劉備と諸葛亮孔明との出会いは偶然ではなかった

目の前にぶら下かっていた曹操の天下統一への夢が、赤壁の敗戦で一気に遠ざかった。次は呉の時代かと思われた矢先に、天下二分を目論んだ周瑜が急死した。時の流れの方向が見失われそうになった、その一瞬の間隙をついて急成長を遂げたのが劉備である。やがて天下は、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備による三国鼎立の時代を迎えることになる。
この時代の立役者といえば、劉備の軍師をつとめた諸葛亮孔明を除いてほかにはいない。これまでの曹操、劉備、周瑜をはじめとする無骨な武将たちとは異なり、羽扇を携えた道士のようにイメージされる諸葛亮。実際にはどのような人物だったのか。

三顧の礼で劉備のもとへ
諸葛亮、字は孔明。徐州の琅邪郡陽都県の人で、父の没後、荊州の農村で田畑を耕して暮らしていたと『正史三国志』(「司書・諸葛亮伝」)にある。

自らを管仲(春秋時代、斉の名宰相) や楽毅(戦国時代、燕の名将) に並ぶ才と称していたが、ごくわずかな知人を除き、それを信ずるものはいなかったともいう。

諸葛亮と劉備とを結びつけたのは、ほんの一時期、劉備のもとで軍師役をつとめていた徐庶という人物である。流浪の軍師であった徐庶は、劉備軍における戦闘指揮の鮮やかさによって、敵方の曹操にその才能を知られるところとなり、国許に残した母を人質にとられ、それが原因で魏に下る。

その際、自分の代わりになる軍師として諸葛亮がいることを劉備に教えていったのだ。ちなみに『三国志演義』によれば、魏で徐庶を迎えた人質の母は、曹操の奸計により結果的に劉備を裏切ることになった息子の姿を見て悲嘆し、息子の目の前で決然と自死を選ぶ。曹操の悪業ぶりもさることながら、徐庶の母の過激な行為などまさに『演義』ならではの劇的なエピソードともいえよう。これもまた曹操の目論見だったのか、それとも徐庶自身がもはや才を振るう気力を失っていたのか、魏に移ってのちの徐庶は格別な働きもなく歴史の舞台からひっそりと姿を消す。

さて、劉備が諸葛亮のもとを訪ねるくだりは、周知のように劉備がわざわざ山間の草庵を三度訪問し、その礼の篤さに諸葛亮が感じ入り出馬を決めるという「三顧の礼」のエピソードとして『演義』には描かれている。
庵を三度訪ねてようやく会うことができたというのは『正史』(「司書・諸葛亮伝」)にも記載されているが、その後に「交情は、日に日に親密になっていった」という記述もあり、たった一回の会談で双方の心が通じ合ったというわけではない。何度も会談し議論を重ねたうえで、互いに納得しあって配下に加えた(加わった)と考えるのが普通だ。そこにはどのような思惑があったのか、三国志の分岐点ともなる場面である。

劉備の立場から見れば、関羽や張飛とともに大志を抱き幽州の泳県を出て数十年、戦場で生死を賭して生きてきたが、足場を築いたかと思えば追われ、領土を確保したかと思えば追われることの繰り返しである。そのつど自分なりに戦略を考えて生き抜いてきたという自負はあるものの、曹操の魏が巨大な国となり、孫一族の呉が地力をつけていくのを見て、自分の戦略そのものの正しさに疑問を感じていたに違いない。考えてみれば、曹操には荀或や賈翊、孫権には張昭などの優れた幕僚がいる。関羽や張飛はその任ではない。いま自分に必要なのは、自分の弱さを補ってくれるそうした戦略的な軍師ではないか。コマが不足している。戦場を駆け巡った勝負師として、冷徹にそう考えていたとしても決して不思議ではない。それを徐庶に期待したこともあっただろうし、諸葛亮にも求めていたはずだ。

そこに諸葛亮は「天下三分」という、とんでもないプランを持ち出してきた。まずは長江の南側に広がる呉と手を結ぶ。そのうえで長江中流域の荊州、さらにその奥にある要害の地・益州を手に入れれば、魏と呉の二大国にしていくことは不可能ではない。しかも、成都を中心にした益州の領主・劉璋は政治に疎く、つけ入るチャンスは必ずある。それまでの劉備ならば想像することもできなかったスケールの構想、しかも実現の可能性がゼロではない。劉備は即座に「これだ! 」と思ったに違いない。

