太尉に任じられるが、鍾会に妬まれ「反逆の意がある」密奏されて捕えられてしまう。その後反逆は鍾会にあったとして元の部下によって救い出されるが反対勢力により討ち取られてしまう。
姜維も舌を巻く才能
部文は、高い山や広い沼地を見るといつも、軍営設置にどこが適当かを測量したり精密な軍用地図を作成していたので、当時それを馬鹿にする者も多かったが、司馬誌はその能力高く、256年都文ら魏軍が姜維率いる蜀軍と対峙しているとき、部文の計略により魏軍はいったん姜維を退かせることに成功。陳泰は、「姜維は3度と打って出はしないだろう」と言って安心していた。しかし部文は、姜維が再び打って出るであろう五つの理由を陳泰に説き、「これほどまでに優れた人物が我が国にいたとは」と彼を感服させている。 一方の蜀側でも、姜維が反対する大将らに、自軍が勝てる五つの理由を説いていたが、この五つの理由というのが、都文、姜維ともにまったく同じ内容なのであった。姜維は、「都文は若いが侮れない」という夏侯覇の注意にも、「恐れることはない」と言って郡山に攻め寄せたが、地理に精通している部文は、すでに九つの陣屋を泣確資待ち構えていた。姜維はこれを見て、「この陣の取り方は絶妙。我が師(諸葛亮)にも劣らないものだ」と言って舌を巻いた。
陶謙 とうけん 恭祖 きょうそ
生死年:132~194
出身地:丹楊郡
役職:廬県令→徐州刺史→安東将軍・徐州牧
所属:後漢→君主
曹操の董卓討伐の檄に応じて集結した諸侯の1人。徐州の牧。彼に仕えた、または取り立てた人物は、王朗、筰融、朱治、藏覇、陳登、糜竺などがいる。このような優秀な人材を集めながら生き残れなかったのは、他の英雄に比べ歳をとり過ぎていた事と、感情まかせに行動する面があったからではないだろうか。韓遂討伐の為西方へ出向いた時、上官だった張温を侮辱し怒らせている。また、孫策を忌み嫌っていた。その為孫策は、陶謙を避け江都の母を移住させている。招きに応じない張昭や、陶謙に不信感を抱いていた呂範を捕らえて幽閉した事もあった。ちなみに張昭は趙雲の懸命な運動によって救われている。そんな陶謙は、徐々に実力を付けてきていた曹操と友好関係を結ぼうとして、曹操の本拠地に呼びよせていた曹操の父、曹嵩の道中の護衛を引き受けた。しかしその護衛部隊の張ガイが一行を殺して逃亡してしまう。報復の為押し寄せる曹操軍の攻撃はかろうじてしのいだが、病にかかりそのまま死んでしまった。死の間際に、劉備に徐州を託して。
とう芝 とうし 伯苗 はくびょう
生死年:?~251
出身地:義陽郡新野県
役職:広漢太守→車騎将軍 所属:劉璋→蜀
蜀の官吏・戸部尚書。後漢創業二十八功臣の筆頭・とううの末裔。魏が50万の大軍で蜀に侵攻してきたとき、孔明に抜擢され、蜀の使者として呉の孫権のもとへ行き、孫権に脅されながらも、劉備の呉への侵攻以来、破綻していた両国の関係を見事に修復、同盟を結ぶ大功を果たした。同盟の使者として呉の孫権に謁見したとき、孫権から「魏を倒して蜀と呉で天下を二分したら、さぞ楽しいことであろうな」と言われたが、毅然とした態度で「天に二日なく、民に二主なし」と言い放ち、孫権を感心させた。
董昭 とうしょう 公仁 こうじん
生死年:156~236
出身地:済陰郡定陶県
役職:鉅鹿太守→司徒 所属:袁紹→張楊→魏
元々は袁紹に使えていた。弟が袁紹と対立していた勢力の配下であった為袁紹に疑われ命を狙われるようになり袁紹の元から逃げる。曹操が献帝を擁立し西進した時には曹操の元に出向き帰順する。軍事物資補給等の後方支援で功をあげ千秋亭候に封ぜられる。軍事と政治の両方の分野での才能がありたびたび活躍する。曹操に魏公・魏王を賜るとの上書したもの彼である。いつも精気に満ちていて眉目秀麗、ルックスが良かった様で演義でもその事が強調されている。肉や魚を食する事を好まないベジタリアンだった様で飢饉でも平気だった様である
董襲 とうしょう 元代 げんだい
生死年:?~?
出身地:会稽郡余姚県
役職:別部司馬→偏将軍
所属:呉
身の丈八尺の猛将。孫策が手こずった呉郡の厳白虎の首級を挙げて、別部司馬に任じられた。赤壁の戦いでは曹操の陣に斬り込み、合肥では張遼に敗れた孫権を救出する。他にも黄祖の討伐などで活躍。山陰に巣食う族徒、周勃と黄龍羅を斬り果たすなど功績が大きかった。第二次濡須口の戦いでは、徐盛とともに大船五十艘を授けられて出陣。戦いの最中嵐に襲われたが、小舟を下ろして逃げようとする兵士を大喝して持ち場を離れなかった。しかし船は結局転覆し、董襲は水中に投げ出されて溺れ死んでしまった。宣城で山越に重傷を負わされた周泰のために、知人の会稽郡吏虞翻を通じ、名医華蛇を推薦したこともある。
董卓 とうたく 仲穎 ちゅうえい
生死年:?~192
出身地:隴西郡
役職:司馬→中郎将→太尉 所属:後漢→独立
若い頃は親分肌で人心掌握の術にも長けて腕力も抜群だった。胡(北方異民族)の討伐でも数々の戦果を上げ、昇進を重ねて中朗将となった。中国北西部の辺境にある隴西郡出身で、異民族とも交流があった。だが、地方官の職に就いた後は、主に西片の異民族を相手に、ときには1万人あまりの民衆を単騎で斬殺したこともあったという。黄布の乱が起こると中郎将に任命され、鎮圧に向かったが連戦連敗。
あわや懲罰ものかと思われたところで、すかさず宦官に賄賂を贈り罪を免れた。そればかりか、西涼の太守の座を買収していたのである。
その後、西涼で兵を養い、旗揚げの機を狙っていた董卓は、漢帝国末期の動乱に合わせ、表舞台へと躍り出た。その後黄巾賊討伐で敗北して免官となったが韓遂らが涼州で反乱を起こすと復職して鎮圧にあたった。この戦いで数万の敵に囲まれながらも董卓は軍勢を損なわず帰還出来た。その力を恐れた朝廷は軍隊を左将軍の皇甫嵩に預けようとしたが董卓は勅命に逆らい続けて力を貯えていた。その頃何進が宦官撲滅を図る為全国の諸侯を召し寄せ、董卓もこれに応じた。皇帝の外戚である何進と宦官たちの抗争が勃発し、何進の命を受けた董卓は、20万
の大軍を率いて首都・洛陽に出兵。ほどなく何進が殺された混乱に乗じて少帝と陳留王の2 人を無理矢理保護。少帝擁することで実権を握った。
董卓は陳留王を即位させたがったが、并州刺史・丁原の猛反対に遭い一度は断念。丁原の傍らには、三国志上最強といわれた呂布が控えていたからである。そこで董卓は天下の名馬・赤兎馬を餌に呂布をそそのかし、丁原を呂布に殺害させることで権力と武力を我が手中に収めた。もちろん少帝、その母の何太后は殺された。さらに呂布を寝返らせ、先政に関わる者は殺された。ここから董卓の暴虐振りがひどくなる。巡行中住民達が春祭りを楽しんでいるのを見るとそこにいた男子すべての首を斬り女性や財宝を奪い取って兵隊達の妾に与え、宮女や公主にまで暴行を加えた。また陵墓を暴いて宝物を奪い自分の住む所には30年分の食料を貯えた。酒宴では反逆者の舌や手足を切り眼をくり抜いたりして大鍋で煮たりした。集まった人達はあまりの地獄絵図に箸を落としたが董卓は平然と食べたという。190年各地の諸侯が袁紹を盟主として董卓討伐の兵を挙げるが、空中分解した。しかし董卓の独裁政権も長くは続かず192年司徒の王允は呂布を誘って董卓殺害を謀る。「演義」では王允の下女の貂蝉を使い、「連環の計」で董卓と呂布を仲違いさせたことになっている。「正史」では呂布が董卓の侍女と密通していていたので事が発覚するのを恐れた為とある。どちらにせよ、結局女絡みで殺されたのである。董卓は会議に参列するという名目で未央殿に招かれる。そして宮殿に入ろうとしたところを衛士に阻まれ「呂布はどこだ」と叫ぶと詔を賜った呂布によって殺害された。董卓の死体は市場にさらされたがへそに火をつけると何日も消えなかったという。
権力がすべて
河東郡の太守を務めていた董卓は黄巾の乱の鎮圧に起用されるが、敵の総大将である張角の軍を相手にして惨敗する。そこへ運良く劉備たちが現れ、賊軍の不意をついて混乱させたので董卓は救われた。陣に戻った董卓は劉備たちを呼び、「おまえたちは何の職に就いている者たちか」と尋ねる。しかし劉備は無位無官だったので、董卓は侮ってまともに礼を言わなかった。
繰り返し、ついには皇甫嵩と交代させられてしまうのだが、」とで罪を免れた。そればかりか、要職に任じられるよう重臣に取り入ったため、その後は西涼の刺史となって力を蓄えることができたのである。
こうして董卓は、20万の大軍を持ち、天下を手中に収めんという大いなる野望を抱いて頃合を見計らっていた。そうするうち、何進が宦官誅滅のため諸国の豪傑を召集したので、これは好機と、董卓は洛陽に向かう。参謀・李儒の策に従い、直接洛陽に入るのではなく、外からしばらく成り行きを見守ることにした董卓。すると何進は宣官たちに殺されて、宮中は大混乱となった。董卓はそこに便乗して駆けつける。これが形として、混乱の最中に城外へ出された少帝と陳留王(のちの献帝)を救出した格好となり、以後、董卓は宮中に出入りできるようになったのである。
董和 とうわ 幼宰 ようさい
生死年:?~?
