劉璋は正史でも演義でも無能な君主として酷評されている


能力のない君主として有名に
後漢の皇族で、益州(蜀)をおさめた。 しばしば愚直な君主として名を挙げられる人物で、曹操と劉備が英雄について論じたときには「死んでも主人の門を離れぬ番犬のような男で、英雄の器ではない」といって酷評されている。

また「諸葛亮」には「暗弱で民を慈しまない」と蔑まれ、さらには「正史」でも「英雄としての能力もないのに、価地を占有して人々を混乱させた」と語られるなど、その暗愚ぶりは留まるところを知らない。

演義ではその無能さが強調されており、忠臣たちの言葉に一切耳を貸さず、やがて兄弟と慕った劉備によって国を奪われることになる。

『演義』に人物として登場するのは、「どう関の戦い」からまもなくしてのこと。漢中の張魯が曹操に対抗するために蜀への侵攻を計った折、その情報が劉璋へともたらされたのだった。

慌てた劉璋は配下の張松を曹操へ派遣して助けを乞おうとするが、曹操に失礼な扱いを受けたため、張松は劉備のもとを訪れる。このとき張松は、援軍を口実に蜀を取ることを劉備に提案。義に反すると悩んだ劉備だったが、「ほう統」らに説得され腹を決めた。


領民を守るために劉備へ降る
劉備が蜀へ入ったという知らせを聞くと、劉璋は喜んで出迎えようとする。だが、国を奪われると恐れた忠臣らは、体を張って劉璋を止めようとした。ある者は劉璋の衣の裾に噛みつき、ある者は城門から逆さ吊りになり命と引き換えに劉璋を諌めるも、ただ劉璋の怒りを買うだけだった。劉備と面会した劉璋は大いに感激し、その姿に忠臣たちはため息を漏らしたという。

その翌日、歓迎の宴が催されると、ほう統は「魏延」に命じて劉璋を暗殺させようとするが、劉備に一喝されて失敗に終わる。劉璋はまたも感激して、劉備の手をとり涙を流した。

張魯が葭萌関を攻める気配をみせると、劉璋は劉備に警護を依頼。劉備は快く引き受け、葭萌関へと向かった。蜀の忠臣らは劉備の心変わりを心配し、劉璋に国内の守備を固めるように進言。劉障は当初聞き入れなかったが、秤三の進言に、拠点を固めるよう指示を出し成都へ帰った。

劉備が葭萌関へ滞在してしばらくたった頃、諸葛亮から曹操が兵をおこしたという手紙が届く。劉備は劉璋に精鋭3~4万人と、兵糧10万石の援助を願うも、劉璋は老兵4千人と兵糧1万石しか送らず、これに激怒した劉備は、成都への進軍を決める。

劉備軍は次々と城を落とし、214年、ついには成都を取り囲んだ。追いつめられた劉璋はいたずらに血が流れるのを嫌い、劉備に降伏を申し出る。劉備は降伏を受け入れると、劉璋を振威将軍に封じ、一族を連れて荊州へ移住させた。その後、荊州が孫権に攻め落とされると、劉璋は孫権に帰順し、益州の牧に任じられたという。


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