一方、諸葛亮の立場から見るとどうだろう。『演義』には、「私は長年、農耕生活を楽しみ、世間に出るのは億劫ですので、ご命令に従うことはできません」と劉備の誘いを断る場面もあるが、時代や文化が違うとはいえ、若くして素質もある人間が、世の中からじっとしていられるはずがない。まして乱世である。チャンスがあれば、それに賭けてみたいと思う気持を必ず持っていたはずだ。

曹操や孫権への仕官も視野に入れていただろう。同時に、曹操にも孫権にもすでに優秀な幕僚がいることもわかっている。曹操が天下を取ろうと、孫権がそれを押しとどめようと、結局は自分は出来上がりかけた容器の中で歯車として働くしかない。諸葛亮ほどの才能には、それがどれほどつまらない現実に見えたことか。そうした諦念、別の言い方をすればプライドの高さが、青年孔明を山間の草庵に押し込めていたのだろう。

そこに、まだまだ流浪の将軍に過ぎなかった劉備がやってきて、不意討ちのように天下への夢を語ったのだ。その夢には具体的な目標がないものの志だけは強い。配下には軍師といえる人物がなく、劉備もそれをはっきりと自覚している。そして、何の実績もない自分の「天下三分」の考えに目を見開き、その構想のためにともに戦いたいという。自分の働きで天下の行く末が変わるかもしれない、力が試せるかもしれない。これこそ自分が待ち望んでいた好機ではないか。いまこの人物にすべてを賭けなければ、二度と草庵を出る機会は訪れないのではないか。

劉備との議論を重ねながら、それまでの不本意な暮らしを覆したいという強い思いが幾度も胸を締め付けたに違いない。目の前にぶら下かっていた曹操の天下統一への夢が、赤壁の敗戦で一気に遠ざかった。次は呉の時代かと思われた矢先に、天下二分を目論んだ周瑜が急死した。時の流れの方向が見失われそうになった、その一瞬の間隙をついて急成長を遂げたのが劉備である。やがて天下は、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備による三国鼎立の時代を迎えることになる。
この時代の立役者といえば、劉備の軍師をつとめた諸葛亮孔明を除いてほかにはいない。これまでの曹操、劉備、周瑜をはじめとする無骨な武将たちとは異なり、羽扇を携えた道士のようにイメージされる諸葛亮。実際にはどのような人物だったのか。


三顧の礼
(蜀害・諸葛亮伝)
目上の者が目下の者を何度も訪問し、礼を尽くして迎えること


劉表のもとに身を寄せた劉備の悶々とした7年間は、戦に明け暮れてきた日々を振り返り、これからの展望を考える良い時間だったようだ。劉備には関羽、張飛といった名だたる武将がおり、三人は兄弟のように深く結ばれていた。
だが、彼らは猛将ではあっても、残念なことに戦略に長けた参謀ではなかった。
ようやくそのことに気づいた劉備は、熱心に人材を探し始める。

劉備が預かる新野という小さな城で召し抱えた幕僚に、徐庶という人物がいる。人材を探していると知った彼は、劉備に言う。
「諸葛亮という俊才の者がおります。会ってみますか」
劉備がうなずいて答える。
「君が連れて来たまえ」
「こちらから会いに行くべきです。呼びつけるなんてとんでもないことです」
徐庶はその非礼をたしなめる。たしなめられた劉備は、素直に南陽の田舎まで3回も諸葛亮に会いに出向く。というのも、1回、2回と会えず、ようやく3回目に出会えたからこのとき劉備47歳、諸葛亮27歳。冒頭の言葉は、この故事に由来している。部下に非礼をたしなめられてすぐに反省し、気軽に三度も若造に会いに出向く劉備の人材確保の心意気は、ようやく自陣営の弱点に気づいたからこそであろう。事、ここに至って天下を狙う覇気に目覚めたのかもしれない。
こうして207年、劉備は、諸葛亮(孔明)を軍師として迎える。
諸葛亮は、浪邪郡陽都県に生まれた。前漢の時代、厳格な警備司令官として有名だった諸葛豊は先祖に当たる。父親の諸葛珪は郡役所の役人で、のちに呉の孫権の参謀となる。

