太史慈は孫策との一騎討ちで引き分けて呉に仕えた

文武に優れた弓の名手
「孫策」の代から呉に仕えた名将。七尺七寸(183センチ)の長身で、弓を持てば百発百中という腕前だった。

太史慈が21歳のとき、東らい郡と管轄する青州の間で紛争が起こり、東らい郡から朝廷の使者に選ばれた。

太史慈は機転を利かせて、州の使者よりも先に上奏したため、東らい郡に有利な形で事案は処理されたが、州から恨みをかってしまい、遼東に身を隠すこととなった。これを聞いた北海の相、孔融は太史慈を見込んで、彼の母親のもとに遣いを送って見舞ったという。

194年、孔融の都しょう城が黄巾賊に包囲された。このとき、たまたま帰郷していた太史慈は、孔融が母親の世話をしてくれたことを知り、単身で都出城に駆けつける。

夜陰に紛れて城内に入り、再び城を脱出して、当時平原の相をしていた「劉備」から兵3千人を借り受けて、城内と呼応して黄巾賊を蹴散らして孔融の危機を救い、母親が孔融から受けた恩義を返した。孔融は太史慈を「私の若い友人だ」として深く感謝した。


孫策との間に芽生えた深い絆
その後、太史慈は揚州刺史で同郷の劉ようのもと(曲阿)を訪ねる。劉ようは偵察任務しか与えなかったが、このことが太史慈の運命を大きく変えた。孫策が曲阿に兵を進めてきたのだ。

ある日、太史慈が部下ひとりを連れて偵察に出ていると、同じく部下13名を連れた孫策と遭遇する。ふたりは一騎討ちとなり、激しく打ち合った。

だが、武器と馬を失って素手で殴りあっても決着がつきそうにない。やがて両軍の兵が駆け付け、引き分けに終わる。その後、劉ようが敗れると、南部山中で兵を集めようとしたが、孫策に捕えられてしまう。

孫策は太史慈の縄をとき、配下になるように命じる。それに対して、太史慈は劉ようの敗残兵を集めたいと申し出た。孫策の家臣たちは、太史慈は信用できないと反対したが、孫策は快諾する。

そして約束の日の夕刻、太史慈は兵を連れて孫策のもとに戻り、忠義を示した。このエピソードは「演義」の創作であるが、「正史」にも、孫策と引き分けになった一騎討ちが激しかったこと、孫策が太史慈に劉ようの配下の兵士や民衆1万余の鎮撫を命令し、見事に応えたことが記載されている。

太史慈は「孫権」の代になっても活躍し、赤壁の戦いでは「曹操」を猛追撃し、曹操の肝を冷やさせた。

208年、合肥の戦いで、「張遼」と激戦を演じるが、「李典」、「楽進」により後退させられる。負け戦で終わりたくない太史慈は城内のスパイと呼応して攻勢に出る。

だが、張遼に作職を読まれていたため、城内に誘い込まれてしまい、矢を浴びて命を落としてしまう。『正史』によると、206年、天下統一の志を抱きながら41歳で病没したと記録されている。


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