1.呂布は三国志で一番の武力を持っていて裏切り人生とその理由に迫る

中国、後漢末の武将。奉先(ほうせん)。「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と称された、三国時代最強といわれる武将。

呂布は様々な武功を挙げますが、丁原、董卓など主君への裏切りを繰り返してのし上がりました。

個人的武力が卓越していたわりには、根拠地を維持し、兵を養っていく能力はありませんでした。

最後は曹操に捕らえられ命乞いをしますが、縛り首となりました。

三国志14における武将の能力値
名前 統率 武力 知力 政治 魅力
呂布 95 100 26 13 36

自ら人を遇するに礼なきを以て、人の己を謀るを恐る (魏害・呂布伝)

日頃から人に対して横暴なふるまいをしていたので、いつか誰かに仕返しをされるのではないかと恐れている

後漢末期、その強大な武力で朝廷を掌握した董卓は、『三国志』の中でも悪漢中の悪漢として描かれていることは、先述したとおりだ。

彼の横暴ぶりは実に強烈だ。勝手に皇帝を取り替えて自分は相国という最高の地位につく。宮女を辱め、庶民からは金品を略奪し、反対勢力には容赦ない殺裁行為を繰り返して周囲を震え上がらせた。
まさに地獄の使者、人を人とも思わぬ仕打ちの連続である。

ただ、やりたい放題の陰で、彼は、「このままではすむまい」といった不安を抱いていた。それを表しているのが冒頭の言葉だ。ふだんから勝手な振るまいをしていた董卓は、周囲が自分を怨んでいるであろうことも感じとっていたらしい。居丈高な態度を見せながらも、内心は復譽を恐れてビクビクしていたというわけである。
しかしなぜ、董卓はこれほどまでに残虐な行為を繰り返したのだろうか。

董卓は若い頃から武勇に秀で、184年に起きた「黄巾の乱」平定後は、いったん地方に戻って黄巾軍の残党と戦ったり、辺境の異民族討伐で名を挙げたりする。そんな彼が中央に進出するのは霊帝崩御のあとだ。

霊帝には、瀞皇子(兄)と協皇子(弟)という腹違いの2人の息子がいたが、皇太子を決めていなかった。後継者をめぐって朝廷はまっぷたつに割れる。その動乱のさなか董卓は軍を率いて地方から洛陽に出てくる。武力にモノをいわせて周囲を威嚇し、あっというまに都・洛陽を制圧してしまう。皇帝位には瀞皇子(少帝)が即位していたが、朝廷をも掌握した董卓は、少帝を廃し、9歳の協皇子を皇帝にしてしまう。これが後漢王朝最後の皇帝、献帝である。こうして董卓の専横政治が始まるのである。

だが、そもそも董卓は政界の実力者でもなければ裕福な貴族でもない。理想の国家を夢見ているわけでも、民衆に敬慕されているわけでもない。豪族で名家出身の袁紹や、宮廷に勤める有力な直官の家柄に生まれ、めきめき力をつけてきた曹操などに較べると、董卓は人望も実績もない。ただ強運で気がつけば朝廷を掌握していたが、所詮は「ポッと出の権力者」だった。

そんな彼が自らの威光で周囲を黙らせるにはどうしたらいいか。力による「恐怖政治」、これしかない。なにしろ反逆者を捕まえては目玉をくりぬき、釜で煮殺すのだから周囲はたまらない。うっかり諫言もできず、隷従するより道はなかっただろう。

しかし反面、恐怖政治には限界もある。反対勢力の台頭を生むのだ。董卓はいつ誰が企てるかも知れない報復に怯えるようになる。『三国志』には冒頭の言葉に続けて「そのため董卓は常に呂布を護衛につけていた」とあり、周囲の動向にピリピリしている重卓の姿。

