公孫さんは容姿端麗で白馬義従を率いて袁紹と戦う

公孫さんについて
幽州遼西郡の出身。初めは鮮卑など、異民族の征伐で名を上げた。「演義」では好人物のように描かれている彼だが、史実では野心に満ちた、勇猛だが粗暴な人物として記述されている。

彼は幽州の支配権をめぐり皇族である劉虞と対立。反董卓連合軍のとき、董卓の擁立する献帝に代わって、袁紹が劉虞を擁立しようとするのに反対し、袁術側についた。

その後、劉虞を捕らえて殺し、幽州を支配する。 常に北より袁紹を脅かし続けるが、199年に易京に追い詰められ、妻子ともに自害している。


公孫さんは白馬を好み、親衛隊として白馬で統一した騎馬部隊を編成している。白馬義従と呼ばれた精鋭部隊は、異民族との戦いで大いに活躍し、白馬将軍という異名で恐れられた。


袁紹に敗れたのち妻子とともに自害
容姿端麗で頭が良かったという公孫さん。 「劉備」とは若い頃にろ植のもとで学んだ学友であり、太守となったあとも幾度となく行動をともにしていた。また白馬将軍と呼ばれるほど馬術に優れ、騎射の得意な精鋭を選りすぐって組織した白馬の騎兵隊「白馬義従」を率い、多くの武勲をたてたことでも知られている。

演義では「董卓」の討伐に応じた十七鎮のひとりとして登場。討伐軍解散後には「袁紹」に誘われて翼州に兵を向けるも、策にはまり糞州は袁紹のものとなる。怒った公孫さんは袁紹に戦いを挑んだが、頼みの白馬義従が破られ敗戦。その後は駆けつけた劉備や「趙雲」らの加勢もあって善戦するが、結局決着はつかず董卓の仲裁で和解した。

しばらくすると、一度は和解した袁紹との争いが再び勃発。敗戦を重ねた公孫さんは城を築いて籠城したものの、戦場に取り残された部隊を見捨てたために兵は次々と袁紹へ投降してしまう。最後は城に火を放たれたために、妻子を殺し自害し果てた。


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