1.玉璽はハンコで孫堅や袁術が血眼になって探すほどの価値があったのか

三国志演義の中では、孫堅や袁術といった初期の群雄たちが、漢の玉璽をめぐって争いをくりひろげている話があります。 その玉璽とは一体何なのでしょうか。

玉璽とは、中国の歴代王朝や皇帝に代々受け継がれてきた皇帝の用いる玉製の印璽のことで、正式には「伝国璽」と呼ばれています。一言で言うならハンコです。ただ普通のハンコと違うのは帝権の象徴と考えられています。
三国志に登場する玉璽(伝国璽)は、秦の始皇帝が作らせた物で、漢王朝滅亡後、魏、晋や隋、唐といった王朝まで引き継がれました。

2.玉璽ができるまで
まだ黄河文明が始まったばかりの紀元前2000年前から、漢民族は玉に魅せられてきました。玉の持つ動物の脂肪の滑らかな光沢や、内側から光っているような半透明の質感が、なんとも彼らの好みに合ったのでしょう。しかし、玉は中原と呼ばれる漢民族の原住地からは、あまり産出しませんでした。

そこで、昆崙と呼ばれたパミール高原の山岳地方、ホータンといったシルクロードの玉の名産地から、交易によって取り寄せました。これが中国と西方諸国との交流を盛んにし、文化を発展させる要因にもなったといわれています。

そうまでして手に入れた玉だから、当然ながら大変な価値がありました。所有することが許されるのは王侯貴族、権力者に限られたのです。そこで玉で作られた装飾品を身につけることが、すなわち権力者の証として見られることになります。城や領土と取り替えられたという和氏の壁など、玉の大名物も歴史に登場しています。

だから皇帝のハンコである玉璽は玉で作られることになります。臣下である諸王や諸侯といった地方の領主には、一等価値の下がる金属製の印が皇帝から与えられました。ちなみに女王卑弥呼が魏の明帝曹叡にもらったのが、倭人伝に記された「親魏倭王」の印なのです。

3.玉璽の使い道
もちろん玉璽には実用的な意味もありました。漢王朝の公文書、法律の布告や官吏の任命に必要な文書は皇帝の名前で出されるのですが、内容はたいてい「尚書」という役人が書くことになっています。 その文書の内容存皇帝が承認した命令であるという印に、皇帝のハンコである玉璽を押すのです。

今でこそ、ハンコを押すというと朱色の字を思い浮かべますが、もともとは墨を使った黒い印面のものです。朱の印面というのは、中国の皇帝の文書を他と区別するために、特別に使い始めたものなのです。

そのスタイルを真似したのが、日本の歴史上にある「朱印状」や「御朱印船」の朱印で、大名や幕府が自己の権威を示すために使ったのです。

4.玉璽の種類
玉璽には実は何種類かあったようです。
伝国璽は天子(皇帝)の唯一の印章であり、伝国璽を持つ者は、詔書を自由に発給できるような特別な権限があったと思われます。
と言っても、天子が普段使用していたのは、伝国璽とは別の「天子の六璽」と呼ばれる印章でした。
天子の六璽には、

* 皇帝之璽
* 皇帝行璽
* 皇帝信璽
* 天子之璽
* 天子行璽
* 天子信璽

と刻印された6つの皇帝の印章があり、封をする命令書の種類に応じて使い分けられていたようです。 伝国璽はこれに含まれないので、玉璽は七つあったことになります。この話を信用するとなると、伝国璽には「受命於天、既寿且康」と刻まれており、孫堅が発見した玉璽とは二字異なるので、本物が疑わしくなります。

こうして玉璽について書いていて、1つの疑問が生まれてきました。布や紙に書かれた文書に印を押すのはかんたんですが、後漢期の文書の多くは竹や木の板に書かれていました。堅い板に玉のハンコを押すのは相当難しいと思います。玉璽は飾りで、実用には金属製の印を作って、焼き印にして押していたのかもしれません。
なかなか一筋縄ではいかないのが歴史というものです。
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