劉表は穏やかな性格で乱世でも常に中立姿勢を貫く


後継者を明確にできないまま悔いを残して死去
劉表は「劉備」や「劉璋」と同じく、漢王朝の一族である。幼い頃から人付き合いを好み、7人の名士と友人になっていたため、「江夏の八俊」と評された。

しかし、ほかの群雄に比べると穏やかな性格だったようで、玉璽を巡って「孫堅」と争った以外は、大きく軍を動かすこともなかった。

自ら進んで「曹操」とは戦わなかったが、許昌の襲撃に失敗した「劉備」が身を寄せると、同族のよしみで保護することとなった。

しかし、優柔不断な面を持つ劉表が、後継者問題を劉備に相談したため、後妻の一族である蔡瑁が劉備を殺そうとうするなど、一族をまとめる力すら危ういという状況を露呈してしまった。

結局、次男の劉そうを推す蔡一族の影響を拭いきれず、劉表は長男の劉碕を立てられないまま病で亡くなり、みすみす曹操に領地を献上することになってしまうのであった。


乱世にあっても中立姿勢を貫こうとした
山陽郡出身。漢王室の一族に連なり、清流派の名士として八俊の一人に挙げられるほどの名声を誇っていた。

彼は孫堅が殺した荊州刺史王叡の代わりとして、董卓より荊州刺史に任命されている。当時荊州は、反董卓連合軍の戦いを受け、無政府状態にあった。劉表はまず、荊州の州都ではなく宜城に入り、当地の豪族である蔡瑁らの協力を得て荊州の秩序を回復。その後、劉表は荊州の平和維持に腐心し、乱世にあっても常に中立姿勢を貫こうとした


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