曹操は才能があり生涯を通し勢力を拡大し続け魏国の礎を築く


演義では悪役として描かれる
いわずと知れた魏国の礎を築いた人物であり、非凡な頭脳とたぐいまれな行動力で群雄割拠の時代を駆け抜けた。

曹操の優れた機智については多くの逸話が残されており、のどの渇きを忘れさせるために兵士に梅林を想像させたなどの話は有名だ。

また曹操は若い頃は放蕩にふけっていたが、橋玄や何ぎょうなど多くの名士が彼の才能を見抜いていたという。中でも許しょうが曹操を評した「治世の能臣、乱世の好雄」は世に知れ渡っていて、曹操の代名詞のような使われ方をすることも多い。

しかし、「董卓」暗殺に失敗し逃亡の身となったとき、身を案じてくれた恩人を斬り殺し、とう謙の配下に殺された父の仇を討つために、その通中の領民を皆殺しにし、忠義を尽くした軍師のじゅんいくを自害に追いやるなど、残虐な一面も持っている。

とくに演義では、このような部分が強闘され、劉備が正義の味方のように思われる反面曹操は悪役というイメージも少なくない。


生涯を通し勢力を拡大し続ける
曹操は20歳で洛陽の北都尉に任命されるとすぐさま頭角を現し、「黄巾の乱」では皇甫崇とともに張梁を討つ。この功により済南の相に任ぜられると、大将軍何進が殺された際には、「袁紹」らとともに宮廷に乗り込み、十常侍のちゅう殺に加わった。

さらに董卓が支配を振るうようになると、190年、董卓討伐の偽の詔を発して討伐軍を組織し立ち向かった。しかし、この戦いで大きな被害を受けることとなり、その後は黄巾賊の残党を退治して配下に加えるなど、力を蓄えることに尽力する。

董卓の死後、朝廷は董卓の配下だった李催と郭氾が牛耳っていたが、曹操はこのふたりを倒して献帝を救い出すと、196年、許都への遷都を決行。今度は曹操が献帝を擁して、専権を振るうようになる。そうして198年には「呂布」を斬り200年には「官渡の戦い」にて袁紹を討ち破るなど、その力は絶対的なものになっていった。

北方を平定した曹操は208年、「孫権」らのおさめる南方攻略へと乗り出す。しかしこの頃、劉備は「諸葛亮」を軍師に迎え入れ、また呉の孫権と劉備が手を結んだために赤壁にて大敗。これにより曹操の中国全土統一の野望は一時頓挫し、このあとは北方の安定に力を注ぐようになる。

213年に魏公となった曹操は、216年、魏王に封ぜられる。曹操は自ら帝位に就くことはしなかったものの、献帝の力はすでに無いも等しく、事実上、後漢はこれにて滅びたといって過言ではない。

220年、曹操は病に倒れる。死期を察した曹操は、「司馬い」ら忠臣に長男「曹丕」を託し、深いため息とともに涙を流すと、そのまま息を引きとった。享年65歳だった。


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