孫子の兵法にある攻め・守りの理論にならう三国志の武将たち

周瑜、関羽、曹操、張飛、そして劉備など、すでに主要人物のほとんどが死んでしまった。三国志は、数々の英傑たちが夢破れて死んでいく悲しい物語の色合いをもっている。その口直しというわけでもないが、ここでは少し目線を変えて、軍学や陣構えといった戦のための方法論、さらには宗教、医学、文芸といった乱世のなかで花開いた文化・風俗を眺め、伝統と新しさがごちゃまぜになった漢末から三国時代の社会のありようを考えてみたいと思う。

孫子の兵法の編纂これはよく知られていることではあるが、曹操は激しい戦のかたわらで軍学、つまり「孫子の兵法」といわれるものを研究し、編纂していたという。『正史』にも「自身で十万余字にのぼる兵法の書物を書き、諸将の征伐の場合、すべてこの新しい書物によって事を行なった」(「魂書・武帝紀・裴松之注」)という一文がある。

ちなみに「孫子」とは、中国の春秋時代 (紀元前七七〇- 前四〇三年)に孫武が著した一巻十三編の書物で、中国最古の兵法書といわれるもの。そこに書かれているのは、かんたんに言えば、攻めの理論、守りの理論、伏兵の理論といった具体的な戦いの方法だ。当時は文字を書き残すものとして竹簡が使われており、曹操はひまを見つけては、この竹の本を貪るように読んでいた。その研究と編纂の努力がなければ、はるか千年以上あとの日本の戦国時代の武将たちが「孫子」を語ることなどできなかったかもしれない。

では、曹操以外の武将たちはどうだったのか。もちろん「孫子」を知らないはずはない。大系的に理解していたかどうかは別にして、少なくともそこに書かれたものを知識としては持っていたと思う。同時に、これは曹操も同じだが、書物から得た知識は、実戦になれば何の役にも立たないとも感じていたことだろう。書物に書かれた情報、人から教わった情報は、それを覚えただけではあくまでも一般論にしかならない。

こうすれば勝てる、こうなれば負ける、ここに陣をとればいい、結局のところ、戦術や軍学がどこから出てきたかといえば、実戦の戦闘から生まれてくるしかない。曹操自身、軍を動かし兵を用いる方法はおおよそ孫子・呉子の兵法に従ったが、「情況に応じて奇策を設け、敵をあざむいて勝利をわがものに」したと記録されている(『正史』同)。合戦の多かったこの時代、軍学そのものはむしろ多様化し、大幅に磨かれていったに違いない。

三国志の時代に限らず古今の武将は皆、武田信玄であれ徳川家康であれ自分なりの戦術を身につけていた。それを身につけた上で「孫子」を研究する。軍学を研究しているという姿が、敵にも味方にも一つの情報として伝わり、何をやり出すかわからない指揮官というイメージを与えていたのではないか。曹操にはまさに、そのイメージがある。