三国志がより楽しくわかりやすくなる疑問や質問のまとめ

1.Q.郡とか県の違いとは
A.後漢から三国の時代に中国は14の州にわかれていました。その各州の中にいくつかの郡があり、さらにその各郡の中に県があります。

つまり、日本の行政区分と違って、わが国においては、県よりも郡のほうが大きいわけです。ちなみに、よく武将たちが自分のことを「○○の△△」と言いますが、○○に当たる部分が出身地であり、「常山の趙子竜」というように、たいていは郡の名前を用います。

これは、ちょうどあなた方が「広島県出身」というように、出身地を県名で言い、その下の市や町の名前で言わないのと同じ感覚なのだと思われます。


Q.「太守」と「刺史」ってどこが違うの?
A.たしかにどちらも地方を治める長官なのですが、州の長官が「刺史」、郡の長官が「太守」なのです。ゲームなどでは、自国全体を治める「君主」のすぐ下に、各領地を治める「太守」がいるので、どうしても「太守」のほうが聞き慣れているのかもしれんが、実は、州全体を統治し、各郡の太守を監督する役目を持った「刺史」のほうが偉いのです。


Q.80万もの軍勢はどうやって手に入れたの?
A.旗揚げ当時の曹操は、前半のライバルである袁紹などと比べると、決して有利な立場ではなかった。物語の序盤に菫卓軍と交戦したときなどは、わずか五千の手勢しか持たない群雄の一人にすぎなかったのである。

しかしその後、青州における黄巾軍の残党討伐を命じられ、他の諸侯とともにこれを鎮圧。この黄巾軍30万を「青州兵」として自らの配下に収めることに成功してから力をつけるようになる。曹操は正規軍と青州兵を巧みに使いこなし、呂布袁術、張ばく、劉備らと戦って勝利を収め勢力を拡大。200年には「官渡の戦い」で袁紹を破り204年ごろには中原をほぼ統一。この頃には80万近い兵を動員する力を得ていたのである。

この要因としては、皇帝を擁していたため、その威光で彼の軍門に降った有力者が多かったこと、兵糧確保のために屯田制度(兵自らが耕作をする仕組み)を実施したことなどが挙げられるだろう


2.Q.呉の水軍はどうして強いの?
A.中国は、大河である長江より北方には陸地が多く、南方には川が多い地形になっている。そして「南船北馬」といわれるように、北に住む人は馬の扱いを得意とし、南に住む人は船の扱いを得意とした。

つまり、北方を拠点とする曹操軍は騎馬戦を得意としていたが、水上戦の経験はほとんどなかったのである。

曹操率いる魏の水軍は、船酔いの兵が出るなど慣れていないことを窺わせる描写がある。一方の呉は水上戦を得意としたうえ、赤壁の地理にも詳しかった。周ゆや程普など呉の重臣は、魏軍が水上戦に不慣れなことを見抜いて、孫権に開戦を進言したというわけだ。


Q.役職にはどんなものがある
A.中央政府に常設される役職としてもっとも高い位なのが三公と呼ばれる「太尉」「司徒」「司空」だ。それぞれ、軍事、政治、土木を担当していました。その下に「九卿」と呼ばれる各種大臣のような役職があって、司法、外交、皇帝警護などのそれぞれの役割を担っていました。

武官では、「将軍」「校尉」「都尉」の順に偉く、なかでも「大将軍」だけは「三公」より上位にあたります。常設でない役職としては、曹操の野郎が復活させた「丞相」が、皇帝を補佐して国家全般を司る役職として実質的な国家の最高権力者です。

ほかでは、蜀の諸葛亮もこの職に就き、似たところでは、董卓が就いた「相国」も同じ。呉では「都督」が軍の大きな実権を握った。自分を筆頭に、魯粛、呂蒙、陸遜なんかがこの職に就いて諸将軍をよく統率し、呉の繁栄を築いたのです。
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