鄧がいは優れた農政家で姜維の北伐を防ぎ蜀を滅ぼす


農業に従事した地の利
鄧がいは「姜維」の北伐を幾度となく繋退し、さらには蜀を滅ぼすことに貢献した魏の武将である。しかし、彼のルーツは、意外にも官吏として従事していた農政にあった。

荊州の義陽郡で生まれた鄧がいは幼いころに父を亡くし、汝南で牛飼いをして暮らしていた。だが、荊州に侵攻した「曹操」によって連行されると、屯田の民となった。

その後、文書を扱う補佐官を目指して勉学に励むも、吃音症のために希望の職に就くことができず、その代わりに屯田を司る稲田守叢草吏の職を任されることになったのだ。

鄧がいは職役における屯田の重要性を理解し、優れた農政家として手腕を振るった。そして、いつしか実戦を想定しながら地形を眺める習慣が身につき、新しい任地に赴いた際には、必ず軍営を設置する場所を測量して図に示すようになった。

周囲はそんな鄧がいを「地方の下級官吏がそんなことをしても無駄だ」と馬鹿にしたそうだが、典農綱紀・上計吏に出世して中央に赴くと、彼は「司馬い」に才能を高く評価されたのである。

鄧がいは富国強兵策として兵糧の備蓄を第一優先と考え、より多くの兵糧を得る手段として運河の開通を提唱した。

そして、この案をまとめた済河論を書き上げ、同時に対呉戦略の屯田策も立案している。これらは司馬いによってすべて実行され、魏は兵糧の確保を盤石としたばかりか、灌概の充実によって水害も激減したという。


北伐を防ぎ蜀を滅ぼす
国力の強化に尽くした鄧がいの才は、軍事においても発揮された。折しも蜀では「諾葛亮」以来の大規模な北伐が開始され、姜維の指揮によって蜀軍が幾度となく魏に侵攻するようになっていた。だが、鄧がいは姜維の侵攻をことごとく退け、257年に征西将軍に昇進した。

そして263年、蜀征伐の詔勅がくだると、鄧がいは「鐘会」や諸葛緒らとともに蜀へ出兵。剣閣に立て龍もった姜維を鐘会が攻めあぐねている間に、鄧がいは敵軍のいない地を探りながら700里もの行軍を続けた。

道中に山があればトンネルを堀り、谷があれば橋をかけ、ときには崖をのぼることもあったという。こうして無傷で江川まで辿り着いた鄧がい軍は馬ばくや張遵を討ち取って勢いに乗り、観念した「劉禅」はあえなく降伏。 蜀を滅亡させることに成功したのである。

ところが、平定後の蜀で専断が目立った鄧がいは、鐘会らによって「反乱を企てている」と疑いをかけられ捕らえられてしまう。

その後、部下によって救出されたものの、魏の鄧がい討伐軍に討たれ、蜀を討った英雄は非業の死を遂げることになった。 鄧がいの疑いは死後10年が経過した273年に晴らされ、名誉回復の証として嫡係の鄧朗が朗中に取り立てられている。


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