魏の徐晃は曹操に信頼され活躍するも蜀びいきの物語で歪められた真実

さまざまな戦を転戦した猛将
大斧を操る魏の猛将・徐晃は、元々は楊奉の配下であった。しかし、「曹操」が楊奉を騙して献帝を手中におさめると、両者の軍事的激突が発生してしまう。

この戦いで徐晃は「許ちょ」と一騎討ちをして引き分け、その武の鋭さが曹操の目に止まる。かくして徐晃は親交のあった満寵を介する形で曹操に引き抜かれ、以後は曹操のためにその斧を振るうこととなった。

曹操のもとでは、「下ひの戦い」や「官渡の戦い」などに参戦し活躍。「赤壁の戦い」においては敗走する曹操を最後まで守り続け、無事に許昌へと撤退させるなど、大きく貢献した。

こうして確実に曹操の信頼を得ていく徐晃。しかし、「どう関の戦い」では敵の挑発に乗った曹洪を止められずにどう関を失い、「劉備」との「漢中争奪戦」では「趙雲」の怒涛の猛攻に敗北。さらにはその罪を配下の王平に被せようとし、王平が蜀漢に寝返ってしまうなどの失態を犯してしまう。

だが、曹操は重要な局面で徐晃を起用し続け、「はん城の戦い」では、怪我をしていたとはいえ、あの「関羽」と互角の一騎討ちを繰り広げる。

その後、かつて魏から蜀へと裏切った孟達が、再び魏へと寝返る動きを見せたため、節操のない孟達を討つために出陣。その戦いいの最中、孟達が放った矢に額を貫かれ、その夜のうちに没してしまった。


蜀びいきの物語で歪められた活躍
正史」における徐晃の記述は、「演義」とはかなり違う。「官渡の戦い」にて文醜を討ち取ったのは「演義」では関羽だが正史では徐晃の手によるものである。「どう関の戦い」や「漢中争奪戦」における失態も特に記述されておらず、徐晃は魏の猛将として重要な戦の最前線に立ち続けた。

この徐晃の零落ぶりはなにゆえかというと、それは演義が蜀寄りの物語になっているからである。蜀の武将を活躍させるため、さまざまな戦に参戦した徐晃は、悪役扱いをするには恰好のターゲットであり、それ故彼は要所要所で無様な姿を晒すこととなったのだ。

また、その死に関しても違っており、徐晃は孟達の討伐に赴くことはなく、それよりも2年ほど前に病没している。

「明君に出会えたことは幸運である。個人の功名にこだわらず、功績を重ね続けてこの幸運に応えなければならない」。これは徐晃の残した言莱であり、彼の性格がもっともよく表れている。

徐晃は主として相応しい器である曹操の配下になれたことを何よりも誇りに思い、戦いに身命を賭すことにためらいはなかったという。まさに武人の鑑のような男であり、そんな徐晃だからこそ、曹操も絶対の信頼を置いてさまざまな戦地へと彼を送り込んでいたのではないだろうか。


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