曹操、劉備、孫権のリーダーシップスタイルは現代でも応用できる

リーダーシップとはなにかまとめてみた
変変革期をリードした三人のリーダー、曹操、劉備、孫権に焦点を当て、彼らのリーダーシップ・スタイルを浮かび上がらせてきた。その結果浮かび上がってきたのは、曹操型、劉備型、孫権型という典型的な三つのタイプである。

ここでは以上の三つのタイプをさらに掘り下げてみたい。
また、変革期に求められるリーダーシップとはどういうものか、その点について述べてみたいと思う。

さて、人間の精神は、大きく①感性、②情念、③理性の三つからなっている。しかし、この三つは一人の人間の精神の中で同じウェイトを占めているわけではなく、多くの場合ウェイトの大小、優劣がある。

ここでウェイトの大きい順に並べたものを、精神順位と呼んでいる(この3つのウェイトが均等で完全にバランスのとれているケースもあるが、それは例外と考えこの精神順位という観点から、曹操、劉備、孫権のリーダーシップを分析してみよう。彼らの精神順位は、つぎのようになる。

曹操①感性、②理性、③情念
劉備①情念、②感性、③理性
孫権①理性、②情念、③感性


第一位にくるもので精神順位を代表させれば、曹操型―感性型、劉備型―情念型、孫権型―理性型ということになる。リーダーシップ・スタイルとして、以上の三つがとり出せるわけだ。

曹操は勝負勘が鋭く、また飛躍的な発想をする。感性型の特徴である。合理的かつ周到に策をめぐらす理性も備えているが、感情に溺れるような情念性は希薄。

劉備は人間の絆、信頼関係、友情を何よりも最優先する。情念の濃厚なことでは、「三国志」登場人物中、最右翼に位置する。ついで目立つのは感性的資質。
逆に、考えたり計画したりするのはまったく苦手。理性的な能力は劣っているようだ。

孫権の場合、合理的かつ堅実にことを運ぶことからもわかるように、理性的な態度が際立っている。兄孫策も徹底した合理主義者だった。その点は孫一族の特徴的資質かもしれない。
ついで優勢なのは情念。といっても劉備ほど激烈ではなく、ちょうど円熟期以後の徳川家康にみられるようなおだやかな感情である。劣っていたのは感性。中国を統一するだけの国力と見識をもちながら、彼が常に曹操の後塵を拝したのは、感覚的なセンスの差によるものと思われる。実際、曹操と比べると孫権の行動はスローモーにみえる。

さらに考察を進めよう。曹操型=感性型、劉備型=情念型、孫権型=理性型というリーダー類型は、現代日本の一流経営者のリーダーシップスタイルを知るのに大いに役立つ。3つのタイプそれぞれにピッタリ当てはまるのは、以下の経営者である。

曹操型=感性型
田淵節也(野村証券)、堤清二(西武セゾン)、関本忠弘(日本電気)、本田宗一郎(本田技研)、飯田亮(セコム)。

劉備型=情念型
稲盛和夫(京セラ)、素野福次郎(TDK)、塚本幸一(ワコール)、中内切(ダイエー)、磯田一郎(住友銀行)、堤義明(西武)、丸田芳郎(花王)

孫権型=理性型
盛田昭夫(ソニー)、平岩外四(東京電力)、豊田英二(トヨタ)、真藤恒(NTT)、土光敏夫(元東芝)、鈴木治雄(昭和電工)。
それぞれのタイプの短所についても、簡単に触れておく。

曹操型=感性型の短所は、ムラッ気のある点。やや安定感に乏しく、勘がはずれるとずっこける。

劉備型=情念型の短所は、感情に流されやすい点。主観に頼ったり、視野が狭くなるおそれもある。

孫権型=理性型は比較的安定感に富み、バランスもとれているが、態度が保守的で、時流に乗り遅れかねないのが欠点。

いずれも一長一短だが、しいていえば変革期という条件にもっとも合うのは、「三国志」の展開からみても上記経営者の顔ぶれからみても、曹操型=感性型リーダーではないだろうか


変革期を乗り切るリーダーは誰か
悪党の魅力というのか、曹操の不思議な人気の秘密は、信長にも共通する。現代人からすれば、おれだってやってみたいがとてもああはできない、と感じさせるところにある。曹操のようなタイプが隣りにいたら大変だが、客観的に見ている分にはスカッとしている。こんなふうに勇ましくやってみたい、会社の中で曹操のように自分勝手に上司をやっつけて出世したい、そういう願望というか夢を満たしてくれるものがある。
悪党といわれるわりに曹操に人気があるのは、そういうところがあるからだろう。

一般に人が人を好きになるという心理機制には、「共感」と「憧慢」の二種類がある。つまり「共感」とは、「自分に非常にピンとくる」、「通じるものがある」だから好きだということ。一方の「憧慢」は、あの人のようにはなれないから「憧れる」ということである。
これはちょうど、劉備と曹操の人気の違いに通じている。