出身地:南郡枝江県
役職:江原県長→掌軍中郎将
所属:劉璋→蜀
杜預 どよ 元凱 げんがい
生死年:222~284
出身地:京兆郡杜陵
役職:尚書郎→征南大将軍→司隷校尉
所属:晋
父親も魏に使えていたが、司馬懿とそりが合わなかったため、子の杜預も久しく重用されなかった。その後、時の実力者司馬昭の妹と結婚し、それからは出世コースを歩みはじめる。その後鍾会の蜀討伐に副官として従軍するが、討伐中に鍾会が蜀軍の大将・姜維と手を結び反乱を起こしてしまう。多くの魏の将はその巻き添えで死亡するが、杜預は難を逃れて帰国。280年、羊この後を継ぎ、呉を討伐し長江流域を平定する。その後、治水工事を行うが上京中に病死する。
は行
馬休 ばきゅう
生死年:?~212
出身地:扶風郡茂陵県
役職:奉車都尉
所属:馬騰
演義系三国志では以下のような経緯で登場する。即ち、曹操の専横に苦しむ献帝が、その討伐を時の車騎将軍董承に密詔という形で命じた折り、父馬騰もその討伐メンバーとして連判に加わった。しかし、曹操討伐は事前に露見、未遂に終わり、地元西涼で動乱が発生したこともあって馬騰は一時帰郷する運びとなった。しかし、連判状を入手していた曹操は馬騰を警戒し、彼を征南将軍に任じて南方(孫家の討伐と思われる)平定を命じるという口実で許都に呼びつけるのである。罠と看破した甥馬岱は西涼に留まるよう進言するが、むしろアグレッシブに(ここのところがいかにも血気盛んな騎馬文明人であることをアピールする)曹操討伐の好機ととらえ(ハマったフリをして、ってやつですね)た馬騰は、次子休、三子鉄をつれて東進するのである。長子馬超、件の岱は留守居である。西涼の安定をおもんばかったか、それとも曹操戦での敗北を実は予感していたのか。許都に到着後、黄門侍郎黄けい(大をかんむりに圭)と図って曹操討伐を実行せんと計画を詰めていくが、密告によって発覚、駐屯しているところを曹操軍に包囲され、三子鉄は奮戦するも矢襖になって討ち死に。表題の次子休は、やはり善戦むなしく、父騰とともにとらえられて斬首されたという。正史では、西方鎮定に功のあった馬家は、その功績によって父騰をはじめ一族の主要な人物は皆、漢王朝の正式な官職を歴任していた(ただし、やはり馬超は曹操を良く思っていなかったのか、曹操が丞相になった折り、例の人材蒐集家ぶりを発揮して馬超を都に招いた時にはこれを拒否し仕官しなかったのに、後に詔勅が下ったときには刺史や大夫になっている)。さて、そんな「朝臣」馬騰は、自らの老いを理由に、過酷な西方防衛を長子超にゆだね、「自ら」入朝した。この折り同行した、次子休、三子鉄はそれぞれ奉車都尉、騎都尉に任じられている。しかし、曹操の権限拡大に伴う、西涼(まあ他地方もそうだが)に対する有形無形の圧迫は、事実上の「人質」馬騰、馬鉄、馬休の危険を顧みない馬超の遠征を招くこととなり、結局敗戦した馬超は漢中、蜀へ降り、「朝敵」馬超の親族は勅によって誅殺されたのである。えらく簡単な言い方をしてしまえば、馬超の暴走によって、表題の馬休はじめ一族は殺されたようなモノである。
馬元義 ばげんぎ
生死年:?~184
出身地:不明
役職:不明
所属:黄巾党
黄巾党の指導者・張角の配下。太平道教団の幹部・大方(“たいほう”と呼ばれた。方とは将軍を意味した)であった。張角が黄巾の軍を起こすにあたって、宦官の封ショに賄賂を贈って内応させようと企む。馬元義はその使者となり、洛陽に侵入したが、同門の唐周が裏切り、官の役所へ駆け込み、張角が反乱を企てていると告げたため、馬元義は何進に捕えられ、処刑された。内応承諾後の挙兵にあたっては、荊州・楊州の太平道信者数万人を率いる予定であった。また、馬元義が処刑されたため、張角は予定より1ヶ月早い総決起指令を発さざるを得なかったという。
馬謖 ばしょく 幼常 ようじょう
生死年:190~228
出身地:襄陽郡宜城県
役職:荊州従事→太守 所属:蜀
襄陽郡宜城県出身。字は幼常。馬家の五人兄弟の中で、末子にあたるらしい。諸葛亮に気に入られていたようで、常に幕僚として行動をともにしていた。北伐の際、諸葛亮は、彼を長安攻略のための重要拠点にあたる街亭守備の指揮官に起用した。しかし、『街道を守るため高地に陣を敷かず、麓を固めるように』という諸葛亮の命令に添わず、独断で山上に陣を敷いたため、司馬懿率いる魏軍に大敗した。諸葛亮は、彼の才能を惜しんだが、軍法に照らし、涙を流しながらも馬謖を処刑したという。一時は諸葛亮の後継者にと見られていたようだが、自らの才に溺れ、結果、前途を棒に振ってしまった。
馬岱 ばたい 生死年:?~? 出身地:右扶風郡茂陵県 役職:平北将軍 所属:馬謄→張魯→蜀 建安十六年(211年)、馬騰が許都で曹操に殺害されたとき、独り生き残り馬超に馬騰の死を知らせる。その後、馬超とともに関中で奮戦するも、馬超がカクの「離間の計」にかかり、韓遂が魏に走った為、敗戦し、張魯の元に身を寄せるが、張魯との仲が険悪になり、馬超とともに劉備に降る。孔明の南方戦では、孟カクを何度も捕え「七縦七禽」の立役者となった。孔明死後、反乱を起こした魏延の配下になったふりをし、魏延が魏に降らぬよう監視をしていた。魏延が漢に押し寄せた際、「俺を殺せる奴などおるものか!」叫んだ時、馬岱は魏延の首を打ち、反乱を防いだ。生前、孔明は馬岱の誠実さを信頼し「わしが死ねば、おそく魏延は謀反をおこすであろう。もし魏延が『わしを殺せるものか』と叫べば、その時魏延の首を打って、蜀を助けてやってくれ」と密命を与えていたのだ。孔明は死に臨んで「馬岱は忠義の士。決して粗末に扱うでない」と遺言を残したという。最後まで、蜀に忠誠を尽くした忠義の士であったといえよう。
馬忠 ばちゅう
生死年:?~?
出身地:不明
役職:司馬
所属:呉
呉の藩璋の副官(司馬)。今日では神と化した関羽親子を捕縛・殺害したことが、彼の名を有名にしている。しかし、史実ではともかく、演義に於いて関羽を殺してしまっては、ろくな書かれ方をしないのは当然といえば当然であろう。上司の藩璋は、父兄の仇敵を狙う実子関興と出くわして直ちに斬られる(史実では、この一件はない=藩璋は234年まで生きてます)。その藩璋の仇を討たんとたった馬忠だったが張包と関興のタッグワークにやられ、挙げ句の果てには、関羽の復讐に燃える劉備に恐れをなした裏切り者、フ(博をにんべんに)士仁、ビ芳に、再就職の手みやげ代わりに殺されてしまう始末(この後、2人も結局許されず殺される)。馬忠としては、軍人として当たりまえの仕事をしただけなのだが、麦城攻略に関わった呉将は、「総責任者」呂蒙から「実行犯」馬忠に至るまで、後世の人々によって追加的に断罪されるのである。合掌。
馬忠 ばちゅう 徳信 とくしん
生死年:?~249
出身地:巴西郡
役職:郡吏→鎮南将軍
所属:蜀
呉に同姓同名の将が見えるが無論別人。演義での馬忠は、張ギョク、張翼らと同様、劉備・五虎将亡きあとの蜀の人材難を示す「小粒」な将としての表記しかなく、しかもイ(さんずいに胃)水戦のの後は、何の説明もなく文中からその姿を消しているという、ある意味、最も実際の人格・実績を無視された将。正史に見える彼は登場からして派手である。夷陵戦に大敗した劉備の元に援軍を率いて現れ「黄権をうしなうも、我今馬忠を得たり」と大いに主君を喜ばせている。最も、その指揮官としての能力は、夷陵戦に帯同しなかった事実と、本来地方官であった彼を劉備が引き立てて将にしたというエピソードから察しても、さして高いモノとは推測できない(先主没後、従軍自体は増えているが)。しかし、行政担当上がりとしての実力は高く、蜀国内を良く統治したと正史は言う。分けても蜀南部の異民族慰撫に功が高く、彼が病死した後は言質の人々は泣いてその死を悼んだという(同じような記事は張ギョクにも見られるが、正直、両者がどのような位置関係、時間関係で南蛮統治をしていたのかは寡聞にして分からない(馬忠が張ギョクの上司?)。有識者のご助言を請いたい)。上を敬い、下を愛する名吏であり、かつまた対話好きの明るい性格で、苦しい台所事情の蜀末を物心両面で救ったムードメーカーであったろうと想像する。
馬超 ばちょう 孟起 もうき
英読MaChau
生死年:176~222
出身地:右扶風郡茂陵県
役職:督軍従事→驃騎将軍
出身所属:馬騰→張魯→蜀地:右扶風郡茂陵県
役職:督軍従事→驃騎将軍所属:馬騰→張魯→蜀
色白長身で錦のように美しい風貌から「錦馬超」と呼ばれ、曹操に「呂布にも劣らぬ勇者」といわせしめた馬超。父親の馬騰は、北方の騎馬民族である姜人との間に生まれた。彼の父・馬騰は劉備らの曹操暗殺計画に加担。それが曹操に発覚し、一族ともども皆殺しにされ
てしまう。この時、留守を守っていた馬超のみが難を逃れた。そして彼は曹操に反旗を翻した。
馬超は20万の兵を挙げて曹操のいる長安を目指した。当初は曹操軍を撃破していった馬超軍だが、曹操の「離間の計」( 仲違いを誘う策) にはまり参謀の韓遂と反目。その後、参謀を失った彼は反撃を食らい大敗を喫してしまった。
兵を立て直し再び長安に攻め入ったものの、今度は夏侯淵に阻まれ、そこで妻子まで捕らえられて殺されてしまう。彼は悲嘆にくれながら漢中の張魯を頼ることになる。
張魯のもとにいたが、李恢の勧めで劉備に降り、漢中攻略の際に大功を立て、五虎将の1人となった。だが、異民族の多い地域に任じられるとそのまま物語から姿を消し、正史によると222年、47歳で病死している。一族を皆殺しにされ、天涯孤独に戦った男、その堂々とした姿を人々は”錦馬超”と呼んで讃えた。
馬鉄 ばてつ 生死年:?~212
出身地:扶風郡茂陵県
役職:騎都尉
所属:馬騰
