赤壁の戦い|勝敗を分けたのは「風向き」だった

赤壁の地図
赤壁の戦いとは、三国志の時代に当たる208年に中国の長江の赤壁(現在の湖北省咸寧市赤壁市)において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いです。

「三国志」をまともに読んだことのない人でも、名前くらいは知っているのが「赤壁の戦い」です。英語にすれば「レッドクリフ」。そう、あの大ヒットした大作映画。三国志の中でもっとも大規模な戦いで、戦死者の数も多いのが特徴です。

1.赤壁の戦い―勝敗を分けたのは「風向き」だったというのは本当?
208年/○孫権・劉備VS ●曹操

「三国志」をまともに読んだことのない人でも、名前くらいは知っているのが「赤壁の戦い」であろう。英語にすれば「レッドクリフ」。そう、あの大ヒットした大作映画だ。三国志の中でもっとも大規模な戦いで、戦死者の数も多い

曹操軍は劉備が狙っていた江陵を制圧した。こうして長江の要所をおさえると、さらに長江を下り、陸口を目指した。陸口は水陸の交通の要だった。

敗走した劉備は夏口でとりあえず落ち着き、戦略の建て直しをはかった。単独で曹操軍と戦うのは、もはや不可能だった。劉備は孫権と同盟を結ぶことを決め、諸葛孔明が使者として孫権のもとに出向いて交渉し、同盟が成立した。

曹操軍は、制圧した荊州の兵も編入され、その数、20万に達していた。対する孫権・劉備連合軍は5万でしかないが、もともと孫権の呉は水軍の強さでここまできたような国だった。

それに対して北での戦いに明け暮れていた曹操は、騎馬部隊での戦いが得意で、水軍での本格的な戦いには慣れていない。さらに戦いは長期化しており、兵たちは疲労していた。
そんな背景のもと、両軍は、長江の南岸、赤壁でついに対峙した。

序盤の小競り合いでは、霧のために曹操軍が方向を見失い、孫権・劉備連合軍が勝ち、陸口を制圧した。曹操はうかつに挑発に乗ると不利とみて、睨み合ったままの持久戦に突入した。

曹操軍は長江に船を並べ、それを岸に連結させ、水上の大要塞を築いていた。船が揺れて船酔いする兵が多かったので、つなげることで揺れを少なくしていた。しかし、これが致命的な失敗につながる。

さらに、疫病がはやりだし、南の孫権軍の兵たちには免疫があったが、北からの曹操軍の兵士たちにはそれがなく、病に倒れる兵が多かった。だが、もはや、引くに引けない。

孫権軍の参謀、周瑜は、曹操軍の船が密集し、さらに繋がっていることから、焼き討ちすれば、一瞬にして壊滅できると考えた。たが、火を放つにはかなり近づかなければならない。

2. そのころ、孫権軍の老将、黄蓋が密かに曹操と通じていた。「折りをみて投降したい」というのだ。最初は疑った曹操だが、これを信じることにした。
だが、これが周瑜の謀略だった。

12月だったが、その日は快晴で日中は暑いくらいだった。夜になると、東南の激しい風が吹き出す。周瑜は、今夜だ、と決断した。黄蓋は十艘の軍船に薪と油を積み、長江を進み、曹操軍に近づいた。そして、全員が「投降する」と叫んだ。

曹操軍は、かねてからそのときがくるのを知っていたので、何の警戒もせず、黄蓋の船を進ませた。「今だ」と黄蓋が点火を命じると、船は炎上、そのまま曹操軍の真っ只中に進んだ。火だるまとなった船が水面の要塞を襲う。それぞれの船は繋がれていたため、自由に動くことができない。次々と燃えるだけであった。

兵たちは次々と焼け死ぬか、河に飛び込み、溺れ死ぬかだった。
その火は岸にあった曹操軍の陣営にまで延焼。曹操は誇っていた水面の要塞が燃え上がるのに呆然とする間もなく、ひたすら逃げた。

その逃避行は4日に及び、沼にはまり命を落としそうになるなど、散々な目にあい、まさに命からがい、江陵に辿りついたのであった。
こうして、曹操の河南制圧の野望は潰えたのである。

なお、この赤壁の戦いで、諸葛孔明が東南の風を吹かせるなどの大活躍をしたかのように「演義」では描かれているが、史実としては、孔明はこの戦いには、まったくかかわっていない


データで見る「赤壁」
歴史を振り返って考える
「80万」という大軍の凄さ

三国志の中には、その世界観を盛り上げるための様々なデータが登場する。たとえば「関羽張飛は1人で兵1万人に匹敵した」とか「孔明は一夜にして10万本の矢を集めた」など、にわかには信じられないようデータの数々が、三国志をより迫力のある歴史絵巻に仕立てているのだ。

80万対5万。これは赤壁における曹操軍と孫権&劉備連合軍の兵力を表わしたデータであるが、圧倒的な兵力差を打ち破るのが「赤壁」の真骨頂であるならば、この数字こそが魅力の源泉といえるだろう。

ただ「1万人に匹敵した」というデータに比べると「80万の兵力」というのは、その凄みが伝わりにくいかもしれない。これは三国志演義にも記述された数字なのだが、あまりに単位が大きすぎて想像できないであろう。そこでこの「80万」という数字が、どれほどのスケールであるのか、いくつかの合戦データを紐解いて比較していきたいと思う。

「赤壁80万」に対し「関ヶ原は20万」
まずは三国志の合戦のなかから。191年に起こった三国志序盤の名場面「虎牢関の戦い」では、とう卓軍と有力諸侯の連合軍が激突したわけだが、このときの兵力がそれぞれ10万と20万だった。ちなみに、このとき曹操も連合軍に加わっていたが、まだ五千程度の兵しか持っていなかったという。

200年に曹操が最大のライバル袁紹と戦った「官渡の戦い」では、袁紹軍70万に対し、曹操軍の兵はたった7万。なんと10倍もの開きがあったのだが、曹操はこの兵力差に打ち勝ち袁紹を見事に退けている。221年の「夷陵の戦い」では、劉備が蜀の全軍75万を率いて呉を攻めたが、わずか5万の陸遜軍に敗れている。

こうやって三国志における三つの大きな戦いを見ていくと、「赤壁」の曹操軍「80万」に匹敵する戦いが思いのほか存在していることがわかってくる。

では次に、諸外国の戦いに目を向けてみよう。紀元前300年代には、史上最大の大帝国を築いたマケドニア王国のアレキサンダー大王が、4万の軍勢で20万のペルシャ軍を撃破したという。

また古代ローマ時代には、8万のローマ軍とハンニバル率いる5万のカルタゴ軍が戦ったという記録がある。ちなみに、この時のローマ軍は滅亡の危機に瀕していたためか、動員できた兵力は10万に満たなかったそうだ。

わが日本の大戦を見ると、鎌倉時代の「元冠」の際は、14万の蒙古軍を約4万の日本軍が撃退している。戦国時代の「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」に目を向けると、こちらは世界規模ともいえる合戦で、東西両軍合わせて20万近い兵が動員されている。
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