曹丕は魏国の初代皇帝で優れた治世と冷血な面があった

幼少から文武に秀でていた魏の初代皇帝
父「曹操」の跡を継いで魏王となり、のちに魏国の初代皇帝として君臨した文帝・曹丕。

曹丕が誕生したとき、空には青く丸い雲が浮かんだといわれ、あたかも彼が天恵を授かったかのような不思議な現象が起きたという。

以降、英才教育を受けた曹丕は幼少期から非凡な才能を発揮し、6歳にして左右両方から矢を射る弓術を極め、学問においても巧みな文章を綴り、古今の経書や諸子百家などにも広く通じた文武両道の神童だった。

しかし、曹操は曹丕を評価しながらも後継者選びに迷い続けていたようだ。とくに曹操は、次男の曹丕よりも四男の曹植を寵愛したといわれ、のちに詩聖と呼ばれた曹植の文才を高く評価していた。

このほかにも各兄弟に仕える側近たちの権力争いがあり、曹丕が魏の太子に選ばれたのは曹操が亡くなる3年前、つまり217年のことであり、このとき曹丕は31歳となっていた。


優れた治世と冷血な一面
曹操の死後、魏王となった曹丕は、すでに形だけの帝位となっていた後漢王朝・献帝の禅譲を受けて魏国の初代皇帝となった。

このときの様子は、演義では脅迫して帝位を奪ったように書かれているが、戦乱の世における禅譲という行為は極めて穏便だとも解釈でき、以後の中国史でも平和的な王朝交替の手段として禅譲が用いられるようになった。

とはいえ、後漢の滅亡と魏王朝の誕生は対抗勢力である蜀と呉に大きな影響を与えている。魏を正統な王朝と認めない蜀と呉では、221年に「劉備」が蜀皇帝を、229年には「孫権」が呉皇帝を名乗ったのだ。

曹丕の即位は、三国鼎立という混迷の時代を招く要因となったのである。さて、魏を任された曹丕の治世だが、独善的だった曹操に比べても非常に優れていたとされる。

まず、古くから王朝の衰退を招く原因となっていたかんがいの地位に上限を設けたほか、官吏の採用には才能を第一優先し、外征を控えて国力の上昇に努めている。

また、病人や困窮者には食糧を支給するなど、魏の名君として手腕を振るった。しかしながら曹丕は、私怨を抱く相手に対しては極めて無慈悲であり、その様子は「演義」でも強調して描かれている。

なかでも有名なのは、実弟である曹植に対する冷遇だろう。曹操の死後、後継者争いのライバルだった曹植に対して自身への礼節を欠いたと糾弾し、「七歩歩む間に一首つくれ。できなければ処刑する」と脅している。

このとき曹植は優れた詩を詠んで処刑を免れているが、閑職に回されたばかりか幾度となく国を移らされた末に命を落としている。ほかにも曹植同様、弟の曹彰や同族の曹洪をも抑圧したことで結果的に曹一族の力を弱めてしまい、魏滅亡の原因をつくったともいわれている。


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