袁紹と曹操は旧友だったが性格が違いすぎた結果…

1.17諸国の盟主として軍を束ねる
袁紹は中国後漢末期の武将・政治家です。154年生―202年没
名門袁氏の出身であり、若い頃から都で生活し、このときに曹操や張バクと友好を深めています。
また、同世代の同門に袁術もいます。

董卓の専横に対抗すべく結集した連合軍の盟主となります。袁紹は霊帝自身や大将軍何進とともに、代表的な指揮官として就任しています。曹操も指揮官に就任しますが、この時点では袁紹の立場が上でした。
董卓の死後、中原に覇を唱えるべく、幼少からの知己であった曹操と争いました。
名門の出自に相応の実力と勢力を持ちますが、それゆえの過剰な自尊心と打たれ弱さも持っていたのが欠点でした 。

三国志14における武将の能力値
名前 統率 武力 知力 政治 魅力
袁紹 81 69 70 73 92

袁紹は「曹操に「謀は好むが、小心者で決断力に乏しい人物」と評されるなど、優柔不断な人物として知られており、天下を取れるほどの軍備、人材を有していながら天下には手が届かなかった

袁紹が歴史の表舞台に登場したのは、霊帝の死後ほどない頃。大将軍の何進が十常侍によって殺害された際、兵を率いて十常侍を皆殺しにする。その後、洛陽に迫った「董卓」が少帝を廃して献帝を擁立しようとしたため、これに反対して董卓と対立。袁紹は洛陽を離れ、翼州へと落ちていった。

袁紹が洛陽を離れたあと、董卓の横暴ぶりはますます悪化し、ついには曹操によって董卓討伐の偽の詔が発せられる。渤海郡の太守として力を蓄えていた袁紹は、この檄に応じ、兵3万を率いて曹操に合流した。

名門の出であった袁紹は、このとき集まった17諸国の盟主に推薦され、董卓討伐軍の指揮を執ることとなる。討伐軍は「孫堅」らの活躍もあって菫卓を洛陽から追い出すも、洛陽は董卓によって焼き払われ、討伐軍の内部にも亀裂が生じはじはじめていた。そんなおり、孫堅が伝国の玉じを手に入れたことをきっかけに討伐軍は完全に分裂、解散にいたる。

直ちに渤海へは帰らず河内に滞在していた袁紹は、兵糧不足に見舞われていた。そこで袁紹は土地の肥えた糞州を奪おうと考え、策を弄して「公孫さん」に翼州を攻めさせ、公孫さんから糞州を守るという名目で翼州を手に入れることに成功した。だまされた公孫さんとは戦いになるが、決着はつかず、最後は董卓の計らいによって和睦する。


2.官渡の戦いに敗れ病に倒れる……
豊かな翼州を奪った袁紹は、その後、一度は引き分けた公孫さんを撃破。その勢力は河北四州にも及び、絶大な力を持つようになる。

また都では、董卓が「呂布」によって殺害されたあと、曹操が実権を握り権力を拡大していた。袁紹の配下「田豊」は、曹操が力をつける前に攻めるよう進言するも、「子どもが病気だから」という理由でこれを聞き入れず、その間に曹操はさらに大きな力をつけてしまう。

そうして200年、当時の二大勢力ともいえる袁紹と曹操が激突したのだった。数のうえでは圧倒的に有利な袁紹だが、白馬、延津の戦いで猛将顔良、文醜を立て続けに「関羽」に斬られ敗戦。

さらに大軍を率いて都へ迫るも、配下の許ゆうの裏切りによって食糧基地を曹操に奪われ、またもや敗北を喫す。「官渡の戦い」と呼ばれるこの戦で敗れた袁紹は、失意のために病に倒れ命を落としした。

なお、演義によると延津の戦いで文醜を討ったのは関羽と記されているが、「正史」にはこのことが記されていないため、創作だと思われる。


姿貌威容あるも、よく節を折りて士に下り、士、これに多く附く 袁紹
容姿は威厳に満ちていたが、よく礼節を重んじおごらなかったので、多くの士が集まった

堂々たる風貌で人気を集めていたのは袁紹である。すでに述べたように、袁紹の家は地方の豪族で、いわば名門である。「良家の坊ちゃん」として育った彼は、何不自由ない青年時代を送っている。当時、人を判断するには3つのポイントがあった。家柄・人柄・容姿である。袁紹はまさに三拍子揃った人物であった。

彼は容貌はもとより、身のこなしや服装もどことなく優雅であった。もちろん教養もあり、「貴公子」的な雰囲気もあったようだ。それでいて決しておごらず、人にはざっくばらんに接する。そのため、彼に交際を求める人々が、次から次へと押し寄せてきたという。

