孫策が周瑜と旗揚げして26歳という若さで死ぬまでの歴史

1.父の旧臣たちと旗揚げ
「孫堅」は黄巾賊討伐にあたり、家族を寿春にかくまった。長男の孫策は積極的に周辺の優秀な人材と交友を結び、広く人望を集めていた。

この噂を聞き、じょ県から「周瑜」が訪ねてきた。これを機に同い年のふたりは意気投合し、生涯を通じて深い絆で結ばれる。孫策とその家族は、周瑜の勧めでじょ県に移り住み、両家は家族ぐるみの付き合いとなった。

孫堅は基盤を持たないまま不慮の死を遂げたため、孫策が受け継いだのは旧臣のみで、父の葬儀を済ませると、孫策は「袁術」のもとに身を寄せた。

袁術は孫策を歓迎したが、怪戒心を緩めることはなく、どんなに功績をあげても兵や役職を与えることはなかった。そこで孫策は袁術からの独立を決意する。

劉ようにより曲阿を追い出された伯父呉景の救援を申し出て、兵千人と馬数十頭を借り受けた。

演義では、袁術が開いた宴会を途中退席した孫策が自分の境遇を嘆いていると、これを見た旧臣たちが孫堅の残した伝国の玉璽を袁術へ差し出し、兵を借りることを献策する。かねてから帝位への野心を持っていた袁術はこれに喜んで応じたという。


2.江東の小覇王の誕生
孫策挙兵の報を聞き、駆けつけたのが周瑜であった。孫策は旧友との再会を喜んだ。他にも孫策を慕う者たちが次々と加わるなどして、呉景のもとにたどり着いたときには、兵は5,6千人にまで膨らんでいた。

孫策は各地を転戦、連勝していった。 演義では戦うたび勝ち続けた孫策を、秦末に劉邦と天下を争った項羽にちなんで「小覇王」と呼んでいる。

また孫策の軍勢は強いだけでなく、軍規が整っていて略奪を一切行わなかったため、行く先々で人々から歓迎されることになった。そして江東の小覇王は、わずか22歳で江東を制圧したのだった。

197年、袁術が皇帝を僭称すると、孫策はこれを非難した手紙を送り袁術と絶縁。198年には朝廷から討逆将軍呉侯の称号を受ける。この頃「曹操」は、「呂布」と戦っていたために、孫策の江東までは手が回らず、積極的に婚姻関係を結ぶなど孫策には融和政策を取った。

演義での最期は、自分の領内で人望を集める宇吉仙人を斬り捨て、仙人の呪いによって絶命したとされるが、「正史」に記録されている姿は異なる。200年、曹操が「袁紹」と官渡で対決し、曹操の拠点・許昌が留守になると、この隙に急襲して献帝を救出するという計画を立てる。

出撃態勢は整っていたが、孫策がひとり馬に乗っているところを、許貢の食客に襲撃されてしまう。傷は深く、孫策は張昭ら重臣を呼んで後を託し、「孫権」に「賢臣を用いて江東を守るのは、おまえの方が優れている」と印綬を渡して死去する。26歳の若さであった。


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