馬超は曹操軍と戦い許褚や張飛と一騎討ちを繰り広げる


仇敵曹操に立ち向かうが
馬超は西涼の太守・馬騰の長男として生まれた。幼い頃より鍛練を積み、騎馬民族が多く住まう西涼の民らしく馬術に長けた立派な武人として成長。

また「演義」の記述によると、馬超は獅子の頭をかたどった兜を被り、派手な出で立ちをしていたという。その堂々とした姿から、人々は彼のことを「錦馬超」と呼び褒め称えた

そんな馬超に一大転機が訪れるのは211年のことである。許昌に出向いていた父・馬騰が「曹操」暗殺計画に加担していたことが露見し、弟の馬休や馬鉄らとともに処刑されてしまう。

怒る馬超は父の仇を討つべく従兄弟の馬岱や配下の「ほう徳」、そして馬騰の友人である「韓遂」らと挙兵。打倒曹操を掲げた馬超の兵は20万に上り、長安に向けて怒涛の進軍を開始した。

この俗にいう「どう関の戦い」で馬超は「干禁」、「張こう」、「許ちょ」、ら曹操軍のなみいる猛将と一騎討ちを繰り広げ、なかでも許ちょとの激戦は200合討ちあっても勝負が付かず、お互いの槍が折れるまで戦い続けた。

また馬超の勢いを見た曹操は恐れを抱いて戦場から逃げ出してしまい、それを追う馬超の梢は曹操の顔のすぐ横をかすめたという。

だが、あと一歩のところで曹操を逃した代償は大きく、曹操の軍師「かく」の「離間の計」により馬超は韓遂と仲違いを起こし、その結果曹操軍に大敗する。幼い日より武芸を磨き、その成果を見せた馬超だったが、このとぎはまだ25歳と血気盛んな若者である。それ故、曹操の策を読み切ることができなかったのだ。


劉備のもとで五虎大将軍の一角を担う
「どう関の戦い」で生き残った馬岱、ほう徳とともに流浪の身となった馬超は、漢中の張魯に拾われる。

そして214年、赤壁で曹操に勝利を収めた「劉備」が「劉璋」の益州を攻めると、張魯に頼まれ馬岱とともに劉璋の助っ人に向かう。ここでも全力で戦い、「張飛」とは激しい一騎討ちを繰り広げる。

だが、戦いの最中、諸葛亮の使者・李恢が馬超のもとを訪れ「本当の敵は曹操であり、その曹操と対峙する劉備と戦うことは矛盾している」と告げると、馬超は大いに痛み入り劉備の配下となることを決意する。そして今度は逆に劉備の益州奪取に協力。固く城門を閉ざす劉璋の前に、馬超の軍勢が現れると、その威光に恐れおののいた劉障は無血開城を決めたのだった。

こうして劉備配下となった馬超は、「定軍山の戦い」に参戦し、その後漢中に駐留。この地をよく守り、劉備が漢中王を名乗ると、新参ながらも蜀軍の最高位である「五虎大将軍」のひとりに任じられ、「関羽」や張飛と肩を並べる猛将として数えられるようになるのである。


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