劉備は、現代風にいえば中小企業の社長のイメージである。
前近代的な、「うちの会社のモットーは和です」「和をもって社員が仲よくやるのがモットーです」みたいな感じである。それが「共感」を呼ぶのだ。曹操の考えは、「わが社のモットーは世界制覇です」「一二世紀を制覇することです」そういうふうに大望をもって叱吃激励するタイプ。こういう人に、われわれは憧慢を覚える。難関にぶつかることも多いが、とにかく前に進んでいこうというエネルギッシュな感じがある。

今の企業にたとえるなら、ホンダかもしれない。
本田宗一郎に藤沢武夫。この二人はタイプはかなり違う人間だが、名コンビである。そして、二人とも同じく織田信長が好きだという。信長が好きだというのは、もう少し中国大陸まで足を伸ばしてみると、曹操好きになるような気がする。
少し前の日本では、西郷隆盛や大山巌のような自我を殺すタイプに人気があったが、今の若い人にはピンとこないだろう。そういう意味では、企業もいつまでも抽象的な「人の和」ではやってはいけない。劉備の時代ではないのだ。

国際社会の中で、大変革を迫られている今日こそ、曹操のような人物が求められている。こんな話がある。外資系の会社に勤めている部長が常務と一緒に外地の本社に転勤になった。そうした中、本社の管理職と会議で話す機会があった。その常務は会議中ずっと黙っていたらしい。黙ってフンフンといって腕組みをしたままである。一方、部長はけっこうはっきり意見をいう人なので、臆せずにアメリカ人幹部と丁々発止と意見をいい合った。

会議終了後、部長は本社の管理職に、
「ちょっと君、君」と呼ばれて、
「あの人、頭いい人なの?悪い人なの?」と常務のことを聞かれた。
「優秀な人ですよ」というと、
「何もいわないからバカじゃないかと思った」
「いや、そうじゃないんですよ。日本では偉い人はみんなゴチャゴチャいわないんです。彼はとっても頭のいい人です」

そういう自己主張をするか、しないか。あるいはそれをどう見るか、見ないか、というようなことは、時代、あるいは場所の違いによっても当然評価が違ってくる。今後の国際化にあたっては、先の常務のようなタイプはいろいろ誤解されて苦労するはずである。

そういったことを学ぶためにも、「三国志」は最高のテキストとなる。特にいろいろな典型的な人物が出てくる本だから、自分なりにいろいろなタイプと本の上で付き合いができるからだ。

自分の立場に照らして読んで考えていけば人間をみる眼が格段とついてくるはずである。現代風にいうなら、むしろ曹操か、それ以上に曹操と劉備を足して二で割ったようなバランスのとれた生き方の孫権的人間が、これからの時代を動かしていくと思っている。魏と呉と蜀の中で、事実一番長命だったのは孫権の率いる呉の国である。

魏はかっこよくパッと盛り上がってその後、急速に終焉を迎える。蜀も孔明の頑張りだけに頼って結局は滅びてしまう。呉が最後まで残る理由は、中原から離れていて、攻められることがなかったからという地理的な条件が大きかったが、もちろんそれだけではない。
一番の理由は、呉のもつマネジメントカである。呉という国が、株式会社の本質のように、非常に粘り強く、合理的なゴーイング・コンサーンだった結果である。長続きしやすい基盤をもっていたわけだ。

だから、企業の存続を目指すなら、呉に学べばいい。
個人的にワシと、とにかく自分が目立ちたい、なりふり構わずやりたい人は、魏の曹操のような生き方を考えたらどうだろう。
また、人間関係を大切にするというか、とにかく決まった同士で、あるいは自分の生活を大事にして、嘘もいわずに誠実に生きたいというのなら、蜀の劉備たちの生き方を学ぶことだ。そしてこれからのビジネス社会で生きのびようと思ったら孫権に学べ、ということになる。

掎角の勢
これはオーソドックスな、二手に分れて左右から敵を攻める戦法である。
「掎角」とは、鹿を生け捕りにするときに、足と角を同時に捕えるため、こうした名前がついた。

これは、物事に取り組むとき、問題にぶつかるとき、人にアプローチするときに、基本的でしかもかなり効果のある方法だと思う。

たとえば、福沢諭吉がいう「両目主義」とはこのことで、片方の観点からだけで見ていると、たいていの場合、判断を誤ってしまう。

これをビジネス社会に当てはめると、仕事のパワーと自己の人間としてのパワーのバランスをとりながら、ビジネスをやっていけば、すばらしい成果が得られるということだ。

別のいい方でいうならば、セルフ・マネジメントとジョブ・マネジメントをうまく使えということになる。仕事の能力を磨くことはもちろん、自己啓発も仕事とは違うところで行うことを忘れてはいけない。

自己啓発は、一言でいうなら「人生をよく生きるための考え方、方法そして実践」ということになる。
この定義が意味するのは、充実した生き方、充実した仕事をしようと思えば、生活と仕事の両方に力を注ぎ、考え方と行動を分けてはいけないということだ。