袁紹と曹操は旧友だったが性格が合わず最終的に打倒曹操を目指した

姿貌威容あるも、よく節を折りて士に下り、士、これに多く附く 袁紹
容姿は威厳に満ちていたが、よく礼節を重んじおごらなかったので、多くの士が集まった

堂々たる風貌で人気を集めていたのは袁紹である。すでに述べたように、袁紹の家は地方の豪族で、いわば名門である。「良家の坊ちゃん」として育った彼は、何不自由ない青年時代を送っている。当時、人を判断するには三つのポイントがあった。家柄・人柄・容姿である。袁紹はまさに三拍子揃った人物であった。

彼は容貌はもとより、身のこなしや服装もどことなく優雅であった。もちろん教養もあり、「貴公子」的な雰囲気もあったようだ。それでいて決しておごらず、人にはざっくばらんに接する。そのため、彼に交際を求める人々が、次から次へと押し寄せてきたという。

とかく良家の人間はツンケンしがちだが、人とざっくばらんに付き合うのは袁家の伝統だったらしい。「三国志」にも「袁家の人々は度量が大きく、相手を差別することがなかった。袁家に身を寄せた者は誰でも能力を発揮することができたので、袁家の声望は天下に轟いた(袁紹伝注)」とある。そんな家風の中で育った袁紹も、人前で変に気取ったりすることがなかったのだろう。

人が集まるといえば、曹操も、若い頃には袁紹と付き合いのあった一人である。

二人はいわば不良仲間であり、花嫁泥棒などという愚にもつかない遊びをしては喜んでいたらしい。このときはヘマをした袁紹を曹操が機転をきかせて助けるという一幕もあり、そんなところからも鷹揚で坊ちゃん体質の袁紹と、やんちゃで抜け目ない曹操の人物像がうかがえる。彼らは将来、最大のライバル同士となるわけだが「三つ子の魂百まで」の言葉どおり、二人の性格の違いは基本的に変わらなかった。

家柄が良くて人柄も良い。良いことずくめの袁紹が、のちに大軍閥を形成できたのは当然のことだ。参謀でも武将でも、有能な人材は掃いて捨てるほど集まった。まさに向かうところ敵なしである。反董卓連合の軍勢が集結した時も、当たり前のように盟主に推されたことは、すでに述べた。

しかし脈に落ちないことがひとつある。それだけ権勢を誇った袁紹が、なぜ天下を取れなかったのか、ということだ。
それは、やはり彼が名門の坊ちゃんだったからである。

面倒見が良く、気っぷのいい袁紹も、人には見えない根っこの部分には、拭いきれないところがあった。また何不自由ない暮らしをしてきた袁紹には「がむしゃらに何かをする」という気概が少々足りなかったようである。

もし乱世でなかったら、袁紹のような人物は物わかりのいい名士として安楽な生涯を送れたはずだ。しかし波潤万丈の戦乱の世は、おっとりした貴公子が生き抜くにはいささか過酷だったようである。



時に及びて早くに大業を定めざるは、慮の失なり
せっかく大きなチャンスが訪れたのに、もたもたしているのは意思決定のなさである

献帝を許に迎え入れて力をつけた曹操。その攻略に袁紹が動こうとしたとき、参謀沮授と田豊が、今、力でもって曹操を攻めるのは道理が通りませんと進言する。

しかし、このとき主戦派の参謀らは、「かつて周の武王が、主君であった暴虐な段の村王を伐ったのは義にそむくものではない」と主張し、まして「曹操に兵を向けて、大義名分がないということはない」と強調した。さらに決定的とも言える冒頭の言葉を述べたのである。「もたもたしているのは意思決定のなさである」と部下から言われれば、どんなに暗愚の将でも、決意しないわけにはいかないだろう。沮授には、そんな袁紹の態度に戦う前から敗戦が見えていたに違いない。それでも彼は、袁紹に従って出陣している。辛い立場の管理職ともいえる。こうして袁紹は、曹操攻略のため南下を開始するのである。
それはさておき、この時代にも宣伝合戦は活発だったようだ。

曹操は、袁紹の根拠地である、黄河以北にある「広大な土地」も「豊富な食糧」も袁紹側にあるのではなく、自分たちのほうに供されるべきものであると主張して、樟らなかった。袁紹は袁紹で、曹操攻略を仕掛ける前に、彼の悪口雑言の椴文を陳琳という部下に書かせ、全国に流している。「古今の書物を開いてみても、負欲、残虐、非道の臣で、曹操以上の者は記されていない山犬や狼のような野心があり、謀略をめぐらして国家の背骨を折り曲げ、漢王室を孤立させ、中正な人材を排除して残忍で猛々しい人間になろうとしている」という激しいものである。

袁紹はこうして全国の諸侯に打倒曹操を呼びかけ、参加を要請した。いっぽうの曹操も反袁紹陣営の結束をはかるのだが、こういうときどちらに肩入れするか迷う人間が現れてくるのは今も昔も同じである。荊州の張繍がその一人だ。袁紹は強大であり、曹操は弱小。そのうえ自分と曹操は仇敵であるとの理由で、袁紹側につこうとする。このとき客分であった買訓がこれを制止して、曹操側につくように勧めている。

「袁紹軍はご存じのように強大ですから、われわれのような脆弱な兵力で味方しようとしても、重くは用いてくれません。曹操のほうが弱小ですから、きっと喜びますよ」乱世にあっても、しっかりと自分を高く売り込む術が考えられていたのである。