ほう徳は強く関羽を追い詰めた武将で曹操が配下にするためにとった行動とは

1.流浪の名将・ほう徳
ほう徳は「馬超」の配下で「どう関の戦い」においては、騎馬軍団を率いて曹操軍を大いに苦しめた武将である。

しかし、「曹操」の軍師「かく」の「離間の計」により軍の統制は乱れ、馬超の軍勢は壊滅。ほう徳は馬超を守りながら逃走の旅を続け、漢中の張魯のもとへと落ち延び再起のときを待つ。

やがて、「劉備」の軍勢が蜀を奪いに来ると、張魯と懇意にしていた「劉しょう」軍の助っ人として馬超が派遣される。しかし、ほう徳は病にかかりこれに帯同できなかった。

その後、曹操が漢中に攻め入ると、ほう徳が軍を率いて迎え撃つ。どう関での奮戦を知る曹操は「張こう」、「夏侯淵」、「許ちょ」らに次々と一騎討ちを挑ませるが、どれだけ戦ってもほう徳は平然としていた。

このあまりの豪傑ぶりに感心した曹操は、ほう徳を配下に引き入れたいと思うようになる。

そこで、張魯の部下の楊松を買収して虚言を流させ、ほう徳と張魯を険悪な関係にした。こうしてほう徳は少数の兵で出撃することになり、落とし穴の罠にはまってしまう。

ほう徳捕縛の報を聞いた曹操は、すぐに縄を解かせ礼を尽くした説得を試みると、さすがのほう徳もその行為には痛み入り、降伏を決断する。

その後、「曹仁」が守るはん城に「関羽」の大軍が迫ると、ほう徳は迎撃部隊の将として立候補した。

しかし、馬超が蜀に帰順してしまったため裏切りを懸念され、却下されてしまう。それに対しほう徳は、棺桶を作って「これに入るのは関羽か己自身である」といい切り、覚悟の堅さを皆に見せつけた。

この行為に感激した曹操は関羽攻めに帯同することを承諾。総大将を「于禁」、副将をほう徳とし、はん城の救援に向かわせる。

ほう徳の覚悟の堅さは本物で、一時は関羽を追いつめ、左腕に矢傷を負わせることにも成功した。

しかし、功を焦った于禁が徹退命令を出し、その隙を突いて関羽が水攻めを敢行。魏のほとんどの兵がこれに飲み込まれ、于禁は捕縛。

ほう徳は船に乗り最後まで抵抗するが、水軍に長けた周倉に船を沈められ、こちらも捕縛されてしまう。 関羽は両者に降伏を迫るが、情けなく命乞いをする于禁に対し、ほう徳は堂々とした態度でこれを拒否。打ち首の沙汰が下され、その生涯に幕を閉じた。


2.正史では白馬に乗った将軍
『正史』におけるほう徳の活躍は、基本的に演義と変わらない。ただ、「はん城の戦い」の際には白馬に乗っていたことから関羽の軍の兵たちから「白馬将軍」と呼ばれたり、関羽に負わせた矢傷が左腕ではなく実は額だったりと、「正史」のほうが若干華々しい。

活躍期間自体は短い武将だが、その戦いぶりと潔い散り様は、とても印象に残りやすく、三国志の長い歴史のなかでひときわ燦然と輝いている。


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