参謀にスポットをあてて三国の組織の違いをみてみよう。
魏の曹操は多くの参謀を抱え、これを手足のように使った。参謀として郭嘉、程いく、筍或、荀攸、徐庶、許收、かく、徐晃、劉曄、陳章らが名を連ね、曹操のための参謀団を構成していた。
曹操はことあることに彼らに諮り、よい意見はためらわずに採用した。ただし、彼は自らあふれるほどの知謀をもっており、参謀のいいなりになることはない。
したがって、参謀団とはいってもスタッフ組織とはいいがたく、一人ひとりが曹操の道具のようなものだった。
つまり、曹操は知勇兼ね備えた万能のリーダーであり、彼の下では参謀のあり方はしょせんこうならざるをえない。この点、呉の参謀団とは明らかに性格を異にする。
曹操は、ケースごとに参謀を使い分ける。役に立つとみれば、敵方だった男も参謀として重用し、用済みになった参謀は始末した。東北の大豪族袁紹を破ったのは、袁紹の参謀から寝返った許收の進言による。敵の兵糧を焼き打ちし、動揺したところを一気に急襲して袁紹の大軍を敗走させたのだった。
三国のうち、もっとも整備された参謀団をもっていたのは呉である。人格、武勇に秀でた英傑・孫権の下で、優秀な参謀が育った。
呉の参謀団は、すでにある程度、近代的な参謀組織の形態をとっていたように思われる。参謀として、周瑜、諸葛瑳、魯粛、呂蒙、虞翻、解綜、陸遜、厳峻、程徳枢などがいた。諸葛珪は諸葛孔明の兄である。ともかく、呉の参謀の層は厚い。
これらの参謀は機能分担し、それぞれの持場で活躍する。周瑜の策は、「赤壁の戦い」で魏を大敗させた。諸葛瑳は外交に冴えを見せ、魯粛は呉蜀同盟の成立に貢献した。呂蒙は、三国の必争点荊州の攻略に成功する。そこを守っていた蜀の勇将関羽を攻め、遂にこれを生け捕ったのだった。
呉の参謀団は、さらに横の連携をとって合議制を布いていたフシもある。諸葛孔明が呉を訪れたとき、彼と呉の参謀団との間に激論が交わされる。孔明は論戦に勝つのだが、ここでわれわれは、呉の参謀たちがチームプレーで難敵に当たったことに注目しなければなるまい。
蜀の場合には、諸葛孔明というスーパー参謀がいて、ほとんどすべてのことにわたって劉備を補佐した。ほとんどというのは、ほかに龍士元という参謀がいたからだ。彼は赤壁の戦いの前に、連環の計なる秘策を呉軍に伝え、これが戦いの勝敗を決する一因となった。また劉備に蜀への進攻を勧めたのも彼だったが、功をあせり進軍途中に落命した。
孔明は間違いなく参謀の天才だった。漢の再興を掲げ、三国鼎立の構想を立てそれを実現した点、並の業ではない。兵法、易、占星術、兵器・器械の発明技術など、技術万端にも通じていた。しかし、あえていうなら孔明一人が聟えていたため、下から参謀が育たなかったこともたしかだろう。
その証拠に孔明没後、蜀は袁運に向かい、三国の中でもっとも早く滅亡したのである。
このように、数多くの参謀たちが、自分たちのもち味をそれぞれ出して活躍する。この参謀たちの知恵比べも、「三国志」の読みどころの一つであろう。
ここで、忘れてならないのは、彼ら参謀たちは自然発生的に集まってきたのではないということだ。劉備、曹操、孫権ら各リーダーたちが、自分の目と耳で集めてきた人材だということである。
長たる者、自分の手足になる人間は、自分の目で選べということである。
サラリーマン社会のように、成り行きで上司が決まり、員数合わせで配属が決まるのとはわけが違うのだ。
上も下も、使うほうも使われるほうも、おのおのが命がけである。これからは企業そしてビジネスマンにも、こうしたシビアな感覚が必要ではないか。
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