同年同月同日に生まれしことを求めず、ただ同年同月同日に死せんことを願う
【たとえ生まれた日にちは違っていても、死ぬときは一緒に死にたい】
これは、劉備、関羽、張飛の3人が「桃園の義」を結んだときの誓いの言葉です。
この桃園の誓いは後にこの3人を主人公に作られた小説の中のフィクションなのです。三国志自体は史実を元に描かれており、劉備(玄徳)、張飛、関羽ももちろん実在の人物です。
この3人の出会いは次のようになっています。
「黄巾の乱」が勃発した184年の春、劉備が義勇軍を募集する役所の高札を眺めていると、顔見知りの同郷の張飛に出会います。2人が居酒屋で飲み交わしていると、解県出身の関羽が現われます。解県は中国随一の塩の産地で、彼はそこの横暴な有力者を斬っていて、今は放浪中の身の上でした。ここで3人は意気投合するのです。
こうして偶然出会った劉備、張飛、関羽の3人は、張飛の家の裏にある満開の桃園で義兄弟の契りを結びます。歳の順に劉備が長兄、関羽が次兄、張飛が末弟となるのです。このとき劉備、28歳でした。
この場面この言葉は、数百年にわたって人々の【たとえ生まれた日にちは違っていても、死ぬときは一緒に死にたい】(三国志演義・第一回)胸底に刻み込まれています。ちなみに演義は14、5世紀に作られたもので、作者は羅貫中という人物です。
正史「三国志」には、3人は「眠るときは部屋を共にし、その情愛は兄弟のようであったが、公式の場ではけじめをつけて、関羽と張飛は劉備の臣下として一日中でもそばに付き従っていた」とあるので、義兄弟の契りの場面があながち嘘ということもないように思われます。
無名時代に培った友情というのは案外もろいものです。いっぽうが有名になったり、出世したり、出世した末に主従関係に陥った人たちが対立することは、よく見聞きするところです。
しかし、劉備、関羽、張飛の3人の友情は終生変わることはありません。のちに関羽は魏軍と戦っている最中、密かに魏と通じた呉軍に背後を衝かれ、捕えられて処刑されてしまいます。
その死を悼むあまり、悲憤糠慨した劉備は、無謀ともいえる復讐戦を仕掛けて大敗を喫するのです。
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