張角は太平道を世に広め黄巾賊の大軍を指揮して反乱を起こす

張角
?~184年
太平道教主
黄巾の乱はたんなる住民反乱ではなく国家転覆を狙ったクーデターである。そして首謀者張角は天下を狙った英傑であった

太平道を世に広め信者を集める
新興宗教の心優しき教祖だった男が、強大な力と野望を持ったがために、時代を大きく動かす歯車と化した。

黄巾賊の大軍を指揮して反乱を起こし、後漢王朝衰退の原因をつくったことで知られる張角だが、その昔は、優秀な人物として知られ、薬草を採って生計を立てながら、ふたりの弟と慎ましく生活する日々を送っていた。

ある日、薬草を採りに山へ入った張角は、南華老仙と名乗る碧眼の老人から「太平要術」三巻を授かる。彼は授かった苦物をもとに日夜勉学にはげみ、ついには風や雨を呼び込む妖術が使えるまでにいたった。

そうして自らを「太平道人」と称した張角は、「太平道」という新興宗教を立ち上げ、太平要術によって得た知識を活用して病に苦しむ人々を助けるとともに、自らの教えを世に広めていった。

なお、「正史」では南華老仙の件は記されておらず、道教の経典「太平経」をもとに「太平道」を起こしたとされている。

のちに「大賢良師」と号するようになった張角の教えは、世の混乱も相まって瞬く間に広がり、霊帝の時代には青・幽・徐・糞・燗・腸・党・像の八州など、現在の華北~華中のほぼ全域を網羅するほどになっていた。

信徒も40~50万人を数えるようになり、張角は信徒たちを36の方〈部隊)にわけ、1万余人の集団を大方、6,7千人の集団を小方とし、それぞれに指揮を執る将軍を置き信徒を組織化。彼らは黄色の頭巾で頭をくるみ仲間の目印としたことから、黄巾党や黄巾賊と呼ばれるようになった。


張角はその字も生年も不明である。出身地が翼州のきょ鹿郡であるという以外、その出自に関する記録はなく、その生涯も謎に包まれている。その人格を窺わせるようなエピソードも残っておらず、彼の足跡は太平道の歩みをそのまま追うしかない。

張角は170年ごろ、太平道を設立している。彼は病人たちに自分の罪を告白させ、符水という護符を沈めた水を飲ませて病気を治すという療法で信者を集めた。

彼の教団は急速に成長し、十数年で徐州、幽州、冀州、荊州、揚州、豫州などの八州で数十万の信徒を獲得する。

張角は信者たちを、数千から一万人で構成される方と呼ばれる管区に分けて組織化し、渠帥と呼ばれる頭目に統率させた。

張角は彼ら信徒に、「蒼天已死黄天当立年在甲子天下大吉」と各地の官庁に落書きさせ、蜂起を予告させたのである。それとともに渠帥の一人である馬元義に荊州と揚州の信者を統率させ、冀州に集結させる。馬元義は宮中に入り込み、宦官の封しょ、徐奉たちに内応の約束を取りつけ、184年の3月に宮中と地方で同時に蜂起し、漢王朝を転覆させようとしたのである。

しかし、この計画は張角の弟子唐周が裏切り、密告したため頓挫。馬元義は車裂きにされ、宮中の内応者たちも抹殺された。反乱の計画が露呈したことを知った張角は、漢に先手を打って各地の方に命じて一斉に蜂起させる。これが俗にいう太平道の乱の詳細である。

蜂起後は、反乱自体が計画とは違ったものとなったため、各地との連携もうまくいかず、態勢を立て直した漢王朝の軍によって各個撃破されていく。そして、太平道は最終的に広宗という城に追い詰められる。ここで最後の抵抗を試みるが、張角の病死によって太平道の乱はひとまず鎮圧されることになる。

この乱はたんなる大規模な住民反乱などではなく、宮廷内までも巻き込んだ国家転覆の計画であった。それゆえ、地方のみならず宮中にまで同調する者が多数いたのである。太平道は間違いなく、漢王朝に代わって天下を担おうと生まれた組織であり、その教主張角もまた天下を狙った英傑の一人なのである。


決起するも志半ばで病に倒れる
184年、張角は民衆の心が後漢王朝から離れつつあるのを悟り、向らが天下をおさめることを決意する。

一部の直官や博史も内応し決起の期日を決定した張角だったが、配下の唐周の密告により事が露見。都に潜入させていた配下も討ちとられたことから、期日を待たずして兵を挙げた。これが世にいう「黄巾の乱」のはじまりである。

張角は自ら「天公将軍」と称し、弟の張宝を「地公将軍」、次の弟の張梁を「人公将瓶」とした。三兄弟の指揮する黄巾賊は、「芳天巳に死し、黄天当に立つべし。 歳は甲子に在り、天下大に吉なり」を細い文句に次々と官軍を討ち破っていった。

しかし、官軍側も負けてはおらず、朱しゅん、皇甫嵩、慮植、曹操、孫堅、劉備などの活躍によって、黄巾賊は徐々に劣勢へと追い込まれていく。

さらに戦いの最中、張角は病にむしばまれ、黄巾の乱の終結を待たずして病死してしまうこととなる。張角の死後、軍勢は張梁が指揮し官軍に応戦する。

しかし張梁は皇甫嵩によって討ちとられ、さらに梢におさめられていた張角の屍は切り刻まれ、さらし首にされたのち都へと送られた。「演義」ではこの戦いの折、張宝が妖術を使って朱しゅんや劉備の軍勢を苦しめる描写があるが、劉備の策によって討ち破られている。


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