馬騰の三子。演義と正史における「登場」と「退場」は馬休の項目を参照していただきたい。馬休とともに登場し、馬休とともに死んだ彼を語れば、同じ文章を二度繰り返すことになるからである。登場シーンと死亡シーンしか無いからである。そこで、本項目をお借りして、馬休の項で記した件の解釈を施してみたい。正史では父馬騰、兄馬休とともに入朝し、騎都尉にまで出世した馬鉄だが、休にしろ鉄にしろ、父騰が活躍した場面でのこれといった活躍は見られない。無論、記されない歴史もあるわけで、記述の外で活躍している可能性は低くないが、もし目立った活躍が有れば、淡々と史実を並べる正史には、文の構成など考えない突発的な記事が一行なりとも載っても良いはずである。そうした記述のない鉄が騎都尉(まあ、そんなに高い階級じゃないけどさ)に任じられた背景に、父騰の朝廷工作が感じれられはすまいか?馬家は、当時でこそ「田舎の力持ち」的役割に置かれてはいても、本来馬援の子孫という名門の出である事を自称している。となれば、いつかは中央で返り咲きをという家族的野心があったことは容易に想像できようと言うモノである。そこで、漢の動乱期にうまい具合に地方官として功績を積んだ騰が「老齢」を理由に入朝して曹操「政権」に対する従順ぶりを一見見せながら、その実、故郷に残した漢族の恐れる異民族混じりの騎兵部隊をやはり精強を以て知られる長子超と、沈着な補佐役甥岱に預けて常に中原を伺わせるよう仕向け、そうした武力を背景に朝廷内部で「アンチ曹操」派閥をとりまとめつつ、その中心にのし上がっていこうと言うわけである。しかし、そこら辺の工作にはやはり鋭敏な曹操に、その野望の核を見抜かれ、馬家は彼にとって排除の対象となるのである。さればこそ、あの人材マニアが簡単に馬超獲得を諦め、さればこそ西涼の権限を圧迫して馬超の暴発(この直前、馬超は曹操暗殺に失敗しているとも言う。なればこの出征は暗殺失敗、露見に親兄弟の危機を感じ、焦った超が出した救出軍ともとれる)を誘ったのである。こう考えると、演義における「悪玉曹操にだまし討ちにあった騰、休、鉄たち」という演出への足がかり的解釈になろう。ただ、正史も演義もひっくるめて、何をどう如何に解釈し語ろうが、馬鉄が、馬休同様、父と兄の存在がなければ歴史にその名すら残し得なかった端役中の端役であることを確認するばかりである。
馬騰 ばとう
生死年:?~212
出身地:扶風郡茂陵県
役職:従事→征西将軍→衛尉
所属:後漢→独立 羌族の母を持ち、身長は八尺を越え雄偉な風貌であったが、性格は温厚であり人望を集めた。反董卓連合軍に参加した際には洛陽に進撃して軍功を挙げる。その後は董卓軍の残党を制圧するために長安へ侵攻したが、敗北して涼州に逃走。その後西涼の太守として領内の平定に努めている。西涼に割拠して当初は韓遂等の他の勢力と争っていたが、韓遂と義兄弟となり行動を共にする。後に都に参内した際に宮中の名医吉平と組んで、権勢を誇る曹操を暗殺しようと企むがこれに失敗。息子休、鉄と共に惨殺されて、長男の馬超が怒り心頭長安に攻め込んでくる...と三国演義ではなっているが、正史では馬騰は諸侯の一人としてただ都に留め置かれていた。西涼に残る血気盛んな馬超は父の命を顧みず長安に攻め込み、父馬騰は曹操に惨殺されたとのこと
逆賊・曹操を討てず無念の死
字は寿成。西涼の大守。211年、孫権を討伐せよとの計略だった。馬騰は十分に警戒していたが、息子の馬超に「これが逆に曹操を討つ絶好の機会になるかもしれません」と言われて、曹操の城の近くまでたどり着いたとき、黄奎という同じく曹操を誅せんと考えている人物がやってきたので、馬騰も自分の心を打ち明け、明日の面会の際に、隙を見て一緒に曹操を打ち殺そうと約束した。
しかしその晩、黄奎が酔った勢いで妾に明日のことを話してしまう。この妾から話が漏れ、ついには曹操の耳にも入ったため、馬騰と黄奎の企みは完全に露呈した。
翌日、曹操を暗殺するつもりだった馬騰と黄奎は逆に捕らえられてしまう。馬騰は黄奎と組んだことを悔やんだが後の祭り。曹操に処刑されてしまったのである(『正史』では話が異なり、馬騰は、馬超が起こした反乱の責任を取って殺されている)。
馬良 ばりょう 季常 きじょう
生死年:187~222
出身地:襄陽郡宜城県
役職:従事→侍中 所属:蜀
若い頃から眉が白かったことから“白眉”とあだ名され、後年は秀才中の秀才のことを指す言葉となった。名門・馬家には五人の子どもがあり、5人皆、字の名に“常”という文字を持っていた。長男の馬良は中でも秀才の誉れが高く、『馬氏の五常、白眉が最も良し』と人々は言った。劉備が蜀へ入ると、関羽の補佐役として荊州に留まり、樊城攻めでは、援軍を求めに成都へ走ったが、間に合わなかった。呉遠征のときは、劉備に適当な勝利を収めてから和睦するよう勧めたが聞き入れられなかった。最期については、はっきりとした記録はなく、正史によると南蛮の異民族鎮圧に向かう途中、夷陵で殺されたとされている。
潘璋 はんしょう 文珪 ぶんけい
生死年:?~234
出身地:東郡発干県
役職:別部司馬→右将軍
所属:呉
陳寿によって、孫氏配下の勇将の一人に数えられた呉の武将。孫策の死後孫権に仕え、戦功を挙げた。江夏の太守黄祖の討伐に参加、蘇飛を生け捕りにした。劉備が孫夫人を連れて蜀へ脱出した際には、陳武と共に追走したが追い返されている。荊州攻略には大都督呂蒙のもと、韓当、周泰、蒋欽、朱然、徐盛、丁奉と共に7人の大将の一人として参加。見事関羽は撃退され、潘璋は敗走する関羽を朱然と協力して追いつめ、部下の馬忠が落馬した関羽を捕らえた。その後関羽は処刑された。劉備軍が仇討ちの為押し寄せてきた時は先鋒として迎え討ち、凌統と協力して黄忠を攻撃したが、関興と張苞に阻まれた。その後蜀が琥亭を取った直後山中で関羽の亡霊に出くわし、その亡霊に導かれやって来た関興に斬られた。だが関興に討たれたのは演義での虚構で、正史では天寿をまっとうしている。蜀の英雄関羽を殺した(正確には馬忠だが)男だから、蜀びいきの作者からすればまともな死に方はさせられなかったのだろう
費い ひい 文偉 ぶんい
生死年:?~253
出身地:江夏郡
役職:太子舎人→大将軍
所属:劉璋→蜀
元・劉璋配下の文官であったが、劉備入蜀後、帰順し、蜀の重臣となった。常人の数倍の速さで書物を読み、一度読んだ書物は決して忘れることはなかったという能吏型の官僚であった。孔明の信頼も厚かったが、人物見識という点では孔明の足元にも及ばず、消極的な性格であったという。孔明死後、丞相であった蒋エンがこの世を去ると、後を継いで丞相に就任したが、やはり専守作戦で斜陽の蜀を何とか維持しようと努めた。延煕十六年(253年)、宴会の席で酔いつぶれたところを魏の降将・郭循に刺殺された。戦場には孔明とともに何度か出陣したが、戦術面での才は乏しかった。孔明没後の魏延の反乱を阻止したのも、孔明の助言のおかげであった。が、有能な官僚の少ない蜀では、やはり貴重な存在であったといえるであろう。
315年、丞相の補佐官である長史として諸葛亮の南蛮征伐に従軍している費緯。ただ宮中の内政には詳しく頭脳派であった彼は、統率力はあったものの、戦闘力や人物識見においては、諸葛亮の足元にも及ばなかったという。
それでも数少ない蜀の信頼できる官僚であり、凡百の賢人と呼ばれる者より優れた才能を持ち合わせていたという。書類を常人の何倍もの速さで読み、一度頭に入れた記録を忘れることはないという特技を持っており、諸葛亮から厚い信頼を受け、内政に貢献した。
費詩 ひし 公挙 こうきょ
生死年:?~?
出身地:南安郡
役職:諫議大夫
所属:劉璋→蜀
糜竺 びじく 子仲 しちゅう
生死年:?~220?
出身地:東海郡
役職:別駕従事→安漢将軍
所属:陶謙→蜀
徐州の太守・陶謙の配下であったが、劉備の徐州入りの際、劉備と知り合い、それ以後、劉備の行く所に付き従った。自分はもとより弟のビ芳も従わせ、妹を劉備の側室にするなど、劉備の人間性に惚れていたという。徐州攻防戦に敗北した劉備に従い、劉備がエン紹の客分になったときも、ともに行動した。その後、劉表を頼って落ち延び、長坂ハの戦いの際、生死の境を彷徨った。彼は、司馬キに「白面の一書生」と酷評されるなど、幕僚としてよりも側近としての役割が多かった?蜀を取った際、劉備に皇帝になるよう薦めた。劉備の蜀建国はビ竺の苦労が報われた時であった。関羽が荊州で打首になった際、弟、ビ芳が呉に寝返り、彼は責任を感じたが、劉備がビ竺に対し、罪を問わなかったが、それを負担に感じ怏々として、楽しまなかった。その後、病を発し一年後に死んだ
び芳 びほう 子方 しほう
生死年:?~?
出身地:東海郡
役職:彭城相→南郡太守
所属:陶謙→蜀→呉
糜芳は陶謙死後、兄や妹と共に劉備に従った。兄は文官であったが、糜芳は戦闘にもよく参加した。城を守ったり、敗残兵を追い討ちしたりといった役目が多く、武将としては下級武将であった。その後関羽のハン城攻めでは、先鋒を務めるが、出陣前夜、陣を出火させてしまい、兵糧や武器を焼いてしまう。怒った関羽は糜芳と同僚のフ士仁の先鋒の印綬を取り上げ、棒刑にしたうえ、南郡の留守居役に格下げした。関羽が出陣した後、呉の呂蒙が荊州を占領し、南郡に迫った際、フ士仁は降伏を主張したが、糜芳は決心がつかない。そこへ関羽の使者が食糧を十万石を送れと要求してきた。呉軍が迫っている急場にとても用意できるものではなかった。フ士仁は使者を斬り捨て、驚く糜芳を尻目に呉に降ったため、糜芳も呉に降った。その後、関羽は斬首される。劉備は関羽の仇討ちに立ち上がり大軍を率いて呉に攻め入った。糜芳とフ士仁は迷った末、呉の先鋒・馬忠の寝首をかき、馬忠の首を手土産に蜀に投降し、再度復帰を願ったが、かえって劉備の怒りを買い、関羽の息子・関興に殺された。糜芳自体は呉に降る気はなかったようだが、関羽の使者をフ士仁が殺した為、罪を恐れ、仕方なく呉に降ったようだ。
文欽 ぶんきん 仲若 ちゅうじゃく
生死年:?~258
出身地:礁郡
役職:五営校督→前将軍→都護・仮節鎮北大将軍
所属:魏→呉
文欽の父は数々の功績を立てた文稷である。若い頃から武勇で名を馳せたが、気の荒い性格で礼儀をわきまえない人物であったため、周りの人間からはあまり好かれていなかった。一度他の人間が反乱を起こした際に連座し処刑されかけたが、曹操は父の功を考えて彼を許した。その後、たびたび戦功をたてたが、横柄な態度はなおらず、その上横領などもみつかり、王陵の上奏により召還させられたが、曹爽には気に入られていたため事件の取調べもなく、昇進した。そのためますます傲慢になっていったという。曹爽死後、後ろ盾をなくし少し静かになったが内心は危惧の念を抱いていた。後に呉に降り、時の大将軍・孫峻に厚遇され高い位に就任するが、呉でも傲慢な態度は改まらなかった。そのため呉の人間からも反感を買っている。魏で諸葛誕が反乱を起こし呉に救援を求めてきた際に、呉の軍に随行するが諸葛誕とは意見が合わず殺害されてしまう。
文醜 ぶんしゅう
生死年:?~200
出身地:不明
役職:不明
所属:袁紹
袁紹配下の豪傑。袁紹が公孫サンと戦った時、敗走する公孫サンを追いつめる。しかし助けに入った趙雲と一騎打ちで敗れそうになり、公孫サンをとり逃がす。顔良が曹操軍の客将、関羽に討ち取られたとき、関羽と戦うが関羽に斬られてしまった。
文聘 ぶんぺい 仲業 ちゅうぎょう
生死年:?~?
