三国志の乱世のはじまりと覇業に向け立ち上がる曹操と袁紹

覇業の始まり
曹操と、袁紹など諸侯との決別。それは「漢朝護持」という建て前を貫き通すかどうかをめぐる分岐でもある。国家観をめぐる分岐と言ってもいい。
曹操ですら、純粋に漢朝護持を思っていたわけではないと思う。
他に拠るべきものを持たず、尊皇という思いにかけるしかない劉備とは違うのだ。何より、宦官や姦臣の専横、腐敗堕落を正す力も、意志もない王室の実態を見すぎてきた。血筋を引いていれば誰でもいいわけではない。

ただ、大事なのは歪められた国の形を正すこと。国の形の根本とは王朝である。その王朝が今危機に瀕している。従ってまず建て前でも漢朝護持を貫き通すべし。それが曹操の思いだったのではないか。
しかし、袁紹など既得権にどっぷりひたっていた諸侯たちには、国の形について曹操のような危機感がない。大事なのは混乱を回復させること。場合によってはその手段として王族の皇帝擁立もあり得る。実際、袁紹は後漢の初代皇帝・光武帝の血を引く幽州刺史、劉虞擁立を図る。皇帝も道具。「漢朝護持」はもはやまったくの建て前たった。

曹操と袁紹のどちらの国家観が正しかったのか、違う国違う時代に生きるぼくたちにはわかりようがない。しかし命がけで意地と名分を通した曹操に、「奸雄」という言葉とは裏腹な印象を抱いてしまう。
曹操が反董卓連合軍と決別した、一九〇年の初頭。敗残の曹操軍はその数わずか数百人にまで減っていた。董卓討伐、後漢の国の乱を治めるという、一度やろうとし一人でもやると宣言したことを実現するには、力を蓄えねばならない。それもIから出直しを迫られた曹操は、南部の揚州あたりまで出向いて新たに兵を募集し、中原のほぼ中央に位置する豫州や竟州の各地に駐屯しつつ、兵を養った。
ただし、時間はなかった。董卓はその間、ますます暴虐の度合いを増していた。袁紹は着々と、王族の劉虞を献帝とは別の皇帝に擁立する計画を進めていた。必然、曹操は戦いながら大きくなるという道を選ぶ。戦って、勝つ。そして支配地を拡げるとともに、捕虜や降伏してきた兵士を自軍に組み入れるのである。必要に迫られて選んだ、力で押し通す覇者の道、儒家の嫌う覇道だが、指摘されても曹操なら笑い飛ばしたことだろう。皇帝ならぬ一介の武人がこの乱世を正そうと思ったとき、他に道があるかと。
その時期から曹操は、兵や武将だけでなく、荀或を筆頭として文官の人材も熱心に集めている。荀或はそれまで袁紹の下で文官として働いていた人物だった。使えると見た曹操はいきなり司馬(軍の部隊長)に任命。以後荀或は曹操の参謀役として行動を共にし、兵站面や後年には民政でも貢献したとされる。荀或の登用は、甥の荀攸や博学多才の程・、軍略に優れた郭嘉など、多くの一流の人材を集めることにもつながっている。
劉備の下の人材は武人が圧倒的で、文官ではようやく諸葛亮孔明にめぐりあえたというところがある。「治世の能臣」曹操は文官の重要性もよく意識し、しかも武人の才能以外を見極める目もあったということだろう。
やがて、曹操に大きな転機がやってきた。

曹操が豫州北隣の竟州に拠点を置くようになっていた一九二年半ば、黄巾の乱を起こした太平道の勢力が再び盛り返し、竟州の東で海沿いの青州から百万人の規模で竟州になだれ込んできた。それを青州黄巾軍と呼ぶ。
青州黄巾軍は、黄巾の乱と同じく、後漢王朝の終わりと太平道の時代の到来を叫ぶ民衆反乱勢力だ。しかし、官の討伐部隊と長く戦ってきた上、前年には中原の北西辺で勢力を蓄えてきた公孫纜の軍と戦うなど、正規軍を相手にした戦闘も経験していた。強かった。迎え撃った交州牧の劉岱は、あっけなく返り討ちにあう。残された劉岱の配下は、曹操に竟州牧就任を要請した。守ってほしいということである。

曹操が動員できる兵力は劉岱の軍を合わせても、三万。しかも今回は前のように各地で蜂起した相手を個別撃破するわけではない。百万をまとめて相手にする戦いだ。考えどころだったはずだが、曹操は申し出に応じる。
しかも撃って出て、三十倍を超える数の敵と対峙した。局地戦で勝利をおさめたが、すぐに膠着。が、長い交渉の末に降伏させた。曹操は勝った。転機とは、しかし勝ったこと自体ではない。勝った結果、子どもから老人、女性まで含む青州黄巾軍百万人中の三十万を超える壮年男子から、精鋭を曹操軍に組み込んだことを指す。降兵は普通なら別々の部隊に分けて配置するが、あまりの多さにできず、一部隊として「青州兵」と呼んだ。大量の青州兵の加入で、曹操は一躍、当時の群雄の中で最も有力だった袁紹に次ぐ軍事力を得た。
十分な数の兵士、覓州という根拠地、支配地を経営し兵站を確保する人材。曹操は必要だったものすべてを得た。覇業が始まった。