同い年の孫策と周瑜は三国志を代表する親友で呉を強くした

三国志14における武将の能力値
名前 統率 武力 知力 政治 魅力
周瑜 97 71 96 86 94
われ卿を得てかなうなり
(呉害・周瑜伝)
【君が来てくれたので、万事上手くいく】
1.呉の建国を語る上で欠く事のできない二人の英傑、孫策と周瑜は、因縁浅からぬ間柄だった。
冒頭の言葉は、21歳の孫策が同い年かつ幼馴染みの周瑜に語ったものだ。
周瑜、字は公理。濾江郡の箭県に生まれ育った。周家はこの地の名門で、代々官吏を務めている。いわば名家の御曹司であった周瑜は、幼い頃から「周郎(周家の若様)」と持て畷される存在だった。

一方、呉郡生まれの孫策は、字を伯符という。父・孫堅が184年に起きた「黄巾の乱」平定に参加したとき、孫策は母や弟を連れて箭県に移り、そこで周瑜に出会う。同い年であった孫策と周瑜はたちまち親しくなる。慣れない土地で暮らす自分たちを助け、励ましてくれる周瑜に、孫策は信頼と友情の念を深めていった。こうして二人は無二の親友となったのである。
孫策の父・孫堅は「黄巾の乱」平定後、反董卓連合にも参加する。すでに各地で群雄が起ち、中国全土で割拠が始まっていた。
孫堅は192年、袁術の要請で劉表を攻めて、その城を包囲するが、敵の放った矢にあたって討ち死にする。

孫堅の死後、孫策と周瑜の親交は途切れてしまう。亡き父の軍勢を引き継ぐ力がなかった17歳の孫策が袁術の元に身を寄せ、その配下となったからだ。孫策はそこで着実に力を付けていく。そして故郷である呉郡を中心に江東制覇の決意を固めるまでに成長する。

ついに好機がめぐってくる。長江を南北に挟んで、袁術が揚州の劉認と対立を始めたからである。
すかさず孫策は劉謡討伐を名目に、袁術から千余の兵馬を借りて挙兵する。

亡き父の代より仕える勇将たち程普・黄蓋・韓当らを従え、総勢五千もの軍勢を率いて出撃しようとした時、孫策の前に現れたのが、幼馴染みの周瑜だった。二人は21歳になっていた。
江東の制覇を目指して挙兵した孫策を最も元気づけたのは、この幼馴染の周瑜であったことは言うまでもない。

周瑜はといえば、丹陽の長官に就任した叔父の元に身を寄せていたのだが、無二の親友である孫策が挙兵したという知らせを受け、すぐさま手勢を率いて駆けつけたのである。
その周瑜の姿を見て孫策が喜んで言ったのが、冒頭の言葉なのである。

力強い味方を得て、俄然孫策の勢いは増す。わずか2、3年のうちに孫策軍は江東各地を制圧し、一気に地盤を拡大する。孫策のような息子がいれば、いつ死んでもいいと言わせるほど袁術に可愛がられていた孫策であったが、いくら功績をあげても約束を反古にする袁術に次第に不信感を募らせていく。

197年、天の意志を示す瑞兆が下ったとして袁術が皇帝を名乗るのを機に、孫策は絶縁状をたたきつけて独立する。すでに孫策は、このころ覇権争いにしのぎを削る曹操にとっても捨て置けない存在になっていた。

200年、「官渡の戦い」で曹操軍が袁紹の大軍と雌雄を決している隙に、孫策は献帝のいる曹操の本拠地・許を急襲する計画を立てる。献帝を奪回する計略だった。彼は献帝を、すなわち天子を擁する利を知っていたのである。だがその矢先、刺客に襲われ、そのもと傷が因で26歳の若さでこの世を去ってしまう。


2.曹操を相手になぜ孫権は戦いを決断したの?
曹操が自分のものにしたのは、中国大陸の南北方向でみると中央にあたった。その北に袁紹がいたが、南にも敵がいた。孫策である。

曹操と袁紹が官渡の戦いで争っている隙に、南の孫策は北上し、都である許昌を制圧し、皇帝を奪い自ら権力を握ろうと考えた。曹操は北と南の両方と戦わなければならなくなったのである。

ところが、その孫策が、いよいよこれから侵攻だ、というまさにそのときに暗殺されてしまう。26歳の若さであった。孫策の死によって、曹操は袁紹との戦いに専念できるようになった。

官渡の戦いは曹操の勝利で終わったが、袁紹軍との戦いはまだ続いていたのである。袁紹が病死した後も、その3人の子が抵抗し、曹操が完全に勝利するまでには、7年の歳月を必要とするのだった。

孫策の後を継いだのは、弟の孫権である。孫権は戦うことよりも、統治能力のほうに優れていた。そのことをよく知っていた兄の孫策の遺言で、孫権は当分の間は外に攻めて出るのではなく、内政に力を注ぎ、国力を蓄えることにした。

だが、208年、孫権の恐れていた事態が起きる。袁紹の遺児たちを倒した曹操が、南下を始めたのである。

孫権の陣営は、あくまで曹操と闘うか、あるいは降伏するかで意見が分かれた。曹操が皇帝を奉戴している以上、それと闘う大義名分がないとして降伏を主張する者と、徹底抗戦すべきとする武闘派とに分かれたのだ。孫権は、気持ちの上では抗戦派だった。

孫権の陣営のなかで、主戦論を唱えた一人が、周瑜だった。周瑜は、孫権にとって兄のような存在の盟友だった。彼は後漢王朝で太尉をつとめた名門の出身で、後漢王朝には、人一倍の忠誠心があった。そのため、曹操が皇帝を操っている現状をどうにかしたいという思いもあったのである。

曹操を倒し、漢王朝を正しいかたちに戻す。これが周瑜にとっての大義名分となった。周瑜は孫権に、陸戦では負けるが、水戦ならば勝てる、とも進言した。
孫権は、曹操軍との戦いを決断した。
そこに、合流するのが劉備玄徳である。


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