出身地:南陽郡宛県
役職:江夏太守→後将軍
所属:劉表→魏
元々は荊州は劉表の忠臣で北方の守備を任されていた。劉表が死去し劉[王宗]が後継となると曹操は荊州に侵攻する。守備の劉備が敗走していなくなると劉[王宗]新政権はあっけなく降伏してしまう。曹操が荊州を占領しても文聘はなかなか出頭してこなかった。曹操が理由を訪ねると「国を守る事もできずなんて恥ずべきことだろう、どの面さげてお会いする事ができましょうか」と言って涙を浮かべたらしい。曹操は忠臣を発見したとおおいに称え江夏郡の太守にし、関内候の爵位も授けた。曹操・曹丕と忠実に使え江陵遠征時には石梵で呉軍を撃退し功をなして、後将軍に昇進している。その後いつ死亡したかは、さだかではない。演義では若干違っていて、もう少し登場の場が多く細かく描かれている。劉備が荊州での敗走時に、襄陽に入れようとした魏延と打ち合っている事などで武力のある人物であったと世の中からは推察されているが、それは「演義」の話しのようで現実は定かではない。
逢紀 ほうき 元図 げんと
生死年:?~202
出身地:不明
役職:不明
所属:袁紹
袁紹配下の幕僚。袁紹に冀州を奪う策を進言し、河北支配に一役かった。官渡の戦いでは田豊・沮授の『長期決戦』に反対し、審配とともに『早期決戦』を進言した。袁紹は『早期決戦』を選択し、曹操と対決したが、惨敗。敗戦後、不仲であった田豊を陥れるため「殿の敗戦を田豊はそれみたことかと嘲笑していることでしょう」と讒言し、田豊を獄中死させる。袁紹死後は、袁譚を後継者として支持した。袁家断絶を目論む曹操が袁譚軍に攻め込んだ際、「不仲といえど袁尚殿は実の兄を見捨てることはないでしょう。私が援軍要求の使者になりましょう」と進言、渋る袁譚に「もし失敗したら焼くなり煮るなり好きにしてください。援軍要求には自信があります」と自信を見せた。意気を買った袁譚は逢紀を援軍要求に向かわせるが、袁尚は援軍要求を一蹴。一兵も連れて戻れなかった逢紀に袁譚は激怒。逢紀は命乞いをしたが、打首にされ、陣中に晒されたのであった。
鮑信 ほうしん
生死年:152~192
出身地:泰山郡平陽県
役職:騎都尉→済北相
所属:後漢
後漢の武将で、後軍校尉。後に済北国の相に任命される。十常侍の乱に乗じて董卓が洛陽に入城し、暴虐の限りを尽くすと、袁紹・王允に董卓を暗殺して災いを未然に防ぐよう進言する。後に曹操が反董卓連合軍を発足させると、鮑信は前々から董卓の非道に憤っていたため、迷わず参加した。また、鮑信は曹操を高く評価し、親交を結んだ。連合軍解散後は、曹操と協力して青州の黄巾賊残党の討伐をおこなった。曹操と共に寿陽で戦場視察を行っていた際、白兵戦となり、乱戦の中、曹操を助けて自分は戦死した。鮑信の子らは曹操が引き取り、その子らは新都亭候、御史中丞にまでのぼった?
法正 ほうせい 考直 こうちょく
生死年:176~220
出身地:扶風郡
役職:新都令→蜀郡太守→尚書令
所属:劉璋→蜀
字は孝直。劉璋の下に身を寄せていたが、重用されていなかった法正。「劉璋では大事をなせない」と考えていた彼は、友人の張松とともに、使者となって荊州の劉備に入蜀を勧めようとした。しかし、この計画が劉璋の耳に入り、張松は殺される。このとき法正は劉備の軍中にいたため、難を逃れた。
劉備が宣戦布告して成都に入った後、法正は蜀郡太守、さらには揚武将軍( 軍の武を上げる将軍) に命じられる。軍略に秀で、謀臣に枯渇する劉備陣営において必要不可欠な人材であった。また劉備のお気に入りで、自身の軍事的才能を過信する劉備が、法正の言葉には素直に従い、なおかつその策も外れることはなかった為に一層重宝された。一方で、自分を中傷した者を殺害するなど、器の小さい人物でもあった。品性を欠き、陣営内で不評であったが、彼の知謀、及びその地位ゆえに諸葛亮さえもその悪行に口出ししなかった。法正は蜀の建国前に45歳で死亡、劉備は何日間も彼を悼んで涙を流したという。翌年、関羽を失い冷静さを欠いた劉備は夷陵にて陸遜に大敗、その翌年に白帝城において死亡した。この報を聞いた諸葛亮は亡き法正を希求したという。法正はいい意味でも悪い意味でも、キレた人物だった。
ほう統 ほうとう 子元 しげん
英読PangTung
生死年:179~214
出身地:襄陽郡
役職:功曹→冶中従事→軍師中郎将
所属:呉→蜀
役職:功曹→冶中従事→軍師中郎将
所属:呉→蜀
字は士元、襄陽の出身。若い頃は彼の才能に気づく者はいなかったが、人物鑑定で知られた司馬徽に見出された。「臥龍」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛」と称えられた程の人物。演義では呉の周瑜に協力して208年の赤壁の戦い。兵力は曹操軍の20万に対し、劉備・孫権連合軍は3万数千。不利な戦況の中、連合軍は敵舟を鎖で繋ぎとめて火を放った。これぞ腦統の献策した連環の計。この策は見事に成功し、連合軍は勝利を収めたのだった。後に魯粛が彼を孫権に推挙したが、容貌が醜悪だったため、召抱えられなかった。劉備に仕えた時も、初め軽んじられたが、諸葛亮と魯粛のとりなしで、劉備の軍師となった。劉備の征蜀に従軍し、参軍としてその才能を発揮した。劉璋を攻撃するとき、劉備に3つの選択肢を提示したことは有名である。しかし蜀を制覇する前に流れ矢に当たり、戦死した。演義では落鳳坡で劉備と間違われ射殺された。劉備は彼の死を涙を流して悼んだという。優れた軍事の才に加え、冷静沈着さを備えた後の蜀に欠かせない人物であったことを思えば、あまりに惜しまれる死である。
孫権に用いられず劉備へ
瀧統は「鳳雛」と呼ばれ、「伏竜」(つまり諸葛亮)と並び称されるほどの才能を持っていたが、その風貌からなかなか評価されず、特定の主君を持たなかった。彼がちょうど江南の地にいたので、魯粛は孫権に推薦し、重く用いるように勧める。
しかし孫権は、瀧統を一目見て気に入らず(ちょうど周瑜を失ったばかりのときでそのギャップが激しかったのだろう)、用いようとしなかった。溜息をつく瀧統に申し訳なく思った魯粛は、劉備への推薦状を書いて手渡す。だが、実は瀧統、先に諸葛亮からも劉備への推薦状をもらっていた。
そこで瀧統は劉備に会いに行くことにする。しかし、あえて2人から推薦状は出さずに面会に臨んだ。すると劉備も、瀧統の名は知っていたものの、風宋の上がとどらない様を見て失望。県令という軽い任務を与えるに留まった。そのとき瀧統は、自分の学を見せて驚かせてやろうかとも考えたが、赴任後、瀧統は終日酒ばかり飲んで仕事をしなかった。
見にいくと、瀧統は彼らの目の前で、滞っていた百日分の事務を半日かからずに片づけてみせる(『正史』では仕事をしない時点で免官処分)。その後で瀧統が出した魯粛からの推薦状には「容貌を見て侮ってはいけない」と書いてあり、劉備は後悔した。ちょうど地方巡察から帰ってきた諸葛亮も、瀧統を重用するように強く薦めたので、劉備はすぐに瀧統を副軍師に任命した。
それにしても、劉備は以前に、司馬徽から「伏竜か鳳雛のどちらかを得れば天下を取れるだろう」と聞き、そのことを忘れさせてしまうほど瀧統の風貌はひどかったのだろう。
歩しつ ほしつ 子山 しざん
生死年:?~247
出身地:臨淮郡淮陰県
役職:主記→驃騎将軍→丞相
所属:呉
孫権の幕僚。若い頃は、頼る人もおらず、貧しい生活を送っていた。田畑を耕し、農作物を売って生活費を稼ぎ、昼は肉体労働に精を出し、夜は書物に目を通していた。孫権が将軍になると、召し出された。呉に降っていた呉巨(元・劉表配下)が異心を抱いたと見るや否や、会見を利用して謀殺し、威勢を振るわせた。赤壁の戦いでは呉と同盟を結ぶため、来国していた孔明に論戦を挑んだが、論破された。後に魏と濡須で戦ったとき、和睦の使者として魏の陣営に赴き、同盟を成立させた。また、荊州攻略戦では、関羽と曹仁の軍勢の動きを的確に読み、呉に勝利をもたらした。229年、孫権が帝位に就くと歩しつはヒョウ騎将軍に任命され、その後、陸遜に代わって都督となった。246年、歩しつは陸遜の後を継いで丞相となったが、普段と変わらず、学者先生として過ごした。性格は太っ腹で喜怒の感情を態度に出さない人物であった。また、日の目をみる事のない人材を推薦し、困難な立場にある者たちを救うべく何十通もの手紙を孫権に出し、彼のおかげで助かった者も少なくなかったという。
ま行
満寵 まんちょう 伯寧 はくねい
生死年:?~242
出身地:山陽郡昌邑県
役職:督郵→従事→揚武将軍→太尉
所属:魏
早くから曹操に仕え、許都の令に任命されていた。任務を忠実に行い、信賞必罰、曹操は彼の働きぶりに喜んだ。最大の功績は、やはり旧友であり楊奉の部下だった徐晃を説得し、傘下に加えたこと。関羽との戦いでは曹仁の参謀として樊城を守る。水攻めに遭い、曹仁は撤退を提案したが『今、城を捨てて退却すれば黄河の南は全て蜀のものになってしまう』と篭城を説得した。また、明帝が曹休に呉を攻めさせたときも、曹休の実戦の経験不足を指摘し、守備を固め大敗を防いだ。曹操から四代にわたって重職を任されていて、財産などにも執着せず、人々にも人気があったという。
毛カイ もうかい 考先 こうせん
生死年:?~?
出身地:陳留郡平丘県
役職:治中従事→尚書僕射 所属:魏
もとは平丘県の役人をしていた。曹操の目にとまり登用される曹操が丞相になると人事を担当するようになり数々の人物を推挙する、しかし彼が推挙する人物は清廉潔白な人物ばかりであった。本人も模範的な人物で謙虚に勤め金銭や権力に執着がなかったようだ。彼は物怖じせずに他の人が言え無い事を曹操に進言し処刑を命じられてしまうが仲間の弁護もあり免職にとどめられている。曹操は彼を認めていたらしく彼が亡くなったあと息子の毛機を取りたてている。
孟獲 もうかく 不明
生死年:?~?
