えん州争奪戦|呂布と曹操の戦いで休戦するしかなかった事情とは

えん州争奪戦
1.休戦せざるをえなかったある事情とは
194年/呂布VS曹操/引き分け

えん州は中国の中心部にあたる。平地が多く生産力が高く、人口も多い。都の洛陽にも近いので、昔から戦争の多い地域だった。ここが、曹操の本拠地だった。

その東隣の徐州は陶謙の支配下にあった。193年、陶謙に父を殺された曹操は、復讐のため挙兵し、大軍を率いて徐州に攻め込んだ。

戦力的には圧倒的に曹操のほうが勝り、陶謙軍は万単位の死者を出し、その死体のせいで川の流れが止まったほどだった。ところが、陶謙はねばった。やがて持久戦となり、そうなると攻める曹操のほうが、兵糧が不足しだす。曹操はやむなく退却した。

翌年、再び曹操は徐州に進軍した。今度は兵糧も十分に備えていた。またも怒涛のように進軍する曹操軍。勝利は目前と思われた。ところが、そのとき留守を守っていたはずの部下が裏切り、こともあろうに呂布を迎え入れ、曹操への謀反を起こしたのである。

これを知って、2.えん州各地で曹操に対する反乱が起き始める。陶謙を攻めるどころではない。曹操はえん州に戻った。

裏切ったのは、曹操が挙兵したときからの盟友でもあった張ばくと、軍師の陳宮だった。謀反を企てたのは、陳官である。もともと野心家でもあった彼は、曹操を操り、天下の実権を握ろうと考えていた。ところが、曹操がとても自分が操れるような人間ではないと分かった。

また、自分よりも荀いくを重んじるようになったことにも、不満を抱いていた。そこに呂布が現れた。単純な呂布であれば操ることができると考え、曹操を裏切ることにしたのだ。

一方、張ばくは、呂布との仲を曹操に疑われているとの疑心暗鬼にかられていた。そんなところに陳官からの誘いがあったので、つい乗ってしまったのだ。

徐州から兵を引き戻した曹操軍と、呂布軍との決戦が始まった。ところが、意外なかたちで休戦を迎える。イナゴの大群が襲来したのだ。農作物はことごとく食い荒らされてしまった。もはや戦争どころではない。人間同士の争いは、自然の力によって休戦へと追い込まれたのである。

一方、えん州のクーデターのおかげで助かった徐州は、牧の陶謙が病に倒れてしまい、後を劉備に託すとの遺言を残す。こうして、劉備は地位らしい地位を得るのであった。

これもまたイナゴのおかげである。天は劉備に味方していた。この戦いの勝利者は劉備だったといえる。


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