182~221年
1.曹操と曹丕が争った絶世の美女には袁家と曹家に関する重大な秘密が隠されていた
代々の官吏の家に生まれ、袁紹の次男袁煕に嫁いだ絶世の美女。
その美しさは河北や中原じゅうに響き渡り、曹操は早くから彼女に目をつけていたという。
袁家陣営が敗れ、その本拠地が陥落すると、曹操は取り残された彼女を手にすべく、その屋敷へと突入する。しかし、曹操を出し抜いて彼女をゲットしていた不届き者がいた。
曹操の嫡男、曹丕である。曹操は「今度の戦いでいちばん得しおったのはヤツだ」との言葉とともに、曹丕が彼女をとることを許したという。
その後、甄姫は曹丕の息子として曹叡を産み、曹丕が魏の帝位に就くとともに皇后となった。しかし、わずかその7カ月後に、曹丕から自殺を強いられることになる。
名目上、曹丕の籠愛が彼女から郭后、李貴人らに移ったことに対して恨み言を言ったからというものであったが、その程度で死を命じるのは異常である。そう、彼女には、重大な秘密があったのである。
秘密
彼女は曹家最大の秘密を握っていた。「正史」に異常な記述がある。いや、ない。魏の二代皇帝である曹叡の生年が記されていないのである。余人ならともかく、皇帝の生没年が記されていない史書というのは、その存在理由すら危うくなるほどの重大な記述漏れである。そこには著者である陳寿の隠された意図があった。
「正史」に曹叡の享年として記されている年齢から逆算すると、ちょうど曹丕が袁煕から彼女を奪った年と一致するのである。
曹叡は曹丕の子ではなく、袁煕の子であったという可能性が生じるのである。少なくとも、その疑いがかけられたのは間違いないだろう。そのため曹丕は、帝位に就くと同時に彼女の口封じをし、陳寿は曹叡の伝記を享年がわかっているのに生年を書かないという異常な記述の仕方をしているのである。
さらに深読みすれば、曹操がなかなか曹丕を太子としなかった理由も、曹丕の嫡男が袁煕の子であるという疑惑ゆえのことかもしれない。
さらに曹叡は名君であり身体的にも不備がないにもかかわらず、ついに子のないまま、帝位を養子である曹芳に継がせている。これもまた決して偶然ではなく、血統にまつわる重大な疑惑が、彼に子を残さないという決断をさせたのではないだろうか?
この記事を見た人は、下記にも注目しています!