兄の諸葛理、弟の諸葛均の三兄弟として育つ。
8歳のとき父親を13歳のときに母親をなくした諸葛亮は、弟の諸葛均とともに叔父の諸葛玄の元へ身を寄せ、やがて兄弟は叔父に連れられて荊州の襄陽に向かう。二年後、叔父に死なれた諸葛亮は、襄陽郊外で十年間を過ごすのだが、その間、徐庶、孟建などの逸材と交遊し、天下の動向を見すえつつ、晴耕雨読の生活をしていた。
後年、諸葛亮は劉備亡きあと、劉禅に上奏した「出師の表」に「(劉備が)草盧の中に三顧し……」、そのため感激して臣下になったと、自ら記している。こうして諸葛亮は、234年の「五丈原の戦い」で魏軍の名参謀・司馬誌と対塒し、陣中で病没するまで、劉備親子に忠節を尽くすのである。



天下三分の計

三極構造によって強者同士の対立を相互に牽制しようという政治力学

劉備は三度も諸葛亮を訪問し、ついに運命の出会いを果たした。
そのとき諸葛亮は、「天下三分の計」という壮大な戦略を劉備に説く。これは、広い国土を三つの勢力により三分割して治めるというものである。ただし、諸葛亮自身はこの言葉を使ってはいない。
『諸葛亮伝』によれば、彼は劉備に天下の現状をこう分析してみせる。

曹操は、献帝を擁し、いまや百万の大軍を得て、中原一帯を支配している。これにまともにぶつかることは不可能。いっぽう孫権は三代にわたって呉をよく治め、有能な家臣が多い。故に孫権は協力すべき相手ではあるが、戦う相手ではない。
では、本拠地を持たず、兵力も少ない劉備が天下を狙うにはどうすればよいのか。

それにはまず、荊州と益州(蜀)を掌中に収め、ここを基盤とする。それから孫権と手を結んで曹操に対抗する。その上で曹操側の変事を待ち、南と西から中原に攻め込めというのである。

この、諸葛亮の「構想」を聞いた劉備の応えは、「善し」という簡単なものだったという。だが『演義』では劉備に、「いままでは道を塞いでいる茅のように前が見えなかったが、その雲霧を払い、青空を見せてくれた」と語らせている。また、これまで世話になっていた劉表の荊州と益州を奪うことを嬬躍すると、「荊州の劉表の余命はいくらもなく、益州の劉璋は凡庸でその器ではない。必ずあなたのものになる」と諸葛亮は言い、曹操攻略のあと、呉を併合すればいいとも言っている。
ところで、諸葛亮のこの発想はどこから出てきたものなのか。

これについては、「論語」の中の周の文王の記述の中に、「天下を三分し、二つを有しながら段に仕えた」というものがある。さらに『史記」には、覇権を争っていた韓信に対して項羽・劉邦と並び立つよう「天下を三分し、鼎の三つの足のように分立しなさい」と、鯏通が勧めるくだりがあり、これらが出典とされているようだ。
いずれにしても、劉備をうなずかせた「天下三分の計」は、諸葛亮の構想どおりようやく動き始めるのである。

臥龍鳳雛
【隠れ伏している龍と鳳凰の埋もれていて未だ世に出ない英傑のたとえ】
劉備が、荊州の劉表のもとに身を寄せていたときのことである。人物鑑定で名高い司馬徽という人物がいた。彼は荊州の名士で、まわりの人々から「水鏡先生」と呼ばれていた。これまで全国を歩き回り、多くの優秀な人材を知っていると評判の老人である。
人材難の劉備は、さっそく水鏡先生に天下の動きを聞くとともに、優れた人物の推挙を期待して、意見を求めに出かける。

すると、司馬徽はこう答える。「自分は隠者ゆえ、天下の動きはわかりかねます。だが、その情勢を知る者こそ英傑。このへんにも、臥龍と鳳雛がいます」
それは誰かと劉備が問うと、諸葛亮とほう統だという。臥龍とはいずれ天に昇る龍、鳳雛とは不死鳥である鳳凰の雛のことで、時がくれば天下に雄飛する将来の大器を意味している。このとき劉備は初めて諸葛亮の存在を知るのである。

