夏侯淵は曹操の信頼も厚く兵糧の輸送と馬超戦で活躍


兵糧の輸送で軍を支える
魏軍では最古参のひとりである夏侯淵は、「曹操」が旗揚げしたときから付き従った武将で、同姓の「夏侯惇」とは従兄弟である。

徐州にいた「劉備」の攻略や「袁紹」との戦いに従軍して活躍したが、それ以後しばらくは登場していない。

正史の魏書によれば、袁紹を討ち破ったのちは兵糧輸送の監督を任されており、以後しばらくは各地の賊を討伐していたようである。

のちに魏を打ち建てた曹操も最初は小さな一勢力に過ぎず、いつどこから攻められてもおかしくない状況であった。そういった中で遠征するには、本拠地に信頼できる人物を残しておく必要があったはずである。

姓は異なるが、夏侯淵は曹操とは同じ一族であり、曹操が夏侯淵に兵糧の輸送を任せていたのは、曹操の信頼が厚かった証であると考えられる。 こののち、「長坂の城い」や「赤壁の戦い」にも従軍したが、とくに目立った活躍はなかったようだ。


西方の討伐で大いに活躍する
赤壁で敗北したのち、かねて建築中であった銅雀台が完成したので、曹操は大々的に祝賀会を開くことにした。

曹操は武官たちの弓の腕が見たいと思い、錦の直垂を賞品として騎射の試合を行 った。このとき張部や曹体、曹洪、文ぺいらが矢を射て、次々と的の真ん中に当てて見せたが、夏侯淵はこの4人が射た矢のど真ん中を射て見せた。

弓術に関して、夏侯淵は魏軍の中でも屈指の腕前だったといってよいだろう。 「馬超」が「韓遂」らと軍を起こすと夏侯淵もこれに従い、馬超の猛攻で討ち取られそうになった曹操を救った。

馬超を討ち破ったのち、夏侯淵は長安の守備を任され、2年後に馬超が再起をはかったときも、軍を率いてこれを討ち破っている。

馬超はきょう族の支援を受けていたが、正史によれば夏侯淵はきょう族から非常に恐れられており、曹操がきょう族を引見するときは、いつも夏侯淵を脅しの材料にしていたという。

曹操が漢中の平定に乗り出すと、夏侯淵は張部とともに従軍し、一度は失敗を犯したものの陽平関と周囲の砦を攻略することに成功した。

こののち、「張飛」と劉備に降った馬超が下弁へ進出すると、曹洪に従って張こうとともに迎撃にあたった。夏侯淵は要害を守備していたが、張こうが討ち破られて兵を失ったため、曹洪は曹操に救援を求める。夏侯淵は、定軍山に陣を振って堅く守っていたが、曹操の命で進軍したところ「黄忠」との戦いで斬られてしまった。


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