三国志に登場する「○○の計」有名な12の戦略を解説

苦肉の計
どれくらい演技力が必要か

「苦肉の策」は苦し紛れに考え出した策のことをいうが、「苦肉の計」は、自分の肉体を苦しめて敵を欺く計略のことをいう。

赤壁の戦いでは、この苦肉の計によって、孫権軍は勝利したともいえる。
この赤壁の戦いでは、孫権の武将、黄蓋が曹操の水軍に近づき、船に火を放って全滅させたわけで、これを「火攻めの計」という。そして、それを成功に導くために用いられたのが、苦肉の計である。

曹操軍に、敵の黄蓋が近づけたのは、投降したいという連絡が事前にあったためである。曹操はこれを信じ、黄蓋の一軍がやってきても、迎え撃たずに通し、それが壊滅を導いた。

なぜ曹操は、敵の武将が「投降する」と言ったのを信用したのか。逆にいえば、どうやって黄蓋は、曹操に信じ込ませることができたのか。孫権軍の参謀である周ゆと黄蓋は曹操を倒すための作戦を練り、黄蓋が自ら犠牲になることを志願した。

孫権の軍に、曹操を裏切ってきたという武将がいた。彼らは実はスパイだったのだが、そんなことは見抜かれていた。孫権軍の軍議が開かれ、周ゆが攻撃の準備を始めるよう命令すると、黄蓋がそれに反対し、「勝てそうもないから犠牲の出る前に降伏するべきだ」と言った。その結果、黄蓋と周ゆは激しく言い争う。

周ゆはついに、「最高司令官である私の命令がきけないのか、一戦も交えぬうちに降伏とは部下に示しがつかない、斬れ」と処分を発表する。その場にいた者たちは、あまりの激しい口論に、誰も何も言えなかったが、さすがに長年の功労者である黄蓋の処刑だけは阻止せねばと思い、周ゆに思いとどまるよう説得する。周ゆも「そんなに言うのなら、杖で百打ちの刑で許してやる」となった。とはいっても、高齢である黄蓋に対してはかなり厳しい刑である。へたをしたら、死んでしまうかもしれない。

だが、黄蓋はこの刑に耐えた。まさに、苦肉である。
それを見ていた曹操のスパイは、さっそく、このことを知らせる密書を出した。

黄蓋は信頼できる側近を密かに曹操のもとに送り、「周ゆによって大勢の前で恥をかかされた、もう孫権軍にいるつもりはない、投降したい」と伝えたのである。
最初は疑った曹操だが、黄蓋が酷い目にあったことがスパイから伝えられると、黄蓋の投降を信用してしまった。

黄蓋の、自らの肉体をかけての一世一代の大芝居が、赤壁の戦いでの勝利をもたらしたのであった。


空城の計
人間心理をついた、大胆な計略とは?

これは「孫子」の兵法のなかのひとつでもある。
ある意味では一か八かの博打みたいな計略で、人間心理の裏を突いたものだ。

魏への北伐に出たものの敗退した蜀軍の一部は、蓄えていた食糧を移動させるために、西城という城に立ち寄っていた。その数、わずか二千人。そこに、司馬いが率いる魏の大軍が押し寄せてくるという知らせが届く。このままでは全滅だ。だが、孔明は動じることなく、ある命令を下す。

魏の軍勢は、ついに西城の手前までやってきた。さあ攻め込むぞ、と思ったが、意外なことに、城の門が開いたままだ。かがり火が燃え、門前には水がまかれている。

まるで、「ようこそ、お越しくださいました」と出迎えているかのようだ。そして、どこからともなく、琴の音色が聞こえてくる。見ると、高楼の上で諸葛孔明自らが弾いているのだった。

司馬いは、「これは民に違いない。攻め込んだところを伏兵が待ち構えているのだろう」と思い込んでしまい、兵を撤退させた。こうして、襲撃されずにすんだ、というエピソードである。

どんなに厳重に鍵をかけても、空き巣に入られるときは入られる。その逆に、ドアを開け放しておけば、なかに人がいると思って入られないかもしれない。それと同じ原理である。

この場合は、まさに一か八かだが、孔明にはこの計略がうまくいくとの計算が成り立っていた。というのも、相手が司馬いという策士だったからだ。

相手が単純な武将だったら、罠があるかもしれないと考えることもせずに突入したかもしれない。けれど、自分自身が策士でもある司馬いは、孔明ともあろうものが罠を仕掛けていないはずがない、と思い込んだ。孔明はそこまで計算していたのである。
知恵者と知恵者の戦いならではの計略であった。


虚誘掩殺の計
敵を誘い込んで倒す戦術の成功率は?