このあと劉備は新野で召し抱えた幕僚・徐庶からも直接、諸葛亮の優秀さを聞き、彼を「三顧の礼」をもって迎えたことは、すでに述べたとおりだ。ところで、ほう統とは何者なのか。

黄巾の乱勃発後のまだ霊帝生存のころ、荊州の襄陽に鹿徳という曹操に仕えた武将がいる。彼は劉備の部下・関羽の額に矢を射当てるなど目覚ましい戦いをする。ほう統は、その庫徳の甥である。
ほう統の才能を最初に高く評価するのは「水鏡先生」であるが、その評判を知って彼を最初に召し抱えるのは、呉の孫権の参謀・周瑜である。


水魚の交わり

{とても親密なつきあいのたとえ}
200年の「官渡の戦い」で曹操にまさかの大敗を喫した袁紹は、その後、病に倒れ、雪辱の機会も得られぬまま202年に没する。後継を公表しないままの逝去であったため、童氏一族は争いの渦に巻き込まれ、急速に勢力を袁えさせていく。

いっぽう曹操は、袁紹を破ったあと、汝南にいる劉備を標的に、南下を開始する。その噂を聞きつけた劉備は、勝ち目がないと判断したのだろう、荊州の劉表のもとに身を寄せた。

曹操は、劉備が劉表のもとへ落ちのびたことを知ると、けっきょく劉備討伐の南下を見合わせる。だが、袁氏の勢力袁弱の機は逃さず、袁紹の二人の遺児、袁證と袁尚を討ち、207年には北方平定を果たすのである。

この間、ひとり「騨肉の嘆」をかこっていた劉備はようやく207年、名参謀・諸葛亮を得る。

劉備と諸葛亮の仲は親密の度を深めていく。これを見て、面白くない思いをしていたのが、挙兵以来いっしょに戦場を駆け抜けてきた関羽や張飛たちである。それを察知した劉備が、「われの孔明(諸葛亮)あるは、魚の水があるがごときなり。願わくは諸君また言うなかれ。

と、彼らをたしなめたことから、冒頭の言葉が生まれたのである。孔明とわたしは、いわば水と魚のようなもの。水がなくては魚は生きていけないと言われれば、関羽や張飛たちも口をつぐむしかなかったであろう。

そのころ曹操は、水軍の強化をはかっている。じつは曹操が南下を見合わせた最大の理由は、どうしても水軍の補強が必要だったからだ。北方を拠点とする曹操軍は、水戦には不慣れだった。それに対して、劉表のいる荊州、さらには孫権の治める江南の地は、長江
を中心に栄えたところであり、船は足代わりの交通手段である。そういう土地柄を攻めるには水軍を鍛えなければならない。

曹操は潭河の水を引き込んで巨大な人造湖を作り水軍の訓練をしたというから、破格を得る。
劉備と諸葛亮の仲は親密の度を深めていく。これを見て、面白くない思いをしていたのが、挙兵以来いっしょに戦場を駆け抜けてきた関羽や張飛たちである。
それを察知した劉備が、「われの孔明(諸葛亮)あるは、魚の水があるがごときなり。願わくは諸君また言うなかである。
こうして訓練を終えた曹操軍はついに南下を再開する。目指すはもちろん、荊州の劉備、劉表さらには呉の孫権である。

ところが、曹操軍が荊州に到着する直前、劉表は病死する。後を継いだのは、第二子の劉珠である。劉珠は最初、曹操との徹底抗戦を主張する。だが家臣らの猛反対に遭うと、あっさり降伏を決めてしまう。だが、そのことを劉備に言い出せず、告白するのは曹操軍
が目前にまで迫って来てからだった。それを聞いた劉備が仕方なく荊州から撤退しようとしたとき、諸葛亮が劉備にこうささやく。
「いま劉珠を討てば、荊州を手に入れることができますぞ」

しかし、劉備はそれを聞き入れない。武人としての利得より、亡き劉表に対する恩義を取ったのである。
曹操軍は劉備軍が江陵へ逃れたと知ると、五千の騎兵部隊に追撃させる。「長阪の戦い」である。その戦いで捕えられた劉備の妻子を張飛、趙雲らの奮闘で取り戻すが、結果は劉備軍の大敗で、母親を捕えられた徐庶が曹操軍に投降するなど、大きな痛手を負うのである。


