孫堅や袁術が血眼になって探していた玉璽とは何だったのか?

「三国志演義」の中では、孫堅や袁術といった初期の群雄たちが、漢の玉璽をめぐって争いをくりひろげている。 その玉璽とは何か、といわれれば一言でハンコのことである。ただ「玉」という石に彫ってあるところが、普通のハンコとは違う。

まだ黄河文明が始まったばかりの紀元前2000年前から、漢民族は玉に魅せられてきた。玉の持つ動物の脂肪の滑らかな光沢や、内側から光っているような半透明の質感が、なんとも彼らの好みに合ったのである。しかし、玉は中原と呼ばれる漢民族の原住地からは、あまり産出しなかった。

そこで、昆崙と呼ばれたパミール高原の山岳地方、ホータンといったシルクロードの玉の名産地から、交易によって取り寄せた。これが中国と西方諸国との交流を盛んにし、文化を発展させる要因にもなったといわれる。

そうまでして手に入れた玉だから、当然ながら大変な価値があった。所有することが許されるのは王侯貴族、権力者に限られた。そこで玉で作られた装飾品を身につけることが、すなわち権力者の証として見られることになる。城や領土と取り替えられたという和氏の壁など、玉の大名物も歴史に登場してきた。

だから皇帝のハンコである玉璽は玉で作られることになる。臣下である諸王や諸侯といった地方の領主には、一等価値の下がる金属製の印が皇帝から与えられた。ちなみに女王卑弥呼が魏の明帝曹叡にもらったのが、倭人伝に記された「親魏倭王」の印なのだ。

もちろん玉璽には実用的な意味もある。漢王朝の公文書、法律の布告や官吏の任命に必要な文書は皇帝の名前で出されるのだが、内容はたいてい「尚書」という役人が書くことになっている。 その文書の内容存皇帝が承認した命令であるという印に、皇帝のハンコである玉璽を押すのである。

今でこそ、ハンコを押すというと朱色の字を思い浮かべるが、もともとは墨を使った黒い印面のものなのだ。朱の印面というのは、中国の皇帝の文書を他と区別するために、特別に使い始めたものだった。そのスタイルを真似したのが、日本の歴史上にある「朱印状」や「御朱印船」の朱印で、大名や幕府が自己の権威を示すために使ったのだ。その御威光が今も残っているがために、日本人は21世紀になってからも、宅配便から役所の窓口にいたるまで、ハンコでわずらわしい思いをさせられることになっている。

こうして玉璽について書いていて、1つの疑問が生まれてきた。布や紙に書かれた文書になら、朱だろうが墨だろうが印を押すのはやさしい。しかし、後漢期の文書の多くは竹や木の板に書かれていただろう。堅い板に玉のハンコを押すのは相当に難しい。玉璽は飾りで、実用には金属製の印を作って、焼き印にして押していたのだろうか。

それとも布や紙の文書にのみ押印したか、それを竹筒に貼り付けたのだろうか。「玉璽」とは何かという形式はわかっても、その実際の使用状況となると、なかなか一筋縄ではいかないのが歴史というものである。
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