曹操・劉備・孫権の三国対立時代から晋の統一へ

知闘―荊州争奪戦1
赤壁の敗戦に曹操は北方に帰還、余勢を駆った孫権・劉備連合軍は荊州攻略に着手した。しかし、周瑜は劉備に荊州奪取の野心有りと見て、自らが攻略を行うことを宣言、万が一敗北のときには攻撃権を譲ると約した。荊州の守将曹仁の奮戦に周瑜は負傷するが、それをも逆手にとり、苦戦の末ようやく勝利を収める。しかし、そのときすでに荊州全土が孔明の計略により乗っ取られていたと知るや、怒髪天を衝き、傷が破れて人事不省に陥った。
目覚めた周瑜は魯粛を詰問に派遣するが、劉表の長子劉埼の登場に大義名分が立たず、劉埼の死後の荊州返還を約して引き下がった。

荊州に足場を得た劉備は賢者の誉れ高い馬良兄弟を招き、その献策に従い荊州南方の四郡征伐に着手した。関羽・張飛・趙雲らの活躍で四郡は難なく平定され、黄忠・魏延らの武将を得た。

謀略戦のはてー荊州争奪戦2
孔明は、周瑜の策略を疑って渋る劉備を、趙雲と三つの錦の袋の計をつけて送り出した。呉に到着するや第一の計に従い縁談を吹聴、孫権は大いに乗り気の義母呉国太の手前手を下せず甘露寺での会見をセッティング、婚儀が決定した。事の意外に、周瑜は貧困の出身の劉備に寳沢な環境を提供して、骨抜きにするアイデアを出した。これも孔明の錦の袋にはかなわず、劉備は孫夫人を伴って呉から脱出、追撃の諸将も手が出せず、無事荊はや
州帰還を果たした。追いすがる周埼も劉備軍の兵卒に囃されて昏倒する惨めなありさま。
周瑜はいよいよ執念のかたまりとなり、蜀征伐を偽って荊州を奪う計を実行に移す。しかし、孔明はすべてを見通して伏兵を配置、とどめの書状を送って周瑜を悲憤のうちに死に追いやった。ライバルの死に孔明はほくそ笑み、呉との和平を保つため、自ら葬儀に赴いた。



錦馬超―撞関の戦い
周瑜死去の報に曹操は孫権征伐を計画したが、関中に重兵を控える馬騰が邪魔になった。そこで筍攸の計に従って都に誘い出すと、子の馬鉄・馬休ともども親子三人を亡き者にし、後顧の憂いを断ち切った。三日後、敵の背後に回り込むべく魏軍は渭水渡河作戦を開始した。曹操は馬超の雲撃を受け危機に陥るが、許楮に救われて北岸への渡河を果たす。度重なる攻撃に陣屋を構えることができずに悩むところ、終南山の隠者婁子伯と称する者が現れ、寒気を用いて氷の城を作ることを献策、成功する。驚き攻め寄せた馬超は、許楮と熾烈な一騎討ちを展開、両軍の将兵を感嘆させた。
戦いの長期化と冬の訪れにより、馬超軍には和平を模索する動きが見え始める。この機を待っていた曹操が、和平の協議に来た韓遂と長い立ち話をし、さらに墨塗りだらけの書状を送ったため馬超は疑心暗鬼にかられ、ついに韓遂を襄撃した。そこを曹操に攻撃されて惨儂たる敗北を喫し、馬超は馬岱・朧徳とともに落ちのびて行った。
橦関から西の関中地方には、多くの武装勢力が割拠しており、曹操に従っているものの心服してはいなかった。そのため、鍾縣・夏侯淵らが張魯征伐の準備を始めると疑心暗鬼になり、馬超・韓遂らを中心に叛乱を起こした、というのが馬超の乱の真相である。
馬騰は当時許昌に出仕していたのを、叛乱のために一族皆殺しにされたのであり、馬超の実像はとんでもない親不孝者なのである。



