三国志では酒池肉林や酒乱伝説があってとにかく酒が大好きだった

酒池肉林
「酒池肉林」という言葉は、殷王朝の暴君として知られたちゅう王に始まる。 ちゅう王は沙丘という離宮を設営して、そこに珍獣や奇鳥、そのほか天下のありとあらゆる珍しいものを集め、財宝や美術品を山のごとく積み上げた。

そして、この砂丘に酒でいっぱいに満たした池を造り、最高の美食とされた干し肉を木にぶらさげ、その中で裸の男女に鬼ごっこをやらせ、自分は姐已という絶世の美女をはべらせて、そのスペクタクルを楽しみつつ、連日連夜だらだら酒を飲んだ。

箸侈ゼータクといえばそうだが、なんだか中学生のときに読んだ江戸川乱歩のパノラマ島奇談のようで、無気味なもののほうが先にたつ。

次に酒池肉林をやった暴君といえば、中国全土を統一した最初の皇帝、秦の始皇帝である。戦国時代末期、七国に分裂していた状態から、すべてを中央集権の一大帝国に造り上げ、ありとあらゆる中国の富と権力を握った始皇帝は、巨大建築と神仙術のマニアだった。

中国最大の権力者となった始皇帝が、最終目標としたのは不老不死、究極のスーパーマン願望だったのだ。 そこで始皇帝は、阿房宮や躍山陵といった超巨大建築物を建て、斉や燕といった神仙術の本場から方術士を呼び集め、不老不死の仙薬を我がものにしようとした。何千人もの少年少女を乗せた大船団を、はるか仙人が住む東海の蓬莱へと派遣したが失敗、壮大なムダに終わった。

しかし、始皇帝は天下統一から死に至るまでの十年間、大規模な天下巡遊を行なった。この巡遊のたびに、三島の霊地を訪問して不老不死の霊薬を求めた。これから山東の神仙思想の本場となり、次の漢代を通じて大勢の仙人、方術士を世に送りだした。「三国志」中、孫策を崇り殺した干吉、蜀漢の大軍師諸葛亮もここから出ている。愚行の余徳というべきか。

三国時代に「酒池肉林」の先鞭をつけた第一人者といえば、後漢の末期に政権を握って横暴を極めた董卓である。

菫卓は長安の近くの場所に住んで都の長安に出勤していた。引退した後の隠れ家として、万歳おという要塞を構えた。高さと厚さが20メートルもある城壁で囲み、中には一族郎党を30年間養える穀物を備蓄していた。また、財宝も黄金が二、三万斤、白銀が八、九万斤、その羽干ほかに真球や玉器を山のように積み上げたという。

この根拠地へ長安から戻るときに城門の前で董卓は大宴会を催した。これがまたとんでもない宴会で、文武の百官を呼び集めておき、北地郡の投降兵数百人を中に引き入れ、まず舌を抜いてから、手足を切ったり、眼球をくり抜いたり、生きたまま釜ゆでにした。

集まった人々が震え上がってスプーンや箸を取り落としても、菫卓一人平然として飲み食いを続けていたとある。この大残酷の宴会も、殷の討王以来の伝統の一つで、こんなことにひるんでいては「酒池肉林」はやれない。

しかし、黄巾の乱以降、混乱と荒廃が進むなかでどうしてこのようなことが可能だったのか。はっきりいって、董卓は掠奪によってその富を全部築いたのだった。こういう輩が政権の中枢にいたのでは、いよいよ漢もおしまいということだ。


三国志・酒乱伝説
赤壁の戦いを前に、曹操は船上パーティーの席で歌った。「酒に対してはまさに歌うべし。人生いくばくぞ。(中略)何をもって憂いを解かん。それには杜康(酒)あるのみ」。有名な「短歌行」である。我々と同じように、昔の人間たちも酒が大好きだった。三国志も、酒に関するエピソードには事欠かない。

まず、もっとも酒好きで有名な男といえば張飛だろう。彼の場合は少々度が過ぎ、酒で失敗するのが見せ場といえなくもない。劉備に徐州の守備を命じられたときは、あっさりと禁酒の誓いを破り泥酔。忠告に来た曹豹をぶん殴り、その隙を突かれ、城を呂布に攻め取られた。そして、最期のときも大酔して寝ているところを部下たちに刺し殺されてしまう。酒が命取りになったのである。

張飛は、「上司にしたくない男ナンバーワン」などといわれるが、上司に媚びへつらい、部下にはきつく当たるタイプ。そのうえ酒癖が悪いとくれば、それもしかたがない。

張飛のみならず、豪傑と酒は切っても切れない関係らしい。許ちょも酒に酔って落馬する場面があるし、典いも酒を飲みすぎて熟睡している隙に武器を奪われ、そのために素手で戦って戦死した。

天下無双の猛将・呂布も、最期の場面では暴酒に耽った挙句、自分勝手に禁酒令を出し、部下の裏切りを引き起こして捕まった。

だが、彼ら以上の酒乱男がいた。それは呉の皇帝・孫権だ。一見、堅実で真面目そうに見えるが、酒を飲むと人が変わるタイプか。

宴では「オレの酒が呑めねえのか!」と部下に絡むわ、酔い潰れて眠ってしまった者に水をぶっかけて無理やり起こすわ、やりたい放題。ほかにも、ロバの顔に「諸葛子瑜」と書いて諸葛きん(字・子瑜)をおちょくったり、口喧嘩の末、家に引きこもってしまった張昭を呼びに行き、それでも出てこないのにキレて、家の門に火をつけようとしたことも……。

とうてい、五十過ぎの大人がやることとは思えない。やはり、アル中で昼夜問わず酒を飲んでいて、幻覚症状でも引き起こしたのではないだろうか。しまいには自らの酒乱を反省し、「酒の席でワシが出した命令は無効」という勅命まで発している。実に危ない男である。

呉の酒宴のときは、さぞ家臣たちの間に張り詰めた空気が漂ったにちがいない。美談とされている、周泰の傷を褒めたというエピソードも、酒宴のたびに「幼平、脱げ」と言われ、しかたなく裸になる周泰のげんなりした顔が思い浮かんでしまう。

また、彼の弟の孫よくも、頑固な性格のうえに酒乱で、酔っぱらうたびに部下に暴力を振るったので、恨みを買って殺されている。孫の孫皓も酒乱の暴君として有名だし、孫一族は酒の飲み方が上品でない人物が多いようだ。

その点、冒頭に挙げた曹操や、どんなに酔っていても、楽曲の乱れを聴き逃さなかったという周ゆなどは、かなり綺麗な酒の飲み方をしたようだ。一方、酒を全然飲まなかったのに何故か孫権に好まれ続けた顧雍も、また実に興味深い人物である。

娯楽の少ない戦乱の時代、酒は不可欠の物だった。現代でも「酒は心の潤滑油」として好まれているが、三国志の英雄たちは「飲みすぎにはくれぐれもご用心」という教訓を、いくつも残してくれている。
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