皖の有力者喬氏の娘で、姉は大喬妹は小喬。絶世の美人姉妹で二喬と呼ばれ、広く知れ渡っていた。
「孫策」が皖城を攻め落としたとき孫策は大喬を、「周瑜」は小喬を妻とし、ふたりは義兄弟となる。孫策は周瑜に喬公のふたりの娘は故郷を失ったが、我々を婿にすることができたのだから満足だろうと語ったという。
「演義」では、魏と戦うことに消極的な周瑜へ、「諸葛亮」が二喬の噂を聞いた「曹操」が、江東を手に入れたら自分のもとに二喬を並べたいと考えているとあおる。これを聞いた周瑜は激怒して、諸葛亮の思惑どおり開城に踏み切ったとされている。
二喬に関しては「演義」でも正史でも記述は少ない。共通しているのは、かなりの美貌の持ち主であったことだけで、それ以外の詳細はわかっていない。それゆえ三国志を取り上げた作品の中で、創作を膨らませる余地があり、映像小説、ゲームなどでは欠かせない存在となっている。
2.周瑜を勝利に導いた小喬にまつわる伝承
三国志に関する中国の民間伝承を集めた『三国志外伝』の中に、周瑜と小喬の物語がある。それによると、江東の喬玄公の大喬、小喬のふたりの娘は美人で、博学多才、詩文にも優れていたという。とくに小喬は兵法にも通じ、周瑜と小喬はお互いを尊敬し合い、仲のいい夫婦であったとされる。曹操は「軍勢を率いて呉を滅ぼし、天下を平定して二喬を自分のもとに置いて、晩年の楽しみとする」と明言。この話が周瑜のもとに伝わると机を叩いて怒り、小喬も「夢でも見ているのでしょう」といった。
周瑜は長江に水上陣をはって、水軍の訓練にあたっていた。小喬は周瑜に都督府の一番高いところに化粧台をつくってほしいと頼んだ。この化粧台の指すところの実体は指揮台であり、作戦を練る場所でもあったので、周瑜も承知した。小喬は毎日この台にのぼり、髪をすき、化粧をして、水軍の訓練を眺めていた。
間もなくして、曹操が80万の軍勢を率いて長江を下ってきた。夜になって都督府に戻った周瑜は、小喬と対応策を相談するため化粧台に登る。小喬は銅の手あぶりの傍らで、赤や緑の紙でつくった小舟を並べていた。
周瑜は妻が曹操を打ち破る策を練っているのだと思い、声をかけずにそっと近づいた。上着を脱いだときに起こった風で、紙の船が舞い上がり、手あぶりの炎に触れて燃え上がった。小喬は驚いたが、燃えている紙の船を見つめて目を輝かせた。
「周瑜さま、ご覧になりましたか?」と小喬に問われて、周瑜は火攻めについて気がつき、妻の手を取って「そなたを得たことは、虎が翼を得たようなものだ」と大いに喜んだという。このように語り継がれる理想的な女性像が、二喬の人気の高さを表している。
周瑜が死んだ後、大喬や小喬がその後どうなったのかは判明していません。
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