甄氏は文帝「曹丕」の皇后で、明帝・「曹叡」の母となった人物である。甄氏の出自について「演義」では語られていないが、正史魏書によれば甄逸という人物の五女であったという。
甄氏は幼いときに父と死別したが、わずか3歳という年齢にもかかわらず父を慕って泣いたため、周囲から特別視されるようになった。
9歳の頃には書物に親しんで学問を学び、兄に「女博士にでもなるつもりか」といわれると、「昔の優れた女性は過去の成功や失敗のあとを学んで自らのいましめとしたそうです。文字を知らなければ、それらをどうやって見るのでしょう」と答えたということから、かなりの才女ぶりがうかがえる。
また、甄氏が14歳のときに次兄が亡くなり、甄氏の母は未亡人となった兄嫁に対しても、ほかの嫁と同じように厳しく接した。
甄氏は母に「兄さんは早死にしてしまいましたが、お義姉さんは若いのに操をたてられて留まっておられます。扱いは嫁と同じにするのが道理ですが、愛情は娘のように注いであげてください」と述べると、母は涙を流して感動し、兄嫁と甄氏をともに住まわせ、ふたりは親密になったという。
このようなエピソードからもわかるように、甄氏は聡明なだけでなく心優しい女性でもあったようだ。
2.曹丕の妻となるも不幸な最期に
甄氏がまだ10代のとき、「袁紹」の次男である袁煕に嫁いだが、袁煕が幽州の刺史になると、残って姑の世話をしていた。袁紹が死去して「曹操」が翼州を平定したときも、甄氏は袁紹の妻だった劉氏と屋敷にいたのである。曹操は袁紹の屋敷の前に兵を派遣し、自分が到着するまで誰も入らないよう厳命していたが、曹丕は兵の制止を押し切って屋敷へと侵入。一旦は殺そうとしたが、美しい甄氏を見て気に入った曹丞は、自ら屋敷に居座って兵たちが略奪しないよう見張ったのである。
あとから到着した曹操は曹丕を呼び出して叱ったが、甄氏を見て曹丕がめとることを許可したのであった。
甄氏は曹丕の籠愛を受け、のちに曹叡を産んだ。しかし曹操の死後、曹丕が帝位に就くと新たに郭貴妃を迎え、甄氏への愛情は薄れていった。
皇后になりたいとの欲を覚えた郭貴妃は曹丕の寵臣に相談し、甄氏が曹丕を呪い殺そうとしているとぎん言を流す。そして、これを伝え聞いた曹丕によって、甄氏は自殺させられてしまうのだった。
これは演義での逸話だが、正史においてもほぼ同様で、郭貴妃が籠愛されたことから恨み言を口にして、やはり自殺させられたとある。 晴れて皇后になった直後にこの仕打ちでは、なんともいいようがない。
この記事を見た人は、下記にも注目しています!