劉備に仕えた法正と諸葛亮公明の性格は全く反対だった

好尚同じからずといえども、公義を以て相取る
(蜀害・法正伝)
好みがたとえ同じでなくても、公の関係では協力し合う

関羽の弔い合戦ともいうべき呉征伐の遠征をした劉備軍が長江を下ったことは、前項で述べたとおりだ。
さらに進軍した劉備軍は、夷陵で突然進撃を止める。なぜ、止めたのだろうか。

夷陵までは、劉備の本拠地・成都から数百キロの長い道のりである。劉備軍が進軍を止めたのは、ゆるんだ部隊の再編成や休養のためであると言われる。

しかし、夷陵は山あいの長々と続く細い谷である。隊列は間延びしてしまう。火攻めの急襲でもされたら、統率もなにもあったものではない。兵法の常識を無視している。こういう場所に、なぜ劉備軍が駐屯したのか、じつはいまも不明なのだという。

当然、この布陣を見た呉軍は色めき立つ。だが、総司令官の陸遜は慎重だった。守りを固めて情勢を見極めたことは、すでに述べたとおりだ。この戦法は古来、万里の長城以北の騎馬民族の侵略を受けてきた漢民族の得意とするところだという。

細い谷に駐屯した数十キロにも及ぶ長い劉備軍を見て、呉軍の勝利を確信した人物と蜀の敗北を予感した人物がいる。

呉の勝利を確信したのは魏の文帝(曹丞)である。彼はこう言う。
「劉備は兵法を知らない。七百余里にもわたって砦を築き、いったいどうやって敵の攻撃を防ぐことができるだろう。いまに陸遜から吉報が届くぞ」
その7日後、劉備軍を打ち破ったという知らせが本当に届く。

蜀の敗北を予感したのは、誰あろう諸葛亮である。『演義』によれば、彼は陸遜の火攻めを予言し、そして「これで漢王朝は絶えてしまうのか」と、嘆いている。

諸葛亮は史実でも『演義』でも、この「夷陵の戦い」には参加していない。成都で留守を守っている。
その諸葛亮が劉備の敗走を知り、こう言う。
「もし、法正が生きていれば、弔い合戦を思いとどまらせることができたであろうし、遠征したとしても、こんな目に遭うことはなかったはずだ」と。

法正とは、もと劉璋に仕えていたのだが認められず、劉備の蜀入りを張松とともに手引きした人物である。それ以来、劉備の謀臣として活躍するのだが、この二年前に没していた。

諸葛亮と法正は性格は全く反対だったのだが、冒頭の言葉のように、公の場では個人的なことは廃して、協力し合った仲なのだという。これは臣下同士の交わり方を教えているのである。