ほう徳は「馬超」の配下で「どう関の戦い」においては、騎馬軍団を率いて曹操軍を大いに苦しめた武将である。
しかし、「曹操」の軍師「かく」の「離間の計」により軍の統制は乱れ、馬超の軍勢は壊滅。ほう徳は馬超を守りながら逃走の旅を続け、漢中の張魯のもとへと落ち延び再起のときを待つ。
やがて、「劉備」の軍勢が蜀を奪いに来ると、張魯と懇意にしていた「劉しょう」軍の助っ人として馬超が派遣される。しかし、ほう徳は病にかかりこれに帯同できなかった。
その後、曹操が漢中に攻め入ると、ほう徳が軍を率いて迎え撃つ。どう関での奮戦を知る曹操は「張こう」、「夏侯淵」、「許ちょ」らに次々と一騎討ちを挑ませるが、どれだけ戦ってもほう徳は平然としていた。
このあまりの豪傑ぶりに感心した曹操は、ほう徳を配下に引き入れたいと思うようになる。
そこで、張魯の部下の楊松を買収して虚言を流させ、ほう徳と張魯を険悪な関係にした。こうしてほう徳は少数の兵で出撃することになり、落とし穴の罠にはまってしまう。
ほう徳捕縛の報を聞いた曹操は、すぐに縄を解かせ礼を尽くした説得を試みると、さすがのほう徳もその行為には痛み入り、降伏を決断する。
その後、「曹仁」が守るはん城に「関羽」の大軍が迫ると、ほう徳は迎撃部隊の将として立候補した。
しかし、馬超が蜀に帰順してしまったため裏切りを懸念され、却下されてしまう。それに対しほう徳は、棺桶を作って「これに入るのは関羽か己自身である」といい切り、覚悟の堅さを皆に見せつけた。
この行為に感激した曹操は関羽攻めに帯同することを承諾。総大将を「于禁」、副将をほう徳とし、はん城の救援に向かわせる。
ほう徳の覚悟の堅さは本物で、一時は関羽を追いつめ、左腕に矢傷を負わせることにも成功した。
しかし、功を焦った于禁が徹退命令を出し、その隙を突いて関羽が水攻めを敢行。魏のほとんどの兵がこれに飲み込まれ、于禁は捕縛。
ほう徳は船に乗り最後まで抵抗するが、水軍に長けた周倉に船を沈められ、こちらも捕縛されてしまう。 関羽は両者に降伏を迫るが、情けなく命乞いをする于禁に対し、ほう徳は堂々とした態度でこれを拒否。打ち首の沙汰が下され、その生涯に幕を閉じた。
2.正史では白馬に乗った将軍
『正史』におけるほう徳の活躍は、基本的に演義と変わらない。ただ、「はん城の戦い」の際には白馬に乗っていたことから関羽の軍の兵たちから「白馬将軍」と呼ばれたり、関羽に負わせた矢傷が左腕ではなく実は額だったりと、「正史」のほうが若干華々しい。活躍期間自体は短い武将だが、その戦いぶりと潔い散り様は、とても印象に残りやすく、三国志の長い歴史のなかでひときわ燦然と輝いている。
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