相手の裏をかく。これは戦いにおける基本中の基本といえる。だが、なかなか難しいのも事実。裏をかいたつもりが、さらにその裏をかかれる場合もある。童卓側の武将の甥である張繍は、後に降伏して曹操の有力な武将のひとりとなるのだが、ある時期までは敵対していた。その張繍には、夏認という参謀がいた。

これは曹操と張繍が戦ったときの、かくの計略だ。
曹操軍が押し寄せてきたので、張繍は南陽城に立て籠る策をとった。
曹操は、城を検分し、東南の角の城壁が脆くなっており、防備も手薄であることを見抜いた。侵入するには、そこからがいい。だが、相手も自分の弱点は知っているだろうから警戒しているかもしれない。そこで、曹操は、西門の角に薪を積むなどして、西から攻めるふりをした。

かくは、曹操の計略を見破った。そこでとったのが、この虚誘掩殺の計。わざとその西門の警護を固めるよう指示した。その一方で、東南には、伏兵を忍ばせていたのである。

曹操は、張繍軍が西の防衛を強化したのを知ると、作戦が当たったと思い込んだ。
すっかり相手の裏をかいたつもりになり、予定どおり、東南の城壁に向かった。

だが、そこには多くの伏兵が待ち構えていたので、曹操軍は撃退されてしまうのであった。
弱点を見せて敵を誘い込み、陣中に入ったところで、おおうようにして殺してしまう。これが、虚誘掩殺の計。相手が、曹操のような自信家の場合、とくに成功しやすいかもしれない。


錦嚢の妙計
味方を怒らせてどこまで敵をだませるか

「三国志」の時代、携帯電話はもちろん、普通の電話も無線もなく、伝令の手段としては、人が馬に乗って走るしかない。

こんな時代に離れた地にいる味方を遠隔操作して戦わせるのは不可能に近いのだが、それを可能にするのが、孔明の智謀であった。

この計は「空城の計」のバリエーションなのだが、赤壁の戦いの後のエピソードである。
諸葛孔明は襄陽を守っていたが、その兵は一千に満たない。そこに、曹操が30万の軍勢を率いて、近くの焚城に攻めてきたとの報が入る。劉備軍の主だった将軍たちは遠方にいて、近くにいるのは、結婚したばかりの張飛のみ。

孔明は、張飛に百騎を率いて焚城を守りに行ってくれと命じ、「ここに計略が記してあるから着いたら開けて見るように」と言って、錦の袋を渡した。

焚城に着いた張飛は、少ない兵で大軍と戦うにはこれしかないと、空城の計を用いることにし、門を開け放って曹操軍を迎える。いざとなったら、孔明の授けた策に従えばいいと軽く思っていた。

しかし、曹操はこれが空城の計だと見抜き、「だまされないぞ」と進撃を命じた。
敵が迫ってくるのを知った張飛は、慌てて錦の袋を開き、なかの紙を取り出すが、何と白紙だった。それを見た張飛は、「孔明に騙された」と大声を出した。

「わざと俺に空の城を守らせたんだな」と孔明を罵る張飛。そのあまりのすさまじさに、外で聞いていた曹操は、これ自体が罠だと勘違いする。そして、攻撃を中止して、退却していった。

退却する曹操軍を見て、張飛とその妻は、ようやくすべてが孔明の計略であったと悟り、喜んだ。
短気で単純な張飛、疑い深い曹操、この2人の性格を熟知したうえでの計略だったわけだが、はたして実際のところ、そんなにうまくいくかどうか。


駆虎呑狼の計
陣地を留守にさせることは可能なのか?

二虎競食の計があっさり失敗したので、次に荀或が提案したのが、「駆虎呑狼の計」。
虎の前に豹が現れれば、虎は穴を出て豹を追いかける。留守になった虎の穴を狼が狙う。これを駆虎呑狼という。虎は劉備、狼は呂布である。豹に選ばれたのが、南陽の袁術だった。

まず、劉備には帝からの勅使を出し、「近頃、袁術が朝廷の命令に従わないので、これを討て」と正式な命令を出す。劉備の弱点のひとつが、皇帝の命令に逆らえない点だった。たとえ、現在の皇帝が曹操の傀儡に過ぎないと分かっていても、後漢王朝の末裔の一人として、皇帝の命令とあらば動かざるをえない。
事実、劉備は悩んだ末、勅命である以上、南陽に向けて兵を出すことにした。留守を守ることになったのは、張飛。