鳳雛散るー劉備の入蜀
中国西南部に広がる広大な四川盆地、四方を険阻な山々に囲まれた天然の要害でもあるこの地は蜀とも呼ばれ、肥沃な大地と穏やかな気候に恵まれていた。天府を称されたこの地を、劉備は天下統一の根拠とすべく、ひそかに平定する機会を窺っていた。
蜀を治める劉璋は曹操の威勢を恐れ張松を使者に派遣した。張松は頭は切れるがチビで不細工な顔が災いし、曹操に全然相手にされなかった。憤懲やる方なく蜀への帰り道荊州に立ち寄ると、劉備は下にもおかぬもてなしぶり。これぞ主君たるべき人、と感じた張松は蜀の地図を献上、劉備の蜀乗っ取りへの協力を誓った。
蜀に到着した劉備と劉璋との会見がふ城にて行われた。ただちに蜀を奪い取るべく、廃統は座興の剣舞に見せかけて暗殺するよう魏延に命令、しかし、それと気づいた蜀将張任らも剣舞で対抗、事情を察した劉備が一喝して双方を引き取らせ、会見はなんとか無事に終わった。劉備は葭萌関に駐屯、蜀の人心を収攪することに腐心した。
およそ一年が過ぎ、機が熟したと見た劉備は蜀攻略を開始した。培水関を計略で奪い足掛かりとすると、黄忠・魏延の奮戦で救援の蜀軍を撃破した。勢いに乗じ、二手に分かじれて雛城へ向かう劉備と瀧統。しかし、主従に再会はなかった。小道を進んだほう統は張任の伏兵に遇って、全身に矢を浴び、落鳳波に非業の最期を遂げたのだ。



単刀会ー蜀呉の対立
劉備が一向に荊州の返還に応ずる気配を見せないことに業を煮やした孫権は、蜀征伐のすきをついて孫夫人を迎え取り、蜀・呉の誼は絶たれた。その後、劉備が益州を占領したにもかかわらず、約束の荊州返還を反故にするにおよび、周瑜の死後その任を受け継いだ親劉備派の魯粛もさすがに苛立ちを禁じ得ず、宴会を称して関羽を招きよせ暗殺する計画を立案した。関羽は馬良ら幕僚が引き留めるのに耳も貸さず、青龍堰月刀片手にわずかな近習だけを伴って、呉軍の前線基地陸口に乗り込んでいった。魯粛はその威風にはや気後れしたが、それでも理路整然と蜀の非礼を非難した。しかし、関羽は泰然自若、荊州返還を突っぱねると、酔いを装って魯粛の腕をとり、伏兵の呂蒙・甘寧に手出しのいとまを与えず、船に乗ってこぎ去った。


しょう遙津の戦いー魏呉の対立
これまでも、赤壁の戦い直後、建安十三年から十四年(208~9)の孫権の合ぴ攻撃、建安十七年から十八年の曹操の濡須進攻と、合ぴ・濡須付近は何度も魏・呉両勢力抗争の舞台となり、当時最も緊迫した火薬庫となっていた。
孫権は長江を渡るとまず皖城を攻め落として気勢を上げ、合ぴへと向かった。合ぴを守るのは張遼・李典・楽進の三将、圧倒的敵軍を前に張遼が一人でも迎撃に出るという決死の覚悟を見せると、それに感じた二人も出陣に同意する。孫権は数を頼んで合ぴに押し寄せるが、道遙津で伏兵にあって軍は大混乱、自らも生命の危機にさらされる無惨な敗北を被り、濡須に撤退した。


曹操、斜谷に撤退すー蜀漢帝国の成立
曹操来るの報を受け、孔明は黄忠と趙雲を魏軍の兵站攻撃に派遣した。先発した黄忠が敵に囲まれると趙雲は救援に赴き数度敵陣を突破、蜀軍の将兵を救い出し陣地に戻った。
しかし、背後には追っ手の大軍が迫る。趙雲は陣地の門を開け放たせると単騎陣前に立ちはだかり、敵を待った。時は夕暮れ、趙雲の威風を恐れた魏の軍勢は攻撃を檮跨した。このとき、陣地の中に息をひそめていた蜀軍が弓弩の一斉射撃を加え討って出ると、蜀軍の勢をはかりかねた魏軍は先を争って敗走、漢水の北岸に退いた。



