英雄の素質がある曹操のコンプレックスとは

1.英雄が英雄になるとき
曹操は、その董卓と最も苛烈に戦おうとした男である。
生まれは、中原のほぼ中央、洛陽の南東に位置する豫州。まだ霊帝の御代の175年に洛陽に上り、帝都の治安担当士官となった。潔癖な性格で、非があれば高官でも厳しく処断した。

黄巾の乱が勃発すると騎都尉(近衛騎兵隊長)として討伐軍に加わり、功績を挙げて国の相(王族独立領の行政長官)に任せられたが、その後病気を理由に故郷に引きこもった。『正史』裴松之の注からは、洛陽では貴族、外戚、宦官の専横を目の当たりにし、地方でも官吏の腐敗堕落を目にして、やる気を失った様子が見て取れる。

しかし皇帝直属の武官職「西園八校尉」新設にあたって召し出され、董卓入城時は洛陽にいた。
董卓入城後の曹操の行動を見よう。

少帝廃位を見るや、直ちに洛陽を脱出。3か月後には故郷で五千の兵を集め、董卓を追討すべく挙兵。各地の武将に檄文を送って挙兵を促し、翌月、袁紹ら諸侯が連合した反董卓軍に合流。

しかし竟州・酸棗に集まった連合軍はなかなか動こうとしない。名門出身の実力者袁紹を盟主に定め、各軍を要所に配置しただけで、毎日軍議と宴を繰り返すだけだった。戦う構えが見えない。曹操は激発し、軍議で叫ぶ。

「正義の軍を起して暴乱をこらしめるのだ。大軍勢がすでにせいぞろいしているのに、諸君は何をためらっているのか」(『正史』「魂書・武帝紀」)
自陣に戻ると五千の寡兵だけで出撃した。無謀な出撃だった。董卓軍の将、徐栄の大軍に遭遇し、敗れた。

兵のほとんどを失った。自らも負傷して馬を失い、包囲され殺されかけたほどの、散々の負け戦だった。
負傷した姿のまま軍議の場に戻った曹操は、諸侯に改めて呼びかけた。
戦おう、勝つ手はまだある。それでも諸侯は動かなかった。

諸侯の肚の内を言葉にすればこうなる。董卓は懲らしめるべきだが、拙速は愚だ。なにしろ我々はお前さんと違って、負けたら失うものが多すぎるんでね。袁紹をはじめ諸侯の多くが官から任命された郡太守や州刺史(どちらも地方行政官)で、地方に豊かで広大な支配地があった。大軍で対峙している限り、董卓にその支配地を侵される懸念はないし、将来の自領侵略への警告にもなる。急いで曹操が言う決戦をする必要はなかった。

袁紹などは、その間に、王族の一人を新しい皇帝に立てようと画策していた。名分さえ立てば、漢の皇帝は何も、董卓が押さえている献帝でなくてよかったからだ。

結局、曹操の主張は受け入れられなかった。反董卓の戦いは、献帝が長安に移され、洛陽が焼かれて、一度も大決戦が行なわれないまま戦線が分散していく。曹操は相当悔しかったに違いない。このときの主張が、曹操を曹操にしたのだと思っている。

それにしても曹操とは、純粋すぎるほど純粋だと思わないだろうか。その純粋性はおそらく、曹操の出自に由来している。「曹騰が中常侍・大長秋となり、費亭侯に封ぜられた。

養子の曹嵩が爵位をつぎ、曹嵩は太祖(曹操)を生んだ」(『正史』「魂書・武帝紀」)「中常侍」は宦官の官名だ。曹操は宦官の家系だった。宮廷の腐敗堕落、ひいては後漢袁退の元凶とも目されていた、宦官。曹操には汚濁にまみれた家系に生まれたという思いがあったのではないか。そのコンプレックスが、曹操を宦官というものと対極にある純粋性のほうに駆り立てたのである。


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