甘寧が賊の頭領から孫権の信頼を得るまで活躍した出世術が面白い

錦帆賊の頭領から仕官へ昇進
若い頃は、巴郡近隣の無頼漢を集めて「錦帆賊」を名乗り、頭領を務めていた甘寧。仲間の証として、水牛の尾のさし物と鈴をつけたので、鈴の音が聞こえると、甘寧が来たと恐れられた

自分たちの縄張りで事件が起こると、甘寧が摘発と処罰に当たり、郡の役人も甘寧には手出しできなかった。のちに歴史に名を残したいと思うようになり、学問を志す。

194年、800余人の子分を率いて、荊州の「劉表」の配下となったが、劉表には中原へ進出する野心はなく、甘寧を失望させた。そこで甘寧は劉表に見切りをつけ、江東の「孫策」に会おうとするが、夏口で太守の黄祖に足止めさせられてしまい、黄祖の配下につくこととなった。

203年、「孫権」が父「孫堅」の仇である黄祖の討伐に乗り出すと、甘寧は孫権配下の凌操を倒し、黄祖軍の危機を救ったが、この活躍が黄祖に認められることはなかった。

夏口で飼い殺されるような生活を送ること3年、甘寧の不遇を憐れんだ蘇飛は、ちゆ県の県長に推薦する。これには任地に赴くふりをして夏口から逃げろという意味があった。黄祖に承認されると、甘寧は念願叶って江東へと進んだ。


真の主君を得て力を存分に発揮する
孫権は甘寧に会うと、「周ゆ」「呂蒙」ら旧臣と同様に彼を扱った。甘寧は「劉表親子には将来の展望がなく、黄祖も軍規が乱れている。黄祖を討ち、西の楚関を占領すれば益州を奪うことも可能」と、天下を二分して曹操と対決することを献策し、孫権が自ら出兵することを願い出た。張昭はこれに反対だったが、孫権は「今年の征討は君に任せよう」と答えた。

孫権としては、自分は残るが、甘寧の策には賛成と、甘寧と張昭の両方の顔を立てたのだった。甘寧は夏口を攻めて黄祖を討ち、恩義を与えてくれた蘇飛を助けるという厚い友情も見せた。

赤壁の戦い」では、偽りで投降してきた祭中を使い、敵陣深くに潜り込んで火を放ち、逃げる「曹操」を追撃して大打撃を与えるなど活躍した。

212年、濡須で曹操軍40万の大軍と対陣したときには、前都督(先鋒部隊長)となり、100余人の決死隊を率いて夜襲をかけ、敵数十の首級を挙げて一兵も損じることなく帰還。

孫権を「曹操に張遼あれば、我に甘寧あり」と喜ばせた。215年、合肥に出陣してしょうよう津で張遼の急襲を受けたときには、逃げ腰の軍楽隊に活を入れて兵士を励まし、呂蒙、蒋欽、凌統らとともに最後まで踏みとどまって孫権を守り通した。

正史」には甘寧の没年が書かれていない。 「演義」では、222年、劉備の東征のとき、病をおして出陣。沙摩かに頭部を射られて死去したとある。


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