三国志で一番の悪者とされる董卓の残忍非道な暴虐ぶりとは

少帝を殺害して権勢を牛耳る
董卓は人を人とも思わない、暴虐の限りを尽くしたことで有名だが、若い頃は武芸に優れ、知謀に富んだ義理堅い人物として知られていた。しかし、地位と名誉を得ると残虐な行動をとるようになっていく。

「演義」に董卓が登場するのは黄巾の乱の最中。張角軍に敗れた董卓は「劉備」らによって助けられるが、劉備が官軍ではなく義勇軍だと知った董卓は、手のひらを返した。また「黄巾の乱」終結後には、数々の敗戦によって罪に問われるところを、十常侍と呼ばれる直宮たちに賄賂を贈り、西涼の地を任され、20万にも及ぶ大勢力を有するまでになっていた。

189年、霊帝が亡くなると、実権を握った何進は十常侍を滅ぼすため全国へ密詔を送った。詔を受け取った董卓は朝廷内が乱れていることを知り、ここぞとばかりに大軍を率いて洛陽へ進軍。

十常侍亡きあともその軍勢を盾に権力を振るい、ついにはときの帝であった少帝を廃し、自分のいいなりとなる献帝(陳留王)を帝とした。また少帝を廃することに反対した丁原を、丁原の養子である「呂布」を味方へ引き入れ殺害。これにより、董卓は相国に任じられ、もはや歯向かえる人物はいないほどの権力を手に入れたのだった。


美女連関の計により殺害される
相国となった董卓の悪行ぶりはとどまることを知らず、耐えかねた「曹操」が董卓暗殺を試みるも失敗に終わる。

さらに曹操は「袁紹」や「孫堅」らと「董卓討伐軍」を組織し洛陽に迫るも、董卓は歴代皇帝の墓を暴き、中にある財堂を運び出したうえで、洛陽に火を放ち長安への遷都を強行。董卓討伐軍は内部の亀裂もあってこれを止めることはできず、董卓の権力はますます強大なものになっていった。

長安へ遷都した董卓は人民25万人を集めてび城を築かせ、なかには20年分の食糧を備蓄。さらには若い美女800人を城内にはべらせ、金銀財宝を集めるなど贅沢の限りを尽くしていた。

そうしたなか、董卓の横暴ぶりに心を痛めていた王允は一計を案じ、美少女、「紹蝉」を使って董卓と呂布の中違えを画策。「連関の計」と呼ばれる計略は見事に功を奏し、董卓は養子とした呂布の手によって殺害されたのだった。

なお「正史」には紹蝉は登場せず、呂布は小さな戟で董卓に殴られそうになったことを恨んでおり、さらには董卓の侍女と密通していたため、事が露見するのを恐れて王允と内通して董卓を討ったとされている。

演義」では董卓が太っていたため、屍のヘソにロウソクを置いて火をつけたところ、油が一面に流れ出し赤々と燃え続けたといわれている。その後、董卓の屍は集められ、び城へ葬られることとなった、その度に落雷にあい、ついには跡形もなくなってしまったという。


為すはすなわち己なるも、有するはすなわち士なり(後漢書・董卓伝)

たしかにこの手柄は俺のものだが、報奨の品は兵であるお前たちがもらうべきだ



これは、『三国志』随一の悪漢と言われる董卓の、若いころの言葉である。
董卓は、「文字ができて以来、こんなにひどい人間はいなかった」と「三国志」にあるほどの人物である。それにしては殊勝なことを言っているのだが、彼は、どのようにして三国時代の幕開けに登場したのだろうか。

後漢王朝末期、時の皇帝・霊帝は官職を売買して小遣い稼ぎに熱中し、また役人はといえば、官職ほしさに人民から苛酷な搾取を繰り返していた。人々は増税にあえぎ、そのうえ打ち続く天災に見舞われて、「人が人を食う」という惨劇が日常茶飯事的な状況にあった。誰もが救いを求めていた。

そこに、張角という人物が宗教秘密結社「太平道」を起こす。ここに多くの人々が結集し、ついに西暦184年、怒りを爆発させる。「黄巾の乱」の勃発である。周知のとおり、この乱が三国時代の幕開けとなった。ちなみに「黄巾」の名は彼らが「黄色い頭巾」を被って目印としていたからである。

その「黄巾の乱」鎮圧のさなかでさえ、朝廷は腐敗と堕落から抜け出すことができないなにしろ賄賂がなかったなどの理由で将軍を解雇したりしている。童卓は、その解雇された将軍の後任として登場するのである。残忍非道、暴虐の徒といった評が専らな董卓。

しかし、冒頭の言葉からすると、昔からそうだったわけではなく、若い頃は侠気に溢れた青年であったようだ。

彼は朧西郡という中国でも西端にあたる土地に暮らしていた。そのため、よく辺境の異民族の村まで足をのばしては、部族の長たちと交わりを結んだという。好奇心旺盛な若者で、その頃からすでに武芸は卓抜していたようである。一説には彼にも異民族の血が流れていたとも言われている。

族長たちが董卓の家を訪れたさい、董卓は耕作用の牛をつぶして歓待したこともある。中国版「鉢の木」といったところだ。彼の心意気に部族長たちは感激し、あとから多くの家畜を贈ったという。かなり深い友好関係を結んでいたようだ

のちに董卓が異民族討伐のプロとなるのは、彼らのことをよく知っていたからであり、また駆け引きをするにもツボを心得ていたからであろう。

さて、物怖じしない性格と武芸を見込まれ、董卓は地方の軍隊に採用される。水を得た魚のように快進鑿を続ける董卓はトントン拍子に出世する。ついには近衛軍の副官まで務めるようになり、漢陽郡で莵族が反乱を起こした時にはこれを見事に撃破して、褒美として絹9千匹を賜っている。冒頭の言葉はこのときのものである。

報奨の品を全部、部下たちに分け与えることができたのは、現場を知っているからこそできた配盧だろう。官僚見習いから始めて、いきなり軍隊長に就任するような貴族たちとはわけが違う。隊長の命令ひとつで、命を賭けて戦う辛さを知っているから、出てくる言葉なのである。

それにしても後漢王朝を掌握してからの、あの負婆で強欲な董卓の姿からは想像もつかない美談ではないか。


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