強弩の末、勢い魯縞をも穿つあたわず
【強い弓から放たれた矢も、勢いを失えば絹をも通さぬ】
南方へと触手を伸ばし、長途の遠征を敢行する曹操軍の疲弊ぶりを比瞼した、諸葛亮の言葉である。
前述したように、「黄巾の乱」勃発を機に、劉備は群雄の一人として頭角を表し始めるのだが、地盤を持つ有力者の間を流浪する用心棒的立場から、今一つ脱却できない。

勇猛果敢な関羽、張飛はいても、知恵ある参謀がいないせいだった。
そのため強敵の曹操が「官渡の戦い」で袁紹を破ると、行き場を失った劉備は荊州の劉表のもとに逃げ込んでこのままで終わるものかと内心焦る劉備の前に現れたのが、諸葛亮だ。

諸葛亮は前漢の名臣を祖とする名門出身ながら、幼くして父を亡くしたため、戦乱の北方を逃れ、荊州に移り住む。非凡な才能がありながら、隠遁者のような生活を続けていた。

その諸葛亮が劉備に仕えるようになって、初めて迎えた華々しい表舞台が、208年の「赤壁の戦い」を呉の孫権に決断させた「外交交渉」である。諸葛亮が初対面の劉備に向かい、熱心に説き示したのが「天下三分」の重要性だった、その構想が成立するか否かの鍵を握っていたのが、他でもない孫権だったのだ。

南下を始めた曹操軍に対し、荊州の劉珠は逸早く降伏してしまうし、脱出した劉備一行とて先の「長阪の戦い」で大敗を喫したばかりである。曹操の次の狙いが、呉の孫権なのは明らかだった。折しも、公称八十万とも言われる曹操の大軍が、孫権の固める江東の地に迫って来ていたのである。

孫権は思い悩む。決戦か降伏か。お気に入りの参謀・魯粛の進言に従い、劉備と同盟を結ぶつもりではいたものの、近づいて来る曹操の大軍を前にして、孫権の心は大きく揺らいでいた。
魯粛の協力を得た諸葛亮が、孫権の元に登場するのは、正にそのタイミングだった。

「曹操に従うのか、そうでないのか、決定をこれ以上引き延ばせば、災いが降りかかりましょう。
諸葛亮の言葉に憤慨する孫権。しかし諸葛亮は、すかさず曹操軍の弱点を次々と列挙し、熱弁を振るう。そのとき冒頭の言葉が口をついて出たのだった。

「曹操の軍は遠征で疲れきっています。強い弓の矢も勢いを失えば絹も通さぬ、とは正にこのこと。兵法で無謀な強行軍を固く戒めているのも、このためです」巧みな口説きに、孫権は思わず頷いていた。
こうして、孫権・劉備の同盟が成立し、「赤壁の戦い」で、曹操を破るのである。

本来であれば、対等な同盟など有り得ないほど、劉備と孫権の兵力には差があった。しかし、自尊心を上手にくすぐりながら孫権をその気にさせ、最終的には同盟に合意させてしまう手腕が、かの諸葛亮たる所以なのである。

七縦七禽
七たび捕(禽)え、七たび放(縦)し、ついに相手の心を掴む
二世皇帝・劉禅のもと、蜀の全権を掌握した諸葛亮は、まず南西方の異民族の懐柔と平定に乗り出す。この蛮族との戦いにおいては、神のごとき智謀の天才軍師・諸葛亮は次々と作戦を成功に導く。特に南蛮王の孟獲に対しては己に心服させて勝利を得ている。

どのように心服させたのか。孟獲との戦いにさいして諸葛亮はまず、彼を生け捕りにした者には恩賞を出すと布告する。やがて捕えられた孟獲が、引き立てられてくる。その孟獲に、諸葛亮は自軍の陣地を見せる。すると孟獲は、これでお前のところの陣立てがわかった、この程度なら勝てるはずだと、うそぶく。

それを聞いた諸葛亮は、笑いながら孟獲を釈放したのだった。激しい戦闘が再開された。孟獲はまた捕虜となった。今度も孟獲は釈放された。この繰り返しが7回も続いたのである。8回目には、彼は釈放されても逃げようとせず、「あなたのご威光はまるで天のようだ。われわれは、もう二度と背きません」と頭を下げたのだった。