水滝七軍ー関羽、威を華夏に震わす
漢中王に即位した劉備は、魏・呉の荊州侵略計画の先手を打って、関羽に奨城攻略を命じた。関羽はただちに出陣準備に取り掛かったが、その夜、先鋒の魔芳・傅士仁の陣内で失火、激怒して二人の職を解き留守役を命じた。
関羽は新たに塵化・関平を先鋒に任じると、襄陽めがけて殺到した。関羽襲来の報に魏軍は迎撃に出るが、将軍夏侯存が関羽の一太刀に落命すると、襄陽を放棄して奨城に立て籠もる。魏王曹操は干禁・朧徳に七軍二軍は1万2500人を与えて奨城救援に派遣した。枢を打ち立てて決死の覚悟で望むほう徳は関羽に挑戦、一矢を見舞い優勢に戦いを進めるが、関羽の威風に恐れをなし、かつほう徳が手柄を立てるのを快く思わぬ主将干禁は撤退を命令、総攻撃を願う瀧徳を退けて山あいに陣地を移した。
10日余りして傷が完治すると、関羽は水攻めを命じた。長雨に増水した襄江の水を注ぎかけると、山あいに布陣した魏の七軍はなす術もなく水に呑まれて壊滅、子禁は降伏しほう徳は捕えられた。関羽は勢いに乗じて奨城に攻め掛かるが、敵の毒矢を肘にこうむる。しかし、幸運にも、突然現れた名医華佗の治療によって快癒した。



好雄一旦に体すー曹操の死
曹操は関羽の首実検をしてから、夜ごと目を閉ざすと関羽の姿を見るようになった。古い宮殿の厄を払おうと新たに建始殿の建築を命じたが、そのことでさらなる災厄を背負い込むことになる。
崇りに取り付かれてから、曹操の持病の頭痛はますます悪化した。あまりの痛みに耐え兼ねて華佗を召し出したが、脳外科手術で治療しようとの申し出に暗殺を疑い投獄、獄死に追い込んだ。かくて病は日に日につのり、伏皇后・董貴妃・伏完・董承らの亡霊にも悩まされるようになり、明日をも知れぬ命となった。曹操は、曹洪・陳ぐん・かく・司馬仲達らを枕元に呼ぶと、曹丕を後継者に指名、死後の始末を細かに言い付けて、永遠の旅路についた。享年六十六歳、建安二十五年(220)正月であった。曹丕は曹操の遺言に従って魏王の位に就くと、自らと王位継承を争った兄弟たちの始末に取り掛かった。まず、曹熊を自殺に追い込み、最大のライバルであった曹植を殺さんと召し出した。しかし、曹丕は曹植の詩を試してその才を惜しみ、また悲痛な詩句に心打たれて殺害の念を捨て、爵位を削って安郷侯に封じた。



復譽の劉備―い陵の戦い
曹丕が漢朝をさん奪した。献帝が曹丕に試せられた。曹丕即位のニュースが荊州失陥に動揺する成都を駆け抜けた。丞相諸葛孔明は百官と協議の上、憂悶する漢中王劉備に帝位に登り漢の正統を継ぐべきことを奏上した。初めは難色を示した劉備もついには折れ、ここに蜀漢帝国が誕生した。
皇帝となった劉備は、関羽の仇を討って荊州を奪還すべく、蜀の全兵力を傾けた呉討伐を決意、趙雲・秦底らの諫めを振り切り、出撃の詔勅を下した。そこに、張飛暗殺の悲報が届いた。弔い合戦用の白旗白衣の急な調達を命じられた部将萢彊・張達に寝首を掻かれたのだ。二人が張飛の首を携えて呉に亡命したことで、劉備の怒りはさらに燃え上がり、70万の大軍を率いて成都を出立した。蜀軍はさらに長江を下っておう亭に進出、韓当・周泰・凌統・甘寧ら十万の呉軍本隊と決戦に臨んだ。緒戦で若者の活躍に刺激された老将黄忠は、単騎敵陣深く討ち入って矢傷を被り陣没したが、怒りに燃える劉備が自ら出馬すると呉軍は大敗、甘寧を失って敗走した。この敗戦に、呉は存亡の危機に直面した。





