姜維は諸葛亮から高評価を得た人物で蜀再興の夢にかける


諸葛亮の亡きあと蜀軍を指揮
演義正史において、姜維は「諸葛亮」から高い評価を得た将軍として知られている。228年、諸葛亮が祁山に兵を進めると、天水、南安、安定の3郡は蜀に寝返った。

そのとき姜維は太守に従って郡内を巡察していたが、太守に疑われたため行き場を失い、諸葛亮のもとに身を寄せた。

諸葛亮は姜維を「軍事に精通し、度胸もあり、また兵士の気持ちを深く理解している。漢室に心を寄せ、しかもその才能は常人に倍する」と高く評価していた。間もなくして「馬しょく」が街亭で敗れたので、姜維は諸葛亮に従って蜀へ入った。このとき27歳であった。

234年、諸葛亮が天寿を全うすると、姜維は諸軍を統率することになった。西方の地理に明るく、軍事能力に自信を抱いていた姜維は「朧より西の地は断じて敵の手に渡さぬ」と豪語していた。

だが、諸葛亮が後継者に指名したのは、しょうえんと費いであった。ふたりとも守りに徹する慎重派であり、大軍を動員しようとする姜維に対して費いは「我らの能力は丞相に遠く及ばぬ。丞相ですら中原を攻略することはできなかった。我らごときでは到底無理だ」と、1万の兵しか与えなかった。

253年、投降した魏将により費いが暗殺されると、姜維は通年のように遠征を繰り返す。

257年までの5年間に5回も出兵するが、戦果があげられず、いたずらに国力を疲弊させていったため、国内において姜維に対する非難が高まった。

さらに宮中では二代皇帝劉禅がかんがいの黄皓を愛し、宴会にふけって国事に目を向けようとせず、また黄皓は国政をほしいままにしながら姜維の追い落としを企てていた。


幻に終わった蜀再興の夢
蜀の国情を見た「司馬昭」は263年、「鐘会」、とうがいらに大軍を与え、蜀侵攻を開始する。姜維は要害の剣閣にこもって鐘会の兵を防いだ。姜維の奮戦に、鐘会も一時は撤退も考える。

だが、とうがいは奇兵を率いて険しい山を迂回して成都近くに進出した。これに驚いた劉禅は、一戦も交えず降伏してしまう。姜維は劉禅の命令によって、やむなく鐘会へ投降することになった。剣閣を守った将兵は誰もが怒りを抑え切れず、刀を抜いて石を叩き斬ったという。

鐘会は姜維の能力を高く評価し、喜んで自分のもとに迎えた。その後、鐘会は先に成都に入ったとうがいを「謀反を企てている」との風評を流して、失脚させる。

一連の出来事から姜維は鐘会の野心を見抜き、彼をそそのかして魏に反旗をひるがえらせ、蜀を再興させようと策を巡らせた。成功を信じ「どうか数日の辱めをお忍びください」と劉禅に密書を送ったが、鐘会に憤激した魏の将兵によって謀反は失敗、姜維だけでなく、妻子も処刑された。


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