三国志時代の地図の精度が高くて日本にはない区分けが面白い

三国志時代の地図の精度が高くて日本にはない区分けが面白い
1.帝国と州、郡、県はどういう関係にあった?
日本にはないので実感がないのが、州。現代社会においても、アメリカやドイツなどは州制度を取り入れており、それぞれの州はかなり独立している。

日本の県よりもはるかに独自色は強く、その上に、連邦政府というものがある中国も広大な土地があり、さまざまな民族が住んでいるので、統一王朝が支配するようになっても、州単位に行政が分けられていた。

「三国志」の時代は、13の州があった(途中から14になる)。13州のうちの10州を曹操が支配しており、後に魏帝国とし、孫権は揚州と交州の2つで呉帝国を建国、そして劉備は益州の一部を蜀帝国とした。この3つと接する中央に位置するのが荊州で、北が魏に、東が呉に、そして西が蜀となった。

その州がさらにいくつかの郡に分かれ、それがさらに県に分かれる。つまり、いまの日本だと、○○県○○郡となるが、中国だと、○○郡○○県となる。

さて、州、郡、県には、それぞれの行政官がいた。
州の全権を握り支配・監督するのが、「牧」である。いまのアメリカの州知事みたいなものだが、もちろん、国民の選挙によって選ばれるのではなく、皇帝が任命した。

牧は後漢時代末期になってからの名称で、その以前は、「刺師」という役職名だった。
刺師はもともとは監察官で、牧に比べて地位も低く給料も安い。というのは、最初は行政単位はあくまで郡で、州には行政府としての仕事はそんなになかったのだ。

郡の行政官が、太守である。各郡に1人で、民生、軍事、司法をすべて担当していた。ひとつの州に8つ前後の郡があった。そして、さらにひとつの郡が十数の県に分 かれている。その県の行政官は、大きな県が県令、小さな県が県長という役職名だった。

ここで注意しておきたいのは、県令や県長は、郡の大守の部下というわけではないことだ。皇帝直属なのである。

そして、太守もまた州の牧の部下ではなく、皇帝直属だった。ピラミッド型のようでいてそうではないという、複雑な機構になっている。

したがって、太守の仕事には、県令や県長が不正をしていないかを監督することも含まれていた。牧には、太守を監視する役目があったのだ。もとは刺師という監察官だったことでも、それは分かる。

ところが、監督するということは、悪いことをしているのを見逃すかわりに賄賂をもらうことを意味していたのが、当時の中国。上から下まで役人たちは腐敗しまくっていたのである。


2.この時代の地図はどの程度正確だったのか
「三国志」時代にカーナビがないのは当然だが、地図はどうだったのか。

後漢時代は、まだちゃんとした地図はない。日本の戦国時代を描いたドラマなどに、山や川をイラストで示した地図がよく出てくるが、あれよりはもっと精度が高いものが、すでに存在していたらしい。

少なくとも、主要な都市や地点間の距離は正確に計測され、測地図が存在していたという。
これをさらに精密なものにしたのが、魏にいたはい秀という学者だった。彼は、地図作成において多大な功績を残している。

まず、縮尺を定めた。地図上の一尺(約2.4センチ)を実際の一里(約434メートル)としたのだ。

さらに、各地の縮尺図を正確につなぎあわせ、全体の位置関係を確定する製図技術を確立した。測定においても、距離、高低の測り方を考案し、角度測定により二地点間の距離を正確に測ったり、曲がった道を距離線に直す測定法も編み出した。

こうして、かなり精度の高い地図が、司馬いの時代にはできていたらしいのだが、残念ながら現存していない。


この記事を見た人は、下記にも注目しています!