出身地:不明
役職:宜首領→御史中丞
所属:南蛮→蜀
劉備死後、、225年、南蛮族の王・孟獲は蜀に対して反乱を起こした。これには諸葛亮自らが南征し、平定に出向いてくる。
南蛮軍は地の利だけはあるものの、蜀軍と比べると将兵も弱く、なにより相手が諸葛亮であるため歯が立たない。孟獲も簡単に生け捕りにされてしまうが、王のプライドからか降伏しようとはしなかった。孟獲は、「もう一度勝負をして、おれがまた捕えられたら降服してやる」と言ったので、諸葛亮は彼を釈放してやることにした。しかし、孟獲は捕えられるたびに言い訳をつけて「次こそ」と言い、諸葛亮はそのたびに釈放。2人のこのようなやりとりは、その後六回も繰り返される。
そしてついに、7度目の縄を受けた孟獲はようやく帰順を誓った。これが、本当に負けを認めたときにだけ心から服従を誓うという南蛮流なのだろうか。一族と共に与えられた酒を飲みながら「孔明には勝てん。仲間もおらず戦う事も出来ん。人生で最後の酒だ」と死を覚悟していた。しかし、蜀の兵が「孔明様は藤甲軍を皆殺しにしたことを悔いて、今あなた方に会う事に負い目に感じています。今日の所はお引取りくださり、今一度、気持ちよく戦ってくださいとの事です」という孔明の言葉を告げた。それを聞いた孟獲はハラハラと涙を流し「7度負けて、7度許すという話は聞いたことが無い。自分が愚かだった。今までの罪を許して頂きたい」と孔明の前にまかり出て「南蛮はこれ以後、2度と蜀には背きません」と誓いを立てた。これが世にいう『七縦七禽』である。その後、諸葛亮はこれまで通り孟獲に南蛮の王として領地を治めさせたが、以降、南蛮族が反乱を起こすことは一度たりともなかった。以後、孔明を『温情の徳』として、孔明を『慈父』と呼び祭った。祭祀は孔明死後も続けられたという。
孟達 もうたつ 子度 しど
生死年:?~228
出身地:扶風郡
役職:宜都太守→新城太守
所属:劉璋→蜀→魏
元は劉璋の配下だったが、冷遇され張松、法正らと劉備の益州入りを手伝う。その後は蜀で働くがその仕事振りはあまりよくなく、また賄賂を許したため、公平さを重んじた関羽に叱責された。その後、関羽が陸遜に追われ援軍を求めてきたときもそれを無視し関羽を裏切り魏に寝返った。その後、諸葛亮の第二次北伐の際に諸葛亮から誘いを受け再び蜀に寝返ろうとしたが司馬懿の策(変え馬を用意する事によって通常より早く孟達のいる城についた)によってそれを防がれ馬上で槍を刺されて絶命した。(この時孟達は自分によってくる兵を集めるため城の門を開けていた)(直接の諸葛亮第二次北伐の敗因とはならなかったが、それによって司馬懿は魏の中で唯一諸葛亮にも劣らない知の持ち主といわれた。)孟達はまさに裏切りの達人であった。
や行
楊儀 ようぎ 威公 いこう
生死年:?~235
出身地:襄陽郡
役職:主簿→尚書→長吏→中軍師
所属:蜀 孔明の北伐・漢中進出に際し長史に任命される。非常に有能な人物で、孔明をよく補佐し、前線と益州の連絡や補給の任を難なくこなした。孔明の死後、孔明の遺体が入った棺を守り、丞相代理として五丈原から撤退の指揮をとる。魏延の反乱に対して、孔明より授けられた秘策を用いて危機を乗り切った。成都に戻り楊儀は中軍師、ショウエンは丞相に任命された。自分より経歴の浅いショウエンが丞相に任命されたことを不満に思い、魏に降ろうと画策したが、事が露見。官位を剥奪され、平民に落とされた。このことを恥じて、自殺した。
ら行
雷銅 らいどう
生死年:?~218
出身地:不明
役職:将軍
所属:蜀
劉章の配下。建安17年(212年)、劉備の入蜀に対抗するべく、ラク城を守る呉懿の副将として激戦を繰り返したが、劉備・黄忠・魏延・張飛に攻め立てられ、混戦の中、呉蘭と共に劉備軍に捕らわれた。劉備の『蜀を今よりもより良い国にしたい』という思想に心打たれ、劉備の傘下に加わる。劉備の入蜀後は、蜀の臣として、張飛のもとで働いた。漢中での魏軍との戦いで張飛に伏兵の策を進言して勝利の基をつくったが、魏の勇将・張コウに討ち取られた。
雷薄 らいはく
生死年:?~?
出身地:不明
役職:郎中→後将軍
所属:袁術
袁術の配下武将。劉備や呂布との戦いに参加し、功績を上げた。後に袁術が玉璽を手に入れ、皇帝の位に就こうとした時、それを支持した。しかし、帝位に就いた袁術は民のことを省みず、配下の不平不満をよそに、自らの欲望を満たすべく、贅沢三昧する事に専念するばかり。袁術の配下武将は次々と見限っていく中、雷薄も同僚の陳蘭と共に袁術に愛想を尽かして、崇山にこもり、山賊と暮らす。後に袁術は帝の命を受けた、曹・劉・呂・孫の四軍に攻められ、袁術の国家(成)は没落。雷薄らは袁術に頼られるが、援助するどころか、袁術の財宝に目がくらみ、袁術一団を山賊とともに襲撃、財宝や兵糧を奪い取った。その後、雷薄らは、山賊として一生を遂げたという。
陸抗 りくこう 幼節 ようせつ
生死年:226~274
出身地:不明
役職:建武校尉→大司馬
所属:呉
陸遜の子。陸遜が死ぬと建武校尉となり、陸遜配下の兵士五千人を引き継ぐ。遜皓の時代に活躍。歩闡の反乱、晋の羊コ、楊肇の進軍が相次ぎ、いずれの戦いでも指揮をとった。襄陽攻略はで羊コと互いを認め合い、平和的な対峙を十年余にわたって続けた。陸抗が病に臥せった時、羊コから薬が贈られ、毒に違いないと言う部下を諭し薬を飲んだ事もある。しかしこのやりとりで孫皓に敵と内通していると疑われ、兵権を剥がされ司馬に降格された。陸抗がいなくなると、羊コは呉征討を主張した。功績があっても奢らない性格で、部下から信頼された。正に名将陸遜の血を受け継いだ息子と言えよう。
陸績 りくせき 公紀 こうき
生死年:187~219
出身地:呉郡呉県
役職:奏曹掾→偏将軍
所属:呉
盧江太守をしていた陸康の子。自分の思った事をドンドンと言ってしまう性格で、意見を曲げる事が出来なかったので、他の人と協調出来ず中央の権力から追われ、地方の太守となっている。演義では赤壁の戦いの際に、同盟を結ぼうとする蜀からの使者として来た諸葛孔明に、舌戦で挑み見事に負ける役で登場する。
陸遜 りくそん 伯言 はくげん
生死年:183~245
出身地:呉郡呉県
役職:東曹令史→大都督→丞相
所属:袁術→呉
呉の四代目大都督。呉郡の有力豪族の1つであり、陸遜はその傍系として生まれた。
若くして父親を失い、親戚の慮江太守・陸康のもとに身を寄せていたが、袁術に命じられた孫策の
攻撃を受けた折に、本籍である呉へと戻った。
陸遜は若くして孫権の幕下に仕える才覚を有し、地方官として江東各地を歴任し、功績を上げた。
海昌県が干ばつに見舞われた際には、官倉を開いて穀物を支給する一方で、農耕と養蚕を奨励した。孫権は兄・孫策の娘を陸遜に娶らせ、この働きに応えた。荊州攻略時、自分の無名を利用し関羽を油断させ、呂蒙の奇襲を助けた。その後劉備が仇討ちに攻めこんでくると、かん沢の推挙によって呂蒙の後を継ぎ大都督となる。古参の武将は役不足と馬鹿にするが、蜀軍の七百里に及ぶ長大な陣に火攻めを仕掛け、大勝利を収めた。劉備の追撃時は諸葛亮の八陣図に翻弄され退却するが、その後も大きな敗戦無く丞相にまで昇り詰める。しかしその翌年皇太子問題で孫権の激鱗に触れ、憤死に追い込まれた。演技ではこの事は書かれず、五丈原での戦以降いつの間にか姿を消している。
関羽撃破の陰の立役者
当時、孫権軍の都督を務めていた呂蒙は、関羽が焚城を攻めている隙に襄陽を攻め取ることを孫権に提案し、許可を受けて進軍する。しかし、予想以上に襄陽の守りは堅く、実際には簡単に落とせそうになかったので、呂蒙は病気を口実にして引き篭もってしまった。陸遜はそれが仮病であることを見抜いて孫権に伝えたので、孫権は陸遜を派遣して様子を探らせることにする。
呂蒙のもとを訪れた陸遜は、「孫権どのの命を受け、ご病気のお見舞いに参りました」と一応の形式的な挨拶をしたが、やはり呂蒙は病気のように見えない。そこで陸遜は、「私は将軍のご病気を治す処方を持ってまいりました」と探りを入れてみた。すると呂蒙のほうでも、陸遜に自分の心を見抜かれたと悟り、周りの者を下がらせて、「処方とはどういうものか」と問うた。陸遜は、「関羽がいま警戒している人物は呂蒙どのお一人。ならば将軍はこのまま病気を理由に別の人間と交代して、後任の者にはわざと関羽を持ち上げさせます。そうすれば関羽も油断し、襄陽の兵を焚城攻めに回すでしょう」と言う。これを聞いた呂蒙は喜び、後任を陸遜にお願いした。 一方で関羽は、呂蒙が名もない若い武将と交代したと知り、「そんな若僧を大将にするとは孫権も間抜けだな。これで心配事がなくなった」と完全に陸遜をなめてかかる。そして陸遜の読み通り、襄陽の軍勢を減らしてその分を奨城攻めに回したので、陸遜はすぐに呂蒙に攻め込むよう伝えた。こうして襄陽の城は簡単に落とすことができたのである。ちなみにこの戦の功績は、(呂蒙の立場を考え)あくまで呂蒙ということになっており、陸遜の活躍および実力は、孫権軍の他の将らにはまだ認識されないままであった。
李厳 りげん 正方 せいほう
生死年:?~234
出身地:南陽郡
役職:郡官吏→驃騎将軍
所属:蜀 もともと荊州の劉表のもとにいたが、曹操の侵略により劉ショウのもとへ逃れた。その後劉備が侵攻してきた際綿竹の守備にあたったが、孔明の策にはまって劉備に降伏した。それからはどんどん出世し、瓢騎将軍になった際、李平と改名した。のちに劉備の死に際に孔明とともに後事を託されるなど非常に信頼されていた。が、後年、孔明の北伐の際、大雨で兵糧の輸送ができなかったため孔明に偽りの内容の手紙を出し、驚いて帰国した孔明に責任逃れのため、「なぜ戻ったのか?」と問い詰め孔明の逆鱗に触れ、平民に落とされた。が、のちに孔明の訃報を聞くと失望し、病にかかり没したという。
李典 りてん 曼盛 まんせい
生死年:?~?
