司馬懿が魏の覇権を握るまでの考えられた策略の数々が面白い

数々の献策で宰相となる
魏国の発展に尽力し、また魏国の滅亡を導いた司馬懿。晩年の魏王朝の実権は司馬の一族に握られており、司馬懿は三国時代の終焉を呼んだ最後の覇者だった。

もともと司馬氏は河内郡の名家として名高く、司馬懿も聡明な人物として知られていた。そんな彼の才は「荀彧」の進言によって「曹操」の耳に届き、いつしか司馬懿は曹操の側近として仕えるようになった。

司馬懿は適切な進言で曹操を助け、蜀の「関羽」に奨城を包囲された窮地をも救っている。このとき、関羽を恐れた曹操は遷都を考えていたが、司馬懿はそれをたしなめて呉との同盟を提案。そして関羽の背後を「孫権」に衝かせ、逆に追い詰めた結果、呉軍に関羽を捕らえさせて処刑することに成功している。

また、呉から関羽の首が送られてきた際には、「呉は蜀の怒りを魏に向けようとしている」と孫権の企みを見抜き、曹操に関羽の首を丁重に葬るように伝えた。

このように幾度となく魏に貢献した司馬懿だったが、彼が頭角を現すにつれて、逆に曹操は司馬懿を警戒するようになったという。

しかし、司馬懿を封じることができぬまま、220年に曹操は逝去。跡を継いだ「曹丕」は手放しで司馬懿を重用し、やがて225年に行政の最高位である宰相にのぼり詰めたのだった。


クーデターにより政権を握る
「曹叡」が第二代皇帝に即位すると、親政を目指す曹叡によって、司馬懿はひょうき将軍に任命された。

以後、戦場で手腕を振るうことになった司馬懿は、「諸葛亮」率いる蜀軍の北伐を迎え撃っている。だた、計5回にわたって行われた諸葛亮の北伐の中で、司馬懿は諸葛亮の計略にことごとく屈している。

最初の北伐では「馬しょく」に圧勝しながらも、追撃の際に「空城の計」にかかり退却。その後も諸葛亮の「八卦の陣」や呪術を前に敗走するなど、散々な目に遭っている。

ただし史実での司馬懿は、諸葛亮との二度の直接対決を見事に制しており、「演義」と「正史」では内容が大きく異なっている。

さて北伐の対処を終えた司馬懿は、曹叡に後事を任されて軍政の大権を握ることになったが、大将軍の曹爽に疎んじられ、政界から遠ざかりはじめた。このとき司馬懿は病を患ったと偽り、ボケ老人を演じて曹爽の油断を誘っている。

そして密かに復権の機会をうかがっていた司馬懿は249年、皇帝と曹爽がいない隙を見計らって謀反を決行したのだ。曹爽を処刑した司馬懿はかくして再び政界の頂点に返り咲き、力の衰えた皇帝に代わって魏国の覇権を握ったのである。

その後、司馬懿の遺志は「司馬師」ら一族が受け継ぎ、晋王朝が天下統一を果たすことになる。


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