三国志の物語で曹操・孫権・劉備の年齢を比較すると面白い

曹操・孫権・劉備の年齢を比較すると面白い
1.『三国志演義』は、劉備と関羽張飛の出会いを描く「桃園の契り」から物語を始めている。たとえば劉備と曹操、呂布との間の苛烈な殺し合いですら、出会いというものの1つの形。そう考えると、この物語は第一に男と男の出会いの、そしてその結果としての滅びの物語だからである。義兄弟となるか、殺し合う敵同士となるか。

男たちの出会いの最初の舞台は、中原と呼ばれる後漢の帝都、司州の洛陽を中心にする黄河中流域一帯。それぞれの野心を胸に、侠勇たちがその舞台の上に登ってくる。

そこで出会うとはどんなことだったのか。劉備と関羽、張飛、3人の出会いから始めたい。帝都洛陽の混乱2世紀末、前漢の時代から数えると400年近く、光武帝が後漢として再興してからでも200年近くを経て、漢の国は乱れていた。

原因となったのは宦官の専横だった。宦官政治はいわば側近政治であり、国の意思決定機構を歪め、売官などの腐敗を招き寄せる。

前漢が一時国を奪われたのも外戚と宦官が政治の実権を握り、恣意的な政治を行なったためだったが、後漢もそのわだちを踏もうとしていたのである。時の皇帝・霊帝は柔弱で、乱れを正す意志も力もなかった。帝室の威光は帝都洛陽の周辺にしか届かず、地方では半ば土着・豪族化した地方官が勢威を振るっていた。

朽ちかけた木となった後漢に決定的な一撃を加えたのは、黄巾の乱だ。

西暦184年、中国北部で急速に勢力を伸ばした「太平道」という新興宗教の信徒が、漢の天命は革まったとして、教祖で天公将軍を自称した張角の指揮のもと反乱を起こしたのだ。

黄巾の名は、信徒たちが目印として黄色の布を頭に巻いたことに由来する。討伐軍の手で張角が討たれて反乱は約1年でひとまず収束に向かうが、後漢という国家に与えた影響は大きかった。反乱を鎮定するため全国から軍を動員し、その軍が信仰のため命を惜しまぬ反乱軍と戦う過程で、人々の間に軍事力というものを強く意識させる結果になったのである。

軍人たちが歴史の表舞台に上がってきた。政治的な争いも、すでに宦官と貴族、官僚だけがプレーヤーとなる宮廷内の争いではすまなくなった。洛陽でも地方でも、兵を養う貴族や地方官の存在が重みを増した。
国が皇帝の威光でなく、軍事力でしか治められなくなった時代を「乱世」と呼ぶ。

黄巾の乱勃発から5年後の189年。霊帝が崩御し16歳の少帝が即位すると、乱世は一気に加速した。

洛陽で、皇帝の外戚で実力者だった何進の暗殺、暗殺の報復として行なわれた名門貴族の武将・袁紹による宦官の人虐殺、西域の涼州に派遣されていた将軍・董卓による洛陽占拠、さらに少帝廃位とその弟の献帝即位という人事件が、わずかひと月の間に立て続けに勃発する。まさしく乱世である。国のため、民のためという名分もルールもない、末期的な状況だった。

しかし乱世は、武勇に優れ、侠気にあふれた男たちを輩出させる。平時ならただ遊侠の徒、粗暴な輩と呼ばれ嫌われるに違いないそんな男たちを、「侠勇」と呼んでいる。

黄巾の乱の前後に名を挙げた騎都尉(近衛騎兵隊長)の曹操、長江南岸の揚州・呉の地方官だった孫堅。中原から海沿いの諸州まで転戦して地歩を固めつつあった、若き騎都尉の公孫玳。

その年上の友人で、仲間を募り義勇軍として黄巾の乱討伐に参加した劉備。まだ20代前半から30代初めだった彼らこそ、若き侠勇たちだった。そしてその背後には、未だ無名の侠勇たちが無数に存在していたはず。

洛陽で権力を握った董卓は、その後も1年以上にわたって洛陽占拠を続け、専横の限りを尽くした。やがて反董卓の動きがいよいよ激しくなると、董卓は献帝を擁して洛陽から西方の旧都、薙州の長安に移り、住民にも移住を強いて洛陽に火を放った。火は帝都を灰燼に帰せしめる。

廃墟となった洛陽からは、ただ煙が天に向かって上がり続けるばかり。しかしその煙こそ、侠勇たちに新しい時代の到来を告げる狼煙だった。


2.主人公たちの年齢を比較すると
「三国志」にはたくさんの英雄・豪傑が出てくる。
河北の袁紹、寿春(揚州)の袁術、徐州(寿春の北)の呂布、長安の董卓、荊州の劉表、それに魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権たちが、天下を競い合う。

この中から最後まで残り、「三国志」を形成していくのが、曹操、劉備、孫権の3人である。面白いのはこの3人の年齢が意外に離れている点だ。

たとえば、呉の大帝・孫権は、曹操とは21歳も違う。この物語の始まり黄巾の乱のとき、曹操は人生の一番の成熟期、31歳だった。劉備は24歳。青年である。関羽は23歳、張飛は17歳と続く。いずれも曹操より若く、張飛あたりになると一回り以上違っている。

孫権といえば、なんとこのときは9歳。子どもである。当然、曹操の頭の中には、孫権の姿はもちろん、その存在を意識することさえなかっただろう。
大軍師、諸葛孔明にいたっては、そのときわずか4歳である。

この「三国志」が始まった黄巾の乱発生時には、孔明4歳、孫権9歳と、まだまだ子どもだったのである。


テレビドラマのようなストーリー進行がハラハラさせる
「三国志」を読むと説話的魅力がタップリと味わえる。まず、活劇的楽しみがある。エンターティメントとして一級品である。

また、それにふさわしいオーバーな表現が使われている。アッという間に50万や100万の兵が全滅したりするのだ。冷静に考えると、信じられないようなことを平気で書いてある。いわゆる白髪三千丈式の中国的誇張法である。目くじらを立てるには及ばない。

また一つの話の終わり方がとても挑発的である。これは昔のラジオドラマがよくやっていた(最近では、NHK大河ドラマ「武田信玄」が使って話題になっているが)、「○○○の運命やいかに」的なノリで、各回の話が終わるのである。


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