出身地:山陽郡鉅野県
役職:中郎将→裨将軍→破虜将軍
所属:丁原→何進→董卓→呂布→魏
配下の中でも、曹・夏候一族とともに挙兵時から付き従っている古参の将。慎重派で特に華々しい戦歴はないが、篭城&防御戦の専門家として力を発揮。新野の戦いでは、猛進する曹仁にブレーキをかけ、伏兵に遭った夏侯惇を救出した。赤壁の戦い後は合肥を守り、太史慈軍が城内に火を放ったときも冷静に対処、消火後は反撃に転じている。普段仲の悪かった張遼が協力を求めてくると『戦いとあっては日頃の関係とは別、喜んで指示を仰ごう』と言い、私情を交えず、ともに呉軍を撃破した。正史によると、一介の武人ではなく、知識をよく吸収し謙虚だったという。将来は文官としての活躍も期待されたが、209年、36歳の若さで病死した。
劉延 りゅうえん
生死年:?~?
出身地:ふめい
役職:東郡太守
所属:魏
200年の有名な袁紹との官渡の戦いの際、白馬にいた劉延は袁紹に攻撃されピンチであったが。荀攸の策にて敵将顔良の軍を打ち破る。演義では少し違い、劉備の下へ向かう関羽を迎える役で登場
劉焉 りゅうえん 君郎 くんろう
生死年:?~194
出身地:江夏郡竟陵県
役職:中郎→洛陽令→冀州刺史→益州牧
所属:後漢→君主
漢の魯の恭王に連なる名門で、漢の皇族。黄巾の乱時代、幽州太守に就任していた。黄巾賊討伐の義勇兵を募集し、当時、無名であった劉備を漢朝末裔のよしみで義理の甥として優遇した。黄巾の乱平定後は、中央の混乱を避けるべく、自ら望んで長年空白であった益州刺史の位を受けた。そこで後に益州防衛戦で活躍する張任や厳顔など、有能な士を集め、よく自領を治め、中原から半独立状態を保った。しかし、体調を崩し、病を患った。自分の命が長くないと知ると、益州を息子の劉璋を後継者にするよう遺言を残し、静かにこの世を去った。皮肉にも後に益州は劉焉が義理の甥とした劉備に奪われてしまうのである。
劉き りゅうき
生死年:?~209?
出身地:山陽郡高平県
役職:江夏太守→荊州刺史
所属:劉表 荊州太守・劉表の長男。次男・劉ソウとは異母兄弟で劉表の先妻・陳夫人の子供。息子の劉ソウに後を継がせたい現夫人の蔡夫人や蔡夫人の弟(兄という説もある)・蔡ボウにうとまれ、殺されそうになる。孔明から春秋時代の晋の献公の2人の子供のたとえ話を聞き、自ら身を引いて江夏の太守に転じた。曹操の荊州攻略に際して劉備と同盟を結んだが、特にめざましい働きはなかった。赤壁の戦いの後、劉備の後見を得て荊州刺史になったが、持病が悪化し、間もなく病死した。温厚な二代目タイプで乱世の世をたくましく行き抜く力がなかった。
劉璋 りゅうしょう 季玉 きぎょく
生死年:?~219
出身地:常山郡
役職:桂陽太守
所属:魏→蜀 後漢の皇室に連なる一族で代々、高官を務めてきた。父・劉焉の代に益州の牧となって成都に根拠地を構えた。父の死後、後を継いだが、性格は平凡で乱世の世の中、国を治める能力に欠けていた。北は曹操、東は孫権が勢力を伸ばし、漢中では張魯が国家を築き、益州を狙っているというのに何の対処もせずにいた為、法正、張松、孟達など有能な人材に見限られた。幾度となく攻める劉備を攻撃するが、結局、劉備に国を譲り、君主の幕を下ろす。しかし君主の座を降りた劉璋を惜しむ者はいなかったという。その上、成都城内には兵糧も1年分あり、精兵3万が無傷で残っていたにもかかわらず、降伏を選択するなど、武将としての能力も無きに等しいといっていい。識見、人望、勇気など将が持つべき素質があったならば、こんなお粗末な結果にならなかったと思われる。
温厚な劉備を
激怒させる
字は季玉。父・劉焉を継いで益州の牧。劉璋は参謀・張松の意見で劉備に助けを求める。その際、これに反対する文官らに強く諫められ、特に王累は城門に逆さ吊りになってまで劉埠を説得しようとしたが劉璋は聞き入れず、頑固な一面を見せる。劉備と対面してからはますます彼を信用。基本的に人が良いのは間違いないようだ。実際、劉備は同族の土地を奪えるような性格ではなく、もはや攻めてくる気配がない張魯ではなく曹操を討つため、精兵4万と食糧10万石を貸してほしいと頼む。劉埠は喜んで協力しようとしたが、家臣がこぞって諫めたので、老兵4千と米1万石だけを送った。これにはあの劉備も激怒。戦争となり、徐々に追いつめられた劉埠はついに降伏の決断をするが、その際、「自分は二十余年の間、人民に情けをかけたこともなく、多くの民を苦しめた。劉備どのに降伏したほうが人民のためだろう」と、意外にも立派な発言をしている。
劉禅 りゅうぜん 公嗣 こうし
英読LiouChan
生死年:207~271
出身地:不明
役職:蜀2代皇帝(後主)
所属:蜀
父である劉備は、早くから劉禅が蜀を統率できる器ではないと見抜いていたようで、臨終の際には彼ではなく、諸葛亮に後事を託し『もし我が子に才がないのなら、迷わずに君が帝位に就いて欲しい』と遺言した。劉備の勘は的中、諸葛亮・費イ・ショウエンが国政を見ている間はよかったが、3人の没後、宦官黄皓に政治を任せ、酒色に溺れるようになった。魏軍が成都に侵略すると、部下を見捨てて降伏。以後、洛陽で気ままに過ごしたというが、生涯反省の色もなく、天然ボケで人々は苦笑いしたという。
208年、長坂の戦いで追い詰められた劉備は赤子の劉禅を捨てて逃走するが、将軍・趙雲が劉禅を連れ出して救出したといわれる。218年、劉備が死ぬと劉禅が跡を継ぎ皇帝に即位。しかし、劉備は諸葛亮に「もしこの子が皇帝として補佐するに値しなければ、迷わず君が帝位に就け」と遺言した。
劉備は、劉禅に皇帝の器がないと考えていたのだ。しばらくは諸葛亮などの能臣によって国政は保たれていたが、彼らが世を去ると、劉禅は酒色に親しむようになり、国政は傾き始める。263年、魏軍が成都に迫ると劉禅はあっさりと降伏し、蜀は崩壊を迎えた。
諸葛売の降格
323年、劉備の死により劉禅は17歳の若さで蜀の二代目皇帝となる。即位当初は、南蛮討伐、第一次北伐と、諸葛亮に任せっきりの方針が功を奏し、愚直さを露埋しなかった鋼紳ずったが、次第に化けの皮が剥がれ、230年、諸葛亮ら蜀軍がまさに長安に進出しようとしていた矢先のこと、司馬課の計略によって、成都に「諸葛亮が自立して国を奪おうとしている」というデマが流された。それを耳にした宮官が劉禅に伝え、「すぐさま成都に呼び戻し、兵権を剥奪して謀反しないようにすれば良いでしょう」と言ったので、劉禅は言われるがままに詔を出し、蒋碗の諫めにも耳を貸さず、諸葛亮に軍勢を引き上げさせた。
詔を受け取った諸葛亮は、絶好の戦機をふいにしてしまうことを嘆きつつも、「従わねば、我が君をないがしろにすることになる」と言って撤退し、成都へいった。呼び戻された理由を諸葛亮に尋ねられた劉禅は返す言葉に困り、「しばらく丞相(諸葛亮)の顔を見ていなかったので会いたくなったのだ」とごまかしたが、諸葛亮は事の顛末をすべて読んでおり、今後はいい加減な富官の言葉を信用しないように、と諭した。劉禅も「ようやく目が覚めた」と言って(その場は)反省している。
劉そう りゅうそう
生死年:?~?
出身地:山陽郡高平県
役職:君主→青州刺史→諫議大夫
所属:劉表→君主→魏 荊州太守・劉表とその妻・蔡夫人との間に生まれた次男。長男・劉埼とは異母兄弟。劉ソウは母親の蔡夫人と伯父の蔡瑁の画策で劉表死後、後を継ぎ、荊州太守となる。しかし、曹操が荊州攻略に踏み出すと、蔡瑁、その他の部下の曹操降伏論に従い、曹操に拠点・上庸城をあけ渡す。曹操は上庸が無傷で手に入った事を大喜びしたが、劉ソウは後の災いになると考え、劉ソウを幽州へ追いやる。しかし、念には念をと部下に暗殺を命令。幽州へ向かう劉ソウ一団を襲撃させた。逃げ遅れた劉ソウは蔡夫人ともども曹操軍に暗殺された。乱世に飛躍することなく、わずか13歳でその生涯を閉じた。
劉岱 りゅうたい 公山 こうさん
生死年:?~192
出身地:牟平県
役職:侍中→刺史
所属:後漢
エン州の刺史。後漢の皇族で劉ヨウの実兄。董卓の非道ぶりに憤りを感じていた1人で、反董卓連合が発足されると連合軍に合流、参加した。反董卓連合が解散すると、自国が兵糧不足であったため、隣国の喬瑁に兵糧の借用を申し込んだが、断られる。劉岱は兵糧借用を断られたことを恨み、喬瑁を攻め殺した。2年後、青州の黄巾賊残党の行動が活発になると、黄巾残党を抑えきれず曹操に帰順し、鮑信と協力して討伐をおこなった。しかし、黄巾の残党は大軍で、兵の士気は下がる一方であった。劉岱は兵の士気を上げるべく、鮑信の制止を振り切り、無謀な攻撃をかけ、討死にした。正史での劉岱は黄巾の乱で戦死したとされている。
劉度 りゅうど
生死年:?~?
