1.老人の黄忠が本当に勝利の決め手だったのか?
219年/○劉備VS●曹操
蜀の五虎将軍のひとり、黄忠の最大の戦功がこの定軍山の戦いで、曹操軍の夏侯淵を倒したことである。これが決め手となり、劉備軍は勝利するわけだが、そこに至るまでを降り返ってみよう。
孫権と劉備の同盟は、荊州の支配権を巡っていったん瓦解するが、荊州の東と西を分けることで合意に達する。だが、両者の間にはわだかまりが残っていた。
一方、孫権は曹操とも和解し、臣下となることを宣言した。こうして、曹操と孫権とは、とりあえず敵対関係ではなくなった。曹操にとって、残る敵は劉備だけである。
曹操は、215年に劉備の支配する蜀の北にある漢中に進軍し、これを制圧した。
そのまま蜀に攻め入ろうとすればできたのだが、後を夏侯淵と張部に託し、都に帰ってしまう。
劉備としても、戦略上、漢中を手に入れたい。少なくとも敵の手にあるのは困る。
そこで、まず張飛に命じて、張部の守る巴西を攻めた。砦にこもり、出てこない張部にてこずった張飛は、毎日酒を飲み、酔っ払って相手を油断させた。ついに張部が誘いにのって夜襲をしかけてきたので、それを待ち伏せて撃退、砦の奪取にも成功する。
劉備は定軍山に本格的な陣を張った。曹操軍も定軍山を取り囲むような陣を敷いた。指揮をとるのは、曹操の従兄弟でもある夏侯淵。張部よりもはるかに手強い相手である。
砦を失った張部は、あやうく打ち首になるところだったが、もう一度、チャンスを与えられ、劉備軍を攻める。
反撃に出るための劉備軍の軍議では、勝つためには、張飛に行ってもらうしかない、と決まりかかる。
ところが、それに待つたをかける老人がいた。黄忠である。「ぜひ、私に行かせてください」と言う。諸葛孔明は「そのお歳では難しいのでは」となだめるが、「ぜひ、私に」と言ってきかない。そこで、副将として厳顔をつけることで、黄忠に出陣命令が下った。厳顔もまたかなりの高齢だったが、この老人コンビが大活躍して、張部を倒す。
勢いづく黄忠は、今度もまた手柄を立てようと張り切っている。だが、孔明は、「今度はもっと強い相手なので、関羽でないと相手にならないだろう」と言う。黄忠は、それに抵抗する。「年といっても、まだ70になっていない。まだまだ戦える。そんなに言うのなら、今度は副将もいらない。1人で戦ってみせる」。そこまで言うならまかせてみよう、とまたも黄忠に出陣命令が出された。
これは、黄忠を発奮させ、普段以上の力を出させようとする諸葛孔明の計算だった。
孔明の狙いはあたり、黄忠は大奮闘する。プロ野球で引退間際のベテラン選手が優勝を決める一戦に代打で出て、ホームランを打つようなものかもしれない。つまり、この一戦は、2.諸葛孔明の人材登用術のうまさを象徴するものだった。
黄忠は主力部隊とは離れ、伏兵としての役割が与えられた。夜になると、劉備軍の主力は山を下った。夏侯淵の陣営は定軍山を取り囲むように長い柵を築いていたので、その東側を夜襲し、火攻めを仕掛けたのだ。
陣営の東側を守っていたのは張部、南側に夏侯淵がいた。東側が敵の夜襲を受けているとの報告を受けた夏侯淵は、張部にまかせたのでは危ないと思い、援護に向かった。そこに、伏兵として潜んでいた黄忠の部隊が突入してくる。まさに、奇襲である。夏侯淵の陣営は混乱し、分断された。
両軍入り乱れての白兵戦となり、黄忠は夏侯淵と一対一で戦い、見事、その首をとったのであった。
曹操率いる大軍が到着したのは、その直後だった。劉備は籠城作戦をとり、それは2ヵ月に及んだ。遠くから攻めてくる大軍にとって、長期戦は補給の問題が生じる。
曹操軍は二十万人もいたので兵糧が尽き、ついに曹操は撤退を決断。漢中は劉備のものとなったのである。
曹操が死ぬのは、その翌年であった。
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