孫夫人(孫尚香)は男勝りな性格で武術に長けていた

周瑜の企みは諸葛亮に破られる
「孫堅」の第二夫人の子で「孫策」、「孫権」の妹にあたる。本名を孫仁といい、孫尚香という名でも知られている。幼い頃から武術を好む男勝りで、部屋には武具が並べられていた

演義」に孫夫人が登場するのは、「赤壁の戦い」後まもなくのこと。孫権は荊州を奪って返そうとしない「劉備」に腹を立て、なんとかとり返せないものかと考えていた。

そうしたとき「周瑜」が、孫権の妹を嫁がせるという口実で劉備を呉に呼び出し、暗殺してしまえばよいと策を授けたのだった。ちょうど先の「長坂の戦い」で甘夫人を亡くしていた劉備は、これが罠であることに気がつきながらも、「趙雲」をともなって呉へ赴くこととなる。このとき「諾葛亮」は、趙雲に秘策を書き記した3つの袋を手渡していた。

呉に到着した劉備一行は、諸葛亮に授けられた袋をひとつ開き、指示に従って孫権の義父である喬国老に挨拶へ出向いた。

すると、劉備と孫夫人の婚礼の話は喬国老から孫権の母呉国太へともたらされ、劉備は呉国太に目通りすることになる。呉国太は一目で劉備を気に入り、暗殺を企んでいた孫権をしかりつけた。

これによって周瑜の計画は破綻し、劉備と孫夫人は無事に婚礼を終えたのだった。 婚礼後に孫夫人の部屋を訪れた劉備は、異様な風景に驚き、武具を取り除くよう頼んだ。このとき孫夫人は「半生を戦場で過ごしながら、このような物が怖いとは」と笑って、それらを片付けさせたという。


夫の死を聞き長江に身を投じる
劉備の暗殺に失敗した孫権は、劉備を呉に留め、宮殿や女中を与えて骨抜きにしようと企むも、諸葛亮が趙雲に託した秘策によって劉備は我を取り戻す。そうして劉備は孫夫人とともに宮廷を抜け出し、荊州へと帰っていった。

212年、孫権は劉備が蜀へ侵攻している間に荊州を奪おうと考えるが、妹の孫夫人が荊州にいるため手が出せない。そこで孫権は母の呉国太が重病と偽り、孫夫人を呼び戻そうとした。これを信じた孫夫人は阿斗とともに船で呉へ帰ろうとするも、途中で趙雲に追いつかれる。

さらに張飛も駆けつけて孫夫人の説得にあたるが、孫夫人が身を投げようとしたために説得を諦め、阿斗だけを救い出した。そうして孫夫人はひとり呉へ帰っていった。

呉に戻った孫夫人だったが、劉備への想いは薄れておらず、劉備のところへ帰りたいと漏らしていたことが、「諸葛きん」によって伝えられている。

しかし蜀と呉が戦争をはじめ、劉備が戦死したとの噂を聞いた孫夫人は、車で長江のほとりまでくると、涙を流し長江に身を躍らせ命を落とした。なおこの噂は誤りであり、劉備が亡くなったのはその翌年である。


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