出身地:不明
役職:零陵太守
所属:後漢
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、趙範、金旋、韓玄らと共に謀反を起こし、国を四分割し、零陵の太守となる。劉備の荊州平定戦の一番初めの敵対勢力。劉度は気が弱い性格で、謀反を起こしたのが不思議なくらいであった。劉備軍が近くまで攻め入っているのを知った劉度は「降伏しよう。劉備には万夫不当の張飛や関羽、それに曹軍百万を一騎で駆け抜けたという趙雲。おまけに天才軍師の孔明までいる。勝ち目など万に一もない」と迷わず降伏を唱えたが、息子の劉賢に「何のために人材を集めているのです。このような時の為にでしょう。こちらには刑道栄がいるではありませんか。劉備軍などすぐに蹴散らすでしょう」と諌められ、劉賢と刑道栄に出陣を命じる。2人が出陣したあとも劉備軍に恐れおののき「どうあっても勝てるとは思えぬ…」と側近に漏らしていたという。その後、刑道栄が策にかかり、斬首され、劉賢も捕らわれたと聞くと迷わず零陵城の門を開け、劉備軍を迎え入れた。斬首されるものと思い込んでいた劉度であったが、劉備の温情で零陵の太守として現職に留まった。
劉備 りゅうび 玄徳 げんとく
生死年:161~223
出身地:[シ豕]郡
役職:安喜県尉→左将軍→漢中王→皇帝
所属:公孫さん→田楷→陶謙→君主→呂布→曹操→袁紹→劉表→君主(蜀)
三国志演義の主役ともいえる蜀の君主。劉勝の血をひいているというが確証はない。天下のために立ち上がり、漢王室の復興を提唱した。自ら三顧の礼をして迎え入れた天才軍師、諸葛亮孔明の計略によって西蜀の地を得た。関羽や張飛とともに義兄弟の契りを結び、後、蜀皇帝になった。
劉備は幼くして父を失い、母とともに草履売りやむしろ織りで生計を立てる貧しい暮らしを強いられていた。だが、元をたどれば前漢の中山靖工( 前漢の王族) の末裔にあたる血筋であった。
彼が24 歳のとき、中国全土に黄巾の乱が起こる。その討伐のための義勇軍募集の立て札の前で、彼は巨漢の張飛、長身の関羽と知り合い、満開の桃園で3人は義兄弟の誓いを立てる。
彼らは漢王室復興のため、仲間を集め、武器をそろえて徐州の牧( 長官)、袁紹の客将( 客分の武将)、荊州の客将と渡り歩いた。だが、根拠地もない弱小勢力であった。そのため後にライバ
ルになる曹操には遠く及ばなかった。
しかし、「三顧の礼」を尽くして天才・諸葛亮を軍師に迎えると、劉備に追い風が吹き始める。
208年、若くして才気溢れる諸葛亮の軍略により、孫権と同盟した劉備軍は、赤壁にて曹操の水軍70万を焼き尽くして荊州を手中に収め、かの地の牧の地位に就く。はじめは呉と組んで赤壁の戦いなどで魏を破っていったものの、関羽が呉の呂蒙の策にはまり、殺されたと聞いて激怒し、呉の討伐に向かった。しかし、呉の軍師、陸遜率いる呉に、火計によって大敗し(夷陵の戦い)、失意のままにこの世を去った。
桃園の誓い
黄巾賊の反乱が起こり、「天下の英雄豪傑と関わりを持ちたい」とつねづね考えていた劉備は、その高札を見て絶好の機会だと思うと同時に、自分の無力さを見つめ、ただ溜め息をつくばかりだった。
そこで張飛という男に声をかけられる。劉備が「賊を討ち、世の平和を取り戻したくても自分にはその力がない」と胸の内を語ると、張飛は二人で旗揚げをしようと持ちかけた。そこへ、同じく義勇兵志願の関羽という男も現れる。「黄巾賊を討ち、国(漢王朝)に身を捧げよう」と意気投合した二人は、張飛の屋敷裏の桃畑で義兄弟の契りを結ぶことにした。この二人を得たことは劉備にとってかなり大きい。
「我ら劉備、関羽、張飛の二人、姓は違えど兄弟の契りを結ぶからには、心を1つにして力を合わせ、願わくば同年同月同日に死にたい」と誓いを立てる2人。当時28歳で、最年長だった劉備が兄。関羽がその次、張飛は一番下の弟となった。
劉表 りゅうひょう 景升 けいしょう
生死年:?~208
出身地:山陽郡高平県
役職:北軍中候→荊州剌史
所属:後漢
前漢の景帝の血筋を引くというという名門の出で、若い頃から儒学者として著名であった。後漢の大将軍・何進に仕え、190年に霊帝が死ぬと荊州の刺史に任命される。
しかし、当時の荊州は群小の豪族が割拠して勢力を張り、隣の南陽郡に拠点を置く袁術からつけ狙われていた。
劉表は同地の豪族であった刪良・鯏越兄弟や蔡倡らに協力を仰ぎ、群小の豪族を平定することに成功。周辺の賊も討伐し、荊州の実権を得て襄陽に本拠を築いた。劉表に恨みを持つ孫堅が荊州を攻め入ってきた際には、守りを固めて、逆に討ち取っている。大将軍の何進によってとりたてられ、霊帝が崩御すると、荊州刺史に任じられた。若い頃から儒者として知られ、「八友」や「八交」のひとりに数えられて名士の誉れが高かったが、実際には優柔不断で、猜疑心が強かった。密かに通じていた河北の袁紹に官渡の戦いでは援軍を送ると約束しておきながら、兵を動かさなかった。韓嵩らが曹操に降るべきだと進言した際も、決断し切れなかったばかりか、彼らが曹操に寝返ったのではないかと疑ったりさえした。劉備が頼ってくると厚遇したが、とても彼を使いこなせる器ではなかったのだ。また、末子の劉{jを溺愛し、長男を追い出して江夏太守にしたが、劉表の死後、すぐに曹操に降服してしまう。劉表はその直前に病死している。乱世に中立を保とうとしたように、時流を読む能力に欠け、激動の時代を生きる力は無かった。
後継者が決められない
優柔不断な父親
字は景升。(漢の)皇室の一族で、荊州の刺史。初めは孫堅(孫権)との戦いなばかび戦争での登場が主だが、同族である劉備が頼って身を寄せてきたあたりからは、北征中で手薄な曹操を攻めるよう勧められても、「荊州九郡を治めており、それだけで十分。他人の領土に手出しはしない」という平和主義者となる。「それよりも……」と劉備に相談したのは後継者問題だった。「どちらも賢い子なのだが、先妻の子の長男・劉埼は柔弱で頼りない。だからといって後妻(察夫人)の子の次男劉踪を立てては礼法に背くとも思う。しかし軍務を取り仕切るのが察氏の一族ゆえ、長男を後継にした場合に争いが起きそうで決断がつかないのだ」と言う劉表。病気が重くなってからは、劉備に荊州を託そうとしたが、彼には断わられる。そこで後継を劉踪にし、劉備をその補佐に、と思うが、そう言い切るだけの決断力も威厳もない。結局、彼の死後、察夫人が遺書をでっち上げて劉踪を後継者とした。
劉封 りゅうほう
生死年:?~220?
出身地:不明
役職:副軍中郎将→副軍将軍
所属:蜀
劉備の養子で元の姓は寇。武芸に秀で蜀平定に活躍。その後、孟達と上庸の守りについたが、もともと仲が悪く、関羽の救援要請を断ったため、孟達は魏に降る。彼はそれを討伐しようとしたが、敗れて成都へ帰り、のちの憂いを考え自害させられた。演義では劉禅が生まれたあとの養子であり、それを関羽が反対したことや孟達の援軍反対などで援軍を送らなかった。劉備に処刑される。劉封はハン城の県令・劉泌の甥で、本名:冠封。両親を亡くした為、劉泌の世話になっていた。劉備がハン城を攻略した際、劉泌と会話をしていた時に劉泌の側に立っていた。劉備は「凛々しい若者だ。よければ養子にくださらんか」と養子縁組みを劉泌に頼んだ。劉泌は「これほど幸せなことはありません」と大喜びで了承。冠封自身も「天下に聞こえし仁徳者の息子になれるとは…」と涙を流し喜んだ。その時に名前を『劉封』と改名した。関羽は「殿には『阿斗』様がいらっしゃるではありませんか!後のお家騒動の災いになりまする」と劉備に詰め寄ったが、劉備は気にしなかった。劉封はその後、中堅の武将として活躍。三国鼎立後、漢中戦では劉備の側にいて、劉備から三度に渡って一騎打ちに指名される程になった。曹操は「何かというと、もらい子を出しおってからに」と毒づいたという。劉備が漢中王になると劉封は、孟達と共に上庸の守りに就いた。そこへリョウ化がやって来て「関羽様が同盟国の呉の裏切り合い、窮地に陥っておられます。どうか援軍を」と援軍を頼みにきた。劉封は早速、援軍に向かおうとしたが、孟達が「敵は大軍。この城の兵力では多勢に無勢です。それに、貴方が劉備様の後継者に選ばれそうになった時、反対したのは関羽様です。貴方は厄介払いに上庸に追いやられたのですぞ」と言い、迷う劉封を尻目にリョウ化を追い払った。この為、関羽は麦城で刑死。劉封は援軍を断った罪を恐れ、魏に降った孟達と戦ったが破れ、成都へ逃げ帰ったが、劉備に「おのれは誰の息子じゃ!この劉備の息子であろう。わしと関羽は義兄弟じゃ。おまえには関羽は叔父にあたる。その叔父を見捨てて、のこのこ帰ってくるとは何事じゃ。おのれは不忠者じゃ!関羽を見捨てた罪は重い。死罪じゃ」と大喝され、刑場に連れていかれた。その後すぐ、劉封の配下がつなぎ合わせた紙を持ってきた。劉封配下は「劉封様は関羽様の援軍に向かわなかった事をひどく後悔なさっておられました。孟達が魏に降った際、劉封様を魏に引き入れようとこの手紙を持ってきました。劉封様は『義父と言えど父は父。その父を裏切れと言うか!許さぬぞ、孟達め!』とお怒りになり、討ってでられましたが、策にかかり戦に負けました。劉封様は不忠者ではありません。死罪は取りやめてください」と懇願した。劉備も「劉封も忠義を心得ておったか。死罪にするのはかわいそうだ。死罪は取り消そう」と急いで刑場へ向かったが、劉封はすでに刑に服した後であった。劉封の首を前に劉備は「怒りにまかせて、なんと愚かなことをしてしまったのだ!」と叫び、首を抱きしめ泣きじゃくったという。劉封は忠義を守り通した男であったが、不幸に満ちた人生であった。
劉曄 りゅうよう 子揚 しよう
生死年:?~?
出身地:淮南郡成悳県
役職:司空倉曹掾→主簿→太中太夫 所属:魏
曹操に見出され、以後三代にわたって仕えているが、華々しい話題はなく、地味な存在だと思われている。だが、実際彼はかなりの無法者だったらしい。子供の頃、母親が臨終の床に彼と彼の兄・劉渙を呼び、『お父さんの側近は人に取り入って悪事をなす者です、おまえたちが大きくなったら取り除いておくれ。』と言い残した。劉曄は13歳になると、15歳の兄に遺言をを実行するべきだと話した。だが兄がそんなことはできない、と止めたので、劉曄は1人で奥の部屋に入り、その側近を殺してしまった。父親は怒ったが、『母上の御遺言に従いました、勝手な行動をした罰は受けます。』と言ったので、見所のあるやつだと許された。明帝・曹叡の信頼も厚く、臣下の者たちに、明帝の人柄はどうかと訊かれ、『秦の始皇帝、漢の武帝と肩を並べるお方だが、才略という点では少し劣る』と言ったという。
劉伶 りゅうれいう 伯倫 はくりん
生死年:?~?