桃園時代の終焉―火焼連営
和平の道を断たれた孫権は、最後の切り札陸遜を大都督に任じて蜀軍に当たらせた。
陸遜は着任しても一向に動く気配を見せず、歴戦の武将たちは、まだ若い陸遜が臆病風に吹かれたと思い、皆不服の気持を抱いた。
一方、劉備も若輩の陸遜と聞いて勝利を確信した。しかし、呉軍が動かないため対策に困り、暑さを避けて谷あいに陣を移すと同時に、陽動作戦を計画した。敵前を行軍したり、敵を罵倒させたりするが、陸遜ははやる諸将を抑えて出陣を認めなかった。数日して谷あいに伏せていた劉備が出現するに至って、呉軍諸将はようやく陸遜の眼力に心服する。暑さを避けて谷川沿いの林に移した劉備の陣地は、長江の両岸、延々七百里に連なった。陸遜は蜀軍の疲れと油断を待っていた。陣地を移し終わったと知るや大いに喜び、帳下の末将淳子丹に小手調べの夜討ちを命じた。淳子丹は敗れたが、敵情を把握した陸遜は、全軍に火攻めと夜討ちの準備を命じた。章武二年、前日の勝利に油断していた蜀軍は、呉軍の突然の火攻めでパニックに陥った。長大な陣屋は前後の連絡を絶たれ、周辺の木々とともに火の海に転じていく。劉備はわずかな兵士に護られ、船舶・轆重を打ち捨てて陸路白帝城に向かったが、呉軍に囲まれあわやのところを、救援に駆けつけた趙雲に救われた。張南・ふう習・傅とう・沙摩か.程畿らが戦死、杜路・劉寧は呉に、黄権は魏に降り、蜀の全国力を傾けた七十万の大軍は壊滅、屍は長江の流れを塞いだ。




孔明、安居して五路を平らぐー呉蜀国交回復
舞陵の敗戦、そして劉備の死は、建国間もない蜀漢に大きな痛手を与えた。劉備に従ってきた旧臣の多くも相前後して世を去っており、内外の政務はすべて丞相諸葛孔明が一身に担っていた。この好機を宿敵・魏の曹丕が見逃すはずがない。建興元年(223)、司馬仲達の案により、魏が五手の大軍を起こして各地の国境に攻め寄せたとの報が入る。あわてた劉禅は孔明に策を問おうとしたが、孔明は病と称してなぜか朝廷に顔を見せようとしなかった。劉禅はとうとう、自ら丞相府に出向いて孔明と直談判を試みた。しかし、孔明はこの間、丞相府にあってひそかに対策を練り、すでに五手のうち四手までは封じる手段を講じていたのである。ただし、魏や周辺諸民族の攻勢には武力で対応できるものの、呉については慎重な配慮が必要であった。劉備の遣志に従って天下統一を図るためには、対呉外交の修復が急務だが、それにふさわしい人材の選定に苦慮していたのだ。
結局、孔明が白羽の矢を立てたのは、戸部尚書のとう芝であった。とう芝はさっそく説客として呉に赴き、孫権に向かって同盟の利害を説いた。情理を尽くしたとう芝の説得に、孫権も心を動かして国交回復を承知し、答礼使として張温を蜀に派遣する。当初は戦勝国の立場を鼻にかけ、尊大な態度を見せた張温だが、孔明主催の宴席で学士の秦底と論争してやり込められ、蜀漢に対する認識を改めた。
こうして蜀漢と呉は同盟関係を回復し、態勢がふたたび整ったのである。



