(蜀害・関張馬黄趙伝)
欠点のせいで身の破滅を招くのは、いたしかたないこと
1.『演義』が、本家中国であまたの読者から愛され続けるのは、義理人情に厚い豪傑・関羽や、張飛の胸のすくような活躍が描かれているからだろう。
関羽と張飛は、劉備の挙兵以来の腹心で、兄弟同然に暮らした、まさに劉備と運命共同体の英雄として『演義』に登場する。ともに「兵1万に相当」と称えられる剛勇ぶりが活写されている。さらに関羽は、恩寵を受けた曹操に立派に恩返しを果たしてから劉備の元に帰るという、ドラマティックなエピソードを持つ「義の人」とも描かれている。
また張飛は、「長阪の戦い」での活躍が光る人物だ。たった二十騎を率いて殿を務め「張飛とは俺のことだ。命の惜しくない奴はかかってこい」と一喝し、曹操の大軍を釘付けにする。張飛のおかげで、劉備は命からがら逃げおおせたというのである。
しかし、正史『三国志』の編者・陳寿の見方は、演義とはかなり違っている。
まず、関羽・張飛による大活躍の記述が、正史にはほとんど見当たらないのだ。例えば関羽について最も詳しいのは、荊州を治めていた頃の姿であり、次いでどのようにして荊州を奪われたかに言及するという具合だ。
陳寿が2人に下した人物評価に至っては、きわめて厳しい。
「2人はまさに勇猛果敢な国士の風格を備えてはいたが、それぞれの性格的欠点から身の破滅を招いたのは、道理上当たり前のことだ」という。いやはや、これでは浮かばれまい。しかし劉備にとってみれば、関羽・張飛の相次ぐ死は、あまりにも衝撃的な事件であったようだ。彼らの死を境にして劉備政権の運命の歯車が、大きく狂っていくからである。
では関羽・張飛の死に様とは、どんなものだったのか。劉備一行が蜀入りに成功し、蜀の制覇に続いて漢中までも手に入れたあと、1人荊州に残った関羽は、南部四郡を治める任を負っていた。また、劉備の命令により魏の曹操の従弟・曹仁を奨城に包囲し、魏軍を打ち破る見事な勝利も収める。しかしこのあと、呉の呂蒙の策にはまる。
2.219年、呉の孫権は、魏の曹操と密かに通じたのである。背後に忍び寄った呉軍率いる呂蒙を見くびったおかげで、関羽は魏・呉連合軍によって挟み撃ちにされる。その陰には関羽側の将軍2人の裏切りもあるのだが、結局、孫権に捕えられた関羽は息子ともども打ち首に処されたのだった。
張飛はもっと悲惨だ。兄貴分の関羽を失い、いきり立っていた張飛は、これまで以上に部下に対し情け容赦のない態度で接したという。それが命取りになる。いざ関羽の仇討ちに出陣という段になって、日頃の仕打ちに恨みを抱いていた側近の武将2人に寝首をかかれるのだ。もちろん彼ら2人は張飛の首を土産に、呉の孫権に寝返ったのである。
陳寿の指摘どおり、関羽・張飛の人格的欠陥が、己を破滅へと導いたのは確かなようだ。
いやそればかりか、劉備の人生まで狂わせてしまった。2人の死は劉備から冷静な判断力を奪い、3年後の222年、彼を無謀な呉討伐に駆り立てている。すなわち関羽の弔い合戦に討って出た「夷陵の戦い」だ。結果は大敗、その翌年、劉備は世を去るのである。
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