孫堅は呉国の基礎を築くも気の緩みで早死してしまう

実績を積み重ね呉国の礎を築く!
孫堅は呉郡の出身。字を文台といい、中国古代の兵法家で兵法書孫子を書き記した孫武の末商といわれている。呉国を築きあげた「孫策」、「孫権」の父であり、実質的な呉国の祖といえる。

多くの武勲をあげたことで知られる孫堅だが、まず世に名を馳せたのは17歳のとき。

父に連れられて行った銭塘江で、海賊が商人を襲い金品を略奪しているところに出くわした孫堅は、あたかも配下を引き連れて来た官軍のような振る舞いで単身船に乗り込み、官軍が攻めてきたと勘違いして逃げ惑う海賊を追いつめ首をとったという。これ以来、孫堅の名は郡内に知れ渡り、17歳にして校尉に推挙される。

また、会稽郡で自らを「陽明皇帝」と称して許昌らが数万人規棋の反乱を起こした際には、民兵千人あまりを率いてこれを討ち破り、この功績が認められて塩とく県の丞に任じられた。

その後、肝胎県の丞、下那の丞を歴任するなど、順調に出世街道を駆け上っていた孫堅は、黄巾の乱においても活躍をみせ、よりいっそう名声を高めていった。

そうして黄巾の乱終結後に別郡司馬へ任じられた孫堅は、のちに長沙の太守となり、区星の反乱を鎮圧。江夏一帯を平定し、呉国の基礎を築くにいたる。


わずかな気の緩みが命取りに
190年、「曹操」の檄柵に応じて「董卓」討伐軍に参加した孫堅は、先陣に名乗りをあげ氾水関へ出陣。

氾水関を守る華雄の副将胡鯵を討ちとったが、兵糧の輸送を担当していた「袁術」が孫堅の力を恐れて兵糧を送らなかったために兵糧が尽き、討って出た華雄に敗れてしまう。

焔卓への恨みではなく義によって討伐軍に加わった孫堅はこれに激怒し、袁術へ理由を問い詰めるも、袁術は部下の首を差し出し許しを請うだけだった。なお、『演義』では孫堅が敗れたあと「関羽」によって華雄は討たれるが、「正史」では袁術と孫堅のやりとりはなく、孫堅が華雄を討ちとったとされている。

翌年、董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都すると、孫堅は洛陽へと軍を進める。そこで孫堅は董卓によって暴かれた歴代皇帝の墓の修復や墓への供え物をしており、ここでも義に厚い孫堅の姿を垣間見ることができる。

またこのとき、孫堅は井戸の中から伝国の玉じを発見する。しかしこれがもとで董卓討伐軍の長である「袁紹」に狙われることとなり、差し向けられた「劉表」軍を振り切り命からがら江夏へと逃げ帰った。

帰国後も怒りの収まらない孫堅は、袁術からの密書もあり、ついに劉表軍との決戦を決意。開城当初は勝利を重ねた孫堅だったが、連勝で油断したのか単騎で敵に迫ったところ、全身に石と矢を浴びせられ命を落とす。享年37歳の若さだった。


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