一方、曹操は袁術に使者を出し、「劉備が南陽を討ち取りたいと帝に願い出た」と伝える。これで袁術は、劉備を迎え撃つ体制をとり、両者、激突となった。
一方、留守を守っていた張飛は酒に酔ってしまい、その隙に、荀域の狙いどおり、呂布は裏切って徐州を乗っ取ってしまったのである。この作戦は見事、成功した。


十面埋伏の計
かなり高度な戦術だが、本当に可能なのか

曹操が袁紹との倉亭の戦いで使った待ち伏せ戦術。
これは成功したから計略として語られるわけだが、ひとつ間違えば大敗北につながるものだった。

何事においても、頂点に達すれば、あとは下ってしまう。戦力も同じで、圧倒的に強いと思われる軍団も、頂点を過ぎれば、脆い。油断もあれば、疲労もあるからだ。
問題は、どこが頂点なのか、自分たちにも、そして敵にも分からないことだ。

そこで、相手をわざと頂点にもっていくようにさせ、それを超えたところで一気に叩く、という戦法がこれだ。
曹操は、わざと後退をはじめ、黄河を背にして陣を敷いた。まさに、背水の陣である。もう後方には逃げられない。

そこで、「ここで叩き潰してやろう」と哀紹軍は総攻撃を仕掛けた。この時点で、その戦力は頂点に達したのである。ところが、あまりの大軍が一気に攻めたため、指揮系列が乱れてしまう。そこに、十箇所に潜ませていた曹操軍の伏兵が襲いかかり、さらに混乱する。
こうして、大軍の袁紹軍は脆くなり、負けてしまったのだ。


二虎競食の計
どこまでビジネスに応用できる?

劉備のもとに呂布が逃げ込んだという知らせは、曹操を驚愕させた。この2人が組むと、かなり強そうだ。どうにかしなければならない。プロ野球のペナントレースにたとえれば、首位にいる巨人としては、阪神と中日が激しい二位争いをして星のつぶしあいをしている、というような状況が望ましいわけだが、実際の社会では、そう都合よく、二位と三位が争ってくれるとは限らない。
そのときに曹操の参謀、荀いくが提案したのが、この「二虎競食の計」だ。

空腹の二匹の虎がいる。そこにエサとなるものを投げ込めば、二匹は争ってそれを奪い合う。どちらかが死ぬまでその戦いは続き、勝ったほうもまた傷だらけである。

満身創痍となった虎を討つのは簡単だ。こうすれば、二匹の虎の皮を得ることができる。これが、二虎競食の計である。

これを、劉備と呂布に応用しろ、というのである。この2人を争わせ、どちらかが相手を倒して勝てば、曹操にとっての敵は1人になる。しかも、その残った1人もかなり弱体化しているだろう。どっちが勝っても、曹操にとって都合がいい。

だが、2人とも反曹操という点で一致している。どうすれば戦うか。
当時の劉備は徐州を支配していたが、それはあくまで実質的なもので、皇帝から正式に牧に任命されていたわけではなかった。そこで、曹操は皇帝の名のもとで、劉備を徐州の牧に正式に任命し、その一方で、密書を送り、呂布を討伐するようにという命令も出した。

劉備は、これを曹操の罠だと見抜き、呂布と協議し、戦うことはしなかった。
この計略は、あっさり見破られてしまったのである。皇帝の命令といっても、実際には曹操が出していることが劉備にバレていたのが、最大の理由。それに、この場合、エサが劉備にしか与えられていない。呂布にも、劉備を倒せば牧にするというような誘いを出せば、単純な呂布は騙されたかもしれない。


美人の計
ありふれているが、効果はあるか?

男を篭絡させるには、女を使うのがいちばん。あまりにも単純な計略である。計略といえるのかどうかと思うほど、誰にでも思いつく手だ。現在でも、企業が得意先を接待するときに、きれいな女性のいる店に連れていくのは、この延長にある。

これにひっかかりそうになったのが、何と劉備である。そこらの会社のサラリーマンならともかく、皇帝がひっかかってしまっていいのだろうか。

孫権との同盟関係を結んだ劉備は、さらにそれを強化するため、孫権の妹と結婚することになった。劉備はそのとき50歳をこえ、孫権の妹はまだ17歳。まさに父子ほども年が離れていた。