呂布といえば董卓の養子で、武芸にかけては当代きっての強者だ。腕つぶしなら董卓本人にも自信があったはずだが、念には念を入れたのだろう。よほど報復が恐ろしかったとみえる。それなら少しは懐柔策でも練ればいいのだが、やはり董卓は根っからの武人であり、政治家ではなかったので、それもできなかったのだろう。

董卓の傲岸な態度は、呂布に対しても変わらなかったようだ。やがては呂布にすら反感を持たれ、最後はその刃に姥れるのだから、自業自得と言うべきか。


その肉を飽かしむくし・飽かざれば人をかまんとす


(虎を飼うなら)腹一杯の肉を与えるべきである。さもなければ人に牙を剥くだろう
この言葉は、知謀の士として名高い陳登のものだ。ここでいう「虎」とは呂布のことである。

陳登は父・陳珪とともに呂布に仕えていた。本来は徐州の官吏であるのだが、呂布が劉備を裏切って徐州を乗っ取り主人面を決め込んだので、仕方なしに頭を下げていた。なにしろ呂布という男は、自分の仕えた主人を2人も殺している。最初は董卓にそそのかされて丁原という武将を、そして2度目は、親子の契りまでかわした当の董卓を、である。

呂布は百戦錬磨の猛将であり、あちこちの軍閥に身を寄せては威張り散らす思慮分別のない檸猛な野獣である。それだけに引き受け手がなく、最後に頼ったのが、徐州の劉備だった。その劉備さえ裏切り、徐州を乗っ取った男である。賢明な父子が従順な忠臣を演じたのも無理はない。しかし父子は呂布に仕える気は毛頭なかった。

「いずれ曹操に帰順すくし」という思いが強く、折にふれて曹操に協力するよう進言もしている。また表向きは呂布のためを装いつつ、曹操が有利となるよう呂布陣営を動かしたことも一度や二度ではない。そんなある日、陳登は呂布の命令で「呂将軍を徐州の知事に」という任官要請のため、曹操の元へ使者に立つ。

しかし陳登は、要請する気などさらさらなかった。それどころか、「徐州を攻める際には手引きをします」と申し出る。曹操が感激したのは言うまでもない。呂布陣営での父子の働きを絶賛し、彼らに加増を約束する。

徐州では、知事任命の沙汰を今や遅しと呂布が待っていた。ところが、待てど暮らせど知事任命はなく、あったのは陳珪・陳登父子への加増だけである。これに呂布は激怒する。
「曹操に協力しろと言ったのは貴様たちじゃないか。さてはオレを利用したな!」と目の前の机を叩き割る。そのとき、陳登が眉ひとつ動かさず言ってのけたのが、冒頭の言葉なくし」という思いが強く、折にふれて曹操に協力するよう進言もしている。

また表向きは呂布のためを装いつつ、曹操が有利となるよう呂布陣営を動かしたことも一度や二度ではないのである。「わたくしは曹操に申しました。『呂将軍を遇するのは虎を養うようなもの。飽きるほどほうろくの肉を与えなければ人に噛みつきます。どうぞ充分な官位・俸禄をくださいますように』と


2.呂布は極度のマザー・コンプレックス

漢王朝を乗っ取った董卓討滅のため覓州の酸棗から司州の虎牢関に軍を進めた曹操を始めとする群雄。その出鼻をくじいたのは、全身から血が吹き出たように赤い駿馬赤兎にまたがった呂布だった。

この一戦で呂布は、曹操、劉備、関羽張飛ら、三国志の中心的な人物の目に存在をしっかりと焼き付けた。
呂布の騎馬軍団の一糸乱れぬ苛烈な戦い振りを、ぼくはある武将の言葉で次のように表現した。
2万が巨大な一頭の動物のように動いて、その先頭にいつも呂布がいる

その後八年間にわたって、呂布と死闘を繰り返すことになる曹操は、このときは高みからその戦闘を眺め、次のように分析した。
「呂布という男の戦ぶりは、勇猛というだけではない。周到でもある。特に、あの騎馬隊の動きは、実に5万の兵力にも匹敵するように思える」
今回は歴史の流れからやや離れ、この呂布を中心に戦場を駆け抜けた戦人たちについて語りたい。みな気のいい男たちである。

