劉備は流浪の将から蜀を建国して三国時代へ突入


誰からも慕われる心優しき将
周知の通り義に厚く領民のことを思いやる性絡で、身分による差別はせず、貧しい人々には施しを与えるなど、配下の武将だけでなく領民からも幕われていた。

このことは、「曹操」によって荊州が攻められた折に、領民も逃亡に付き従ったことからもうかがい知れる。また正史には劉備を暗殺しようと訪れた刺客が、そうとは知らない劉備のもてなしを受け、感謝して帰っていったという逸話も残されている。

旗揚げ当初の劉備は領地を持たず、官職や領地を得てもすぐに失っていた。そのため劉備は流浪の将としても有名で、荊州を得るまでは公孫瓚→田かい→陶謙→呂布→曹操→袁紹→劉表と、諸国を渡り歩き容将として迎え入れられている。

なお公孫瓚は若き頃、ろしょくのもとでともに学んだ学友であり、劉備は年上の公孫瓚を兄として慕っていた。


わずか一代で蜀建国にいたる
劉備の父は地方の役人だったが、劉備が幼い頃に亡くなり、以来、母とわらじを売り、むしろを編んで生計を立てていた。そんな折「黄巾の乱」が勃発し、劉備は「関羽」、「張飛」とともに義兵を組織し、黄巾賊討伐に立ち上がった。これが蜀建国への第一歩である。

黄巾の乱以降、決まった領地を持たない劉備は、「董卓」討伐軍に加わるなど各地を転職したが、194年、陶謙に乞われて徐州の勅使となる。しかし徐州を呂布に奪われると、再び流浪の生活へ。

その後、曹操に身を寄せた劉備は、献帝から劉皇叔の呼び名を賜り、朝廷を牛耳る曹操の誅殺を企てるも失敗。曹操から逃れ、今度は袁紹へ身を寄せた。

容将としてもてなされた劉備だが、曹操軍にいた関羽が袁紹の部下顔良と文醜を斬ったことから居づらくなり、袁紹を裏切り劉表を頼った。劉備はここで「諸葛亮」を軍師に招き入れている。

208年、「赤壁の戦い」で曹操と「孫権」が戦う隙をついて荊州を手に入れると、諸葛亮の「天下三分の計」に従って蜀の攻略を開始。

214年に蜀を手に入れると、219年には漢中を攻め落とし漢中正の位についた。翌年、曹操が死去し、「曹丕」が献帝から禅譲を受け皇帝の位に就くと、重臣たちの強い勧めで劉備も皇帝となり蜀〈蜀漢)を建国。これにより、諸葛亮が思い描いた、三国時代へ突入する。

皇帝となった劉備は、関羽の仇討ちのため呉へ攻め入る。開城当初は勝利を重ねた劉備だったが、呉の「陸遜」に大敗を喫し白帝城へ逃げ込むと、やがて病に倒れた。死期を悟った劉備は息子らを呼び、諸葛亮を父と思って仕えるよう遺言を残して息を引きとった。


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