曹植の天才的な文学の才能を買って曹操は後継者にしようとするが…

曹植
192~232年
曹操の第四子として生まれる。10歳で「詩経」、「論語」、「楚辞」といった士太夫の基礎教養を修め、数十万文字にわたる文章を暗語したという天才児であった。

幼少時より文章を綴るのが得意で、年不相応な文を見た曹操が「誰か人に頼んで書いてもらったのか?」と聞いたのに対し、「言葉が口から出れば議論となり、筆をとれば自然に文章となります。人に頼んでいるのかどうか、目の前で試してみてください」と答えている。

まさに、文学の申し子であった。長じてからは銅雀台での宴で詩作を発表するなど、曹操の築いた文学サロンの寵児として活躍する。文人趣味のある曹操は彼の利発さを寵愛し、何度も曹丕ではなく曹植を後継者としようか迷ったという。

しかし、彼はいかにも文人らしく、飲酒に節度がなく、行動は気ままで、だらしがなかった。

たとえば曹仁が関羽の攻撃を受けたとき、曹操は曹植に救援軍を率いさせようと考えた。しかし、その辞令を彼は酔っ払って受けることができなかったという。

要するに彼は天才的な文学の才能を持っている代わりに、政治や軍事など現実的なことにまったく向いていない、完全な芸術家肌の人間であった。

そのため曹操は彼を後継者とすることを諦め、曹丕を太子とするが、この紆余曲折で曹丕は曹植を恨むようになる。

曹操が死去し、跡を継いだ曹丕は曹植の側近たちを誹殺し、曹植自身をも殺そうとする。しかし、このときは、二人の母親である皇太后のとりなしで、曹植は一命をとりとめる。だが、曹丕は曹植を許さず、流刑同然に僻地の王として冷遇するのであった。その後も彼は何度も国替えをさせられ、その後の半生を不遇のままに過ごすのであった。
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