父殺しの汚名を背負って
呂布、字は奉先。出身地といわれる北方の五原郡は、いまのゴビ砂漠あたりになるだろうか。
さて、『三国志演義』を読むかぎり、呂布には英傑のイメージが薄い。駿馬赤兎に乗り、武勇の人として誰からも恐れられる一方、「天下を」という野望もなく、知略にも計画性にも欠け、性格はあまりにも直情的である。
最後の曹操との決戦の場、いま城を出て攻撃すれば勝機があるというときに、「あなたが城を捨て、妻子を置き去りにして、孤立無援の軍勢を率いて遠征なさっている間に、ふいに変事がおこったならば、どうして私は将軍の妻でいられましょうか」という妻厳氏の言葉を聞き、出陣を躊躇するような精神的な弱さもある(妻のこの言葉は、『正史三国志』「魂書・呂布伝」の中の裴松之注にもある)。

専制をほしいままにした董卓を殺害し、伸び盛りの曹操から竟州を奪い、ようやく一国を手に入れた劉備から徐州を奪った剛の者が、なぜ中途半端な敵役として描かれているのか。

呂布は、2人の養父を殺している。面倒を見てくれていた丁原、仮にも父子の契りを結んだ董卓の2人に、自分で手を下している。そういう男が『演義』世界で大手を振って活躍できるはずがない。
しばらく、ぼくの呂布擁護論に耳を傾けてほしい。
呂布は、極度のマザー・コンプレックスだったのだ。幼い頃に父を亡くし、馬だけが友達だった少年を、母親はとても愛した。十代で戦士になった呂布に、母は剣を与え「強くおなり、そして必ず生きて帰っておいで」と言葉をかけた。手柄を立てて大好きな母の笑顔を見たい、戦いで死んではならない。 この2つの思いを抱きながら成長し、やがて並外れた運動能力と勝つための直観力をもつ優れた軍人となる。

母の死後、よく似た年上の妻をもらうと、今度は妻が母の代わりになる。
都に登った呂布に父親役の丁原は、妻を呼び寄せるのはまだ早い、もっと学ぶべきことがあると苦言をする。それが呂布には耐えがたい。丁原を亡き者にして妻を呼び寄せると、次の父董卓は、呂布の妻が年老いているのを哀れに思い、若い宮廷の女を与えようとする。

それは妻を悲しませるだけのことだ。父親の愛をまったく知らない呂布は、2人の養父の気持や気遣いが理解できず、殺す。ただ残忍なのではなく、愛のためにそうせざるを得なかっただけなのだ。戦場にあっても妻の言葉を聞くようなところが、もともと呂布にはある。それは『正史』にも記録されていたではないか。

呂布には家庭や家族を思う気持がある。それがときたま、人とは違う方向へ向いてしまうのだ。昔、北アフリカーモロッコの奥地を旅したことがある。一面の砂漠で、木や草もまばらな土地だ。そこにはトワレグ族という部族が住んでいた。
サハラの戦士ともいわれる人々だ。厳しい環境の中で、遠目にも目立つ鮮やかな色合いの衣裳で身を包み、男や女たちが暮らしている。知り合ってみると、嫌いなものは嫌い、欲しいものは欲しいと感情がストレートに言葉や行動にあらわれ、それが新鮮に感じられて居心地がよかった。

必要なことは必要なときに言う、やるべきことはすぐに行動に移す、これは砂漠の民の特性なのかもしれない。ゴビ砂漠の近くで生まれた呂布は、そういう感情にストレートな人間として出発させよう。母(妻)を喜ばせるためにだけに戦い、必ず勝つ、これはある意味では男の本性ではないか。
強いから、勝てるから、絶対に生きて帰れるからという理由で部下も集まってくる。こんな男に謀略も知略も必要ない。死ぬまで戦い続ければいい。


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