三国時代の食生活事情は南船北馬で料理の内容や種類が違っていた

食糧についても「南船北馬」であった三国時代の食生活事情
文明がどんなに進歩しようとも、変えることのできない人類の宿命がある。それは何か食べなければ死んでしまうということだ。

すべての古代文明が、この重大な食糧供給問題と格闘することによって成立した、といっても過言ではないだろう。古代中国でも事情に変わりはない。ただ、北の黄河流域と南の長江流域とでは、気候風土に大きな違いがあるため、同じ文明圏とは思えないほど、食生活にも変化が見られる。

黄河流域は気候が冷涼で乾燥しているため、北西アジア一帯と同じように、食糧生産を畑作農業によって行なっている。中原に成立した歴代王朝は、畑作の主要作物、アワ、キビ、ヒエ、オオムギ(コムギ)、マメ(ダイズ)を「五穀」と呼んで尊重していた。先祖を祀る儀式には、必ずこの五穀をお供えしなければいけないのである。

また、モンゴル高原やシルクロード付近の遊牧民族と、早くから交流があったため、牧畜も行なわれていた。先祖を祀る儀式を盛大にやるときには、牛を「太牢」、羊を「少牢」と呼んでいけにえにしたが、普段はめったに食べられるものではなかった。とはいえ、肉もミルクもあったことはあったのだ。

長江流域は温暖で降水量も多いため、水田による稲作が先史時代から発達した。水田は畑作よりも生産力がずっと高く、人手を多く必要とするために、戦乱で北から逃れてきた人口を収容することができ、呉が自立できる基礎になったといえる。

いかなる民族でも、穀物だけで生きていけるわけではない。主食に加える副食物での、蛋白質やビタミンの補助が絶対に必要となる。北では家畜が利用されたが、南では魚が重要だったろう。食糧についても南船北馬なのだ。

そんなに異なる食文化が接しているのだから、相互の交流によって当然、料理の内容や種類も進歩する。後漢末にはシルクロードから、小麦粉を使うパスタやパンも伝わってきて、そこそこ中華料理の原形らしきものも見られるようになってきた。

魏や呉の宮廷の食卓を想像してみると、牛、羊、豚のような家畜、鹿、猪、熊といった狩の獲物、ニワトリ、ガチョウ、アヒルの鳥類という具合に食肉は揃っているし、調理法の焼く、煮る、蒸すという基本も今と変わらない。調味料としては、塩、酢(カンキツ類の果汁、が用いられ、醤と呼ばれた発酵調味料(大豆で作れば豆醤、魚で作れば魚醤となり、現代のミソ、ショウユ、塩辛のルーツ)も使われていた。

魚も加熱する調理法のほか、「鱠」という現代の刺身と同じ料理があり、ネギ、ショウガ、サンショウのような香辛料や醤で味をつけて食べていた。酒の醸造法も相当に高度なものとなっていたから、これはもうグルメの饗宴だといってさしつかえない。 だが、これはあくまで曹操孫権のような権力者の場合である。

一般の庶民は一日に必要なカロリーがとれればよし、大部分は食うや食わずの状態だったろう。 農民ですらも充分な食事にありつこうと思ったら、盗賊になるか軍隊に入るかするより他に方法がない世の中だったのである。
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