結婚式は孫権の呉でおこないたいというので、劉備は趙雲とわずかの兵とともに呉に向かい、初対面の孫権と親交を深めることになった。孫権の参謀の周ゆは、劉備を帰国させまいとして、毎晩のように美人をはべらせての宴会を開き、さらには劉備に贅沢三昧の暮らしをさせる。

貧乏に育ち、成入してからも戦いに明け暮れていた劉備は、贅沢と女たちがすっかり気に入ってしまい、なかなか帰ろうとしない。美人の計に、まんまとひっかかってしまったのだ。趙雲は、これを苦々しく思って見ていた。

孔明は、こうなることを予測していた。
出発する際、趙雲に「困ったときはこの袋の中にある文書を読め、秘策が書いてある」と言って、錦の袋を渡していたのだ。趙雲は「いまこそ、これを開くときだ」と思い、開けてみた。すると、「劉備が帰ろうとしない場合は、曹操が攻めてきたと伝えるように」とあった。

趙雲がその通りにすると、劉備は帰国を決意したのである。
一国の主も女と贅沢には弱いという、あまりにも単純な例である。


氷城の計
本当に一夜で城ができたのか

豊臣秀吉の若い頃の成功談のひとつに、墨俣の一夜城の話がある。信長も驚くほどの短期間に城を建てた話である。秀吉の人脈の豊富さや人の動かし方のうまさを象徴するエピソードだが、もちろん、実際には一晩で城ができたわけではない。こういう話はどこの国も好きなようで、「三国志」にも一夜で城ができた話がある。

曹操が、馬超と韓遂の連合軍と戦ったときのエピソードだ。曹操軍は、渭水という大河の川岸に陣を敷いた。馬超軍は、毎晩のようにそこに夜襲を仕掛けていた。対抗するために、曹操軍は土塁を積んで壁をつくったり、堀を掘るのだが、できかけたところを襲われたり、洪水にあったりして、なかなか強固な壁ができない。川岸の土なので小石まじりで、壁にするには脆いことも影響した。

困っていた曹操のもとに、ひとりの隠居老人、夢梅が現れて策を授ける。季節は冬だった。夢梅は、築いた土塁に水を打て、と教えたのである。突貫工事で土塁が積み上げられると、曹操は水をかけるように命じた。すると、朝になると、すべて凍っていた。脆いはずの土塁は氷で固められ、強固な城砦となったのである。


離間の計
相手の陣中に疑心暗鬼を起こさせる方法とは?

曹操があやうく負けそうになった戦いで、敵側を分裂させることで、勝利を掴んだことがある。赤壁の戦いで負け、形勢を立て直すための一環として、漢中の張魯を討伐する遠征の途中、曹操は、馬超と韓遂の連合軍と衝突したのだ。

この時代、敵と味方の組み合わせは、ころころと変わっている。今は仲がよくても、数年前までは戦っていた場合もあるし、その逆もある。馬超と韓遂の間にも過去にいろいろとあった。もともと、馬超の父が韓遂と義兄弟の間柄だったのが、敵になってしまい、馬超の母は韓遂に殺されていた。この2人が同盟を組んだのは、曹操という共通の巨大な敵が出現したからであつた。ところが、曹操と韓遂とは、昔からの知り合いでもあった。

曹操の参謀、かくは、こうした過去のいきさつを熟知した上で、「離間の計」を考え出した。馬超に、韓遂が密かに曹操と通じていると思い込ませようというものだ。

苦戦を強いられていた曹操軍は、馬超・韓遂連合軍から和議が提案されていたのを逆手にとり、韓遂との一対一の話し合いを求める。2人は互いの陣営から馬を進めて2人だけで話すことになった。ところが、曹操は昔話をするだけで、和議にはいっさいふれなかった。

韓遂が曹操と2人だけで話していたと部下から聞いた馬超は、「何を話したのか」と問いただす。韓遂としては、「たいした話は出なかった。昔話をしただけだ」と答えるしかない。実際にそうだからだ。だが、その答えに馬超はかえって疑いをもつ。「きっと、俺には言えない話をしていたに違いない」と。

それからしばらくして、曹操から韓遂に書状が届いた。韓遂のもとに曹操から手紙が届いたことは、当然、馬超の耳にも入る。韓遂は、もともと隠すつもりもないので、それを馬超に見せた。ところが、それには書き直したあとがたくさんある。「さては、自分に知られては都合の悪い部分を消して書き直したに違いない」と馬超は思い込んだ。実は、曹操は、その手紙を馬超も見ると想定し、わざとあちこち間違えて、それを消して書き直した手紙を出したのだった。