陳倉攻防戦―第二次北伐成功せず
建興六年(228)、呉の陸遜が石亭で魏軍を大破した。これに呼応して孔明はふたたび魏征伐の途につき、30万の軍を率いて一路陳倉道を目指す。だが、陳倉城の守将かく昭は、蜀軍の猛攻を前に一歩も退かず、20日余りにわたって激しい攻防戦が繰り広げられたが、城を攻め落とすことはできなかった。やがて魏から勇将王双の援軍が駆けつけたため、孔明はやむなく陳倉通過を断念し、迂回して祁山に向かった。
建興七年(229)、呉の孫権が帝位につき、三国鼎立が確定した。蜀漢の群臣には孫権の態度を不遜とし、絶交を唱える者も多かったが、孔明は同盟の重要さを慮り、祝賀の使節を送って誼を固めた。陳倉のかく昭が重病だとの報を受けた孔明は、奇雲によって陳倉を破り、散関・建威を陥して三たび祁山に出た。ついで武都・陰平をも攻略し、快進撃を続けたものの、張苞を事故で失うという悲劇に見舞われる。


孔明と仲達―一進一退する北伐戦
度重なる敗戦に悩んだ曹真は、先手を打って蜀漢を攻め、禍根を断とうと考えて、曹叡に蜀討伐を進言した。かくして建興八年(230)、曹真は仲達とともに40万の大軍を率い、漢中目指して攻め下る。
知らせを受けた孔明は、すぐには兵を動かさず、秋の長雨を利用して敵の疲れを待つ戦法に出た。はたして陳倉に到達した魏軍は、大雨のため山道に踏み込めずに待機する。情況の膠着を見て取った曹叡は、一ヵ月後遠征軍に帰還命令を下すが、この時を待っていた孔明は斜谷・箕谷の二方から祁山に出陣し、退却する魏軍を散々に打ち破った。病の床にあった曹真は、孔明から侮辱的な手紙を受け取り、無念のあまり憤死してしまう。
いよいよ孔明と仲達、両雄の直接対決である。仲達は混元一気の陣を布いて挑んだものの、孔明の八卦の陣に翻弄されて大敗する。だが、反撃のチャンスはまもなく訪れた。蜀軍の兵糧輸送を担当していた筍安が、期限を違えて孔明に罰せられたのを逆恨みし、魏軍に投降してきたのである。仲達は彼を利用して成都に孔明謀叛の噂をばらまかせ、暗愚な劉禅はこれを信じて孔明に召還命令を出した。しかし孔明は、増竈の法を用いて魏軍の目を欺き、無事に撤退を完了する。後になって真相を知った仲達は「彼の智謀は、わしのとうていおよばぬところじゃ」と長嘆した。


孔明最後の挑戦―第六次北伐
成都に戻った孔明は、三年にわたって兵を休めた後、建興十二年(234)、満を持して6度目の北伐に出立する。一方、魏では仲達が四十万の軍を集め、渭水の岸に出て陣を張った。孔明は進路を確保しようと、魏軍の陣地に襲撃をかけるが、この緒戦に大敗し、一万人の兵を失うという痛手を受けた。敵の思いがけい手強さに、孔明は同盟国の呉に背後から魏を攻めさせようと考える。

孫権もこの共同作戦を承知し、合ぴ・襄陽・准陰の三道より同時に出撃した。これに対して魏の曹叡は、自ら一軍を率いて防御に当たる。
魏と呉が合ぴで争っている頃、仲達と対峙していた孔明は、いくつかの小競り合いで勝利を収めていた。この時孔明が発明したのが、木牛流馬と呼ばれる運搬器具である。

これは蜀軍の兵糧運輸に役立ったばかりか、敵の兵糧を奪い取る策略にも活躍した。
孔明は勝負に決着をつけようと、上方谷に仲達を誘い込んで焼き殺す策を立てた。作戦は成功し、仲達の運命もここに窮まったかと思えたが、突如として降り出した大雨に、目的は達せられなかった。
五丈原に進軍した孔明は、幾度も仲達に挑戦し、女の衣装を贈るなどして挑発したが、仲達は守りを固めて出ようとしない。彼は孔明の多忙な日常を聞き、「孔明の命も長くはない」と予測していたのである。仲達の予想は的中した。まもなく、呉の軍勢が敗退したとの報が伝えられると、孔明は心痛のあまり倒れてしまったのである