体が小さく、顔はお世辞にもカッコ良いとは言えない人物だったらしい。酒が好きで客が来るとよく素っ裸で出迎えとがめられた。
りょう化 りょうか 元倹 げんけん
生死年:?~264
出身地:襄陽郡
役職:主簿→右車騎将軍・仮節
所属:蜀→呉→蜀
またの名をリョウ惇、リョウ淳字を元倹襄陽の人で黄巾賊の残党荊州にいた頃の劉備に投降し以後関羽の配下になる関羽の死後、呉に居たが蜀に戻りたい一心で「リョウ化は死んだ」と噂を流し母親と脱出、関羽の弔い合戦に行く劉備に合流後に右車騎将軍に昇進。劉禅の降伏後洛陽に強制移住させられる途中病死しても信じてもらえなかった悲しい人黄巾の乱から蜀滅亡までいた何歳なのかわからない
凌統 りょうとう 公績 こうせき
生死年:?~?
出身地:呉郡余抗県
役職:別部司馬→偏将軍
所属:呉
呉群余坑県の人。凌操の子で、命知らずな性格。孫権時代からの配下。黄祖との戦いで父「凌操」が甘寧に射殺された際、必死に戦って遺体を取り返す。後に甘寧が呉に降ると、恨みを捨てきれない凌統は甘寧に斬りかかるが孫権に止められる。だが、その後も甘寧に幾度となく張り合った。ある日呂蒙の開いた宴席で剣舞を舞い甘寧を殺そうとするが、呂蒙に止めに入られ復讐は果たせなかった。濡須口の戦いで無理に張遼に攻めかかり、曹休の矢を受けて落馬。楽進に殺されそうになるが、そこに甘寧が来て楽進を射たため彼は助かった。これがきっかけで恨みは水に流した。合肥の戦いで、張遼に襲われた孫権を命懸けで助けたため偏将軍に昇進。すごく頑張った凌統だったがあまり功績は認められず、地味なまま、49歳で病死。
呂凱 りょがい 季平 きへい 生死年:?~? 出身地:永昌郡不韋県 役職:五官掾功曹→雲南太守 所属:蜀 蜀の永昌郡の太守・王坑の功曹(功績記録係)。蜀の建興三年(225年)蛮王・孟獲の反乱に益州南部の太守たちも次々と呼応して反乱を起こしたが、呂凱は王坑を励まして反乱に加わらなかったため、反乱軍の攻撃を受けていた。反乱の報を受けた孔明は自ら南征を指揮して、諸郡を平定し、王坑の永昌郡を解放した。そのとき孔明は呂凱の功績は大きなものだとして褒め称えた。南蛮征伐に赴く孔明に呂凱は、南蛮の土地を詳しく描いた地図「平蛮指掌図」を渡した。孔明は喜んで受け取り、南蛮に詳しい呂凱を参謀の一人に加えて南征に出発した。
呂範 りょはん 子衡 しこう
生死年:?~228
出身地:汝南郡細陽県
役職:征虜中郎将→建威将軍→大司馬
所属:呉
孫策時代に呉に仕えるようになり、各地での戦いに同行し大きく貢献している。孫権の代になっても引き続き呉に仕え、赤壁・荊州攻略などでも活躍。劉備が呉にきた際に劉備を逃がさないように進言した人物。その後も良く活躍し順調に昇進し大司馬となる命が降るが、印綬を受け取るまで生きている事ができなかった。
呂布 りょふ 奉先 ほうせん
生死年:?~198
出身地:五原郡九原県(内蒙古自治区包頭市)
役職:調査中
所属:丁原→董卓→袁紹→張楊→張ばく→劉備→独立
「馬中の赤兎、人中の呂布」で有名。三国志最強の武将。通り名:飛将軍。初め、丁原の配下で養子であったが、呂布の力量に目をつけた董卓が、呂布と同郷の李粛に名馬・赤兎馬を送り物とし丁原の陣に向かわせた。本来、物欲に弱かった呂布は、天下の名馬の贈り物に負け、丁原を殺害し、董卓配下に加わる。董卓が朝廷の重臣になるにつれ、呂布も立身を続け、奮威将軍になった。董卓は呂布の歓心を買い、丁原同様、呂布を養子とした。反董卓連合が結成され諸将は、虎牢関まで攻め入るが、虎牢関を守る呂布の前に多くの武将を失う。そして、劉備の義弟・張飛が呂布に挑戦。打ち合うこと五十合に及んだが、勝負がつかず、この間に関羽、劉備も応援に駆けつけた為、不利を悟り、逃げ去った。その後、董卓抹殺を企む王允のチョウ蝉を使った「連環の策」が発動する。チョウ蝉の色香に董卓、呂布は迷い、チョウ蝉の奪い合いで、両人は仲が悪くなった。連環の策は見事に的中し、次に王允は帝位を譲ると虚偽の勅令を出し、董卓を宮廷に呼び出す。董卓が宮殿に入ると剣を手にした兵が並び、驚いた董卓は呂布に助けを求めたが、チョウ蝉を奪った董卓に対する怒りが溜まっていた呂布は「詔だ。逆賊董卓、覚悟しろ」と一喝。矛で喉を突き刺し、董卓を殺した。呂布は2人の養父をその手で殺したのだ。しかし、董卓の死を怒った李確、郭シらの反撃に合い、単騎、長安を脱出した。呂布自身、常に天下に君臨しようという野望を抱いていたので、頼ろうとしたエン術に断られ、エン紹に殺されそうになる。結局、自立以外に道の無い呂布は、軍師・陳宮の勧めで曹操の本拠・エン州を襲撃、奪取に成功する。エン奪還を図る曹操とは一進一退したが、肝心な所で陳宮の策を採用せず、結局一敗地にまみれ、徐州・劉備を頼る。呂布を暖かく迎えた劉備は小ハイの城を守らせたが、隙をついて徐州を奪う。しかし、抜群の武勇を誇った呂布も、陳宮の忠義と才能の心も生かせず、陳珪父子の策にかかって窮地に陥る。その後、劉備・曹操連合軍と戦ったが、配下に裏切られ生け捕りにされるという形で人生に終止符を打つ事になった。最後に打首直前の陳宮が「呂布は愚かであったが、曹操、貴様のように偽り多き姦雄ではない」と捨て台詞を吐いたのが、せめてもの救いといえるであろう。
「人中の呂布、馬中の赤兎」と謳われた猛将。
州刺史・丁原の養子だったが、董卓に赤兎馬を与えられると、丁原を殺し董卓の養子となった。
董卓に対して反董卓連合軍が結成された際には赤兎馬に跨り活躍。多くの武将を討ち倒す。だが、
劉備・関羽・張飛の三将に攻められると、さすがに不利と見て敗走した。
その後、董卓は洛陽を焼き捨て長安に遷都。そこでも暴政は続いたため彼の幕僚だった王允は国を憂い、呂布に彼を殺させる策を仕掛けた。単純な呂布は王允の思惑通り、彼を斬殺してしまう。
そして呂布は諸国を放浪。参謀・陳宮に従い自立を目指して曹操支配下の克州を奪取した。だが途中、陳宮の策を無視したために、結局奪い返され、今度は徐州の劉備を頼った。
呂蒙 りょもう 子明 しめい
生死年:178~219
出身地:汝南郡富陂県
役職:征虜中郎将→建威将軍→大司馬
所属:呉
子供の頃、身を寄せていた親戚・とう当が孫策に仕えていたため、そのまま呉の人間として成長していった。孫策の死後、孫権が実権を継承すると孫権は呂蒙の非凡な能力を認め、彼を将軍として引き立て兵を与えた。すると呂蒙もその期待に応えるように多くの戦功を上げ、孫権からの信頼をえるようになった。呂蒙は10代半ばから、すでに戦場で活躍を見せていた。その頃の彼は、己の胆力と膂力に頼った
武勇一辺倒の武将で、学問を軽んじていた。だが、孫権から「将たるものは学問を修め、教養を高めなければ真の名将とはいえない。学問を修めることも主君への忠義だ」と諭されて一念発起。勉学に励み、やがては学者に並ぶほどの知識を身につけた魯粛が死ぬと最高司令官の職は呂蒙に引き継がれ、呉の兵権を握るようになった。蜀呉の友好関係が崩れてくると、荊州の関羽討伐を計画(演義では陸遜が考えたと言われている)、関羽が北方に進軍している留守を狙って荊州に進行する、その際兵に戦地での略奪を禁じ、人民や捕虜も手厚く保護するように徹底した。その効果もあって関羽が戻ってきたときには荊州の人民は呉に心を開き、それを見た兵たちも呉に降伏してしまった。兵を失った関羽は逃亡中に捕らえられ処刑される。荊州平定の大功績に孫権も大いに喜んだが、呂蒙は帰国してまもなく病にかかり死去する。周瑜→魯粛→呂蒙、そして陸遜へと呉の最高司令官の座は継承される。世間における、、、もとい演義における呂蒙は事実とは大きく違っている。それはやはり絶大的は人気の関羽を殺したと言うところにあるようだが、呂蒙には気の毒なほど正史における良いエピソード部分は演義では大きくカットされ、マイナス的はエピソードが加えられている。実際の彼は学問に強く、戦略にも優れた周瑜・魯粛に引けを取らない司令官であった。忠義心にも厚く、孫権から貰った褒美は全て使わずに保管しておいて自分が死んだ後は全て返納する遺言していたらしい。
霊帝 れいてい
生死年:156~189
出身地:洛陽
役職:第十二代皇帝
所属:後漢
後漢第12代皇帝で姓名は「劉宏」霊帝は皇帝自ら官職を売り私財を貯える事に精を出していた。官職を買い占めて勢力を伸ばした宦官たちに印璽を預けるなど十常侍に詔勅を自由に操られた。そして宦官達は官職を買い占めて自分達の縁者を地方官にし、飢饉に苦しむ農民からさらに搾取をした。宦官達はそのお金で新たな官職を買い漁りやがて中央政界まで牛耳るようになる。そんな腐敗しきた宦官政治を排除しようとクーデターが計画されたが情報が漏れ失敗に終わる。見せしめとして首謀者・陳蕃他100人あまり惨殺され、2000人に及ぶ者が拷問を受け、逆に宦官の力を世に知らしめる事になった。これを「党錮の禁」という。「演義」では臨終の際後の献帝となる劉協を後継に立てたいため宦官の蹇碩と謀って何進大将軍誅殺を企てたが実行する前に亡くなった。
魯粛 ろしゅく 子敬 しけい
生死年:172~217
出身地:臨淮郡東城県
役職:東城県長→賛軍校尉→横江将軍
所属:袁術→呉
周瑜の後継者となった大資産家。生家は資産家で気前のいい性格だった彼は、周瑜が数百万の部下を抱えて困っていた所、魯粛は3千石の食糧を簡単に提供し周瑜を感嘆させ、2人は無二の親友となった。周瑜の推挙によって孫権に仕えるようになる。曹操が荊州に侵入してきた際には、孫権に劉備と共同戦線を組むよう進言。自らが使者となって同盟を締結させた。だが、劉備軍と孫権軍は同盟以後も意見の相違が多く、特に周瑜と諸葛亮は反りが合わなかった。魯粛はその間を取り持ち、赤壁の戦いで同盟を見事勝利に導く赤壁の戦いでは劉備と同盟して曹操に対抗することを提唱し、呉を勝利に導く。演義ではお人好しで弱々しく書かれているが、正史では大活躍している。最近では蒼天航路などでも活躍し、強気の魯粛として書かれてる。
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