こうして、敵を抑えるのに力を使わず、「心を攻める」諸葛亮の作戦が功を奏す。と、いうのが「七縦七禽」という言葉の由来であるのだが、実はこれ、諸葛亮の天才軍師ぶりを強調するために作られたお話なのかもしれない。孟獲を許し、服従させることに成功したのは事実だが、7回もとなると疑問が残らないでもない。

魏を討つことを悲願とし、諸葛亮が5度に及ぶ大遠征を敢行することは、すでに述べたが、彼はいずれも手堅い用兵に徹している。形勢に利なしと見るや、ひとまず退いてじっと次のチャンスを待つ、といった戦い方をする。智謀の軍師と調われた彼にしては地味であるが、それには事情がある。まず遠征につぐ遠征で、兵は疲弊し、兵糧は不足していたこと。さらに、魏との国力の絶対的な差である。面積、人口、物量などを総合して比べると、1対7くらいの割合だったといわれる。つまり、魏の国力は蜀の7倍あったということ。

その大国・魏に勝てるあてなどないことに気づいていても、あえて出撃せざるをえなかった諸葛亮ではなかったか。
国を滅ぼすよりは、何とか魏を牽制しつつ国を維持することこそ、己の役目と言い聞かせていたのではないか。

小国が何度も戦争を仕掛ければ、必ず人民は疲弊し、あげく滅びることになりかねない。
だからこそ諸葛亮は、蜀を滅ぼすことなく、それなりの戦果をあげる戦い方を選んだに違いない。これこそ、彼の偉大さであろう。


この病、兵少なきに在らず、一人に在るのみ
「戦いに敗れた原因は兵隊の数の不足にあるのではない、指揮官にある」
漢王朝再興の悲願を果たすべく、蜀の諸葛亮は227年、魏討伐の軍を起こし、翌年春、一回目の遠征を敢行した。

その一回目の先鋒軍の指揮を任せた馬讓が諸葛亮の指示に背いて行動したため、魏軍に大敗、撤退を余儀なくされた。初っぱなから挫折、それも自軍の指揮官の軍律違反で、である。ただでさえ大国の魏に勝つのは容易ならざることであるのに…この出来事は、諸葛亮にとっては青天の震霊だったに違いない。自分が可愛がり、重用していた男の犯した軍律違反という過ちだっただけに、だ。

諸葛亮はつくづく己の不明を恥じて泣き、馬讓を処刑したのだが、このとき自らの降格も皇帝に願い出ている。厳しい信賞必罰の碇を、自分にも課したのである。

冒頭の言葉は、この失敗を反省して諸葛亮が語ったものである。戦いに敗れた原因は兵隊が少なかったからではなく、指揮官であるこの私一人の責任です、というのだ。どんな組織においても、トップが己を過信して誤った行動をとれば、そのツケは組織全体がかぶることになる。場合によっては、全滅ということもあるのだ。

これ以後、諸葛亮は事あるごとに、自分に過ちがあれば指摘せよと言い、軍隊の少数精鋭をはかって徹底した教練を行ない、軍の再建をはかる。そして、同じ年の冬には早くも2回目の遠征を行なうのである。


危急存亡の秋
【危難が迫って、生き残るか滅びるかの瀬戸際のとき】
この言葉も、諸葛亮が蜀の二世皇帝・劉禅に献上した「出師の表」にあるものだ。「秋」とは、危険が迫った「とき」の「時」のことである。

諸葛亮は、魏攻略の遠征にあたり、国元に残す劉禅がよほど心配だったのだろう。蜀が現在おかれている状況を、まさに「危急存亡のとき」だと噛んで含めるように説明したのである。劉備と比べると、だいぶ見劣りする二世だったようだ。手取り足取りという感じである。

劉備は死に臨んで、諸葛亮に「息子が補佐するに値しないと思ったら、代わりに蜀を治めてもかまわない」と言い還したことは述べたが、「無能」だからといって、とって代わるということはなかなかできるものではないようだ。諸葛亮は、この「出師の表」を劉禅に献上すると、劉備の遺言に忠実に、以後六年間に、つごう五度に及ぶ魏攻略の大遠征を敢行する。

こうして時代は第二世代の皇帝たちを守ろうとする蜀と魏の参謀が、がっぷり四つに組んだ闘争の時代に突入していくのである。