星落つ秋風五丈原―孔明の最期
病に倒れた孔明は、姜維の勧めで延命のための祈祷を行うが、その一縷の望みも、魏延の粗忽な行動によって断ち切られてしまう。死期を悟った孔明は、姜維に自らの兵法を託し、楊儀・馬岱らに撤退の指示を与えてから、後任に蒋えん・費いを推薦して静かに息を引き取った。時に建興十二年(234)8月23日。その夜、大きな赤い星が天空を横切って流れ、蜀軍の陣地に墜ちた。
「孔明死せり」この時を待っていた仲達は、全軍に追撃を命じたが、蜀軍が押し出した孔明の木像に驚いて逃げ戻る。後になって仲達は真相を知り、「生きている人間なら計略にかけることもできるが、死人が相手ではどうにもならぬ」と嘆息した。
孔明の死が人々に与えた衝撃は大きかった。ことに大黒柱を失った蜀軍の間には、早くも内紛が発生する。撤退を不満とする魏延・馬岱が楊儀らと対立し、互いに相手が謀叛したと訴えて争い出したのである。
魏延は桟道を焼きながら漢中目指して南下するが、楊儀らは間道を急いで先回りした。
漢中城を前にした魏延が、楊儀の挑発に乗って「おれを殺す者がおるか」と三回叫んだところを、背後から馬岱が斬り殺す。これは魏延の叛逆を予測した孔明が、あらかじめ馬岱に授けておいた遣計であった。

孔明の枢が成都に到着すると、劉禅以下蜀漢の人々は改めて悲しみに暮れ、同盟国・呉の官僚たちもその死を悼んで喪に服した。


三国時代の終焉―晋の統一
蜀漢が滅亡に近づいていた頃、魏では司馬氏の専制がますます強まっていた。司馬昭の圧政に耐えかねた少帝曹毫は、魏の甘露五年、側近とともに司馬昭打倒のクーデターを起こすが、司馬昭の部下に殺害されてしまう。帝を試した司馬昭にもはや逆らえる者はなく、位を継いだ元帝曹かんは、まったく彼のかいらんであった。威煕二年(265)、晋王司馬昭が没し、長男の司馬炎が後を継いだ。司馬炎は即位の直後から慕奪の野心を露にし、同年12月、曹丞が漢の禅譲を受けた例にならって曹かんから帝位を譲り受ける。こうして魏王朝は、建国四十五年にして滅亡した。この年、呉では景帝孫休が没し、甥の孫皓が帝位を継いだ。ところが孫皓は即位後たちまち暴虐ぶりを発揮し、宦官の岑昏を寵愛して酒色に惑溺する。さらに蜀の仇を討つと称して、陸遜の子・陸抗に襄陽を窺わせた。これに対して司馬炎は羊こを襄陽に駐屯させ、両者は国境を挟んで対時した。陸抗と羊こはよき好敵手であり、彼らの在任中は国境に平穏が保たれたが、やがて陸抗は孫皓に解任され、羊こもその後まもなくして、呉征討を唱えながら病死した。
司馬炎が呉征討の命令を下したのは、羊この死の翌年、威寧五年(279)である。羊この推挙を受けた杜預が晋軍の総指揮官となり、将軍の王溶とともに呉へ攻め下った。孫皓は岑昏の提案により、長江に鉄鎖を張るなどして防御を固めたが、晋軍はやすやすと敵の防衛線を突破して首都建業に迫る。呉軍の将兵は戦意を失って次々に逃げ去り、孫皓はやむなく劉禅にならって降伏した。時に太康元年(280)。これによって三国はすべて司馬氏の手に帰したのである。