とかく良家の人間はツンケンしがちだが、人とざっくばらんに付き合うのは袁家の伝統だったらしい。「三国志」にも「袁家の人々は度量が大きく、相手を差別することがなかった。袁家に身を寄せた者は誰でも能力を発揮することができたので、袁家の声望は天下に轟いた(袁紹伝注)」とある。そんな家風の中で育った袁紹も、人前で変に気取ったりすることがなかったのだろう。

人が集まるといえば、曹操も、若い頃には袁紹と付き合いのあった1人である。

2人はいわば不良仲間であり、花嫁泥棒などという愚にもつかない遊びをしては喜んでいたらしい。このときはヘマをした袁紹を曹操が機転をきかせて助けるという一幕もあり、そんなところからも鷹揚で坊ちゃん体質の袁紹と、やんちゃで抜け目ない曹操の人物像がうかがえる。彼らは将来、最大のライバル同士となるわけだが「三つ子の魂百まで」の言葉どおり、2人の性格の違いは基本的に変わらなかった。

家柄が良くて人柄も良い。良いことずくめの袁紹が、のちに大軍閥を形成できたのは当然のことだ。参謀でも武将でも、有能な人材は掃いて捨てるほど集まった。まさに向かうところ敵なしである。反董卓連合の軍勢が集結した時も、当たり前のように盟主に推されたことは、すでに述べた。

しかし脈に落ちないことがひとつある。それだけ権勢を誇った袁紹が、なぜ天下を取れなかったのか、ということだ。
それは、やはり彼が名門の坊ちゃんだったからである。

面倒見が良く、気っぷのいい袁紹も、人には見えない根っこの部分には、拭いきれないところがあった。また何不自由ない暮らしをしてきた袁紹には「がむしゃらに何かをする」という気概が少々足りなかったようである。

もし乱世でなかったら、袁紹のような人物は物わかりのいい名士として安楽な生涯を送れたはずだ。しかし波潤万丈の戦乱の世は、おっとりした貴公子が生き抜くにはいささか過酷だったようである。



時に及びて早くに大業を定めざるは、慮の失なり
せっかく大きなチャンスが訪れたのに、もたもたしているのは意思決定のなさである

献帝を許に迎え入れて力をつけた曹操。その攻略に袁紹が動こうとしたとき、参謀沮授と田豊が、今、力でもって曹操を攻めるのは道理が通りませんと進言する。

しかし、このとき主戦派の参謀らは、「かつて周の武王が、主君であった暴虐な段の村王を伐ったのは義にそむくものではない」と主張し、まして「曹操に兵を向けて、大義名分がないということはない」と強調した。さらに決定的とも言える冒頭の言葉を述べたのである。

「もたもたしているのは意思決定のなさである」と部下から言われれば、どんなに暗愚の将でも、決意しないわけにはいかないだろう。沮授には、そんな袁紹の態度に戦う前から敗戦が見えていたに違いない。それでも彼は、袁紹に従って出陣している。辛い立場の管理職ともいえる。こうして袁紹は、曹操攻略のため南下を開始するのである。

それはさておき、この時代にも宣伝合戦は活発だったようだ。

曹操は、袁紹の根拠地である、黄河以北にある「広大な土地」も「豊富な食糧」も袁紹側にあるのではなく、自分たちのほうに供されるべきものであると主張して、樟らなかった。袁紹は袁紹で、曹操攻略を仕掛ける前に、彼の悪口雑言の椴文を陳琳という部下に書かせ、全国に流している。

「古今の書物を開いてみても、負欲、残虐、非道の臣で、曹操以上の者は記されていない山犬や狼のような野心があり、謀略をめぐらして国家の背骨を折り曲げ、漢王室を孤立させ、中正な人材を排除して残忍で猛々しい人間になろうとしている」という激しいものである。

袁紹はこうして全国の諸侯に打倒曹操を呼びかけ、参加を要請した。いっぽうの曹操も反袁紹陣営の結束をはかるのだが、こういうときどちらに肩入れするか迷う人間が現れてくるのは今も昔も同じである。荊州の張繍がその1人だ。袁紹は強大であり、曹操は弱小。そのうえ自分と曹操は仇敵であるとの理由で、袁紹側につこうとする。このとき客分であった買訓がこれを制止して、曹操側につくように勧めている。

「袁紹軍はご存じのように強大ですから、われわれのような脆弱な兵力で味方しようとしても、重くは用いてくれません。曹操のほうが弱小ですから、きっと喜びますよ」乱世にあっても、しっかりと自分を高く売り込む術が考えられていたのである。


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