夷陵の戦い|劉備の仇討ちで蜀が滅びるきっかけに

1.夷陵の戦い―劉備の仇討ちはどこでしくじった?
222年/○孫権VS●劉備

義兄弟の関羽が孫権軍によって殺されてしまったことで、劉備は仇討ちを決意した。その出陣を何よりも喜んでいた張飛も、開戦直前に部下に殺されてしまう。劉備は、いまふうにいえば、完全にキレていた。

開戦直前、呉からは関係修復のための書状が届いており、蜀にとってかなり有利な条件だったので、諸葛孔明をはじめとする参謀たちが戦争に反対した。だが、「損得ではない。関羽の弔い合戦をするのだ」と劉備は制上を振り切って、出撃した

孫権は、劉備との和解を諦めた。こうなったからには、魏との関係を強化するしかない。曹操の死後、帝国となっていた魏に対し、臣従を誓い、主従関係を結んだのである。こうなれば、呉が攻撃された際、魏には助ける義務が生じる。日米安保条約のようなものである。
劉備の軍勢は、最初の交戦地である巫城で勝利すると、快進撃を続けた。

荊州の入り口である夷陵を目指し、長江の南側を山に沿って進み、一定の間隔のところに仮設の城を築き、補給路を確保していった。
迎え撃つ呉軍の司令官は陸遜である。陸遜は、味方から無能なのではないかと噂が立つほどずるずると後退を続け、ついに夷陵まで下がってしまった。

だが、これこそが2.陸遜の戦略であった。蜀軍は、300キロにわたる長い陣となっていた。これまでの失敗から補給路の確保をするために、逆に長大な陣となってしまったのだ。

夷陵に到達した劉備を陸遜が待ち構えていた。しかし、攻めてこない。劉備もしばらく様子を見ることにした。睨み合いが始まった。ところが、それは4ヵ月もの長期にわたってしまった。決戦の火蓋を切ったのは、陸遜だった。夜、急襲し火攻めしたのである。長期にわたる睨み合いで蜀軍が疲労し、油断するのを待っていたのだった。

蜀軍の陣営が次々と燃え落ちる。別働隊が退路を遮断。劉備は何が起こったのかも分からないまま、逃げることになった。完敗である。
数万の兵を失い、ごく少数の供だけを従えて、蜀の領土に辿りついた劉備は、白帝城にこもる。そして病に倒れ、都である成都に帰ることもなく、亡くなった。


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