夏侯惇は曹操の挙兵時から従った最古参の武将の一人

曹操の挙兵時から従った最古参の武将の一人
隻眼の猛将というイメージが強いが、「正史」にはあまり武勲の描写はない。性格は清潔で慎ましやか、財貨を貯めず余分があれば人に分け与えたという。

「軍中では先生を呼んで学問を学んだ」など、「正史」の記述からは猛将というより実直で生真面目な姿が浮かぶ。

そんな彼は最古参ということもあり、まとめ役として曹操軍の武将たちを統轄した。曹操も夏侯惇をもっとも信頼し、諸将のなかでも常に別格の扱いをしていた。


曹操の旗揚げに応じ馳せ参じる
演義では豪快で勇猛な武将という一面を強調して描かれているが、私生活は慎ましく、余分な財産は人々にわけて与え、私財を増やそうとはしなかったという。またイナゴの害で田畑が荒廃してしまったときには、自ら先頭に立って土を運び、兵に稲を植えるよう指導するなど、人間的にも優れた人物であったことが知られている。

夏侯惇は14歳のときに師について武術を学ぶが、その際に師を辱めた相手を殺害してしまう。これにより彼は気性の激しい人物として知られるようになった。

189年「曹操」が「とうたく」討伐のために義勇兵を募集すると、従兄弟の「夏侯淵」とともに兵千名を率いて参じ、以来彼は生涯曹操に忠義を尽くすことになる。

193年、曹操の父が「陶謙」の配下に殺害されると、夏侯惇は「干禁」「典章」らとともに先陣を任される。陶謙を追いつめるが、もう一歩のところで逃してしまった。

その後、「呂布」が曹操の本拠地であるえん州を攻めたために曹操軍は撤退。ぼく陽で呂布と対峙した曹操は一度敗れるも、策を弄して呂布をおびき出して勝利し、えん州を守り抜いた。

なお演義では触れられていないが、この戦いで夏侯惇は呂布の配下に捕らえられ、捕虜となってしまう。 しかし夏侯惇の部下韓浩の機転により、何事もなく救出されたという。


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