こうして、馬超は韓遂のことが完全に信じられなくなり、口論から、韓遂の片腕を斬り落としてしまう。曹操は、2人が仲違いしたと察知すると、総攻撃をかけ、敵の混乱に乗じて、勝利したのである。
この計略、反間の計ともいう。 

連環の計①
悲劇のヒロイン紹蝉はその後、どうなった

「連環」とはその字のとおり、輪をつなぐ意味である。さて、どういう計略なのか。
董卓が権力をほしいままにし、これをどうにか倒したいと思っていた王允が考え出したのが、この計略だ。

董卓を倒すには、その義理の息子で豪傑の呂布をまず倒さなければならない。いつもそばにいるからだ。
だが、呂布に敵うような豪傑はいない。そこで、発想を変えて、二人の仲を引き裂くことにした。

父子とはいうものの、義理の関係である。さらに、呂布はその前にも義理の父を裏切っている。
そこで、王允が考えたのが、女を使うことだった。
このあたりまでは実際にあった話らしい。結果的に呂布は董卓を裏切って殺してしまうわけで、その理由として一人の女性を争ったからだと伝えられている。

その話をもとに大胆にフィクション化され、ちょう蝉というヒロインが創作された。以下はフィクションとしてのお話だ。
王允のもとには歌舞団の美しい娘、ちょう蝉が養われていた。主の王允の悩みを知ったちょう蝉は自らが犠牲になることを決意し、その旨を伝える。王允は深く感謝し、策略を練る。

まず、呂布とちょう蝉を引き合わせた。あまりの美しさに、呂布は一目惚れする。ちょう蝉は呂布を好きになったふりをする。王允の計らいで、ちょう蝉は呂布の側室になることが決まる。

しかし、呂布はちょう蝉が屋敷にくるのを何日も待っているのだが、なかなかこない。
王允を問いただすと、何と董卓が無理矢理に連れて行き側室にしてしまったという。

それを聞いた呂布は、激怒して董卓の屋敷に行き、ちょう蝉と会う。すると、彼女は泣いて、「本当はあなたが好きなのに、無理矢理に連れてこられたのです」という。

呂布は前後の見境がなくなってしまい、そこに、王允がクーデターを誘いかけると、董卓憎しの思いにこりかたまっていたので、あっさりと承諾。
かくして、呂布は董卓を暗殺、王允のクーデターは成功した。

だが、その王允の天下も、ごく短期間で終わる。王允は殺され、呂布はかろうじて都を脱出。その後の運命が二転三転するのは、ご存じのとおり。
では、ちょう蝉はどうなったか。

「演義」では、その後、犯蝉は死ぬまで呂布のもとで暮らしたことになっているが、吉川英治の「三国志」では、董卓の死を見届けると自殺してしまう。このほうがより悲劇性は高い。


連環の計②
簡単な罠に引っ掛かった曹操の不覚とは?

「三国志」には、連環の計が2つ登場する。ひとつは呂布がひっかかり董卓を殺してしまったときのものだが、もうひとつが、赤壁の戦いで曹操の大敗北につながったものだ。

河北の平原での戦いに慣れていた曹操軍は、水軍を編成したものの、兵たちが船酔いをしてしまい、体力が衰えていた。そこに南方特有の伝染病もはやりだし、兵の健康問題の解決が急務となっていた。

そんなとき、曹操の前にその智謀が知られていたほう統が現れる。彼は実は敵の孫権側についていたのだが、そんなそぶりは見せず、悩む曹操に兵の船酔いを解決するための策を授けた。これが、連環の計である。

船というものは、大きくなればなるほど、揺れは少ない。一般ごとの小舟だと揺れが激しく、船酔いするわけだから、小さな船を大きな船に鎖でつないでいき、ひとつの巨大な船にしてしまえば、揺れが小さくなるというのだ。この計を曹操はさっそく採用し、船と船をつなぐよう指示した。こうして、水上の大要塞は、より確固としたものになったのである。

ところが、これこそが、後の火攻めのための伏線だった。火攻めをより効果的にするためには、船が密集していなければならない。すぐにバラバラに離れてしまえば、延焼して大火にならないからである。

そんな計画があるとはつゆ知らず、曹操は船を鎖でつなぐ「連環の計」に満足していた。
それがより大きな謀略だったと知るのは、火が放たれ、鎖でつながれているため逃げることができず、水軍が全滅してしまったときだった。


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